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〇心を磨く100の智恵・その3「賞賛をひとり占めしない」

 【どんなに賞賛を受けても、自分ひとりの力と思わない。必ず「周囲の人のおかげだ」と感謝の念を抱くことが肝要である。その習慣が禍根や災厄を遠ざけ、安寧の日々をもたらすことになるのだ。また批判を受けたら、甘んじて受け入れよう。そうすることで、人徳が磨かれていくのである。】

 職場は上司・同僚・部下によって縦社会が組織され、それぞれが目的達成のために命令を受けて働きます。つい最近はプロジェクトチームを組んで働く横組織のようなものもありますが、いずれの場合も結果や成果はみんなの総合力で得られるものなのです。逆に失敗の批判もみんなが分け合わねばなりません。ところが世の中には勝ちは己、負けは他人という考えの人もいるのです。

 私は役所で初めて地域振興課長になった時、課長職の自分以外部下がまったくいない、たった一人だけの珍しい時代がありました。「日本で一番小さな夕日夕焼け課長」などと、当時は大いに気に入って町長さんから特命を受けた「ふたみシーサイド公園」の整備や、運営の立ち上げに忙しい日々を過ごしていました。その成果は注目を集めましたが、かなりの資金を使うため反対や物議を醸したこともあって苦労しました。苦労があればあるほど乗り越えてつかんだ成果の喜びは大きく、有頂天になるものです。しかしたった一人の課といえどもその成功は、基はといえば町長、議会、町民などなど多くの人の力があったからこそ成し得たものなのです。

 私はその重労働が基で体重が13キロも激減するほど体調を崩してしまいましたが、私の健康や仕事の悩みを少しでも和らげようと、妻も子どもたちも両親もみんなが陰ながら支えてくれました。ゆえにそれらの成果はみんなのものとして、いついつまでも感謝の心を忘れてはならないのです。

 私はこれまで大臣表彰を3回など、様々な表彰状をいただいているし、NHK「人間マップ」やNHK「明るい農村」、NHK【ラジオ深夜便」など、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌にも度々紹介されました。その手の類は人に焦点を当てるものですから、まるで私一人の力のようにドラマ化されて、周りの人の目には賞賛をひとり占めしたように映ったのか、妬まれたりもしましたが、全ての職責を辞して退職して6年が経ってその当時を振り返ると、自分も幾分か有頂天だったことが思い出され、深く深く反省するのです。

 でも数々の失敗の責任も他の人に転嫁せず、甘んじて受け入れ責任を取ったことは良かったと思っています。

 私はもう後が余りない人生なのに、人徳を磨こうと努力しています。人徳の最高は「事の成就は周りの人に、批判はわが身に」と思えることです。人徳発展の途上にある私ゆえ、まだそこまでは到達していませんが、心がけていればいい人生が送れるであろうと思っています。

  「賞賛を ひとり占めして 有頂天 若気の至り 汗顔しきり」

  「失敗の 責任逃れ しなかった せめて救いは これのみの自負」

  「人徳を 磨く途中に あるがゆえ まだまだまだと 心に説いて」

  「気がつけば 後が少ない 崖っぷち 差し伸べる手に 誰がすがるか」

 

 

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〇孫朋樹と潮干狩りを楽しむ

 娘の子どもの孫朋樹はどつらかというとアウトドアなタイプです。物心ついた頃は虫を見てもキャーキャー騒いでいたのに、小さい頃から時あるごとに人間牧場へ連れて行き、最初は団子虫から始めた自然体験のお陰で虫を克服し、今では木登りも上手にできる自然は人間に見事変身しているのです。

 今年のゴールデンウィークは長男息子の引越しの手伝いで娘が子どもたちを連れて里帰りをしていて、4人の孫全てが男のこのためとにかく賑やかで、夜は普通より早く午後9時に寝るものの、朝は5時過ぎに起きて泣いたり笑ったりするので、多少神経が疲れています。


 孫たちはウルトラマンが大好きで、暇さえあれば私を怪獣に見立てて変身したつもりで取っ組み合いをして遊ぶのですが、さすがにこの春小学2年生になった朋樹は、自分流の別メニューで過ごすことが多くなってきました。昨日は朋樹にせがまれて二人で近くの海岸へ軽四トラックで潮干狩りに出かけました。唐崎の浜は大潮の時期なのでかなり潮が干いていて、何人もの人がワカメや天草、ニナを採っていました。

 朋樹の目的はそうした食べ物ではなく、ヤドカリや小さなカニや貝殻、小動物を見つけることなのです。朋樹は親父用の少し大きめのゴム長靴を履かせ、私も愛用のゴム長靴の出で立ちで海岸に下りました。アオサやヒジキの上を滑らないよう慎重に歩き、少し大きめな石をひっくり返すのです。

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 石の下はちょっとした小動物のワールドで、ニナやヤドカリが沢山いました。「おじいいちゃんこれは何?」と見つける度に聞いたり答えたりしながら、手持ちのカブトムシの巣箱に拾い集めました。30分ほどでムラサキウニやドジョウに似た魚、ゾウリムシのような虫などなどが面白いように採れました。海水を入れるとそれらが元気に泳ぐ姿が、まるで小さな水族館のように見えました。

 あいにく手持ちのデジカメは電池切れで、潮干狩りの楽しい様子は撮影できませんでしたが、自宅に帰るなり他の孫たちや家族を呼び集め、早速朋樹が講師になって私の教えたことをレクチャーし始めました。

 朋樹は昨日の夜帰る予定でしたが、捕まえた水生動物が気になって、ついにはもう一泊泊まることになりました。連休中はアイテムえひめで開かれている恐竜展に連れて行ってもらったようですが、朋樹にとっては潮干狩りが一番の思い出になったようです。これなら金も要らないし健康的で学習的な遊びなので、これからも要望に応えてこんな遊びを他の孫たちにも教えてやりたいと思っています。

 今日は子ども日です。さて少子化で子どもの数が少なくなった現代ですが、親は子どもたちにどう向き合って育てるのか、考えさせられる一日のようです。


  「長靴を 履いて双海の 浜に出る 孫と二人で 潮干狩りする」

  「石はぐる そこに小さな ワールドが ウニヤドカリに 歓声挙げる」

  「安上がり こんな遊びを 教えたい いつの間にやら アウトドアーに」

  「さも学者 知ったかぶりで レクチャーす 孫いつになく 逞しなりて」

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〇心を磨く100の智恵・その2「不注意な一言に気をつける」

 【ふとした出来心が心霊の掟を破り、何気ない一言が平和を脅かし、些細な行為が末代まで禍根を残すことになる。こうしたことは注意が必要だ】

 国会の質問に対する答弁などを聞いていると、些細で何気ない一言がやがて大きなうねりとなって世間を騒がセルことが良くあります。ゆえに大臣や参考人などは、災いが自分の政党やわが身に降りかかるのを恐れ、あらかじめ書いたものを棒読みしたり、「忘れました」とか、記憶にありません」などの一点張りで、責任逃れをするのです。周りから見れば明らかに?で固められているように見えても、「わいろを貰った」などと言わず、偽証罪という極めて重い罪から逃れようと必死でもがくのです。幾ら?を言っても世間の風当たりや長期化裁判に耐え切れず、ついには要職の辞任に追い込まれたり、時には自殺までして地獄への片道切符を切るのです。

 最近は職場でのセクハラという言動差別が厳しくなってきました。私などのような昔人間はそうした教育を余り受けていない世代なので、異性に対して平気で「あんたは綺麗だ」などと率直に褒めるのですが、それがセクハラの一部だといわれると、何処までが許容範囲なのか分からず、女性に対する言動には慎重にという戒めぐらいしか思い浮かばないのです。でもこれは現代に生きる私たちの基本なので、これからもしっかりと学習しなければなりません。「無知によって生ずる不幸は知ることによって避けられる」という格言は、まさに金言といえる言葉なのです。

 私は昭和生まれですから古い人間の部類だと自分で思っています。ゆえに学校で正しい同和教育や人権教育を受けていません。わが町では自治公民館活動など社会教育が活発で、その始動をしていたこともあって色々と教わりました。まさに生涯学習なのです。最初は「問題発言をしたら問題になる」程度でしたが、やがて言葉による差別や人権の広さ・深さを知るにしたがって、相手を思いやる優しい言葉を覚えてきたのです。

 何気ないふと漏らした一言が結婚差別を生み、死に追いやった悲しい事例を二度と起こさないため、これからも機会ある毎に自己学習を高めたいと思うのです。

 小さなことを気にしない、一見度量の大きいように見える人ほど、自分で気付かぬまま相手を傷つける言葉を発するものです。喧嘩の原因の殆んどは「言うた」「言わない」で始まり、謝ることが嫌いなプライドの高い人はそれがどんどんエスカレートして、二度と口を聞かない大きな亀裂を生むのですから要注意です。

 言葉を発するだけではなく、インターネットのデジタル文字の世界も気をつけなければなりません。顔が見えないゆえについつい書きたくなるものです。インターネットの文字は世界に開かれた窓なのですから、みんなが見ているという認識が必要なのです。

  「不注意な 一言だけで ご和算に なること多し 気をつけるべし」

  「責任を とって辞めない 人多し 国会議員 何がそうする」

  「言葉より 言葉を書いた 文字の方 後残る故 肝に銘じて」

  「しまったと あとで気がつく 馬鹿の智恵 ならぬようにと 常に学習」

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〇心を磨く100の智恵・その1

 何年か前、私が塾長を務める年輪塾の塾頭清水さんから、「菜根譚」という一冊の本を贈られました。その時は人間牧場の背もたれ椅子に座り二日ほどで読破しました。私の体の基層部分にはその時の記憶が残っているものと思われますが、一昨日人間牧場・水平線の家の長い書架の掃除をしていると、再び「菜根譚」が目に付き、他の2~3冊と共に自宅へ持ち帰り、読み返しています。

 「菜根譚」とは「堅い菜根も良くかめば、滋養となって心身は健やかになる」という意味のようですが、最初に読んだ当時は乱読で、深い意味も分からず私にとっては堅いままの菜根でしかなかったようです。

 「菜根譚」は第一章品格を磨く、第二章よりよい人間関係を築く、第三章心に安らぎをもたらす、第四章正しい道を歩む、第五章人生を考えると続いていますが、学習のつもりで少し時間はかかりますが、心を磨く100話の智恵と題して自分なりに解読したいと思いました。表題の中には浅学ゆえ不得意な部分もありますが、とりあえず順を追って自分なりに言葉の意味を考え、とりあえず今年いっぱいを目途にやってみたいものです。

心を磨く100の智恵・その1「評判を気にしすぎない」

 【周囲からの賞賛や非難に惑わされるな。落ち着いた気持ちで庭先の花が咲いて散り行く姿を眺めていよう。出世や損得にも心を乱されないことだ。落ち着いてよく見ていれば、空に浮かぶ雲も風まかせに形を変えていくだろう。】

 一人や二人の職場は別ですが、勤めている人にとって春は異動の季節です。今は勤務評定や評価という基準があって一応化学的にその人の能力が判断されることになっていますが、最後に決めるのはやはり人ですから異動が正しかったかどうか疑問です。私が勤めた役場では毎年のように転勤させられる人、長年その職にとどまり、まるで燻し銀のような人など様々ですが、人事異動をする側は常に周りの評判を気にしています。挨拶ができるかどうか、仕事が速いか遅いか、間違いが少ないかどうか、私生活はどうかなど、公私にわたって目耳に入ってくる評判を基にその人の評価がされるのですが、評判の中には故意に流された間違ったものもあるようです。仕事ができるということは失敗の機会も多く、逆に何もしないと失敗は殆どないのです。上司にゴマをすって世渡り上手に生きる人もいますが、化けの皮がはがれまいと一喜一憂して生きるより、常に研鑽を積んで自分流を貫くことが大事です。

 人間には天気のように晴れに日もあれば曇天雨の日もあります。籠とは昇り調子、辱とは失意です。人生において籠と辱は必ず交互にやって来ます。籠の時有頂天にならず、辱の時腐ることなく次の籠を待つくらいの度量を持って生きて欲しいと思うのです。人間は弱いものです。仲の良い同年齢や同期生が昇進すれば、何で自分がと思うのは当然です。損か得か、好きか嫌いかより善か悪かで判断することも大切です。

 課長や部長といった肩書きには責任という重い仕事や新しい発想、機を見て敏な判断力が求められます。その能力がない人が役職につくと悲惨で上下の信用もなくノイローゼになって体調を崩す人だっているのです。定年になり職場を離れてみて初めて自分の愚かさに気付くのですが、これを後の祭りというのでしょうか。

  「何年か 前に乱読 した本を 読み返しみる 題名どおり」

  「菜根を 噛み砕きたる 力なし 少しの余裕 解読挑む」

  「評判にゃ 評判どおり あるものの 評判倒れ 幾つもありて」

  「前向きの ことを英語で ポジティブと 言うのだそうだ そうだそうだと」

 

  

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 13+3+8+9+2=35とは私の地方公務員としての職場経験年数の数式です。社会教育主事(一部主事補と係長)+産業課係長+企画調整室長補佐+地域振興課長+養育長=35年が私の職歴年数の数式です。自分の職歴と経験年数をみて驚くのは公民館活動にせよまちづくりや村おこし活動にせよ、私の35年間の仕事の殆どは、住民に最も近い場所で住民と共に活動ができたという幸せです。

 しかし裏を返せば職場が変わっても仕事の内容は前職を微妙に引き継ぎ、前職を捨て切れないまままるで一本の竹が父子を連ねているような感じがするのです。それはそれとして今の自分を作り上げているのですから良しとしなければなりませんが、私の書斎のあちこちには捨てきれない資料が沢山残っていて、5S(掃除・整理・整頓・清潔・習慣)を目指す私の意思とは裏腹に、捨てきれない資料が山のように詰まれているのです。

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 5Sの鉄則は「捨てる」、特に「1年間目を通さなかった資料は必要でないと判断する」ことだそうですが、そういう訳には行かないものの何とか処分したいと、いつもうずうず思っていました。長男家族と同居することが決まり、家のリフォームを思いついたのを機に、家のあちこちに残っている古いものを一掃するわが家の大作戦に呼応して、この際結婚39年の間に貯めたものまで処分するのですから、この際私の身の回りも片付けようと、大清掃作戦に乗り出しました。資料は見たり読んだりしながらやると捨て切れないので、殆どの資料は中身を吟味しないで次々と梱包をして窓の外に放り出し、まだ植えていない畑の真ん中へ持って行きました。本来なら紙ごみに出すべきなのでしょうが、個人情報なども含まれているためそれもできず、風のない日を選んで焼却処分することにしたのです。火災にならぬよう細心の注意を払い、火を点け、燃やしましたが煙会所倉庫に眠っていた20年分の年賀状や手紙類は、本のに消えて行く度にその人の顔や思い出が浮かび、少し沈んだ気持ちになりました。

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 午前中半日をかけて焼きましたが、中からは写真類も出てきて思わず取り出す騒ぎもありました。当時はデジカメもなかったので、一眼レフや簡易カメラで撮影したものが多く、中にはカラーが消えてセピア色に変色したものもありましたが、危うく焼却を免れた下の2枚の写真はスキャナーで取り込み保存することにしました。

 白黒の写真はご存知フーテンの寅さんの写真です。私が町の広報を担当していたため、山田洋次監督にお願いして撮らせてもらった一枚です。日本で一番海に近い下灘駅のベンチに寝そべり夢を見ている冒頭のシーンなのですが、渥美清さんは「やあ」とだけ私に声をかけてくれただけの会話でした。しかしこの出会いが後に私の「夕焼けプラットホームコンサート」へと繋がって行くのですから世の中は分からないものです。

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 もう一枚の写真は永六輔さんとの写真です。私が主宰するフロンティア塾の40回目のフィナーレ講演会を2001年5月23日に行いましたが、そのご縁を作ったのはこの一枚の写真です。私は永六輔さんをフロンティア塾に呼ぶために、永六輔さんと文通を始めました。律儀にも忙しいマルチタレントの永六輔さんは私のハガキに返信し、そのことがご縁でNHKBS「夕日を見ない子どもたちへのメッセージ」という番組に私も永六輔さんと共演したのです。この写真はそのロケに来た時福本夏芽さんと魚見真理さんを交えて暮れなずむシーサイド公園で、日本一の夕焼けを見ることができました。

 写真にまつわる思い出は切りがないほどあります。今回の大掃除で出てきた写真は再び段ボールに入れられてお蔵入りとなりましたが、いつの日か新聞雑誌のスクラップと共に、これらの整理もしたいと思っています。
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  「人生の 大半占める 資料類 この際捨てる 一大決意」

  「捨てて焼く 灰になりたる 資料類 すっきりしたが すっきりしない」

  「火の中に 手を突っ込んで 取り出した 二枚の写真 思いで多く」

  「人は皆 何時かはゼロに 戻るゆえ その日のために 準備おさおさ」

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〇内幟を飾る

 長男息子家族が同居のために帰って3日が経ちました。長男夫婦は別として一緒に住むことになった孫二人がいるだけで、こうも賑やかになるのかと思うほど、朝から晩まで泣いたり笑ったりの声が、家中に響いてまあ凄いです。

 孫は私に似て早起きです。5時過ぎには寝室である二階で、早くも物音が聞こえます。一階に住む私たちに夫婦にとってその物音は目覚まし時計のような感じがするのです。

 帰った明くる日、二人の孫は障子とサッシで二重になっている二つの窓を開けて、早朝5時半に大声で何やら叫んでいたようです。どうやら窓の向こうの本尊山にこだまする音を楽しんでいるようでした。近所迷惑になるのでさすがに母親が注意をして止めたようですが、まあ驚きです。

 孫は今年の4月8日に歩いて5分ほどの上灘保育園に入園しました。家が片付かなかったため半月ほどは松山のマンションから通っていましたが、この家から通うのは昨日が初めてとあって、多少ぐずっていたようです。それもそのはず同じ4歳組に入園したのは5人で、そのうち4人までが女の子なので友だちがまだ出来ていないのです。少し慣れれば土日の休みを繰り返しているので、連休が終ればまた慣れるまで時間がかかりそうですが、まあこれもよくある話なので気にもせず、案の定保育園から帰るころには「ただいま」と、上機嫌で帰ってくるのです。

 昨日は息子が休みで一日家にいました。孫たちの部屋もマンションから持ち帰った玩具や遊び道具が元通りに復元されて少し平常を取り戻していました。

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 息子は本当は子どものために鯉幟を上げたかったようですが、マンション住まいだったため止むなく嫁の実家から内幟を贈ってもらいました。一昨年は二人目孫の誕生、昨年は育児と忙しかったため内幟を全て飾ることができなかったようで、昨日は久しぶりに内幟を外に出して飾ってやったようです。孫たちは自分の名前の入った幟を見て大喜びのようでした。勿論92歳の親父も曾孫の幟に大喜びで目を細めていました。今日にでも親父と孫の記念写真を撮ってやりたいと思っています。

 五月の風にはためく幟の姿はいいものです。「この家は男の子がいるよ」と言わんばかりの主張のような気もするのです。庭のあちこちには色とりどりのつつじが咲き始め、早いものは満開を迎えています。わが家は息子たち家族の同居でいつになく賑やかな春を迎えています。

  「五月咲く わが家に春が 訪れて 孫の泣き声 笑い声満つ」

  「窓開け 大声出して こだまする 声を楽しむ 孫に思わず」

  「この家は 孫がいますと 言うように 幟はためく 田舎のわが家」

  「保育園 行きたくないと ぐずる孫 祖rもそのはず 男一人じゃ」 

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〇春の一日

 ゴールデンウィークに入り、私の住む田舎町双海町でさえ人の動きが活発になってきました。平成7年にオープンして以来15年目を迎えた道の駅ふたみシーサイド公園も、並行して走る高速道路無料化実験ルートの影響をもろに受け、客足が減少したといいながら、昨日はゴールデンウィークの中日で平日とはいえ、終日客足が途絶えなかったようです。オープンして数年はゴールデンウィークの人出予想や結果発表に常連として名前を連ねていましたが、その後あちらこちらに話題の施設ができて、日常施設として話題にもならなくなりました。

 昨日は読み終わって書斎にうず高く積まれていた本の移動と、牧場の隅に伸びたまま枯れているススキの一株を刈り取るため、昼食を終えてから人間牧場へ行きました。本当は昨日ミツバチの師匠井上登さんと年輪塾の浜田久男さんが見える予定でしたが、井上さんがミツバチの巣箱設置を二日前に終えたので、浜田さんに延期の電話を入れ、私一人での作業となりました。持参した本類を書棚に片付けて並べ、目ぼしい本を再読のため2~3冊降ろし、背もたれ椅子に体を沈めて乱読しました。

 私が人間牧場を作った目的は色々ありますが、背もたれ椅子に横たわって好みの本を読みながら居眠りをすることもその一つです。思いつくままに選んだ本を読みながら疲れていたのか、つい1時間ばかりウトウトとしてしまいました。本を読むことや何もしないでぼんやりと、広がる海や空を見ながら冥想にふけることは、私にとって心の充電であり至福の時なのです。無を感じたり無から有を産み出すにはこんなのんびりも必要だとしみじみ思いました。吹き渡る風のかすかな音、流れる雲、表情を変える海や空の色、小鳥の鳴き声、全てが日常の暮らしでは聞こえなかったり見えない小さな世界なのです。

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(早くも分蜂入居が確認された擁壁上の二つ巣箱)

 私が留守中に井上登さんが人間牧場のあちこち7ヶ所に設置したと、連絡があった巣箱を見て回りました。さすがミツバチの師匠です。お墓の擁壁の上辺りのブルーベリー園に置いた二つの巣箱には、早くもミツバチの入居が確認され、沢山のミツバチが出入りしていました。これらの巣箱は種蜂を取るのが目的で、いずれ種蜂がしっかりと住み着いたら西予市野村町の山奥へ、移動させる計画のようです。3年前に山奥から種蜂を貰った恩返しですから、何とか種蜂を確保して欲しいと願っています。私の巣箱といいながら井上さんが設置してくれている観察用の巣箱は、キンリョウヘンを置いてもらっているけれどまだ入居は確認できませんでした。

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(古葉を刈り取ったススキ)

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(秋にはこんな素敵なススキになる予定です)

 古い草刈機を取り出してエンジンをかけ、ススキの古葉を刈り取りました。こうすることによって今年も夏の涼しげなススキの揺れや、秋のころにはススキの穂が出て風情を楽しむことができるのです。刈り取った古葉はいつものようにブルーベリーの敷き草として活用しました。

 昨日は春特有の黄砂が降って視界がかなり悪くなっていたようです。東アジアの内陸部で巻き上げられた黄砂がジェット気流に乗ってはるか遠くの日本に届くのですから驚きです。黄砂もまた見方によっては日本の春景色といったところでしょうか。帰り際唐崎の国道辺りから本尊山を一枚写真に収めました。

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(黄砂にかすんで見える双海町のシンボル本尊山)

  「背もたれの 椅子に座って 本を読む ついウトウトと 至福楽しむ」

  「一株の ススキでさえも 夏秋に 季節演出 なくてはならぬ」

  「黄砂降る 日本の春も 趣きが 一句浮かんで メモにしたため」

  「種蜂を 採取目的 巣箱置く 早くも分蜂 蜂が飛び交う」

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〇無常観

 無常観とは、一切が無であるとするものの考え方のことです。関東や東北地方を襲った今回の大震災を目の当たりにして、呆然と立ちつくす被災者の姿を見るにつけ、無常観を強く感じるのです。阪神淡路大震災の時以上に無常観を強く思うのは津波の爪跡の凄さです。これまで先祖代々が営々と築いてきた生命や財産が、まるで箒で掃いたように跡形もなく消えた姿は想像を絶するもので、自然の偉大な力と人間の無能さを改めて思い知らされました。

 震災で家や身寄りの人命をなくした人たちは、文字通りゼロからの出発となりました。過去の歴史を紐解くと、日本人は台風や地震、冷害、それに戦争などなど多くの苦難に出会い、その度にそれらを乗り越え見事に復興したのですから、あながち今回の震災からの復興は不可能ではなく、早くも各地で復興の力強い足音が聞こえ、頼もしく思っているのです。しかし今回の震災は私たちの力ではどうすることもできない、目に見えない放射能という怖い存在があるだけに、心配の種は尽きないようです。

 私たち人間の欲望は留まることを知りません。一を手に入れると二になり、二が三や四へと欲望は次第に大きくなって行くのです。それはそれとして上昇志向や進化なのでいいことなのですが、願望が肥大化し過ぎると、とんでもない落とし穴が待っているのです。原子力は化石燃料に頼った従来のエネルギーから比べれば、二酸化炭素も出さないし安全だといわれてきました。そして原子力発電所の誘致に反対している人たちの姿を、他人事と思い、見て見ぬふりをしてきたのです。

 先日原発事故で壊滅的な打撃を受けた、チェルノブイリのその後の様子がテレビで紹介されていました。目に見える部分では、居住禁止となった住居や公共施設が廃墟になっていましたが、草木は茂り入らずの森のようになっていました。しかし放射能で汚染された土地では農作物から高い放射能が今なお検出され、また放射能を浴びた人たち、特に当時子どもだった人たちに甲状腺異常やガンが多発し、暗い影を落としていました。日本の子どもたちはどうなるのだろうと思う時、目に見えないだけに迫り来る危険な放射能の影響を心配するのです。

 心静かに冥想して無常を観ずるのも無常観です。今の世の中は進歩の速度が速く、冥想している暇などない人が殆どです。でも人間は生まれた時ゼロから始まったことを思えば、今一度無常観を感じるのも悪くはないことです。私も60歳という還暦を迎えた折、ゼロに帰るという発想で心静かに冥想しましたが、今まで見えてこなかった自分の存在や周りのものが違う視点で見え、大いに役立ちました。無常観といえば何か宗教じみた感じもしますが、人間の生き方の根本でもあるような気がするのです。

  「震災の 姿思いつ 無常観 感じる心 俺にはまだある」

  「日本は 地震冷害 台風を その都度越えて 今の繁栄」

  「我々は ゼロに戻りし 訓練を この際しかと 身に着けるべき」

  「座し冥想 すれば今まで 見えぬもの 見えて生き方 変化の兆し」 

   

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〇失われつつある日本人の土着思想

 子どものころ、「日本人の祖先は何処から来たのか」という話を聞いたことがあります。南方系は黒潮に乗って東南アジアから琉球・九州へ来たという説、北方系はロシア辺りから樺太・北海道へ渡って来たというアイヌ系説、日本に古来から住んでいた大和民族という説など色々です。しかしその当時の人が生きていないので、どれも正しくどれも間違いというのが正確な答で、長い歴史の中で混血しながら日本人が形成されて来たようです。

 最近はDNA鑑定などにより、日本人のルーツが科学的に随分明らかになってきましたが、「自分の先祖は一体何処から来たのか」、ミステリーじみた話ですが興味があるのです。私は父母、祖父母までのことは覚えていますが、祖祖父母のこととなると顔もあまり思い出せず曖昧模糊なところがあって、つまり3代前くらいの先祖のことしか知らないのです

 日本人は縄文時代までは狩をしながら移動して暮らしていましたが、弥生時代にかけて稲作が始まると土着するようになりました。その暮らしの形態は江戸時代になって幕藩体制や鎖国によって人々の移動が制限されたこともあって、江戸末期まで続いていました。

 明治維新により日本が開国され、外国と貿易をするため殖産が盛んになったり徴兵による外国との戦争や大陸への進出によって、日本人の異動が活発になってきたものの、それでも日本人の殆どは土着して暮らしていたようです。

 戦後の復興は土着型社会から流動型社会へと大きく変化しました。向都離村の教育と工業地帯が労働力を求めるようになって日本は完全に流動型社会になったのです。

 土着から流動への変化で都会は過密、田舎は過疎という構図が昭和30年代末には出来上がり、そのひずみは人間関係や社会風潮において様々な変化をもたらしましたが、そのことに警鐘を鳴らす人はいても大きな時代のうねりの中に飲み込まれ、時の流れとしてある意味目と口と耳を塞いできたのです。

 その好ましくない姿に気付いたのは、皮肉にも阪神淡路大震災でした。人間はひとりでは生きてゆけないし、お互いが助け合って生きることの大切さを学んだのです。各地でボランティア活動の必要性や参加が始まり、その流れが多少薄くなりつつあるこのごろになって、未曾有の新潟地震や今回の東日本大震災が起こり、再び土着思想が見直されているのです。

 本来人間は家を建て家族や隣人と共に暮らすのですが、今の社会は家は借家や、家があっても転勤などの理由で隣人とコミュニケーションをとらなくても暮らして行けるのです。

 しかし日々の暮らしが跡形もなくなくなる今回の大震災のような災害に見舞われると、行政やボランティア以外頼る人がいないという、孤独であった自分の今までの暮らしぶりに始めて気がつくのです。敗戦は土着の思想を呼び戻しました。大震災に遭った今も土着の思想は日本再生の大きなキーワードだと誰もがいいますが、日本人の「喉元過ぎれば」といった風潮に歯止めをすることができるかどうか、日本人の性根が問われているようです。流動型社会から土着型社会への回帰は容易なことではありません。煩わしいコミュニティのしがらみも当然ついて回るのですから・・・・・。


  「震災に 遭って初めて 日本が 土着社会で ないこと知りて」

  「土着には 煩わしこと 多いけど まさかの時に 大きな力」

  「まず自分 その次他人 当たり前 少し他人に 思いを寄せて」

  「土着ゆえ 生きる実感 目の当たり みんな仲良く 暮らして行こう」

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〇今時の若者世代に思う

 東京の中央省庁出身キャリアで愛媛県へ赴任している友人から、縁戚にあたる大学生が春休みを利用して来県するので会って欲しいと頼まれました。その模様は4月8日のブログに書いて紹介していますが、慶應義塾の大学生である山内さんは、愛媛県を離れる時松山空港からわざわざお礼の電話をかけてくれたほど、今時珍しい律儀な若者なのです。彼は電話で帰宅したら東日本大震災のボランティア活動に行く予定だと言っていました。数日前自宅に戻った山内さんは、宮城県南部の海に面した岩沼市での様子をかなり詳しくメールで送ってくれました。その中で山内さんも、山内さんの書いたメールを読んだ私も、特に印象に残ったのは若者たちの姿でしたので、一部を紹介して記録にとどめたいと思いました。

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 ~前略~

 悲惨な光景を目の当たりにして、気が沈むこともありましたが、心強く印象に残ることが3つありました。

 災害ボランティアは市か一括管理しており、1日200人~300人ほどの方が参加してがれきの撤去を主に行っています。登録を済ませると待合室で派遣される順番を待つのですが、驚いたことに地元の高校生が大勢来ていました。彼らの家は津波の被害は受けなかったものの、家の中の家具等はめちゃめちゃになってしまったそうです。そして学校も4月は休校になっているそうです。

 彼らはごく普通の高校生でした。彼らは淡々と仕事をし、休憩時間には学校の休み時間かのようにじゃれあい、作業が終ると軽く会釈をし、まるで部活の帰りかのよう私たちの重装備とは対照的ジャージ姿で自転車に乗って帰っていきます。

 そんな彼らの淡々とした日常のようなふるまいから、うまく言葉にはできないのですが、東京の学生とは違うとてつもない心強さを感じました。

 がれき撤去として派遣されたお宅は津波が到達した最も内陸部分のお宅でした。流されることはなかったものの、床上浸水の家の前の畑がめちゃめちゃになっていました。その家の方とお話して、自分が東京から来たとお伝えすると、「次ぎの地震は必ず東京にくる。その時は東北が支える番。そのためにも早く東北を復興して欲しい」とおっしゃるのです。被災されたのにも関わらず、とても心強い考えをお持ちで圧倒されました。

 ~後略~

 
shin-1さんの日記

 世の人々は今の若者を見て、無責任・無感動・無表情・無社会などと揶揄していますが、同世代の若者である山内さんが肌で感じた若者の姿は、逞しい日本の若者世代の姿でした。「今の若者は」という言葉は昔から言い古されていますが、どうしてどうして、日本の若者たちも捨てたものではないのです。山内さんのメールを読んでとても嬉しくなりました。と同時に大人の私たちもしっかりしなければと思いを新たにしました。

 私は現場主義です。もし山内さんが大震災の現場に行かなかったらこんな経験も感動もなかったかも知れません。山内さんにとっては大学での100回の講義より今回の被災地フィールドワークは大きな学びだったに違いありません。今後も厚誼は勿論大事ですが、折に触れ社会の現場へ出向いていい学びをして欲しいと思っています。願わくば成長した山内さんの姿を見てみたいものです。そのために私もそれ相応の進化を遂げておかないと・・・・。

shin-1さんの日記

 

  「震災で 目の当たりした 若者に 強さ感じた 私同感」

  「百回の 講義に勝る ものもある 現場様々 心が動く」

  「若者に 負けてたまるか 心して 進化をせねば 笑われるかも」

  「ああ日本 次に繋がる 人ありて 少し安心 光を見たり」

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