shin-1さんの日記

○お地蔵さんの縁日

 わが家の入り口付近の坂の上にお地蔵さんが祀っています。昔は入り口付近にあったものを、農道がつくというので和尚さんを向かえ念ごろに拝んでもらって現在のところに移しました。地元の古老の話では首から上の病気に霊験があると言われていて、時々地元の古老がお参りにやって来るのです。そんなこともあって粗末にはできないと、さも自分の家の持ち物のようにこれまで掃除をしたりシキビの花を手向けたりして崇拝しているのですが、親父が漁師を辞めて陸へ上がってからは毎月21日を縁日と定めて幟を立て、嫁である妻はこの日に朝早くから起きて赤飯を炊いて接待を続けているのです。月に一回といいながら毎月のことゆえ勤めている妻にとって赤飯を炊くことは容易なことではないはずですが、愚痴もこぼさず毎月忘れることなく接待行事を繰り返しているのです。

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(家の入り口の上にあるのがお地蔵さんです)

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(坂の上には大きな枝垂れもみじが新芽を広げています)

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(上から見ると枝垂れもみじは畳四重半くらいある立派なものです)

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(親父は縁日になると手作りの幟を立ててくれます)

 妻は15年間地元の民生委員をやりました。妻の担当していた地域には7~8人の独居老人がいましたが、15年間毎月欠かさず21日には赤飯弁当を独居老人に配り続けたのです。何年か前民生委員を辞めたのを機に、後任の人に迷惑が掛ってはいけないと赤飯弁当配りを辞めました。

 赤飯ができるとそれを配るのは私の役目で、独居老人に配った15年間は赤飯弁当を配りながら独居老人に一声二声かけて安否確認をしていましたが、時の流れでしょうか赤飯弁当を配った殆どの人があの世へ旅立っているのです。今はその分を近所や親類に回して配り続けています。

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(妻が手作りのお赤飯)

 今日はその縁日です。妻は昨日仕事から帰ると直ぐに小豆を炊き、米をといで準備をしていました。今朝は6時に起きるなり赤飯を炊いていました。炊き上がった赤飯を手際よく20パック作り、冷めるとゴムバンドで止めて出来上がり、それを私が歩いたりトラックに乗ったりして配りました。今朝は月に一度の不燃物の回収日だったためそれもしなければならず、朝からバタバタしましたが、何とか近くは配り終え、後は松野町へ出張するついでに下灘の人たちへ配る予定です。

 不信心を自認する私ですが、このお地蔵さんのことは別格で、毎日手を合わせてお参りをしたり、毎月一回の縁日お接待手助けしているのです。お陰さまですこぶる元気で、これもご利益とばかりに今日もお世話させていただきました。


  「いつの間に 芽吹いた枝垂れ もみじ映え 縁日幟 春風揺れる」

  「赤飯を 近所に配り ありがとう 背中に聞こえし 御礼の言葉」

  「妻・親父 毎縁日に 気を配り 心をこめて 接待続け」

  「信心は 不信心なる 私ゆえ こんなことしか できぬ諦め」 

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○送られてきた「地方に生きる心意気」という一冊の本

 私が青年団活動をしたのは18歳から26歳までの8年間でした。果敢な青春時代にやった活動で得た①仲間、②主張、③ふるさと、④感動は私の心の基底に残り、その後の私の人生を今も大きく支え続けてくれているのです。その頃の仲間は沢山いますが、中でも40年を越えて今も深い深い親交をし続けている人は三崎の塩崎満雄さんと長浜の菊地邦求さんがいます。三崎の塩崎さんは西宇和郡連合青年団長、菊地さんは喜多郡連合青年団長、私は伊予郡連合青年団長を経験していますが、それぞれが奇遇にも田舎の役場に勤め、社会教育や企画、広報などなど同じような職歴を辿ったため、ある時期最接近し、ある時期離れ、付かず離れずの射程距離内にいて、お互いがいい意味での刺激を受けながらこれまでの半生を過ごしてきたのです。

 その一人菊地さんから昨日、一冊の本が届きました。「愛媛新聞門欄に投稿した記事が溜まったので本にしたいのだが相談に乗ってください」と電話で相談があったのは今年に入ってからでした。交友のある創風社の大早さんを紹介し、これまで何冊か自著本を出版した経験をお話しました。その折「発刊に寄せて」という寄稿を頼まれたので、善は急げとばかりにその日のうちに半頁ほどの文章を送りました。私の経験ですが、本を出す時は出費を伴うため妻の理解や自分の能力・体力・気力などで随分悩むものなのです。私も「昇る夕日でまちづくり」を出版した折などは、子どもの教育真っ盛りだったこともあって250万円の資金繰りなど、悩みに悩みました。幸い妻の後押しもあって、「金がない」「暇がない」「知恵がない」と断り続けていたものの、先輩玉井恭介さんから直前送られてきた一片の言葉が、後に引けぬ決意を生み出してくれたのです。

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 ご存知司馬遼太郎の「坂の上の雲」の一節、「・・・・のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすればそれのみを身つめて坂を上っていくであろう。」を墨字で書いた色紙を手渡された時、不思議なパワーを感じ、僅か半月で一冊の本を書き上げ出版に漕ぎ着けたのですから驚きです。

 私の一片の文章と手紙が彼を後押しするなどとは努々思いませんが、それでも早書きを自認する私の文章が彼の元へ届いたことは事実なのです。美しい長浜の赤橋と肱川嵐をあしらったその本を手にとって捲ると、新しいインクの匂いがプーンと匂い、菊地さんのことを思い出しました。目次の前に本人のはじめにと公友会の会長である佐伯真登さんの寄稿、そして私の寄稿が恥ずかしくも載っていました。彼を表現するにはこの文章が一番と思い、紹介しておきます。


発刊に寄せて

 「お父さん、長浜の菊地さんがまた新聞に投稿しているよ」と、朝刊投稿欄の記事の中から、いつもあなたの記事を目敏く見つけてくれるのは、もう40年も連れ添った妻でした。その記事の夜会をえぐる鋭いタッチや批評・論評・論壇などの博学にいつも感心させられながら、私と妻はもう何回あなたのことを話したことでしょう。

 私とあなたとの出会いは青年団に遡ります。そんなに差はないものの年齢が一歩前を行くこともあって、あなたはこれまでずっと私の後追いのような似通った人生を歩んできました。団長になった青年団も、役場に入って社会教育に手を染めたのも、また最近になって定年退職したのも全て私が一歩先でしたが、まるで瓜二つのような人生です。

 特に印象に残っているのは私が第14回、あなたが第15回青年の主張の県代表になったこと、私が県公連の主事部会長、あなたが副部会長としてお互い公民館に命を燃やしたことなどが挙げられますが、青年時代から情熱あるあなたの生き様は終始一貫、今も変わっていないことに敬意を表します。

 お互い大いに酒を飲み大いに夢を語りましたが、残念ながらその付けが回り、二人とも酒が呑めなくなったことは悔やまれます。生まれ育った自分の足場となるふるさとへの恩返しは、今もこれからもひょっとしたらあの世までも一緒にやり続けることでしょう。積年の集大成を一冊にまとめると聞き、節分ながら一筆したためました。祝発刊。


  「地方から 東京見える この本は 田舎に生きる 心意気かも」

  「つぶやきも ぶつぶつだけで 終わらない 活字にすると ほらこの通り」

  「発刊に 寄せて寄稿の 文を書く はなむけなれど 拙文そしり」

  「本を出す 力試しと いうけれど 力量なくば やれぬものなり」


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