shin-1さんの日記

○田舎暮らし

 人間牧場に来た人が必ず言う言葉は「田舎は長閑でいい」です。都会の反対語が都会だとすると「都会の暮しはそんなに忙しくてつまらないのでしょうか」と言ってやりたいような気持ちです。私たちが生まれ育った20世紀は「田舎が都会に憧れる時代」だったように思います。テレビに映し出されるネオン輝く都会はまるで夢のような別世界でした。そしていつかは僕も私も都会で一旗揚げたいとみんな田舎から都会を目指したのです。あれほどいた同級生の殆どは集団就職列車に乗って都会の雑踏の中に消えてゆきました。あれから半世紀弱が過ぎ先日還暦の同級会が開かれ定年間もない仲間が沢山帰って来ました。そして私に「お前はいいなあ。自分の生まれ育ったところで暮らしてそこで死ねるのだから」と突然しみじみと言うのです。そういわれてみるとそうかも知れないと言葉を返しました。

 最近私の所へ都会の人から「田舎暮らしがしたいのだが空き家はないか、土地はないか」といってくる人が増えました。「田舎は先祖伝来の田畑は財産と思っているから売らないし水だって水利権があって中々」と諦めさせるのですが、それでも諦めきれず都会を脱出したい人はあの手この手ですり寄ってくるのです。

 数年前ある夫婦がわが町で空き家と農地を手に入れやって来ました。水周りだけは都会風にしたいという願いもあって馴染みの都会業者に依頼しリフォームに取り掛かりました。ところが完成間近になって排水が隣の水路に流れ込む事を隣がクレームをつけ、工事はストップしたのです。その場は区長さんが中に入り険悪なムードは雪解けに見えました。ところがその夫婦権利の主張はやれ法律ではと口が立つのですが、田舎では当然と思われている道普請や水道t当番」など何処吹く風でコミュニティ活動はまったくする気もなく、週末は図書館やプールへと忙しく人生を謳歌していました。そのうち車を運転できるご主人が亡くなり車を運転できない奥さんは途方にくれていました。田舎を目指したとき息子夫婦と喧嘩して決断しただけに家へも帰れず、最近は近所の特老で慎ましやかな生活をしていると聞きました。

 21世紀は20世紀の逆で「都会が田舎に憧れる時代」になってきました。よくよく考えないと権利の主張だけで田舎では住めないし、向こう三軒両隣のコミュニティや車がないと田舎では暮らしてゆけないのです。

 田舎も今までのように悪しき習慣や慣習を振りかざすことなく受け入れないと、せっかく定住人口が増えようとしているのにいじめやいびりで出て行ったのでは元の木阿弥です。最近は「人生の楽園」などというテレビ番組で田舎暮らしを始めた人を沢山紹介するものですから、否応なしに田舎の人気はうなぎ上りです。定年後の田舎暮らしは余程の決意が必要だし、それ以上に地域への溶け込み方を間違えると、夢どころではすまないことを肝に銘じておきましょう。

  「田舎はね だから困ると 言われても 都会の都合で 生きれるものか」

  「人生の楽園 テレビ 憧れて 空き家はないか 畑はないか」

  「いつまでも 夫婦生きれる 訳でなし どちらか先に あの世へ旅立つ」

  「人間は 必ず百パ 死亡率 田舎でのんびり それもまたよし」

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shin-1さんの日記

○耕運機届く

 今日はあいにくの梅雨空で天気予報でもはっきりしないと言っていましたが、長い間(といっても3~4日程度)人間牧場へ行っていなかったので、草刈も気になっていたので霧の深い中を登って行きました。五里霧中とはこのことかなと思いつつ下界を眺めましたが港さえも霧の中でした。時折ぱらつく程度の雨だったので思い切って草刈機を取り出して草を刈り始めました。雨の日の草は草が雨に濡れているので面白いようによく切れるのです。妻から「明日は遠出の出張なので疲れるといけないから弁当は持たず昼には帰るように」言われ、自分もその気で出かけました。3時間程度草を刈って、さあ帰ろうと思ったところへ息子から電話が入り、「今日は休みなので友達を連れて行くから」との事。結局はおやつ代わりの煎餅とバナナを食べて草刈を続行しました。

そのうち息子が友だちが都合で来れなくなったと一人でやって来ました。「お父さんお風呂を沸かすから入ろうや」と五右衛門風呂を沸かし始めました。五右衛門風呂にはまだ1回しか入ったことがないのでそれもいいだろうとまた草刈続行、そこへ大洲市田処の亀本耕三さんがひょっこりトラックに耕耘機を積んでやって来ました。「ひょっとするとメールで連絡のあった耕運機では」との直感が当ったのです。「メールで連絡していたこの耕運機を差し上げます」と言うのです。亀本さんはかつて柳沢公民館の主事をしていた頃に知り合い、その後酪農家になってからもフロンティア塾のメンバーとして私の元へ度々足を運んだ、私の最も親しい人の一人なのです。

 亀本さんはトラックにはしごをかけ手馴れた様子で耕耘機を下ろしエンジンを始動して見せました。型は少々古いが1発でかかる優れものです。さてこの耕運機をしまう場所がないことに気付いて、息子と相談し近々薪を入れる倉庫兼用を建てる算段をしました。妻に言うとまた反対されそうなので息子と二人だけの内緒話です。亀本さんとは7月1日に会う約束でした。今日は時間が取れたので耕運機だけ、今度来るときに牛糞を摘んでくるとの事でしたが、一応亀本さんを水平線の家や五右衛門風呂、それにツリーハウスへ案内し久しぶりに家族のことなど積もる話をしました。その頃には天候も回復し遠望の素晴らしさに目を見開き感動している様子でした。

 亀本さんが帰ってからしばらく草を刈りましたが、息子が風呂が沸いたと言うのでいざ五右衛門風呂へ、

高知県南国市の川村一成さんが感動して帰った五右衛門風呂はまさに「いい湯だな」の心境でした。海も空も中の晴れ間の穏やかさが見て取れました。

  「草刈の 疲れた体 湯に沈め 下界見下ろす 気分最高」

  「耕運機 車に乗って やって来た 俺にくれると 友はあっさり」

  「彼五人 俺は四人の 子持ちです 仕事もするが 子どもも作る」

  「いい人にゃ 天も味方し 晴れ渡る どうだ絶景 自慢したくて」


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shin-1さんの日記

○遺訓

 「人の一生は重き荷をおいて遠き道を行くが如し、不自由を常と思えば不足なし・・・」は余りにも有名な徳川家康の言葉です。人々の中にはは心のより所となるような様々な言葉に自分の人生をダブらせて生きている人が以外と多いようです。中には遺訓をわざわざ表装して掛け軸にしたり掲額にして日々の戒めにしています。先日友人の家に招かれ客間に通されましたら床の間に立派なこの掛け軸があり、その話に花が咲きました。何でも彼は狸といわれる徳川家康は余り好きではなかったのだそうですが、この言葉を知ってから徳川家康に興味が湧き、「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」の織田信長や、「鳴かぬなら鳴かしてみよう」の豊臣秀吉より、「鳴かぬなら鳴くまで待とう」の徳川家康が断然好きになり、友人の書家に頼んで一服の掛け軸を作ったのだそうです。それ以来何かにつけてこの遺訓は彼を励まし、いい今日があるのもこの遺訓のお陰だと胸を張っていました。

 「ところで若松さん、あなたの生き方は面白いのですが、歴史上の人物の生き方に例えると誰で、どんな言葉が浮かぶでしょうか」と突然彼から振られました。私はとっさに「歴史上の人物には色々興味を引かれて本も読みましたが、どうも表と裏があって表裏一体の人は少ないようで・・・・」とお茶を濁してその場を逃れました。日本が近代国家に生まれ変わる江戸から明治に移り変わる明治維新というほんの一瞬の短い時代を駆け抜けた坂本龍馬も高杉晋作も吉田松陰も勝海舟も、西郷隆盛もみんな好きですし、その遺訓は今読んでも瑞々しく感じます。ドラマチックに生きたこれらの人の全てを取り込んで生きてみたいと思うのですが、中々現実には当てはまり難いのです。強いていえば私の生き方を導いてくれたのは群像遺訓とでも申せましょうか、その場その時に応じた遺訓を参考にして生きてきたのです。

 ある人は「己を愛せよ」と説きます。しかし一方で西郷隆盛は遺訓の中で「己を愛するのは善からぬことの第一なり。修行のできぬも、事の成らぬも、過ちを改むることのできぬも、功に伐り驕慢の生ずるも、みな自らを愛するがためならば、決して己を愛せぬものなり」と述べているのです。誰でも自分ほど可愛いい者はいないはずですが、人の上に立つ人となると話は別です。自らを厳しく戒めて行かねばならないことは当然のことなのです。

 最近日銀の福井総裁が村上ファンドに1千万円投資した話が世間の話題となっています。日銀総裁の手腕は最近の経済安定をもたらした影の功労者かも知れません。しかし金利が限りなくゼロに近い現代にあって1千万円が2千万円になっていた事実は庶民の暮らしとはけたがはずれ、呆れてものが言えないようです。その事実を指摘されても責任を認めず居座る姿は、西郷隆盛の遺訓に反するもので、「己を愛する」遺訓そのままに生きているようです。日本銀行の長い歴史に汚点を残そうとしている総裁を人々は偉いと認めることはできないはずなのです。

  「遺訓軸 床の間飾る 友の家 わが家床の間 はてはて何が」

  「総裁と いわれるお方 金儲け 一儲けしたはず 人儲けせず」

  「俺だって 金は欲しいが それ程に しなくて生きて ゆけるのですから」

  「ある人は 自分を愛せと 言うけれど 愛し過ぎては 愛せぬ同じ」

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