○タマネギのインテリア
昔の田舎家は薪の風呂が多く、冬の間に薪を割りその薪を風呂場の近くにうず高く積んだ姿はどこか田舎を演出する光景でした。また夏から秋にかけて収穫したトウモロコシの皮をむいで束ね、軒先に吊るす姿は干し柿とともにどこか懐かしい子どもの頃の光景として私の目と心の残像として残っています。トウモロコシの種を買うような余裕はなかっので、春が来るとそのトウモロコシの実を丁寧に取って種として蒔いた記憶がありますし、そのトウモロコシを炒って粉に挽いてはったい粉にしたり、時にはドン豆にしたり、時にはとうきび飯にして食べたりもしました。今でこそ雑穀はヘルシー食品として見直されていますが、お米のご飯が食べたい私たちが子どもの頃はトウモロコシは憎い食べ物として「またトウモロコシか」と敬遠をしたものでした。
先日梅雨の前に収穫したタマネギの乾燥が終わって、そのタマネギがわが家の離れにある私設公民館「煙会所」の軒先に吊るされました。例年だとこの作業は年老いた親父と私の共同作業なのですが、このところ私が忙しく家を空けるときが多かったので、親父はそのタマネギを魚網を使って自分で作った袋に入れて軒先に吊るしていました。脚立にも上がれない親父がどのようにして吊ったのかは不明ですが、今朝起きて家の周りを散歩すると綺麗に吊り下げている姿に嬉しくなってカメラを持ち出し一枚パチリと撮りました。いやあいい風景です。絵になる田舎の風景だと思いました。
私設公民館「煙会所」の窓は今でも和風な障子でできています。雨風が吹き付けないように北側の障子の外にはサッシ窓をはめ込んでいますが、サッシ窓を開ければ障子の風景が出てきます。白い障子と黒い焼き杉の板塀、むき出しの軒先にタマネギの吊るした袋が加われば、これは立派なインテリアだと思うのです。
最近はどの町へ行ってもその町やその街に個性がなくなったと感じています。勿論最近は建築的には洋風の個性的な家がどんどん増えて見る目には楽しいのですが、家は群れを成してこそ町や街なので、どこかまるで住宅展示場のような違和感を覚えたり、個性ある地域の顔がないような気がするのです。
先日熊本県のあさぎり町への道すがら人吉駅で降りました。時間があったのでそこら辺を散策しましたが、駅の近くに阿蘇神社というそれは立派な神社の森がありました。大きな楠木群や社群はそれは見事で思わず見とれてしまいましたが、その周辺の風景はこれまた遠い少年の頃にタイムスリップしたような懐かしさを覚えました。旅先で見つけたこんな日本の原風景に突然出会うとついつい嬉しくなるのは、私の心の中に日本文化のDNAが存在するのではないかと思ったりするのです。
毎日見ている何気ない風景のわが家の庭ですが、梅雨の晴れ間の今朝の庭にはまばゆいばかりの朝日が差し込んで何ともいえない季節感を漂わせています。この季節の移ろいを私は忙しさにかまけて毎日見忘れているのです。窓を一杯開け深呼吸をしましたが、「ああ俺は生きている」って感じのすがすがしさです。深呼吸をすると何やら芳しい匂いが漂ってきました。見ると盛りを過ぎたくちなしの花が沢山咲いていました。多分くちなしの花は冬の寒さを越えて一生懸命咲いたのでしょうが、見られることもなく、香りを感じてもらうこともなく秋の赤い実となって食用に摘み取られる運命にあるのでしょうが、この花も一枚撮りました。
何気ない風景や何気ない季節の移ろいをもっと肌で感じ、もっと生きている実感を味わって生きて行きたいものです。
「タマネギが 我家軒先 吊るされて ああ梅雨だなと 空を見上げる」
「窓開け 匂いの向こうを 眺めれば 白きくちなし 既に遅しと」
「梅雨晴れて 朝日緑を ことさらに 引き立てるよう 今朝のわが庭」
「ああ俺は 生きてるんだと 思う朝 自分が自分に 気付く愚かさ」