○あなたは一食抜いてその分を献金できますか
最近妻が「県民ショー」なる番組を録画して暇さえあれば見ているのです。その番組を見ながら自分では当たり前と思って暮らしていることが、実は他県の人から見ると全く知られていなかったり理解されていなかったりすることが多いことに気づくのです。特に食べ物はその地域の独特の風土に育まれて長年食べられてきただけに、その故事来歴を聞いて「なるほど」とうなずくことが多く、結局は「狭いようでも日本は広いねえ」と感心して番組を見終えるのです。
しかしその一方でWFP(国際世界食糧計画)によると、世界では現在、毎日2万5千人の人が飢えによって亡くなっているそうですが、片や農林水産省の調べによると日本では、食べ残しや賞味期限が近づいた食品の廃棄によって年間500万トンから900万トンもの食料を無駄にしているというのです。その数字は飢えに苦しむ人々に届けられる年間の食料援助量を上回るというのですから驚きです。
かつて日本も戦後の混乱期には食べる物のない苦しい時代がありました。みんな忘れてしまったような顔をしていますが、まだ私たちが子どものころのことなのです。当時の私たちの暮らしはいたってシンプルで、ゴミなど殆ど出ず、人糞までも肥料として再利用する循環型社会でした。芋や麦ごはんでも腹いっぱい食べられれば満足でした。それが高度成長というトンネルを抜けた現代では、飽食の時代と揶揄される物の豊かな時代となったのです。
先日「一食を捧げる運動」をしている人に出会いました。世界各地には貧困や紛争、災害などによって厳しい生活を余儀なくされている人々が沢山いますが、その人たちの悲しみや苦しみに寄り添い幸せを願って1食分の食事を抜き、その分を献金するというのです。1975年に始まったこの運動にこれまで110億円を超える錠剤が集まったというから驚きです。
私はその話を聞きながら、栄養やカロリーが行き届き過ぎて成人病になったり、痩せたい願望の人が多いことを思いました。そんな人にとって一食抜くことなんてどういうことはないはずです。でも一食抜いて社会に貢献するといったら恐らく反対するのが今のエゴ社会なのです。苦しい人たちを助ける運動をしている人たちを見て何時も教えられるのは、人を助けるということは裏を返せば自分自身の心を作る運動であるという教えです。
その人もあるきっかけでその運動に取り組んだそうですが、今ではしっかりとした考えの持ち主となって、多くの人に影響を与えているようです。
人様に影響を与えるような人間には、なりたくても中々なりにくいものです。幾つかの壁と思える自我と戦い、超自我の世界に踏み込まないと真実は見えてこないのです。かくいう私など、実践家を自任しながら自我の世界を行ったり来たりしている凡人ゆえ、影響を与えるどころかまだまだ人様から良き影響をいただいて生きているに過ぎないのです。
「いつかは人様にに影響を与えるような人間になりたい」とその「いつか」を夢見ていますが、あと21年の人生ではもう無理かも知れないと多少諦めにも似た気持ちになっています。でも修行を積んで少しづつ進化すれば一歩でも近づけると、先日一食を抜いた「食べたつもり」のお金をその人に渡したのです。
今後はできれば1ヶ月に1回くらいはそんな一食を捧げる運動に参加しようかと殊勝な考えになりました。仏教の教えに「一乗の教え」があるそうです。「大いなる一つの命に生かされた同根の人間である」ことを思いたいものです。
「一食を 抜いて献金 出来るかな? それは無理だと 殆どの人」
「一日に 二万五千の 人が死ぬ 嘘かほんとか 地球上では」
「贅沢に なったものよと 時々に 思って見るが そのうち忘れ」
「餓死をする 人あり一方 ダイエット 世の中矛盾 混在してる」