shin-1さんの日記

投稿者: | 2007年4月8日

○早期退職の盟友北原さん

 今年は暖冬の影響で桜前線の北上が予想以上に早いとマスコミが騒いでいましたが、蓋を開けてみると何のことはなくわが町では平年どおりのようで、海岸通りの桜も今が満開のようで、町内のあちこちでは今が盛りの桜を愛でようと花見の小宴が開かれています。私にもあちこちから花見のお誘いがかかるのですが、あいにくお酒を飲めない私は丁重に断り、私の身代わりとしてお酒やビールを送るのです。そうすると間もなく酒に酔った主催者から御礼の電話が携帯にかかってくるのですが、これがまた相手は酒酔い私は素面とあって、長々訳も分らぬ話が続きます。「元気か。お酒を送ってもらってありがとう」くらいならまだ良いのですが、昨日の夜などは11時過ぎになって電話がかかり「近頃お前は付き合いが悪い」などと、お酒を送ったばっかりに叱られる始末で、おうた話ではありません。

 しかし中には早くも5月病ならぬ4月病なのか、ご栄転を果たしたものの仕事の難しさや人間関係の煩わしさに行き詰まり、泣きを入れてくる友人もいます。また今春愛でたく早期退職し自由人となった仲間からは「自由とはいいもんだとこの1週間は思ったが、これからどう生きればいいのか・・・」という深刻な話まで飛び出しています。

 そんなこんなの3日前、55歳で早期退職した北原さんが人間牧場へ訪ねて来ました。彼は学校の先生をしていましたが思うところあって今春退職しました。世に言う「次の人生の身の振り方を考えれば、55歳が最終決断の時」と聞いてはいましたし、私もそんなことを考えたことがありました。しかし人生はそんなに甘くはないからと相談を受けた折慰留を勧めましたが、彼は思い切って退職したのです。彼の人生と私の人生は奇妙な出会い曲線で結ばれています。私が第10回総理府派遣成年の船の班長としてアメリカへ行った折、彼は一般団員として乗船していました。聞けば青年の船に乗りたくて当時勤めていた役場の上司に相談したところ「青年の船に乗るなら辞めて行け」と言われ、「それなら辞めて行きます」と辞表を出して乗船した芯の強さを持っています。彼は帰国後教員採用試験を受けて教員になり、教員生活の傍ら私の主宰する21世紀えひめニューフロンティアグループの活動に参加し有形無形の影響を受け合いながら今日まで生きてきました。

 彼は今の教育のあり方に疑問を持っています。特に愛媛の教育は管理型で、校長や教頭になることや、大きな学校へ赴任することが栄転だと何の疑いも持たず上(教育委員会)を向いて生きている教員が多いと、口では言いませんが言動の端々から読み取れます。彼は教員生活の大半を僻地の学校で過ごしました。僻地というレッテルは学校教育にとって一体何を意味するのでしょう。人口密集地の大規模校がいい学校ではないと思うし、僻地といわれる山間地の学校こそ人間性豊かな教育ができると私も彼の生き方には大賛成です。「じゃあどうするのか」、彼の自問はまだ答えが出ていないのですが、そんな心の揺らぎにけじめをつけたい彼の気持ちは痛いほど分るだけに、これからまた自分探しや教育の原点への旅を付き合いたいと思っています。

 彼と出会ってから教育に対する私の考え方も少なからず変わりました。教育長という小さいながらも教育行政のトップとして2年間仕事をしましたが、いい教育、いい教職員、いい学校の基準は画一的な今の勤務評定では推し量れない部分がいっぱいありました。いい子どもを育てるという教育の目標は教育基本法や文部科学省、各審議会など猫の目教育といわれる制度だけでは達成できないのです。

 彼の生き方と、私がやろうとしている人間牧場での教育は比較的似かよった部分があることも気付きます。私たちが目指す理想の教育は知識の教育ではなく知恵の教育です。頭に入った知識が手足や心を動かさなければ何の意味もないのです。彼ともう少し教育の入り口の部分を話したい。そしてその理論を論理に高めて行きたいものです。

  「教育の 何であるかを 考える 一石投じた 彼の生き方」

  「どの道を 行こうか迷う 分かれ道 選んだ道を 信じて歩く」

  「あと何年 生きる当てなし 人生を 生きたいように 生きるが徳だ」

  「無欲にて 老後の蓄え 糞食らえ 食えなくなったら 死ねばいいです」

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