○私はエッセイスト?
リタイアし自由人になって早いもので3年が過ぎました。新聞紙上に人事異動の記事が載る季節になると、華やかなご栄転の顔写真入りとは対照的に、最後の欄に虫眼鏡で見ないと見えないほど小さく、印象的に退職者の名前が掲載されているのです。部長で辞めた人も係長で辞めた人も人それぞれですが、多分この記事にさえも載らない多くの人たちが第一線から退く事を思うと、仕事の値打ちとは、人間の値打ちとは一体何なのかと、しみじみ思うのです。多分公務員だと職責上えらかったであろう人たちは、天下って多少の不自由はあっても、力を誇示し続けるのでしょうが、平で辞めた人たちにはそんな恩恵も無く社会の荒波に放り出される運命にあるのです。でもご安心下さい。社会は心さえしっかりしていれば、4月1日が再スタートで誰からも文句を言われる自由人としての暮らしが待っているのですから・・・・・・。私のように・・・・・。
私は今自分の役職を調べて見ましたら、退職と同時にかなぐり捨てたはずなのに、人間牧場主、えひめ地域づくり研究会議代表運営委員、愛媛大学法文学部非常勤講師、夕日のミュージアム名誉館長、21世紀えひめニューフロンティアグループ代表、国土交通省観光カリスマ、地域活性化伝道師などなど十指余る役職があるのです。最も嫌いなひどい時は先生とか元教育長などの名前でも紹介されたりして、「私は先生ではない」と打ち消すのに懸命なのです。
そんな折、私の友人が会社員なのに名刺に「エッセイスト」と刷り込んで配っているのを見て、悪くはないなと思いながら、いっそ私「もessayist」という名前でデビューしようかとも思ったりしています。エッセイストとは、エッセイを書く人、随筆家のことで、形式にとらわれず、個人的観点から物事を論じた散文や、意の趣くままに感想・見聞などのまとめた文章を、新聞や雑誌あるいは単行本などに執筆する人のことをいい、エッセイストだけではなく、エッセイスト以外の肩書きを持つ場合が殆どなので、私もそんな概念にピッタリなような気がしているのです。
今のところ頼まれて雑誌やインターネットサイトに定期的に記事を書いているし、ブログもある意味エッセイなので使ってみたいと思っています。しかし仮にもエッセイストと名乗るからにはそれ相応の勉強や努力が必要で、納得のいく文章が書けるようにならないと軽はずみに使うことは出来ないと思っています。
最近、私のブログも相当認知されて、読者が少しずつ増えてきました。エッセイを書くには、まず知識を習得するため読まなければなりません。暇さえあれば読書を欠かさないことがまず絶対条件でしょう。次に書くことです。自分でいいと思った文章でも人の批判に晒さなければ何の価値も無く成長だってないのです。その点だけでは私は合格点だと思っています。本もそれなりに読むし、書くことだってそれなりの量をそれなりのスピードで書いてます。問題はそこからです。文章には天性のようなものがあって、幾ら努力しても一定のレベル以上へは進むことができないのです。私は子どもの頃から国語が好きで、文集を沢山書いてきました。また役場に入ってからも町の広報を10年間担当して書いてきました。しかし残念ながら凡人の私はそこから上達しないのです。これまで5冊もの自著本を出し、共著本にも名前を連ねましたが、どうも満足がゆかないのです。多分それこそが天分の無さだと自負するところです。
ある意味で格好いいエッセイストになれるかどうか、今後の精進でしょうが多分縁のない社会かも知れません。
「エッセイを 頼まれ書くが 上手くなく エッセイストには なれぬ落胆」
「将来は エッセイストの 肩書きを 名刺に刷って 配ってみたい」
「また俺の 心でうずく 夢一つ エッセイストを 目指す野望が」
「原稿を 頼まれ送る これエッセー 原稿料まで いただき嬉し」