〇従兄弟「芳兄」ちゃんに学ぶこと
昨日私の従兄弟の西下芳雄さんに出会いました。西下さんは地元で材木屋を営んでいますが、若い頃から進取の気性が強く、裸一貫から身を起こし、製材業を営みながら焼き杉外壁材を発案して軌道に乗り、今は息子が取り組んだ2×4の輸入住宅がこれまた軌道に乗って、親子二代で20人余りの年少10億円を越える企業に発展させているのです。身内の端くれゆえ田舎では珍しい親子二代の活躍に内心喜んでいるのです。
昨日は一昨日金森さん宅でいただいた古い鍋の蓋を作るための板切れを貰おうと下灘の工場に出かけました。社長業を息子に譲り会長職をされていますが、数日前になくなった私の叔母と同級生ですから81歳になるというのにまだかくしゃくとして、こまごました作業をニコニコしながら働いていました。
私はこの従兄弟を「芳兄ちゃん」と呼んでいます。兄弟以上に気の合う、そしてお互いよき理解者でもあるのです。最近は私が夕焼けプラットホームコンサートを25年前に始めた下灘駅を、地元の老人会が花を植えたり掲示板を造ったりしていますが、その中心人物として地域貢献をしてくれているのです。
手先の器用な、それでいて材木屋なので掲示板や花活けなどいいと思えば何でも直ぐに作ってしまう行動派で、今では下灘駅の駅舎がすっかり見違えるほどになっているのです。彼の発案で置いている落書き帳「うふふ・・・」には様々な人生模様が綴られているのです。彼はこの落書き帳を読むのが楽しみだといいます。人生に疲れ降り立った、下灘駅のプラットホームで海や夕日を見て癒され、時には生きる希望を見つけたことまで書かれていると話してくれました。
最近この会社に嬉しいことがあったようです。息子の息子、つまり芳雄さんの孫に当たる後継者が跡を継ぐため帰ったようです。無から有を生み出した芳雄さん、有から有大を生み出した息子さん、有大から夢を持っているお孫さんと、私の叔父に当たる祖父の代から数えると4代目の孫は果たしてどんな人生を歩むのでしょう。
立ち話でしたが、日本の戦後の教育は向都離村の教育をよしとしたため、都会は発展し田舎は疲弊しました。自分の生業を卑下し、自分の住んでいる地域を卑下して都会予備軍を作ってきた付けに今頃気付いてオロオロしている田舎の姿を二人で色々と話しました。
同じ仕事を続けれませんでしたが、わが家も長男家族が今年度中に同居する予定であるささやかな喜びを話しながら分かれました。
鍋の蓋を作る板切れをいただき、自宅に帰って91歳の親父に「暇な時でいいから」と細工を頼みました。親父はこの二日間畑に出て、ジャガイモ畑の根寄せ作業を一生懸命してくれていました。老いてもなお元気に頑張る親父と私、そしてやがて帰って一緒に住むであろう息子や孫に思いを馳せた一日でした。
「直ぐ傍に 俺の見本の 人が居る 平凡生きろ 平凡生きる」
「跡を継ぐ 人あり俺は 幸せだ そろそろ息子 同居の準備」
「人様の 役に立つよな 人になれ 親父口癖 俺も口癖」
「俺にしか 出来ないことは 何なのか 未だ未熟で 答え分からず」