shin-1さんの日記

○私の今年の10大ニュース

 一昨日妻から、「お父さん、もうそろそろ年賀状の印刷をした方がいいんじゃないの」と言われました。ああそうかもうそんな時期かと遅ればせながら思いつきました。早速昨年の年賀状を引っ張り出しました。といってもパソコンに保存している昨年の原稿ですが、年賀状に印刷しているのは「あてところに尋ねあたりませんでした」と行き先不明で帰ってきたものです。

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 これがスキャナーに読み込んだ昨年の私の年賀状です。私は毎年このような年賀状を作成しています。友人の中にはもう目が薄くなり、「小さ過ぎて読めない」と不評を囲っていますが、「青春の履歴書」と書いた年賀状は私のその一年の生きざまなので変えようとも思っていないのです。「なんで青春の履歴書なんだ?」と問われれば、今より若いころの出来事は昨日でも全て青春と位置付けているのです。

 さて私の今年の10大ニュースはと、予定表を繰りながら抜き出してみました。人から見れば他愛のない出来事なのですが、それでも私にとってはこれぞ青春の履歴書なのです。

 ○1月5日  愛媛大学農学部客員教授の辞令を泉農学部長から受けました。

 ○2月24日 生まれて初めてオホーツク海の流氷の上に立ちました。

 ○3月19日 長年務めた愛媛地域づくり研究会議の代表運営委員を退任しました。

 ○4月4日  私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアGで、昨年の熊野古道に続いて世界遺産広

         島原爆ドーム・安芸の宮島・石見銀山を訪ねました。

 ○5月19日 四人目の孫若松奏心君が誕生しました。

 ○8月22日 人間牧場で地域マネジメントスキル講座2日間で15時間の集中講義を行いました。

 ○10月17日 人間牧場かまど小屋が完成し火入れ式を行いました。

 ○11月5日 私が書いた論文が明日の日本を創る協会振興奨励賞を受賞しました。

 ○11月7日 ノンフィクション作家佐野眞一さんを招き年輪塾公開セミナーを行いました。

 ○12月9日 愛媛大学法文学部非常勤講師として7年目の授業が終わりました。


 もっと価値のある項目があるのかも知れませんが、まあ今年一年も可もなく不可もない健康に恵まれた一年でした。講演も大小100回を超え多くの新しい出会いもありました。また今年10月3日の誕生日には目出度く65歳の高齢者になるなど、知力と体力、それに気力のバランスが微妙にずれ始めたことを実感しながら新しい歳を迎えようとしているのです。それでも今年は夕日徒然草・水の書も無事発刊し、来年度はいよいよ夕日徒然草・火の書発刊に向けて潜在能力を顕在化しなければならないと思う今日この頃です。

 妻の忠告を聞いて年賀状も印刷屋へ発注しました。あとは出来上がった年賀状の宛名書きです。


  「はて今年 わが身の上に どんなこと ページめくりて あれやこれやと」

  「字が細(こま)い 目薄い友が いつもいう 直す気などは さらさらなくて」

  「今年また かくてありなん 来年も 変わらぬように 生きて行きたい」

  「人見れば 他愛のないこと ばかりなり それでも俺にゃ それぞれ大事」 

 


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○無縁な世界での有縁

 世間狭しとばかりに日本中を毎日、うごめくように動く私ですがまだまだ無縁世界が多く、時々ハッとするような世界を経験することがあります。昨日もそうでした。今年の9月、少年院とでもいうべき松山学園からの依頼で四国管区の研修会に招かれたご縁で、昨日は松山調停協会の研修会に招かれました。裁判所で調停員として活動している人の集まりなので、一見無縁だと思われる世界なのでしょうが、「呼ばれたら刑務所以外何処へでも行く」と日ごろから言っている私なのに、どういう訳か裁判所内に事務局がある調停協会からの招きなのです。

 雨模様な天気だったので、会場となった松山第一ホテルへ少し早目に行きました。一回のロビーで新聞でも読んで時間調整しようと思い新聞を広げた矢先、私の従兄に声をかけられました。従兄は刑務官として全国の刑務所を転々とし、刑務所長をしていた縁で退職後調停員として活動しているのです。この日の研修会にも出席して、講師控室で私の話相手を努めてくれました。会場には無縁な世界なのに有縁な人が何人かいて、懐かしい声をかけてくれました。

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 講演が始まる前、私の紹介をする女性がやって来ました。ご主人は私と一緒にコープえひめの役員をしている向井さんで、わが家にも来られたことのある見慣れた素敵な女性です。私のホームページから引用したという講師紹介文を見て欲しいと言われましたが、私はそれほど偉い人間ではなく普通のおじさんでいいと言いつつ、適当にといってあえて読みませんでした。

 やがて向井さんの講師紹介で講演を始めましたが、向井さんの紹介言葉が耳の奥に残っていて、アドリブな話ゆえ、不思議なことにそのような流れで話が進んで行きました。講演は大盛況でした。日ごろ笑いと無縁の団体故笑いや拍手がとても新鮮に跳ね返って来ました。

 講演が終わると時節柄懇親会が予定されていて、私も末席と思いきや主賓席に案内されました。その席には地方裁判所長、家庭裁判所長、弁護士会会長、調停協会会長など、胸のバッジ輝く錚々たる人たちでした。調停協会の会長さんの気を見て敏なる話にも驚きました。

 もっと驚いたのは松山地方裁判所所長の祝辞です。いきなり先日私が主宰して開いた年輪塾に参加した話が飛び出しました。私は顔から血の気が引くのを覚えました。だって当日は80人もの人が集まり、どの人も自分の役職など伏せて一私人として参加しているため、まさか裁判所の所長さんが参加しているなどと努々思わなかったのです。所長さんは年輪塾、宮本常一、人間牧場ウォーク、鼎談、鱧弁当などを克明に覚えていて皆の前で私を紹介しながらユーモアたっぷりに話していただきました。穴があったら入りたいくらい恐縮してしまいました。

 酒宴が始まりたしなみ酒が配られましたが、酒の飲めない私はウーロン茶でごまかし、次の予定もあって早々に引きあげ、会場を後にしました。無縁な世界と思っていたのに有縁ありて、この日もまた深いご縁をいただきました。降り出した雨の中を立体駐車場までわざわざ送ってくれた従兄から、「今度21日には高知刑務所での講演、よろしく頼むね」と、早くも次の講演予定を確認され、無縁な世界が有縁な世界へと次第に広がってゆく様を実感しました。

  「無縁だと 思って参加 したものの 有縁ありて 多少驚く」

  「一私人 貫き参加 していたと 聞いてびっくり 縁はいなもの」

  「ネットから あなたのことを 調べたと 微細紹介 汗顔いたり」

  「聞き慣れぬ ゆえに新鮮 だったのか 爆笑拍手 あちらこちらで」

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○寄る年波とその生き方

 昨日は大学の授業も終わり、帰りにえひめ地域研究センターに立ち寄って19日に迫ったかまどイベントの打ち合わせをしたり、ギノー味噌の社長と打ち合わせをしたり、久しぶりに伊予市商店街の谷岡さんのお店に立ち寄ったりしながら午後はのんびりと過ごしました。

 途中一人暮らしの松前に住む叔母の家にも近況伺いに立ち寄りました。一昨年叔父が亡くなってから一人暮らししている叔母は在宅中でしたが、チャイムを鳴らしても玄関の戸を開けるために時間がかかるのです。一人暮らしといっても4~5軒先に息子夫婦が住んでいるのですが、ボイラー関係の自営仕事で三浦工業内に職場を持っている息子夫婦は夫婦で毎朝出かけ帰りが遅いため、叔母の隠居家に顔を見せるのは一週間に一度くらいらしく、叔母にとってはそのことが不満や不安のようでした。叔母に「叔母さん、私たちだって同じ敷地に住みながら、親父と顔を合わせるのは朝夕くらいで、先日も親父から『お前元気か?』と言われる始末で、こことおんなじだよ」と言うと、少し安心したのか納得の様子でした。

 叔父が元気な間は趣味が盆栽だったため、庭や屋根のベランダには無数の盆栽が並べられ、盆栽談義に花を咲かせたものですが、今はその殆どは消えてしまい、僅かに4~5鉢名残の盆栽が置かれていました。叔父は親父と兄弟だったこともあり骨董や木の置き物が趣味で、玄関から座敷にはこれまたわが家と同じような置き物が置かれているし、親父が譲ったものもあるのですが、これも中々手入れが行き届かないようでした。

 ひとしきり話をしましたが、忍び寄る老いや死に対する不安は歳をとれば誰もが持つものです。それは時として不満の言葉となって表に出てくるようですが、時々こうして訪ねて話を聞いてあげるだけで随分と心が晴れるものなのです。かくいう私も90歳を超えた親父と隠居住まいながら同居していますが、いざ自分の親父との関係となると言うは易し行うは難しといったところです。

 今朝は親父の隠居に行って叔母の近況を話してやりました。親父もおじの死後の叔母のことが気になっていたようで、少し安心して聞いてくれました。


 歳をとるとついつい引っ込み思案になってしまいます。「歳をとったのだから」という負い目がそうするのでしょうか、ついつい控え目になり、時には鍵をかけてひきこもりになったりします。幸いわが親父はその辺が上手いあんばいで、備えはしっかりしながら多くの人と交流を続けているようです。親父のそんな姿を見ていると、やはり何でもいいから無心に打ち込むような趣味を持つべきだと思うのです。親父は暇さえあれば自宅敷地内の家庭菜園で午前通は自然とともに三昧な農作業に精を出します。昼食午睡の後の午後は日曜大工や趣味の骨董品などをいじくりながら時を過ごします。ですから親父が何もしないでボーとして過ごしている姿は見たことがなく、四六時中手足や体を動かして、多分頭も使ってるのではないかと思われます。

 いよいよ高齢者の仲間入りをしつつある私も、親父の生き方を理想としながら老いを楽しく生き生き生きる計画を立てねばなりません。「あなたは歳をとっても大丈夫」と妻から太鼓判を押されていますが、私と親父の根本的な違いは、口は相変わらずの減らず口ですが手足を動かす回数が親父より劣っているのです。まず健康な体を造らねばと、最近布団体操なるものに凝っています。さてその成果は・・・・。


  「久方に 叔母を訪ねて 語り合う 老いと死不安 少し安心」

  「閉め切った 部屋で一人が 独り言 死んだ叔父との 返らぬ会話」

  「また来てね 見送る姿 どことなく 寂しかりけり 師走夕暮れ」

  「わが親父 歳の割には 生き生きと 俺の手本だ これから先も」

 

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○大学での7年目の授業が終わりました

 年間60時間という私にとっては途方もないように思える大学の授業も、一回2時間の授業を積み重ねながらやっと最終回を迎え、昨日最後の授業が行われました。毎年繰る返して行われる愛媛大学法文学部の授業も、早いもので今年で7年目となりました。同大学で準教授をしている娘婿に迷惑をかけてはいけないと思い、もうそろそろと身を引くことを視野に入れていますが、それでも請われるままにどうにか無事7年目を終えることができました。後は年末までにレポートを郵送で提出してもらい、採点して作業を終えるのですが、今年の学生も真面目目で全員が授業への出席はクリヤーしており、有り難いことなのです。

 昨日はグループ毎に取り組んだ資料に基づいて発表会がありました。4班に分かれて2枚の資料を作成し発表するのですが、資料の内容各5点、資料の美しさ5点、発表態度5点、総合評価5点、合計25点を持ち点として、それぞれが審査に加わる審査を実施し、今年のグランプリを決めるのです。グランプリを取った班には私のポケットマネーから1万円の賞金を贈るとあって各班毎に秘策を練り発表に臨みました。ただし自分たちの発表にはには審査投票できないシステムになっているのです。

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 発表は各班15分の発表時間と5分の質問タイムが設けられました。4人から5人の各班は班長さんを中心に皆が役割分担してタイムキーパーの私の顔色を覗いながら発表していました。教官である私にも審査の点数が与えられているので発表を聞きながら採点し、採点を集計しながら写真を撮るなど忙しい時を過ごしました。今年の学生の発表は資料の出来はいまいちながら内容はかなり深く、中にはこの資料を作成するためにわざわざ現地へ足を運ぶなど研究や苦労の跡が垣間見える班もあって聞き応えがありました。

 真剣な学生の学習態度に多少驚きましたが、それぞれの発表にショートコメントを加えて審査公表し、集計の結果を発表しましたが、私と学生の審査の結果が殆ど同じだったこともあってホッとしました。

 審査の結果3班がグランプリを獲得しました。成果が報われた思いがよぎったのかある学生は感極まって少しウルウルしていたようでした。授業の時間を大幅に超えた発表会は成功に終わりました。

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(グランプリに輝いた3班の学生たち)

 今年私が受け持った学生は2回生18人、3回生1人の合計19人でした。前期は毎週木曜日、後期は毎週水曜日の第2時限目が当てられ、法文学部本館4階のかなり広い404号室が当てられました。前期は毎月1回学識理事をしているコープえひめの理事会とバッティングして、大学の授業を優先しなければならないため、コープえひめの理事会をやむなく欠席すた時もありましたが、フィールドワークも松山市堀江地区、伊予市佐礼谷地区、内子町立川地区、それに伊予市双海地区を知人友人に助けられて実態調査することができました。

 また9月には学生たちを人間牧場やわが家に招いて、妻の料理でもてなす楽しい授業も行いました。学生たちは私の講義やそれぞれの場所でそれぞれのことを学んだことでしょうし、その思いはレポートに委ねられていますが、今年のテーマである「訪ねたいまちの条件」「住みたいまちの条件」を「もし自分だったら」という身近な視点に置き換えていいレポートを書いて欲しいし、今後自分が生きていいく上でのまちづくりへの積極的な参加参画を望みたいと思っています。


  「早いねえ 今年も終わり しみじみと 歳のせいかも しれない思う」

  「賞金を ポケットマネーで まかないて 祝儀袋に 入れて出かける」

  「極まって グランプリなる 賞金を 受け取る人の 思わずウルル」

  「肩の荷を 降ろし温泉 久しぶり ゆるりと心 リフレッシュする」  

  「


 

 

 

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○私は果たして妻にふさわしい夫だろうか?

 私がお酒をたらふく飲んでいた10年前までは、師走年末のこのころになると知人友人から幾つも忘年会のオファーがきて、連日連夜忘年会と称する飲み会に明け暮れ、松山から双海へ通っているのかと思われるほど、松山の飲み屋街を飲み歩いていました。当然酔いたんぼになった私は酩酊状態で妻に電話をかけ、10円タクシーといわれる妻の迎えを毎日のように要請していたのです。携帯電話などなかったころのことゆえ主流は電話ボックスからの連絡でしたが10円がなかったり、時には電話が通じず4時間半もかけて暗い夜道を家まで歩いて帰ったこともありました。

 飲んだ後だのに帰りにはラーメン屋に立ち寄って、体調から言うと自殺行為に等しい仕上げのラーメンとビール一本を要求したものでした。その頃の私は、私が主で妻が従だと手前みそながら思っていました。ゆえに私の主張を100パーセント押し付け、亭主関白ぶりをいかんなく発揮して、あたかもそれは亭主の威厳だなどと勘違いをしていたのです。今もその名残が残っているものの、その後酒を止めてから自分の意識の愚かさに気づいて随分意識と行動を改めてきました。

 夫婦円満の秘訣は主人たる私の働きと主張がなければいい、男女平等とは言いながら家庭を築くことはできません。子どもの養育、親との関係、近所づきあい、職場の人間関係、家庭の生活背設計など主人たる私に課せられた役割は余りにも大きいからです。でもだからといって私一人でそれらが上手く機能するはずはないのです。若いころの私は夫婦円満は私の意見に妻が合わせることを第一としていました。ゆえに私の意見に立てつく妻は悪い妻と思っていました。

 ところがやはり歳のせいでしょうか、最近になって「私にふさわしい妻」を求め過ぎていたことが、ここだけの話ですが少し分りかけてきました。これを妻の立場に置き換えてみると「妻にふさわしい夫」という考えも成り立つ訳で、そうすることの方が家庭が上手くいくような気がするのです。

 妻は私より一歳年下です。私が65歳ですから妻は64歳です。これまで殆ど病気もせず元気だった妻が最近になって肩が凝るとか疲れたという言葉を発するようになりました。無理もありません。女・妻・母などをやりながら未だに近所の歯医者へ勤めているし、少なからず90歳を超えた親父の面倒も見ているのです。加えて私のスケジュール管理や付き合いを一手に引き受け八面六臂の活躍をしているのです。


 私はその妻のために最近歯の浮くようなマッサージを時々してやります。ぎっくり腰になった折整体医院でやってもらうマッサージを見よう見真似でやるのです。これまでそんなことをしてやったことのない亭主関白な私がどういう風の吹きまわしか疑う節もあるようですが、妻は「随分楽になった」と喜んで甘んじているのです。

 そのためでしょうか、折に触れ頭に来ていた出来事も最近ではめっきり減って、家庭円満この上ないのです。私はリタイア飲みながら仕事がら忙しい日々を過ごし、今でも家にはほとんどいない状態、いわば「亭主元気で留守がいい」と同じ状態なので、当然妻の負担は多いのですが、それでも「妻にふさわしい夫」を目指して孤軍奮闘の涙ぐましい努力は今日も続くのです。

 今日は勤務先の先生の都合で休診だそうで、妻は久しぶりの休みなので病院へ検診に行くようです。私は大学の授業収めの日なのでこれから出かけ、今日も相変わらず夫婦すれ違いの一日になりそうです。

 「夫にふさわしい妻」も大事ですが、これからは極力「妻にふさわし夫」になるよう努力したいと思っています。


  「ちょっと待て 俺は果たして ふさわしい 夫であろうか 納得もせず」

  「歳のせい いやいや違う 心がけ 最近円満 心入れ替え」

  「肩腰を 揉みつつ見える 妻白髭 二本三本 私のせいで」

  「遅かりし いやいや今でも 遅くない いたわる心 グレードアップ」 

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○卓話のテーマが遊び心の創造とは

 私の高校の先輩に玉井さんという人がいます。宇和島出身の玉井さんは折に触れ出身地を何とか盛り上げたいと思って行動しています。しかし南予の中心地といいながら取りたてて大きな企業の少ない農漁業が主産業の宇和島は、愛媛県の振興策にも関わらず、長い不況のトンネルを抜けないでいるようです。玉井さんは司馬遼太郎の「坂の上の雲」で有名な旅館や、じゃこ天カーニバル、水産高校えひめ丸鎮魂碑などなどに深く関わり、この人ほど多方面にわたって宇和島と結びつく人はいないと思うほど役立っているのに、何故か余り認められていないのです。大村益次郎などと深く関わり明治維新には進取の気性で大きな足跡を残した旧宇和島藩なのに、何故か冷え込んで少しイライラしているのです。

 私は宇和島出身ではありませんが、若いころの三年間宇和島水産高校に遊学したためとにかく宇和島が好きで、昨年も全国地域づくり団体交流集会を宇和島へ誘致し、350人もの人を全国から集める実行委員長として度々宇和島へ赴き、いささかなりのお役に立ちたいと思い行動しましたが、終わってみるとあれから一年近く経つというのに、海の駅や真珠で少し話題を集めたものの、その効果は未だ見えてこないのです。

 その玉井さんから、宇和島地方出身の人たちで「がいな会」を再発足したいので、話に来てくれないかと誘いがありました。旧「がいな会」にも講演で招かれたことがありますが、その後鳴かず飛ばずの会を再興しようと玉井さんが事務局長になって初めての会だそうです。「初めに30分程度宅和をやって下さい」という話し以外は全くテーマも中身も知らされず、行く途中に玉井さん宅に立ち寄り会場まで乗せて行くことになりました。午後5時の約束通り玉井さん宅を訪ねました。玉井さんは松山市余戸に住んでいますが、書斎兼アトリエを持っていて、行く度にその非凡な才能が進化しているように見えました。先日二人展をやったばかりのアトリエは本人が書いた洋画っぽい絵が飾られ、見事に変身していました。年賀状の準備でしょうか大きな机の上は画集などで溢れていました。出窓のところにパソコンを置き、この日の資料を作成中のようでしたが、入れてくれたお茶を飲みながら待っていると間もなく準備ができて出発しました。

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 昨晩の集会はロープウェー街はずれの「おかん」という居酒屋でした。車を駐車場に止め歩いて2~3分のお店の暖簾をくぐり、奥まった座敷へ通されました。25人が座れるのかと見まがうほどの狭い場所でしたが、玉井さんは自分で和紙に書いた演題を壁に貼りました。「遊び心の創造 人間牧場主若松進一」と書かれていて、これはやばいと思いました。そのうち一人二人と集まりだし、6時半には殆ど満席となりました。時間通り会長のあいさつでスタートしました。私は即興で思いつくまま域も切らせず30分の卓和をやりました。反応は上々で、居合わせた顔見知りの横田県会議員も大きな声援を送ってくれました。30分は私にとって短いです。でも決められた時間、決められたテーマでで話すのがプロなので前座はまあ成功したように見えました。僅か1時間余りの短い時間での宴会は自己紹介や名刺交換に忙しくてんやわんやでしたが、玉井さんの肝いりで持参した「夕日徒然草」という本が22冊も売れて嬉しい成果を収めました。

 再開を約束しつつ、玉井さんを会場に残して店を出て帰路に着きましたが、昨晩もいい出会いの夜でした。


  「鍋つつき 会話も弾む がいな会 酔うほど増える なまり懐かし」

  「直前に 張り紙書いた テーマ見て 即興アドリブ 卓話を話す」

  「へえあんた あんなこんなか 弾む声 まるでハチの巣 つついたように」

  「本売れて ホクホク顔で 店を出る あの本今頃 ポケットぐしゃり」 

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○笑いの効果でお茶を濁す

 最近笑いのある暮しが健康に良いと言われ始めています。確かに人間は泣いて暮らすよりは笑って暮らす方が楽しいし、家に病人がいるだけでも家の中が暗くなるのですから、努めて笑いを誘うような暮しがしてみたいと思っているのですが、現実はそうそう笑ってばかりもいられないのです。

 ある友人から借金の依頼がありました。そんなに多い金額でもないので妻に相談して用立てることにしました。妻が言うのには「お金を借りる時は神様、返す時は悪魔みたいに思われるので、よくよく考えてお金は貸さないと」釘をさしました。というのも妻の実家は海産物屋をやっていて、妻が子どもの頃「印かずき」という連帯保証で財産が一変に吹き飛ぶほどの難儀をしたようです。その時以来金は「貸さない・借りない」を家訓にしたようです。確かにお金が欲しい時は藁おもすがる気持ちなので貸してくれる人は神様や仏様に見えるのです。しかし約束の期限を過ぎて取り立てられると貸してくれた恩など忘れて鬼にも蛇にも見えてくるのです。冷静に考えれば可笑しな話ですがこれが世の中というのでしょう。

 妻が用意してくれたお金はさして多くはなかったため、借用書など必要ないとお金を渡す時私はええ格好をしました。しかしその人は律儀にも借用証を作成して郵送してくれました。借用書に書かれた返済の日などすっかり忘れていたのに、その日が近くなると相手から返済期日延期の電話が入りました。どうしても返済金額が揃わないというのです。私はこれまたええ格好をして「いいですよいつでも」と話し、相手も嬉しそうに電話を切りました。あれから何ヶ月か経ちました。昨日妻が「お父さんあの貸したお金はどうなったの?」と聞かれました。妻は自分の家計簿にちゃんとそのことを記入しているのです。「相手の都合もあって待って欲しい」そうだと、その場は逃れましたが、私も昨晩そのことが妙に気になり始めました。机の引き出しに入った郵便で送られてきた借用証を見るともうとっくに返済期限は過ぎているのです。


 今朝朝ご飯を食べながら妻が、「お金は貸す時返らない、つまり差し上げたものくらいに思わないといけない。相手を憎むより、自分が貸す時にどんな態度で貸せばいいのか考えないといけない。多分貸したお金が返らないとその人との付き合いも終わるからね」とやんわりやんわり諭されました。耳の痛い話しながらさすが商業科を出ている妻の話は説得力があると、改めて妻を見直しました。

 そのあと妻に新聞に出ている川柳の幾つかを読んで聞かせて笑いを誘い、お茶を濁すように濁ったお茶を飲みました。笑いはストレス発散作用、免疫機能改善効果、自律神経バランス調整作用、血糖値上昇予防、気分改善効果があるそうです。なるほど私は笑いを誘発する天才ではありませんが、私のやってる落語ならぬ落伍や、親父ギャグならぬ駄洒落もまんざら捨てたものではないと、人助け効果を自画自賛しました。降ってわいた借金の話も、妻に内緒にせずオープンにしていたからこそ笑い話になったのです。まああの借金の件は笑って終わりにしましょうか。

  「借金は 借りる時には 神仏 返す時には 鬼か蛇か」

  「何事も 自分で決めず 相談す 今度のことで 肝に命じる」

  「食卓で 借金さえも 笑いネタ 笑いの効果 どれほどあるか?」

  「ええ格好 し過ぎていつも 苦戦する お人よしとは 俺のことかも」

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○新聞取材で気がついた私の発想の原点

 「若松さん、双海町の夕日をテーマにしたまちづくりについて取材したいのですが・・・」と電話がかかってきたのはもう2カ月も前のことです。多分どこかで先で電話を受けたような記憶があるのですが、自分の予定表にも書いてないし、その後何の連絡もメールも届いていないのでそのことすらすっかり忘れていました。ところが一昨日、「7日午前中だったら何とかというお約束でしたので、大阪から当日の朝そちらに参りますのでよろしくお願いします。多分11時には到着できると思いますので、シーサイド公園でお会いします」というのです。講演に行く途中の車での電話受け答えに、まるで狐につままれたような気持ちでした。早速自分の予定表に目を通しましたが、確かに午前中は予定が空いていて、そこへ?マークが付けれれているのを見つけました。間一髪もう少しで予定を入れるところでした。

 このところ忙しくてシーサイド公園へも覗かなかったものですから、少し早目に家を出てじゃこ天のお店や特産品センター、魚屋さんに立ち寄り雑談に講じました。シーサイドでは間近に迫ったクリスマスの飾りつけの真っ最中で所長さんや従業員が一生けん命電飾を取りつけていました。また特産品売り場の電気をハロゲンから省エネタイプのLEDに帰る工事も行われていて、開業以来15年経ったことを物語るようにあちらこちらに工夫の跡が見えるようでした。

 11時少し過ぎに報知新聞の田中さんという記者はやって来ました。所長さんに了解を得て事務所横の応接室を借り、取材に応じました。「まず夕日を地域資源に生と思ったきっかけからお聞きしましょうか」と、取材の王道である5W1Hについて、撒き返し繰り返し聞かれました。私の話は講演なのでも話していることなので、相手がどんな記事にしたいのか探りながら、相手のメモを取るスピードに合わせてお話をⅠ時間ばかりさせてもらいました。

 聞けばこの記者は今は伊方町と合併した旧瀬戸町足成出身だそうで、どうりで目のつけどころが違うなあと思いました。「ところで若松さん、あなたの発想の原点は」と聞かれました。その時思ったのですが多分私の発想の原点は子どもの頃、人間牧場のあるみかん畑から海や空を見つめ、「海の向こうに何があるのだろう。いつかあの海の向こうまで行ってみたい」と思っていたことかも知れないのです。そのことがきっかけで青年の船でアメリカへ行ったり、水産高校の練習船で南太平洋へ行ったりして、私はその通りの人生を生きて来たのですから、まさに発想の原点なのです。そしてそれらの旅で潜在能力を蓄積し色々なきっかけで顕在能力となったのです。

 ゆえに人間の育つ環境は大事だと思いつつ、自分の子どもたちが私と同じ町で育ちながら、育つ環境から何を学んでいるのだろうかと少々疑わしくなりました。私の育ちの環境は戦後という時代背景、しかも半農半漁という職業環境、さらには5人兄弟という家庭環境などが微妙に絡み合っているのです。それらは子どもたちの世界には殆どない環境ですから、影響を受けることは殆どなかったのです。それでもまあ平凡ながら人間として育っているようなので良しとしなければなりません。

 取材を終え、恋人岬でスナップ写真を撮影して1時間半ほどの取材は終わりました。夕日や菜の花、水仙などの写真は市役所支所の観光担当にお願いすることで一件落着です。第一線を退いて早4年半余り、取材依頼の度に別の人をと思うのですが、役所に聞けば「そのことなら若松さんに」といつも振られてしまうので、仕方なく応じていますが、いつまで続くのでしょうか。今私に最も注目が集まっているのは「人間牧場」に関することです。夕日も最初は夢でした。勿論人間牧場も夢でした。でも夢を一つ一つ実現する、つまり私の持論である「夢はドリームではなくターゲットである」を地でゆく、しかも自分が資金を出してまでやっていることの意味は、これからも大いに語って行きたいと思っています。


  「発想の 原点聞かれ ハッとする 海の向こうに 何があるのか」

  「もう取材 終わりと思い 応じるが 人間牧場 幾らも語る」

  「環境が 人をつるか なるほどな 田舎に生まれ 良かった思う」

  「予定表 ?マークが ついていた 俺も歳だな 忘れてしまう」

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○千町の棚田の里を訪ねる

 講演会会場の中ほどに見覚えのある高橋啓一さんの顔姿を見つけたのは講演が始まってほどなくでした。90分の講演期間中ずっと話しながら、高橋啓一さんのことを時々考える余裕があるのですから、私もええ加減な男なのです。やがて講演や質問タイムが終わると高橋さんは私の傍にやって来て、「今日これからのご予定は?」と聞くのです。頭に入っている今日の予定だとこの後アトラクションを観て懇親会が5時ころからあることを告げると、時計を観た高橋さんは「急げば間に合うかもしれませんね」と言って、日ごろから熱望していた千町の棚田見学へ連れて行ってくれるというのです。善は急げとばかり高橋さんの車に乗せてもらい片道20分の道を走りだしました。やがて車は加茂川を見下ろす離合が難しいようなつづら折れの道を進んで行きました。「山道は登り優先」とばかりに進んで行くと古びた石垣が幾つも見えてきました。高橋さんはこの地域の出身ではありませんが、蕎麦を栽培する場所を求めてこの地域に行き着いたらしく熟知していて、見せたい風景の場所になるとゆっくり走りながら車窓の風景を説明してくれました。

 かつては3千人も住んでいて小学校も中学校もあった千町地区も今では28戸程度になり、しかも子どもゼロゆえ小学校も中学校も廃校になって久しいそうで、棚田の見事な石垣も殆どは既に草に埋もれていました。送電線の鉄塔の下に「あそこが私たちが蕎麦を育てている畑です」と指差す方向を見ましたが、既に蕎麦は刈り取られそのあとに生えた青草がどこか新鮮に見えました。

 「この石積みは長曾我部元親の四国征伐で入った元侍が積んだためお城の石積みに似ていると言われるだけあって、草むしているものの立派な石垣が何処までも続いていました。目を閉じても当時の姿を思い出すことは出来ませんが、高橋さんの説明を聞きながら一つ一つの石を積んだであろう血と汗の思いを容易に垣間見ることができました。

 地区の入口には木をくり抜いて出来た常夜灯がまるで宮崎駿の世界を思い出すように建っていました。

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 行き止まりまではまだ道は続いていましたが、途中で引き返し小学校跡地へと向かいました。跡地の入口には往時を示す門柱に学校のな名前が苔むして見えました。敷地は綺麗に耕され野菜が植えられていましたが、その横の二宮金次郎と像は草に埋もれていました。高橋さんは委細構わず藪に分け入り踏みつけ、私のために道を作ってくれたものの、私の背広やズボンには無数の泥棒雑草が付着し、まあお見事な姿になりました。

 思い出しましたが、かつて西条市加茂公民館の女性館長だった上野さんが「私の地域には畑の真ん中に二宮金次郎の像が建っている」と話していたのです。その像は凛々しい姿ながら焼き物で台座と像は風雪で傷み今にも崩れ落ちそうでしたが、像を壊さないように気をつけながらこの日「人に言わないように」と約束して講演で述べた、二宮金次郎の読んでいる本の撮影を試みました。陽が西に傾きかけて逆光でよく判読できませんでしたが、確かに中国の古書大学の「一家仁」の文字がかすかに見えました。本当は炊く本を取りたかったのですが、時間的余裕も許可もなく残念ながら金次郎の像に再開を約束しお暇を願いました。

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(千町小学校の門標)
若松進一ブログ

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 ついでにと加茂中学校跡地も見学し山を下りました。途中行きも帰りも猿の群れに遭遇し、イノシシや猿の被害に悩む農家の苦悩も聞きましたが、棚田百選にも匹敵するこの農業遺構はまさに産業遺産ではないかと、日本の農村がすたれて行く姿に日本政治の貧困を垣間見ながら胸が熱くなるのを覚えました。

 とっさの出来事だったので何の予備知識も持たないまま高橋さんに迷惑をかけてしまいましたが、降ってわいた千町棚田の見学は、私にとってとてもいい思い出となりました。出来ることなら早い機会にもう一度千町を訪ねじっくりと地区内を歩いて見たいと思っています。高橋さんに感謝しつつ山を下りました。

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(加茂中学校跡地)
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(案内していただいた高橋啓一さん、蕎麦の名人です)

  「じゃあ行くか 急思いつき 山登る 猿友だちと 間違がったのか」

  「驚いた 高台続く 石垣は 棚田百選 どころじゃないな」

  「三千を 数えた人も 今はなく ただひっそりと 石垣のみが」

  「雑草に 埋もれし里に 金次郎 よくぞ生き延び すっくと立って」 

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shin-1さんの日記

○昨日も忙しい一日でした

 昨日は寒い一日でした。出会う人ごってに「今日は寒いねえ」と首をすくめ足早に去って行きました。私も見えや外聞など気にせず高齢者らしく、若い者に笑われそうなパッチを履き、防寒の準備万端怠りなくして戸外へ出ました。パッチを履いたことをブログに書いた時、少し早目だったこともあってメル友の谷岡さんから「癖になりますよ」みたいなメールが入っていたことを思い出し、一人苦笑しましたが背に腹は代えられないと、妻が強引に履くよう勧めるので仕方がないのです。でもお陰で随分温かく助かりました。

 松本宏さんとの約束時間を終えて人間牧場を下りました。人間牧場近くの布田のおばあちゃんが亡くなったことをその日の朝新聞のお悔やみ欄で見ていたのですが、残念ながら私が葬儀に出席することができないので、香典袋に名前を書いて仕事休みの妻に頼みました。急いで自宅へ引き返し乗用車に乗り換えて西条へ向かいました。昨日は西条市神拝公民館建設15周年の記念講演に招かれていたのです。


 高速道路の周辺も名残の紅葉が綺麗でしたが、トンネルの出口には「強風につき出口注意」の電光掲示板がトンネルを出る度に目に入り、少し抑え目のスピードで走りました。伊予インターチェンジから乗って小松で降りました。そこからは一般道路を通って西条入りです。

 12時前カーラジオの音声に懐かしい人の名前を聞きました。「和歌山県田辺市に住む野久保洋子さんからのお便りです。野久保さんの生まれた和歌山県古座川町ではコウノトリが住み着いて、ちょっとした話題になっています。いいことがあるといいですね」と短いNHKアナウンサーの言葉でしたが、このお便りの主は私の弟嫁のお姉さんなのでびっくりしました。早速車を安全な路側帯に止めて弟嫁に電話しましたが、あいにく出ませんでした。講演が終わって会場でアトラクションを観ていると弟嫁から返信の電話がかかってきました。弟嫁にしてみればわが家には92歳の親父がいるのでひょっとしたら何か変わったことでもと思ったのでしょう。私がいきなり「今西条です」というと相手は「えっ斎場?」と言葉を勘違いして驚いていましたが、「その斎場ではなく愛媛県西条市」と言い返し大笑いをしました。日本語は難しいものです。短めながら久しぶりに弟嫁の声を聞き近況を聞いて安心しました。

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 さて15周年記念事業には満席になるほどの沢山の人が集まっていました。前日担当の主事さんから100人を超す申し込みがありますと事前電話が入っていたので気を引き締めて楽しいお話をさせてもらいました。会場の参加者の中にはちらほら知人友人もいて、目配せや手を振って合図をしてくれました。会場の反応もよく講演後は質問もありました。かつて県民生活課の課長だった妻鳥さんも応援の質問をしてくれました。

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 その後アトラクションの時間の間に西条市に住む年輪塾ネットの仲間である高橋啓一さんの案内で千町へ出かけ引き返してみるとまだアトラクションの最中でした。詩吟や子どもたちの創作ダンスの躍動感を感じる立派なアトラクションでした。終わると早速懇親会が始まりました。前に座った教育長さんと名刺交換などして賑やかな懇親となりましたが、私はお世話になっているじゃこ天おばさんの代表である冨岡喜久子さんのご主人が急逝したという妻からの知らせを受け、急いで高速に乗って引き返し、小網自宅の通夜会場へ向かいました。84歳の往生ですが、安らかな死に顔を眺めながら人の世のはかなさを思いました。2~3日前国道沿いを散歩していたご主人を見かけていたから余計にそう思いました。

 「お父さん、今日も忙しかったね」と妻が迎えてくれた師走最初の日曜日でした。

  「風注意 トンネル抜ける その度に 電光掲示 スピード落としつ」

  「懐かしき 顔々こちら 向きサイン 嬉し恥かし 講演会場」

  「西条を 斎場だとは 参ったな 日本語難し 聞いただけでは」

  「15年 歴史の重み 感じつつ 関わる人の 懐古の話」

 

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