人間牧場

〇元双海町長仲野和さんの思い出(その4)

 仲野さんの思い出の中で特質されるのは、何といっても町名変更問題です。仲野さんにとっても私にとっても、勿論町民の皆さんにとっても思い出したくない出来事で、仲野さんも町民も、これまで町名変更問題だけはタブー視され、口をつぐんで来ました。しかし町名変更で選挙を戦った丸山勇三元町長さんも既に他界し、この度の仲野さんの他界で気兼ねをする人もいなくなったので、史実として記録を残すために、そろそろ重い口を開くことも考えなければならないようです。

 私は仲野さんが町長の時、教育委員会で社会教育の仕事をしていたため、命令系統的には蚊帳の外であるはずなのに、田舎の行政はそこら辺が曖昧で、また教育行政トップの教育長もそのことが分らず、教育委員会の職員でありながら請われるまま、いつの間にか暗黙の了解で町名変更担当にさせられました。町名変更した埼玉県長瀞町や原発で町が二分していた高知県のある町を視察する等、かなり綿密な調査を行い、町内36の自治公民館で座談会を度々行い、産業団体、福祉団体、教育団体などを集めて何度も討論を行うなど、民意の発掘に力を注ぎました。

 そのうち公民館係長であった私に、総務課総務係長、企画調整室企画係長という兼務辞令まで出され、当時窓口だった愛媛県庁地方課へも度々説明に行くなど、色々な意見があってもそれなりに行政手続きを進め、議会も一旦は同意議決して国の認可まで漕ぎつけ、「双海町は来年4月から双海町は伊予灘町に変更することを許可する」旨が官報に告示されました。その後にわかに反対運動が起こり、町を二分する町長リコール運動に発展し、仲野さんはその責任を取るというよりは、一旦町長を辞任して選挙で信を問うたのです。結果は新人の丸山さんに勝ったのですが、その際新しい町名を辞めて双海町名に戻したのです。

 辞任した町長の任期は残任期間の2年だったので、2年後激しい選挙戦の末新人の丸山さんが当選し、仲野町長時代は終わりを告げましたが、仲野さんは残任期間を含めると5期16年間町長を務められました。私は仲野町長とともに責任を問われ、13年間勤めた教育員会を去り、左遷という形で産業課へ転勤を命ぜられ、その後4年近く産業課で水産や観光行政を担当、下灘漁協の水産物荷捌き所や上灘漁協の漁村センターを造ったり、観光協会を活性化させてそれなりに情熱を燃やして活動しました。

 それは恩師と仰ぐ静岡県大井川町の朝比奈博さんから贈られた、「ぼうふらも人を刺すよな蚊になるまでは泥水すすり浮き沈み」と、県公連会長岡島明夫さんから贈られた、「今は充電期間だ」の言葉に勇気づけられたからだと、今はあの世に行った二人のことを懐かしく思い出すのです。仲野さんにしろ丸山さんにしろ、最後の町長だった上田さんにしろ、私は時々のトップに恵まれました。私が地方公務員という限られた社会に生きていながら、こうも活発に飛び出す公務員として活躍できたのは、3人のお蔭だと心に言い聞かせています。私にエールを送り続けてくれた3人の町長につけても、合併はしましたが、「双海町」というふるさとを守り育てて行かねばなりません。これからの余生は、恩返しのために生きたいと思う今日この頃です。なお「幻の伊予灘町」については、後日折々記憶を頼りに記録したい思っています。仲野さんのご冥福を心からお祈りします。

  「町名を 変更すべく 働いた 元町長の あの日懐かし」

  「人は皆 ぼうふら人生 浮き沈み 悪くもあれば いい時もある」

  「功績を 誉める人なく 淋しいが せめて私が ブログに書いて」

  「冥福を 祈りながらも 逝きし人 思い浮かべて 心に誓う」

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