shin-1さんの日記

○無謀にもお坊さんにお話しをするとは

 ふとしたことがご縁で、県下のお寺さんへお話しに行く機会が随分増えてきました。妻は「お説教を専門にしているお寺さんへなど行って何を話すの?」と呆れた顔をするのです。私も最初はそう思い硬くご辞退していたのですが深いご縁をいただいている人から間接的に頼まれると断ることも出来ず、ついついノコノコと出かけて行くのです。ところが今日はお寺の檀家さんへの話ではなく、曹洞宗青年会の会員さんに話をする事になったのです。妻は相変わらず出かける前に「今日の講演は止めた方がいい」と忠告するのですが、予定をしている相手の事を考えるとおいそれと止める訳にはいかないのです。

 今回のテーマは「寺の活性化」、サブタイトルは~元気ある寺をめざして~でした。さて会場となる松山市道後の簡保の宿までの道すがら何を話そうか迷い迷い行きました。少し時間に余裕があったので会場入りして考えようと思ったのですが、私の担当のお坊さんが決められていて、離れずに温かい接待をしていただくものですから準備も出来ず、いきなりの話になってしまいました。「うーん参った」です。聞けば曹洞宗の開祖は道元禅師とか、更に本山はあの有名な永平寺ですから、どのお坊さんも皆利口そうで益々ビビッてしまいました。

 でも考えてみればお寺の活性化もまちの活性化も基本的には同じだと思い、気を取り直してお話をさせてもらいました。青年会の皆さんですから出来るだけテンポよく話す事を心がけお話をさせてもらいました。

 都会はどうか知りませんが、私たちの知っている田舎のお寺の周辺では、過疎と高齢化、それに少子化が急速に進み、限界集落といわれる地域が段々増えてきています。今までのように檀家の多い時代はもう望むべきもなく、檀家の減少=お寺の経済的経営難という厄介な問題が迫って、ただ漫然としていたら、お寺も立ちいかなくなる時代が来るのです。加えてお寺という空間が閉鎖性の強いものですから、葬式や法要といった仏事でもなければ人は寄りつかないのです。

 私の提案第一は 「死んでからの事も大事ですが生きる事を導いてくれるお寺であって欲しい」と思いました。人間には幸せになりたい、お金持ちになりたい、健康で長生きがしたい、成功したいという4つの願望を多かれ少なかれ持っているものです。その導きや迷いを取り除きいい方向に導いてくれるとしたらお寺は救いの仏になるはずです。昔のお寺は悩みを解決して生きる道しるべを示してくれました。今の社会は心の病が複合的に重なり一億総病人と言われるような時代で、悩みは全て病院へ持って行くのです。

 第二は「目に見えない部分を気付かせてくれるお寺であって欲しい」と思いました。人間にも社会にも目に見えない部分は多いのです。目に見えない偉大な力をサムシング・グレートとといいますが、ネガティブとポジティブな力が心のありようにどう影響するのか、自分と対話した経験のある修行の中で学んだ事を生かして教え導いてて欲しいのです。心の存在は私たち凡人には分らないことだらけだからです。

 第三は「お寺が地域の拠点になって欲しい」と思いました。昔は学校、お寺、神社の森は地域の拠点でした。学校は統廃合されて消え行く運命にあります。お寺を開くということは檀家人と外の人の交流を意味します。最近はお寺で講演会やコンサートをするお寺が増えてきました。本堂の広い空間は音響もよく、人も集まれる絶好の空間です。イベントや講演会を通じて開かれたお寺を目指して欲しいものです。

 第四は「人の集まる条件を整えて欲しい」と思いました。現代のまちづくりのキーワードは楽しい、新しい、美しいですが、この条件はお寺さんにも通じます。アジサイ寺、ボタン寺などは美しさの表現だし、訪れる度に進化しているようなお寺は新しいし、お寺での催しは楽しいものです。

 頭を丸めたお坊さんが居並ぶ異様な雰囲気の中であっという間に90分の話は終わってしまいました。質問で子どもを巻き込んだ何かが出来ないか質問がありました。公民館や子ども会、自治会などとネットワークを張り巡らせてリンクすれば、子どもたちに宗教心を植え付ける絶好の機会となるであろうと結び、ハーモニカを吹きました。

 私の主宰する人間牧場はひょっとしたらその見本をやっているのかも知れないとふと思いました。私の人間牧場は平成の駆け込み寺であり、修養の場だと思いました。

  「無信心 そんな男が 坊主前 何を話すか 聞きたいもんだ」

  「道元の 言葉引用 アメリカで 日本を紹介 懐かしい日々」

  「拝まれて 手を合わせたる その前に 凡人私 面映いこと」

  「禅問答 やってみたいな いつの日か それまで修行 積んでおきたい」

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