○同じ伊予市なのに
昨日は伊予市大平公民館の依頼で、唐川老人クラブの総会を兼ねた高齢者学級に招かれました。一昨年合併して私たちの町双海町も伊予市の仲間入りをしましたが、同じ伊予市といっても行ったこともない場所があって新鮮に思えました。折りしも昨日は低気圧や前線接近の影響で通称やまぜ風という南からの強風が吹き荒れ、名残の桜吹雪が見えるなど印象的な日となりました。唐川は伊予市といえども奥まった山間地で過疎と高齢化が進行している場所でした。会場となった旧唐川小学校は統廃合されて既になく、跡地として残る運動場や校舎の一部、記念碑が当時の名残を留めていました。ふれあいセンターという福祉施設の入口には立派な遅咲きの八重桜があって今が盛りと咲いていました。砥部町に通じる道の両側の山も春爛漫、唐川ビワの産地とあって白や黄色の袋がかけられたビワの木があちらこちらにまるで花が咲いたように見えました。
双海町ならさしずめ老人憩いの家といった感じの社会福祉協議会が運営する陽だまりの部屋があって、マッサージ機や電気浴などの機械が並べられ、5~6人の高齢者の方々が世間話に花を咲かせながらその器具で体をほぐしていました。この日は総会が長引き10時半の予定が20分も延びたため暇つぶしに世間話の輪の中に入りました。「兄さんはどこから来たの」。私「はい、双海町から来ました」。何をしに」。私「はい、老人クラブの総会に話を頼まれて来ました」。「ほう偉い人なんじゃねえ」。私「いえいえ、田舎者ですよ」。「田舎者に話など頼まんけんやっぱり偉い人なんじゃあ」。「そんなことありますかい、ただの人ですが」。「ところで双海町は何処ぞな」。私「はい上灘です」。「それじゃあ○○さん知っとるかな」。私「はいよく知っていますよ」。「会ったら○○がよろしゅう言よったと伝えて下さい」。私「はいはいそう言うときます」と、会話も弾み、おまけに電気浴なる機械を勧められ20分もその機械に座らされました。
やがて案内されて会場へ入りましたが、約40人ほどの高齢者が実にお行儀よく座り私の話を12時10分まで聞いてくれました。中にはビワ茶でまちおこしを進める元伊予農協組合長の大西要さんや区長だった顔見知りの竹田さん、それに民生委員さんもいて老いてかくしゃくといったところでした。
集まった方々は戦後の厳しい時代を生き抜いて来られた方々だけに、現代と過去の狭間に生きる人への話として「心豊かに生きる」というタイトルで話をさせてもらいました。このところ合併の影響か、はたまた謝金の安い地元講師でお茶を濁そうとするのか市内のいたるところから講演の依頼が相次いでいます。地元といっても2年前までは他所の町なので顔見知りも少なく「まあいいか」の類で出かけていますが、地元はやりにくいというプレッシャーもなく山一つ向こうの知らない土地といった気楽さで出かけています。しかしさすが旧伊予市だけあって聞く耳がよいのか、老人クラブ会長さんの謝辞「今まで聞いた話で一番よかった」というお世辞を鵜呑みにするならを私の話がよかったのか会場は爆笑の渦で、総会後の休憩を取らずいきなり始めたのに、席を立つ人が一人もなく、かえってこちらが近くなった小便の心配をする程でした。
帰りに松山の幼稚園まで孫を迎えに行き、自宅に着いたのは4時過ぎでした。孫は昨日捕まえた蛙の入ったコーヒー瓶が心配らしく盛んにそのことを車の中で話していて車を降りるなり一目散、結局人間牧場へ先日手で触れるようになった団子虫を捕まえに行くことになったのです。
孫が団子虫を探している間私は蕗を取りました。先日獲った蕗を炊いたところとても美味しかったので妻から依頼されていました。あるあるあるある、ナイロン袋にいっぱい獲りました。
雨がポロポロしてきたのですが、孫は蕗の葉っぱを頭に被せ「おじちゃんこれ帽子」と大はしゃぎでした。急いで車で下山しましたが、夕方になると雨は激しくなり稲光や雷の音も凄い荒れようでした。職場から帰宅予定の妻も帰るに帰れず私に迎えの要請です。蕗を粗方剥いていたので、妻はさっそく蕗の佃煮作りを始めていました。昨日も楽しいいい一日でした。
「市内だと いうのに一度も 踏み入れぬ 唐川ビワの 産地で話す」
「あんた何処 私双海だ 珍しや こんな会話に 顔もほころぶ」
「歳とると 足腰痛くて つまらんと 愚痴をいうより 笑って暮らせ」
「ひょうきんな 蕗を帽子の 孫姿 思わずにっこり 顔を見合わせ」