○「間」とは何ぞや
間という漢字は「人間」「時間」「空間」などの言葉に使われるほか、話の中にも「間」をとるなどとよく使われます。私のように退職後大学や講演会、落伍など、話をすることを日課にするようになると、これまで何気なく話していた話の内容に「間」なるものがあるのかどうか気になり始めました。もう半年も前にある県外の研修会で講演をした時のビデオテープがDVDが収録編集されて送られてきました。最近は殆どの研修会でビデオカメラが設置されて写されます。本当は著作権や肖像権というのがあって、講演をする人に前もって了解を得るのが一般的な常識ですが、田舎の講演会などはそんなもの振りかざすと、「あの講師は横着だ」と言われそうなので、これまで私は一度も文句をつけたことはないのです。プライドの高い講師によるといくら撮影を事前に申し込んでもOKを出さない人だっているのです。
先日送られてきたDVDは実によく出来ていましたが、そのDVDをこともあろうか一枚千円で販売したとのこと、何とそれが100枚も売れたと喜びの声が手紙には添えられていました。しかしここまで手が込むと事前に講師の了解を事前に得ることは常識だと思うのですが、そんな手続くをしなかったばかりか、有頂天になっている姿を垣間見た私は、チクリのメールを送りました。すると相手は大慌て、「大変失礼なことをしました」と平謝りでした。まあ私のこんな顔と声ですから、DVDを買った人たちは今頃寅さんならぬ進ちゃんの映像や声を聞きながら笑い転げているに違いないのです。
その送られてきたDVDをパソコンで再生しながら、自分の映像と音声を恥ずかしながら1時間半にわたってノーカットで聞いてしまいました。時計を見ながらおおよそどの時間帯にどんな話をしたのかメモをしながら、入念にチェックしました。特に間の取り方に気を付けましたが、長年の癖は直しようもないのですが、随分間の取り方が上手くなった印象を受けました。自分の話を聞くというのは顔をそむけたくなるし赤面してしまいました。
時々聞く他の講師の先生のテープや落語家の口演DVDを見ますが、間の取り方についての話芸はまだまだ修業をしなければなりません。
「間」とは何ぞや、わが家のわが書斎も私だけの空間ですが、空間の窓越しから見える庭の姿も空間から見える「間」であるような気がするのです。日本の家屋の間取りは襖と障子の文化といわれるように昔の民家などは襖と障子で仕切られているものの、常にトなりを意識した間取りになっていて、襖や障子を取り払えば小さな空間の集合体は大きな空間に生まれ変わるのです。したがって日本の民家で唯一プライバシーが保てるのは戸の閉まる厠と風呂くらいのようなものであると思うのです。現代の家はすでに洋風化されてドアを閉めれば採光さえも差し込まない、音すら聞こえない無空間になってしまうのです。作家谷崎潤一郎が書いた文章に厠を間としてとらえたものがあったような記憶があり、その暗くて狭い間から見える空間風景がいとも細やかに描写されているのです。これまで私は自分の空間の明るさに目を奪われ過ぎていました。自分が厠に入った時自分の暗闇のガラスの向こうに感じる映し出された風景や風の動きも間ではないかと思うのです。
間とは相手や相対するものとの距離かも知れません。近過ぎても遠過ぎても間は存在しないのです。間とは左様にこちらの気配りで決まるものなおです。
「送られし ビデオ見ながら 考える 間の取り方の 難しことを」
「あるお寺 座して外見る 見事さよ 散り染め紅葉 さえも気配り」
「暗闇の 厠から見る 外明かり 谷崎翁の 奥深き知る」
「詫び寂も 間の取り方で 味わえる 心のゆとり さらに極めて」