○妻の操縦法10ヶ条・その②
第2条 妻に信頼される仕事をすべし
結婚するまで私は自分の家が漁家だったので、自分の船若吉丸の船長として漁業に携わっていました。朝の早い仕事と夜が遅い青年団活動の水と油のような日々の苦労がたたって病気になり、3ヶ月入院の末役場職員に転職しました。結婚一年前のことです。公務員に漁師上がりの人間が青年団の華やかな活動が認められてなれたといえば格好いいのですが試験もなく公務員になれた古きよき時代でした。ですから私の職歴は夫婦の結婚歴と殆ど重なっているのです。役場35年の前半は家を顧みない公民館という社会教育、後半は家を顧みないというむらおこしやまちづくりに情熱を注ぎ、その都度それなりの成果を挙げました(自分ではそう思っている)が、公民館では町名変更騒動に巻き込まれ、まちづくりでは夕日というテーマに巻き込み、99パーセント反対という仕事を覆して仕事をしてきました。特に町名変更は町を二分するような町長リコール運動にまで発展し、私の心労は勿論妻の心労も極限に達していたのではないかと思われます。でもそのひとつひとつの仕事に前向きで立ち向かい不可能を可能にした仕事の数々を、じっと見守り大きな支援をしてくれたのです。信頼は飯のネタである仕事がプロらしく出来るかどうかは大切なことなのです。全国公民館優良職員として表彰された時も、夕日によるまちづくりが大臣表彰や数々の栄誉に輝いた時も一番喜んでくれたのは妻でした。これは男の本懐とでも言うべきもので、その陰には妻の内助の功なしでは語れないのです。
特に私のバックボーンである自宅横に構えた施設公民館煙会所はまるで維新の志士たちが集ったような夢語りの場所だったため、全国から多くの若者が戸をたたきましたが、その都度両親とともに大きな支援をしてくれました。夫の仕事への取組姿勢と情熱が妻の信頼を得るのです。
第3条 妻には時たま餌(褒美)をやるべし
ちょっとと表現が悪いですが時には妻への餌となるべき褒美が必要でしょう。例えば誕生日や結婚記念日などにささやかでもいいから感謝の気持ちを表すことです。ビンボーな私にとって大した褒美ではありませんでしたが、妻が飛びきり喜んだことが幾つかあります。定年を機に思い切って縁のない外国旅行と退職慰労金をプレゼントしました。私は結婚後も退職後も相変わらず国内や外国を仕事と称して飛び跳ねていますが、妻は小旅行はあっても外国など殆ど行ったことがありません。いつも留守番なのでした。カナディアンロッキーとナイアガラの滝がセットになったカナダ旅行をプレゼントといっても私と同伴でへ行っただけ、私の退職時に贈った慰労金もほんのスズメの涙ほどでしたが心を込めて贈りました。多分苦労性の妻はその慰労金も結局家族のために使ったようです。
光物も殆ど身にまとわず、綺麗な服装をするでもない普通のおばさんですが、私の口から言うのも何ですが、まあくたびれない程度の容姿で、笑顔を絶やさないのがいいです。ちょっとお惚気になってしまいました。
第4条 妻は私の子どもを作る大切な道具たるべし(夫婦同床・夫婦同浴)
柳沢厚生労働大臣が「女性は子どもを生む機械」などと発言してえらい騒ぎになりましたが、私の道具論はそんな妻を馬鹿にした言葉ではないのです。私たち夫婦には計画通り一女三男、計四人子どもが生まれました。足し算だと1かける=は2ですが、わが家の計算式は私1×妻1=4人の子どもが答えです。この道具は人にも貸せないし私だけのものなのです。そのため結婚以来30数年夫婦同床・夫婦同浴を続けています。いろいろな講演会で参加している人に聞いてみると、これが意外と少ないようなのです。最近離婚が多いのもこうした布団や風呂に一緒に入るスキンシップが足らないからではないかと思ったりします。おっと、調子に乗って少し話が横道へそれそうになってきました。
でも夫婦が仲がいい姿は、いいものですよね。
「金貰う 限りはプロと 自覚して 笑顔で懸命 妻から信頼」
「褒められる 誰でも嬉しい ものですよ 褒美なければ 言葉だけでも」
「俺の子を よくぞや産んで くれました しかも普通の 人に育って」
「同床と 同浴欠かさず 今もなお だからかすがい 子ども沢山」