shin-1さんの日記

○隠岐の島で話す

 隠岐の島町は島後といわれる一島に四つの町村がありましたが、平成の大合併で一つの町になりました。何処へ行っても漏れ聞く合併の弊害や不満は対等合併といいながら支所化されたこの町の小さな町村にも多く聞かれました。でももう元へは戻らないのですからしっかりと合併という事実に向き合って生きていかないといけません。

 研修会場となったのは隠岐島文化会館でした。周辺には移転した隠岐高校の体育館や図書館もあり、陶芸館もあるなど周辺は文教エリアを形成していました。ちょっと時間があったので陶芸館を覗いてみたら3人の女性が熱心に創作活動をしていました。中に入って話し込みお茶を入れてお菓子まで接待してもらったものですから、野イチゴ取りに行ってブトに食われて私は嫌と渋る女性を強引に立たせ写真を一枚記念に撮りました。

 さて本題です。

 学校と地域が一体となってこれからのふるさと教育を推進していくことの意義やその考え方を学ぶ今回の研修はそういう意味においてタイムリーな研修だと思いました。集まった人は半数が学校の先生だと聞いていましたので、私の講義はその先生たちへのメッセージを中心に話をさせてもらいました。学校の先生は役場の職員と同じように公務員であるがゆえなのか、以外と社会にうといように思います。先生たちが常識だと思っていることが以外と非常識なことが多いのです。昔は時代の流れが緩やかでそれでも教育は成り立っていました。しかし現代はテンポの速い、そして技術革新の早い時代です。それは10年前の社会と今の社会を比較すれば一目瞭然なのです。人に教える人は時代の流れを敏感に読み取らなければなりません。過去も大切ですが今の現状把握と未来予測は特に必要です。そのためには異文化と触れたり時には異文化ギャップの場所に身を投じなければそのことは分らないのです。まず「変えなければならない物差し」と「変えてはならない物差し」の「二つの物差し」を持つことを話しました。

 次に子どもたちの置かれている立場を理解しなけばなりません。創作の遊びを知らない子どもたち、本当の仲間がいない子どもたち、巣篭もり傾向の子どもたち、勉強優先で人間優先でない子どもたち、ふるさとを知らないし語れない子どもたち、社会に迷惑をかけても平気なこどもたち、親と教師に不信感を持つ子どもたち、夢や目標がない子どもたち、間道経験や失敗経験の少ない子どもたち、価値判断が好きか嫌いか損か得かで善悪でない子どもたちなどなど子どもは見ようによってはかなりいびつな育ち方をしているのです。でもその子どもを育てたのは親であり教師なのですから、地域の教育力を高めるための学社融合というネットワークとフットワークが必要であると結論付けました。

 じゃあどうするか、その話は21世紀えひめニューフロンティアグループがこれまで20年間に渡ってやってきた無人島キャンプや夕日によるまちづくり、そしてこれからやろうとしている人間牧場教育にヒントがあると話したのです。私の経験は浅いものです。でもその活動の中で自分の子どもも多くの子どもも普通の子でありながら逞しく育ちました。

 子どもというかけがえのない地域の宝が少子化で生まれなくなったし、生まれた子どもも最近の社会では目を覆うような事件に巻き込まれています。子どもを育てる運動はまちづくりの大きな仕事であることを今一度原点に帰って考えたいものです。

  「どうしてか 田舎に増えるの カラスだけ 子どもの顔が 段々少なく」

  「よく出来る 子などつくれば 将来は 私一人が 田舎のゴミに」

  「あれ程の いい子が何故に 悪くなる あんたのせいだ 夫婦はねかけ」

  「寝ていても 起き(隠岐)の島です 目を覚ませ 島は宝で 埋まっているよ」  


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