○縁起を担ぐ
昨夕親父が、「明日は暦を見ると仏滅のようなので、今日中にお飾りを飾った方がいい」と言ってきました。「藁を貰う日も、藁をそぐる日も、ましてやお飾りを作る日もいい日を選んでいるのですから、最後ぐらいはきちんと」というのが親父の本心のようです。夕食が終わって少しくつろいでいた頃だったので腰は重たかったのですが、年寄りの言い分にも一利あると思い、帰省している長男と一緒に私の書斎にストーブをたいて始めました。既に作っているお飾りのほか、竹やウラジロ、干しガキ、ダイダイ、半紙、水引き、お参盆などを取り急ぎ用意し、慣れた手つきで始めました。息子もこれまでに何度か手伝ったこともあるので通称おたまじゃくしというお飾りにウラジロをつける作業をしてくれましたがスムースです。私は包書の中にタツクリやお米、切り餅などを要領よく包み込み水引きで綺麗に縛るのです。最近は近所のお店でもこの水引きの入手ができなくて、三年前から新品の祝儀袋に使っている水引きを丹念にほどいて使っていますが、これが案外重宝なものなのです。
やがて本番とでも言うべき本宅の玄関と隠居の玄関、それに神様棚のお飾り仕上げに取り掛かり、氏神様からいただいたお札を付け、出来上がったお飾りを暗闇の中息子と二人、懐中電灯と脚立で取り付けました。昨夜は季節風が吹き荒れ寒い夜で強風で吹き飛んでいないか心配していましたが、今朝はどっしりと玄関を飾っていて安心しました。
風呂を入る前の長男の息子もまだ1歳4か月で何のことか分かりませんが、お父さんとおじいちゃんが別室で何やらやっていることが気になってときどき覗きに来ていましたが、この子どもの頃にはこんな古い日本の正月を迎えるしきたりも古いとい名の下に消えてしまうのかと思うと、少し寂しくなるのです。近所の人に聞くとお年寄りがいてももう何年も前からお飾りはお店で買うものと決めているそうで、近所かいわいでは私の家が最後の砦になっているようです。
民族学者宮本常一の本を読み、民俗学に興味を持つ私にとっては、余りにも早い時代の流れに翻弄されて日本人が日本人たることを忘れてタダ無意味に行動いるような気がして心が痛むのです。確かに頭では民俗学も本を読めば分かるし理解もできるのですが、いざ自分の身の回りの実践ということになるとかなり怪しいのです。
私の家は3代続いた漁師の家です。私が4代目なのですが漁師の後を継がず、わが息子も、多分その息子も漁師と縁のない世界に生きることでしょう。でも私まで4代続いた習慣を私で終わらせるわけにはいかないと思って、色々と考えた行動をしていますが、はて時代につながるかどうかはこれまた微妙です。人は神仏をも含めた自然という目に見えないものに恐れおののき、信仰という形で神仏のご加護を願い生きてきました。この町には漁師町故にそんな伝統や風習が沢山ありますが、この10年くらいでほとんど姿を消してしまいました。記録にとどめるすべもなく消えてゆくのを指をくわえて見ている今に生きる人間の愚かさも垣間見るのです。そんなジレンマのはざまの中で今年も暮れようとしているのです。
「風邪伏せる そんなの理由 なりはせぬ 今日中飾り 作って飾れ」
「明日あたり 四代長男 集まって 記念に写真 撮って残こそか」
「長男の 長男一番 風呂に入り 長男の次 長男残り湯」
「よく出来た 見上げる戸口 しめ飾り 神々しくて 新年間近か」