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○孫朋樹が押し入れで一人寝しました

 昨日岩国から帰ってみると、わが家に娘が孫二人を連れて泊まりに来ていました。小学校一年生になった孫も学校の生活にも少し慣れたため余裕ができたようですっかりお兄ちゃんに変身していました。私が帰った頃にはもう夕食も終わっていて後は一緒に風呂に入りたいと待っていました。

 私も急いで夕食を済ませ一緒にお風呂に入ることにしたのです。孫のお目当ては妻が買ってきていたシャボンだがを風呂を入りながらすることのようで、頭と体を洗ってから風呂場でシャボン玉を飛ばして大はしゃぎです。いつも思うのですがシャボン玉はどこか夢があって大きいのを作ったりすると、風呂場は湯気の上昇気流の働きで天井近くまでゆっくりと上がって行くのです。

 シャボン玉ができる度に拍手をしたり大笑いをして、風呂場で思いきり楽しみ、私は少しのぼせるほどでしたが、束の間の孫との遊びは一日の疲れを忘れさせてくれるに十分でした。

 やがて、9時になり修身の時間です。孫朋樹は何を思ったのか、寝室の布団を出して空いた押しれの上段に入って一人で眠りたいというのです。これまで押し入れは怖いものとばかり思っていた孫が何の心境の変化でしょうか。早速押入れに布団を敷いて枕を用意してやりました。そして布団をかけてやると、昼の疲れがあるのか3分もしないうちに夢の世界へ旅立ってしまいました。どうせ夜には怖いと起きてくるだろうと思いきや、ぐっすり朝まで寝込んで朝を迎えたのです。

 朝6時ころ起きてきてさも得意そうに押し入れの中で寝たことを自慢げに話していました。これまで寝る時は母親一辺倒だったのにすっかり自立して頼もしい限りです。

 今日は朝から親父に頼まれて午前中玉ねぎとジャガイモの収穫作業をしました。風も適当にあって直射日光は強いものの、日陰に入ると少し肌寒いくらいで、作業は順調に進みました。わが家の今年のジャガイモは男爵ではなくメークインという品種しか植えておらず収穫は今一でしたし春先の少雨の影響で玉ねぎも玉太りが悪いようです。

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(収穫前のジャガイモ畑)

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(孫朋樹も手伝った収穫作業)
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(孫朋樹が書いたカブトムシのお墓)
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(お祈りをする孫朋樹)

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(孫尚樹は庭でサッカーに夢中です)

 孫朋樹はジャガイモの収穫を手伝っていましたが、そのうち昨年の虫籠を引っ張り出して、カブトムシの死骸を畑の隅に埋めてやるのだと手スコップで穴を掘り、丁寧に埋めていました。かまぼこの板が見つからないため、親父に頼み込んで板の切れ端を貰い、マジックインキで「かぶとむしのおはか」と書いて立て、両手を合わせてお祈りをしていました。長閑な5月最後の日曜日でした。


  「押入れに 一人寝るとは 凄いこと 孫も自立の 道を歩みぬ」

  「ジャガイモの 収穫作業 親父孫 私を含め 初夏の一日」

  「夏が来た 虫籠中に カブトムシ 死骸懇ろ お墓作りて」

  「汗だくで サッカーボール 蹴つる孫 格好つけて ゴールいいつつ」 

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○梅の実の収穫作業で体が痛くてだるい

 昨日は山口県岩国市への往復の間、「どこか体がいだるく、体が痛いのはなぜだろう」と思っていました。それもそのはず、金曜日に県立中央病院の待機健康診断に行き、血液検査や診断の結果が良かったため、ルンルン気分になって、11時にわが家へ帰宅するなり人間牧場の梅林へ、軽四トラックにキャリーを積んで梅の収穫に出かけたのです。今年は梅が不作のようで人間牧場の11本梅の木のうち、お休みのような殆ど実がついていない木もあって、収穫量は豊作でも不作でもない普通でした。

 前日雨が降り収穫を危ぶんでいましたが、幸いなことに薄日の差すまずまずの天気に恵まれ、梅の実の収穫に挑戦しました。猿年の私はまるで猿のように梅の木に登って枝から枝へと移って行くのです。「桜切る馬鹿、梅切らん馬鹿」昔から言われるように、梅は剪定をしないといい実がつかないそうですが、人間牧場の梅林は剪定をしたことがなく伸び放題なのです。それでも毎年コンスタントに実をつけてくれているのです。

 梅の木はやたらと堅いトゲがあって、地下足袋をはき少し厚手の服を着て完全防護をしたつもりでも、容赦なくトゲが体に突き刺さって痛いのです。体中に引っかき傷が無数にできて、まるで切られの四三郎のような感じになってしまいました。

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 慣れない作業は途中休憩をしたものの夕方6時まで続きました。小さな梅を一つ一つたった一人で、しかも木に登ってもぎ取るのですから時間がかかるはずなのです。それでも20キロキャリーに4つですから80キロ弱といった感じです。これを坂道を車まで運ぶのがまた一苦労で、体力が減退している私には大変な作業でした。ふとこれから先のことが思いやられましたが、収穫した梅の実が予想以上に多かったため、体にこたえたことなどすっかり忘れていたのです。

 歳をとったら疲労はむしろその時よりも明くる日から症状が出始めるのです。案の定今でも少し体がだるく、とげで痛めた傷に妻が薬を塗ってくれたものの少し違和感があって、「ああ俺も歳だなあ」と思うのです。


 今日は仕事の合間を縫って何としてもこの梅の実を処理しなければなりません。梅酒と梅干しに自家加工する予定です。梅酒のビンを確保するため昨年と一昨年に漬け込んでいる梅酒のビンから梅酒を一升瓶にジョウゴ使って移し替える作業からしなkればなりません。また梅干しは専用のポリ容器に15%程度の減塩にして漬け込むのです。15%にするには腐敗防止のために、また梅酒も子どもが飲むため焼酎を使わない梅ジュースにするため少しだけホワイトリカーを振りかけるのです。こうすれば具合のいい梅干しと梅酒が半年後には出来上がる算段です。

 私はこれまで梅酒や梅干しづくりは妻の仕事にしてきましたが、リタイヤして自分の時間が自由になったのを機に、人間牧場で収穫した梅の加工は妻の協力は得ますが、できるだけ自分でやるようにしています。そうすることが人間牧場の趣旨にもあっているからです。

 私の夢は人間牧場というブランドの梅干しと梅酒を作ることです。今年は人間牧場のレッテルを作って梅酒のビンに貼ってみたいと思っています。既に2年分の梅酒が倉庫の中で眠っていますので一升瓶に換算すると50本くらいは取れそうなのです。そしてその梅の実をジャムに加工することを考えていますが、今年はいよいよ釜戸小屋も着工する予定なので夢は膨らんでいます。ああやりたいことがいっぱいあって忙しいですねえ。足腰が痛いなんて言ってはいられません。


  「足腰が 痛いが何故?と 思いきや それもそのはず 慣れぬ作業で」

  「まるで猿 枝から枝へ 飛び移り 梅の実もいで 袋に入れぬ」

  「今年こそ 牧場名の レッテルを 張ってブランド 梅酒作りぬ」

  「上出来の 梅酒凍らせ 口運ぶ さわやか香り 口に広がり」


 

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○今年度3回目の山口県への旅

 最近は山口県に何かとご縁があって、今年度に入って3回も山口県入りとなりました。三津浜から防予汽船に乗って山口県入りするのですが、対岸の目見えるような場所なのに島々の間を縫うように走るフェリーには、往復5時間も船に乗らなければならないのです。でも逆にのんびりとした船旅ゆえに座敷席に陣取ってゆっくりと昼寝をむさぼったり、本を読んだりすることができて、私にとっては決して嫌いな航路ではないのです。

 普通山口県へ行くのには柳井港から山陽本線で新山口を目指すのですが、今日の会場は山口県でも最も東にあり、広島県との県境に位置する所なので、柳井港から上りの各駅停車に乗りました。かつては三津浜から岩国まで高速船が走っていて、私も度々利用しましたが、今はその高速船も赤字で廃止となり、三津浜と柳井港間がしか交通ルートはないのです。車窓に広がる瀬戸内の海はべた凪で穏やかな瀬戸内の海が車窓から見えました。沿線はただ今田植えの真っ最中でしたが、岩国の郊外に入ると一面レンコン畑が広がって、レンコンが岩国の特産品であることを誇示しているように見えました。

 岩国駅には担当者が既に迎えに来ていて、車で会場入りして昼食をいただきましたが、岩国寿司もレンコンも美味しく頂きました。聞けば生涯学習係長の野村さんは若いころ、国立大図青年の家で20数年前に開かれた青年指導者養成講座で、私の話を聞かれたそうで、今は山口県の和太鼓連盟の会長さんをされていて縁の不思議を感じました。

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 束の間の時間を割いて会場から1キロ足らずの錦帯橋の見学に連れて行ってもらいました。k錦帯橋のすぐ近くにある石人形という珍しいものを展示している場所に初めて案内してもらいました。鏡川の石に付着したカゲロウの一種、つまり川のみの虫と同じようなものなのだそうですが、これがまた1センチほどなのに見方によっては様々な人間の形に見えるから不思議です。大名行列などにアレンジしていましたが、実に見事な作品でした。4月には錦帯橋の橋の上から桜を眺めましたが、今日は燃えるような新緑と錦川の清流が錦帯橋に映えてまぶしいくらい光り輝いて見えました。

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 何年か前、岩国市と平成の大合併で合併した美川町を何度か仕事で訪ねたことがあります。合併後の自治について考えるものでしたが、今日は私が岩国にやってくることを察知した、旧美川町の前町長さんと旧友の岡元課長さんがお揃いで、私の講演を聞きに来てくれました。2年間も通った町なのでお二人の顔を見た瞬間懐かしさで涙が出そうになりました。岡さんは腰の具合が良くないと風の噂に聞いていましたが、お二人ともお元気そうで何よりでした。

 今日はいわくに市民活動センターが主催する登録団体交流会と公開講座でしたが、会場には各団体の方々が沢山集まっていました。午後1時30分から1時間30分お時間をいただいてそれなりの熱のこもった話をさせてもらいました。

 先を急ぐため講演が終わると野村係長さんに岩国駅へ送ってもらい、スムーズなダイヤ連絡で周防大島大橋の下をフェリーで再びくぐり、三津浜を経て家に到着したのは午後8時ころでした。

 清水さんとメールをやり取りしながら横目に見える周防大島や民族学者宮本常一に思いを馳せたのんびり長閑な旅でしたが、出会いや再開もあって今日はいい一日でした。


  「懐かしき 人に出会って 過ぎ去りし 日々を思いつ 少し感傷」

  「錦帯の 橋の向こうに 見える山 緑燃え立ち 遠望借景」

  「レンコンが 特産品と 聞いていた 車窓広がる ハス見納得」

  「いつ見ても 匠の技の 凄かりし 錦帯橋の 見える場所立ち」

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○一枚の写真

 年輪塾ネットに参加している西条加茂蕎麦倶楽部の高橋啓さんが、時々近況報告として送信してくれるメールを読みながら、楽しい生き方をしている人だとしみじみ思うのです。高橋さんとは何かの集会のついでにまだ一度しか出会ったことがないのですが、その折肩掛け流しの布製袋をいただいていて、とにかく遠く離れていても気になる人なのです。棚田を開墾して仲間と蕎麦を作り、その蕎麦を打ちながら豊かな自然の中で自然に暮らす姿は、私の理想とする生き方だけに、一度は蕎麦畑や高橋さんの暮らしぶりを見てみたいと思っているのです。

 高橋さんが自然派だと思うのは、年輪塾ネットで流すメールにいつも身の回りの自然を写した写真が何枚かさりげなく添付されています。その写真は原風景であったり草花であったり、加茂蕎麦倶楽部の活動写真であったりするのですが、その写真を見る度にどこか昔の郷愁を覚えるのです。

 写真は自分が被写体を撮ろうと思わなければ成立しないのです。つまり暮らしの中で「ああ草花が咲いている。美しい」とか、「ああ今日は石鎚山が見える。綺麗だ」、「そうだ、写真を撮ろう」と花や風景に心を動かすからなせることなのです。

 先日年輪塾ネットに流された高橋さんの記事に添付されている写真の中に一枚珍しい写真を見つけました。ご存じ旧丹原町に住むちろりん農園主の西川さんが写っていたのです。私はパソコンの操作が苦手で、メールに添付して送られてくる写真を取り出して利用する方法は息子や清水さんに教えてもらっているものの、覚えることができず、いつも失敗ばかりして結局取り出せないことが多いのですが、この写真はどういう訳か一発でブログ転載ができたのですから驚きです。

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 ちろりん農園の西川さんとも最初何処で会ったか定かではないのですが、その後私の主宰するフロンティア塾に参加してくれたり、私を「ししょ~う」と呼んでくれたり、はたまた彼の出版した本と私の自著本に寄稿しあったり、とにかくつかず離れずのいい関係を保っているのです。

 この写真には西川さんが自宅の横に設置しているゲストハウスでくつろぐ、西川さんの姿が写っていますが、その後ろに「第二縁開所」と書かれた看板が見えます。これはゲストハウスができた時に私と家内が案内されて訪問した時持参した看板なのです。看板の板も書家である叔父に頼んで書いてもらった文字も全て私のプレゼントなのです。私の家の横にある「私設公民館煙会所」が第一ならば、さしずめこのゲストハウスは第二だと思ったし、西川さんには「煙会所」より「縁開所」が似合うと思い命名したのです。

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(煙会所の看板もすっかり風格ができました)

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(色々と変遷がありましたが、煙会所は今も健在です)

 西川さんとはもう随分出会っていませんが、私の紹介でい愛媛新聞社のシニアサイト「自悠くらぶ」に一ヵ月に二回「ちろりんだより」という記事を書いてもらっているし、手書きのちろりん便りを時々送ってもらっているので、出会わなくても近況は手にとるように分かるのです。

 写真を見る限り若かった彼もいい歳になったようですが、高橋さんと同じく彼の生き方も自分らしくて、見習いたい所が沢山あるのです。


  「添付した 写真の中に 懐かしき 看板発見 あの日あの頃」

  「あと戻り できない歳に なったなあ 過ぎ越し日々を 懐かし思う」

  「影響を 受ける人あり 幸せと 見習いたいが 自分にゃできぬ」

  「わが家の ゲストハウスも 健在で 訪ね来る人 未だに多く」

 

 

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○結婚式の引き出物

 警察官をしている息子が友だちの結婚式に出席するため帰ってきました。妻にしてみれば県内に勤務し県内に住んでいながら年に一、二度しか帰省しない息子なので、色々と話もしたいし美味しいものも食べさせたいと思っていたのでしょうが、結婚式が終わると友人たちに会いに出かけ、暇さえあれば日頃の疲労を癒すようにゴロンと横になって寝ているのです。妻にとってはこれが不満のようで、仕事の話や結婚話などちょっかいはかけるものの、相変わらず心がかみ合わないまま帰って行きました。

 息子は結婚式でいただいた引き出物も全て家に置いて帰りましたが、最近の引き出物はカタログ本の中から選んで同封の葉書を投函すれば早速ギフトの会社から商品が送られてくるのです。妻は虫眼鏡でカタログをめくりながら「お父さん何にする」と相談を持ちかけられましたが、考えも浮かばず「お前に任す」であっさり幕が引かれました。

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(送られてきた結婚式の引き出物の寝袋)

 数日後一個の宅配便が届きました。はてさて誰から?と思って開けてみると、中から寝袋が出てきました。妻はギフトを選ぶことができず、結局帰宅した長男に選んでもらったところ、「お父さんの人間牧場で使う寝袋にしたらどうか」と助言を受けての注文と相成ったようです。

 人間牧場の水平線の家には屋根裏部屋のような寝部屋があって、夏になると物好きな人たちがやってきては酔いつぶれて泊まるのです。殆どの人は寝部屋どころかそこら辺にゴロンとなって寝るのですが、夏のことゆえ毛布やタオルケットで間に合うのです。私も水平線の家のロフトに何度か泊まりましたが、やはり寝袋があると随分助かるのです。早速利用しようと思っていますが、まるでみの虫のように寝袋に体を入れて眠るのは、何となく冒険に出た少年のようでワクワクするのです。水平線の家には私専用の屋根裏部屋があって、息子が用意してくれた私専用の寝袋があり、これまでにも孫朋樹と昼寝を楽しんだことがあり、大きくなりつつある孫たちとこの寝袋を使いたいと思っています。


 結婚式の引き出物といえば、私はこれまで結婚披露宴の司会を537組やっていますが、その都度引き出物をいただき正直な話置き場所に困った経験を持っています。結婚する当事者からすれば記念に差し上げるものには相当気を使うのでしょうが、陶器類や鍋など沢山あり過ぎてもどうにもならないのです。○○家などと名前を書いていないものは、イベントのチャリティバザーに寄付をしたりしましたが、まだまだ家の倉庫にはそれらが捨てることもできず所狭しと占拠しているのです。

 私たちの年齢を考えればもうそんなものを日々の暮らしに使うことはないものと思われ、次男や三男が結婚する時に持たせようと妻は考えているようですが、息子たちも「そんなものは要らない」ということでしょう。

 高度成長時代の引き出物にはプラスチック類が多く、これも捨てるのには一定のルールがあって捨てきれません。そこへ行くとカタログで選ぶ引き出物は時代を反映した賢明な方法だと思うのです。私が先日出席した結婚式はむらおこしに一役買ったであろう地元の特産品でした。


  「引き出物 カタログ選ぶ 時代です 迷った挙句 寝袋届く」

  「倉庫には 使うことなき 引き出物 山と積まれて わがもの顔に」

  「引き出物 分厚カタログ めくりつつ どうせ安物 なんて失礼」

  「嬉しいな 寝袋届き 早速に 広げて中に 実験入る」

 

 

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○現代生類あわれみの令

 「犬や猫を飼うのが悪いというのではないのです。しかしつい最近のペットブームはどこかむなしさを感じ気になりますね」とは、ある主婦の話です。その人の話によると町内のある集落では、少子化の影響で子どもが数えるほどに減ってしまい、子どもの顔を見ることも子どもの声を聞くことも殆どなくなったと嘆いていました。と同時にいつの間にか若かった人たちもみんな歳を取って、会いさえすればひざやすねや腰が痛いと嘆き節を口にして、歩いたり座ることすらおぼつかず、病院のロビーはその人たちに占拠されているのです。

 そしてこの主婦が言うのには、歳老いた家ではこの10年間で犬や猫を部屋の中で飼う人が軒並み増え、犬猫の鳴き声のしない家は殆どないのだそうです。それは日本の縮図とも思える社会現象で、何もこの集落だけの珍現象ではないのです。動物愛護の精神からいえば犬猫を大事に育てることは決して悪いことではありませんし、少なくなった家族に代わって人間様が動物に癒されたいと思うのは当然のことかも知れないのです。

 昨日自家用車で松山へ行く途中信号待ちをしていて、隣に停車した車を見て一瞬驚きました。運転している中年の人は自分の膝の上に着飾った犬を乗せて運転しているばかりか、後ろの席も助手席も何と5匹もの犬が乗せられていました。その犬たちは全て人間同様ちゃんと洋服が着せられ、毛はまるで美容院に行ったみたいに飾られていて、さしずめ車が犬の動く応接室みたいな感じがしました。停車している間開けられた窓から首をきょとんと出した犬たちは、隣に停車した私に何か語り帰るような仕草をしてじっと見つめているのです。軽く手を振ってやると犬たちは嬉しそうにして去って行きました。

 最近自宅で飼い始めたメダカの餌を買いにホームセンターに立ち寄りましたが、ここでも犬を抱いたお客さんがドッグフードの売り場で、台た犬に何やら話しかけ餌を買い求めていました。いやあ驚きました。ホームセンターのドッグフード売り場はいつの間にか拡張され1レーン全てがドッグフードに埋め尽くされていました。


 私はふと子どものころに習った江戸時代の歴史を思い出しました。五代将軍徳川綱吉は「生類あわれみの令」を出して犬や猫を大切にする政策を発表しました。犬猫をいじめたり殺生すると捕えられ、えらいお咎めを受けるのです。当時犬や猫を飼うのは武家や大名の慰みでしたが、今は庶民の暮らしそのものがお犬様、お猫様といった感じがするのです。この現象は次第にエスカレートして今ではペットの霊園や病院、美容院、ホテルまでできて留まるところを知らないペット産業に発展しているようです。

 少なくなった家族に代わって犬や猫が人間に癒されるのはいいことですが、少し心配なのは豚インフルエンザに見られるような動物が原因で感染するかも知れない病気のことです。ある人は犬にかまれたことが元で原因不明の病気になって入院を余儀なくされたと聞きました。また飼っていたペットが死んで放心状態になり、生きる気力を失って後追い自殺をした話も報道されていました。

 家の中で犬猫を飼うにはしっかりと衛生管理をしなければなりませんが、歳老いて自分に介護のいる高齢者にとってペットの世話は容易なことではありません。ある主婦の話を聞きながら根深い社会の歪を垣間見る思いがしました。

  「犬猫が 老人座敷 占拠する 言葉言いつつ 共に暮らして」

  「犬死んで 悲しさ余り 後を追い 自殺するとは 異状世の中」

  「不況だと 言いつつペット 産業は 確実伸びて 売り場拡張」

  「着飾って 主人とともに 外出す ルンルン気分 窓から顔を」  

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○朝一番に考えること

 朝起きて一番に考えることは「今日の天気」と「今日の予定」です。多分夜寝る前にそのことは大体目星を付けて眠るのですが、長い眠りの空間を経ていて忘れているので、確認の意味を込めて天気と予定を考えるのです。

 「今日の天気はどうかな?」とまずテレビをつけます。長期予報の確率はいまいちながら、気象衛星の普及によってその日の天気予報は、100パーセントに近い確率で当たりますからほぼ間違いはなく、今日は曇りがちで午後は一雨きそうだと報じています。一雨欲しいとお百姓さんも漁師さんも言っていますが、降りそうで降らない雨を期待しているようですが、出かける予定の私には降って欲しくない感じもします。でもお百姓さんや漁師さん、それに畑に水を撒き続けている親父のことを考えるとやはり一雨欲しいのです。

 今朝の新聞には季節の話題が載っていて、七折の梅の収穫が始まったとか暮らしの欄には梅酒の作り方あれこれが紹介されていました。わが家の人間牧場の梅林もそろそろ梅の収穫をしなければなりません。自分の昨年の予定表の欄には6月4日、一昨年は5月27日梅取り作業が小さく書かれています。これが適期だとすると今度の日曜日辺りには収穫しなければなりません。そのためには日曜日の天気予報も気になるところだし、第一その日が日程的に空いているかどうかも心配なのです。

 「今日の予定」ですが、今日は毎週木曜日に予定されている大学の講義日です。10時30分から愛媛大学法文学部で90分間講義をしなければならないため、9時に家を出て大学に10時に到着し、授業に必要な資料をコピー印刷して準備をしなければならないのです。レジュメは既に昨晩作成していますので準備は万端です。授業終了後昨年授業で担当した3回生の学生と昼食をしながら雑談したいと申し出があったので、2時くらいまでは束縛されそうです。4~5人程度の学生が私に昼食を食べないかと誘うのは、昼ご飯をおごって欲しいくらいな魂胆でしょうが、まあそれくらいは太っ腹なところを見せなければと思っています。

 その後友人と夏のイベントの打ち合わせを行い夕方にはわが家へ帰る予定です。明日は2ヶ月に一回の定期健康診断のため県立中央病院へ出かけなければならないため、今日は極力無理をせずにゆっくりと過ごしたいと思っているのです。

 こうして朝起きて「今日の天気」と「今日の予定」を考えながら何となく一日が始まり、何となく一日が終わって行くのですが、その日々の暮らしの中で思ったことを朝一本、夜一本とブログに書きとどめ、「何となく」を記憶と記録にとどめて過ごしているのです。

 凡人の私にはそのくらいしか芸もなく、そのくらいの生き方しかできませんが、こんなささやかな出来ごとに小満足して穏やかに暮らして行けるのもある面幸せなことかも知れないのです。

 「お父さん今日の天気は?」「お父さん、今日の予定は?」とまるでオームのように妻は私に毎朝聞くのです。その度に私は「今日は午後から雨が降るかも知れん」「今日は大学の講義日だから終わったら学生とお昼を食べて夕方帰る」。「財布忘れないようにね」「分かっとる」。てな調子で相変わらず夫婦の会話は単調でシンプルそのものです。さあ今日も頑張っていきましょう。

  「今朝もまた 天気と予定を 聞く妻に 雨が降るかも 帰り早いと」

  「単純な 日々の暮らしに メリハリを ブログに記録 読む人ありて」

  「学生が 昼飯食おう 誘うのは 何か魂胆 財布を当てに」

  「早一年 日程表を 見る度に 時の流れの 早さ驚く」

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○コーヒーの飲めない私

 「何でこんな美味しいものを飲めないの?」と妻から言われますが、実は私コーヒーが飲めないのです。そもそも田舎育ちの私の子どもの頃の暮らしは、戦後間もないということもあってシンプルそのもので、コーヒーやカレーといったものは、そんなに日常的な飲み物や食べ物ではなかったのです。カレーを初めて食べた同級生がカレーのことを「辛子の入った雑炊」といった笑い話も、コーラという飲み物を初めて飲んだ同級生が「せんじ薬みたい」といって吐き出した思い出もまだ記憶にあるほどなのです。

 私が子どものころ初めてコーヒーという飲み物をを飲んだとき、とても苦くて自分の口には合わないと思いました。それ以来コーヒーを飲まなくなってしまったのです。ゆえに世情一般でいわれる「食後のコーヒー」なんて、「美味しい食事をした後何であんな苦いものがいいのか?」と、私には全く理解できないのです。

 ところが世の中は面白いもので、そんなコーヒーの嫌いな私の長男息子に、何故かコーヒー屋を営む家の娘さんとの縁談が持ち上がり、結婚してしまったのです。多分私がコーヒーが飲めないことは相手にも伝わっていたでしょうから、最初からボタンの掛け違いのような出会いだと感じたに違いありません。でも若い二人の愛はコーヒー屋、つまり娘さんの実家の経営する喫茶店で育まれたのです。

 私は「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というほど偏屈な男ではありません。コーヒーが飲めないというだけで香りはそんなに嫌いでもなく、息子の選んだ娘さんは愛嬌よしで息子より親である私の方が、お米の銘柄ではありませんが一目ぼれしたのです。

 そんなこともあって以後、その喫茶店へは度々お邪魔する羽目になりましたが、喫茶店のオーナーマスターをつとめる嫁の親父さんは、私がカウンターに座ると何の注文もしないのにちゃんとコーヒーが嫌いなことを分かってくれていて、ブラックならぬ「ホワイト」、つまりホットミルクを用意してくれるのです。

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(生まれて1時間半後の分娩室の孫)

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(目出度く退院の日)
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(昨晩の入浴シーン)

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(お兄ちゃんとなった希心君)

 昨日はある団体の人事委員会があって出席し、会議後夕食事が用意されていましたが、人に会う約束があって一足先にお暇し、帰り際にその喫茶店に立ち寄りました。長男家族が住んでいるマンションはその目と鼻の先なので、長男夫婦に子どもができたことのお礼も言わなければならなかったのです。「ホワイト」を飲んだ後雑談もそこそこに折角だからと息子のマンションを覗いてみると、生まれたばかりの孫を風呂に入れている最中でした。

 生まれて10日になる孫は出生届はしていないものの息子夫婦によって名前も決められちゃんと「命名 若松奏心」と書かれて台所に貼られていました。息子の名前が「一心」、その長男が「希心」、次男が「奏心」とは恐れ入ったこだわりの名前ですが、少し変わった聞き覚えのない名前ですがそのうち慣れればいい名前になることでしょう。

 コーヒーの飲めない私、賭け事もしない私、煙草も吸わない私、お酒も呑まない私に、仲間たちは「金が残って仕方がないのでは?」とよく変人扱いして言いますが、その都度私は「コーヒーも飲まず、賭け事もやらず、煙草も吸わず、お酒も呑まず百まで生きた馬鹿がいる」と言われないよう生きたいと心に誓って生きているのです。


  「喫茶店 ブラックならぬ ホワイトで 時間を過ごす 変わったお客」

  「よりにより コーヒー飲まない 俺息子 コーヒー娘 好きになるとは」

  「人のこと 言えた柄では ないけれど 息子も孫に 変わった名前」

  「入浴を 慣れた手つきで 若夫婦 へその緒飛び出 どこかひょうきん」

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○ミッキーマウスのアイディアは屋根裏部屋で生まれた

 メキシコに端を発した豚インフルエンザはある意味、他のインフルエンザと同じように処置さえすれば死には至らないということが分かりかけてきて、学校休校までして感染を防いだガードが解けつつあることは嬉しい限りです。この2ヶ月豚インフルエンザに翻弄し続けた国内事情を思うと、これからも何が起こるか分からない不透明な時代を生きることへの不安がつきまとうのです。

 春先は修学旅行の季節でもあります。小学校は近場で一泊二日、中学校は京阪神へ三泊四日、高等学校は一週間程度首都圏とそれぞれ修学旅行が計画され、高等学校によっては海外までも足を延ばすプログラムが組まれているようですが、豚インフルエンザの影響で特に海外は中止を余儀なくされていますが、休校措置の解除によって修学旅行も復活の兆しを見せているようです。

 修学旅行は行動範囲の狭い子どもたちにとって視野を広げる唯一の機会であり、子どもたちも学校生活の中で一番思い出に残る行事として楽しみにしているはずです。私たちの住んでいる四国からは東京はまだ遠いので、高校生しか東京へは行けませんが、子どもたちのとって楽しみの一つは夢の世界と思える東京ディズニーランドへ行くことなのです。かつて建国200年のアメリカへ総理府派遣青年の船で行ったとき、ロスアンゼルスのディズニーランドに立ち寄りその規模と発想に度肝を抜かれた記憶がありますが、子どもたちはテーマパークである東京ディズニーランドを憧れの地と思っているのです。

 私はもう30年も前に本場アメリカのディズニーランドで、ウォルト・ディズニーの話を聞きました。ディズニーは若いころ画家を志していたそうです。貧乏なためガレージの屋根裏に住んでいましたが、その屋根裏部屋にあるとき一匹のネズミがやってきました。ディズニー気が散るから追い払おうとするのですが子ネズミは懲りずに顔を出し、その愛くるしい姿にやがてディズニーはパン屑を与えるようになったのです。するとネズミの一族が集まりだし、ディズニーはネズミの生態や動き方に興味が出てそれを描くようになったのです。そんな時ハリウッドの映画会社から漫画を依頼され、ネズミを主人公にした奇抜なアイディアを思いつきました。これが「ミッキーマウス」の誕生となったのです。ディズニーはそのことがきっかけで成功への道を歩むことになるのですが、その裏には様々な苦労があったようです。でも人の嫌がるネズミを主人公にして子どもたちに夢を与え続けているディズニーは凄い人だと思うのです。

 今回の豚インフルエンザ騒動によって京都など修学旅行のメッカでは、修学旅行のキャンセルが相次ぎ、ただでさえ不況風の吹く観光業界に大きな損失を与えているようです。修学旅行には先進地と目される首都圏やテーマパークを目指す場合と、四万十やしまなみ海道のようなふるさと回帰を目指す場合と、それに原爆ドームや安芸の宮島をセットにした世界遺産を訪ねる場合など様々ですが、子どもたちにとって修学旅行は何を意味するのか、豚インフルエンザで延期を余儀なくされたこの時期だからこそ、修学旅行の持つ意味をそろそろ考え直す時期に来ているのかも知れません。

 ポケットに入れた僅かばかりの小銭を握りしめて土産物売り場を右往左往した私たちが子どもの頃とは違い、子どもたちだけがグループを組んで自由行動する自立型のプログラムも増えてきました。家族旅行が主流をしめ、修学旅行までにディズニーランドを経験している子どもたちにとってディズニーランドは最早い文化ギャップを感じる場所ではないようです。


  「三十年 前にミッキー 会ったとき 度肝抜かれた 記憶忘れず」

  「ディズニーは 屋根裏部屋で ミッキーを 考えついて 子どもに夢を」

  「夢誘う はずの旅行も 不意打ちの 豚のインフル 中止余儀なく」

  「非日常 だから感動 するのです パパと行ったと バスから降りずに」


  

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○漢字が思い出せない

 つい最近、ノルマである毎日三枚のハガキを書きながら、書きたい文字を思い出せないことが時々あることに気づいています。昔は鉛筆やボールペンで肉筆文字を書いていましたから、その都度辞書を引いて調べていましたが、今はハガキを書く時はパソコンの画面を文章入力画面にしておき、思い出せない漢字を画面に入力変換表示して書き写すといった具合です。

 単純なことですが「一緒」という漢字を書く場合、「えっ一緒の緒は糸辺だったか、言辺だったかしら?」と考えてしまうのです。「パソコンを使うようになって極端に感じを忘れてしまった」といえば、妻は「それはパソコンのせいではなくあなたの年齢のせいよ」と軽くあしらわれてしまいました。確かに加齢が原因であることは間違いありません。しかしパソコンは漢字の書く能力よりも幾つかの候補の中から選択する能力さえあれば書けるのですから、私だけが悪いのではないと、パソコンのせいにして逃げているのです。

 先日ある友人からメールが入り私のブログ記事の中に書かれた、「以外」と「意外」の間違いを指摘されました。私はてっきり「以外」も「意外」は使い分けていると思って文章を書いていましたが、見直してみると意外なことに以外と混同していたのです。「私のブログだから文句を言割れる筋合いはない」と思うのは大きな間違いで、自分自身では日記のつもりで書いていても、インターネットで流れるとそれはもう完全な公開情報ですから、書き手たる私の責任を自覚しなければブログを書く資格などないのです。ブログを書き終わり登録する前のほんの数分間時間を割いて読み直して校正訂正をすればいいものを、「ああ書けた。終わった」と忙しさにかまけて登録してしまう悪い癖を直さなければならないと思っているのですが中々それが・・・・・。

 肉筆でハガキに書く場合、難しい漢字を使うことがよくあります。例えば「揶揄」という言葉をハガキに書こうとすると、これはもうお手上げで、パソコン画面に表示された漢字をなぞって書き写すしかできないのです。漢字書き取り能力の衰えを自覚しつつも、書き順など考えずに書いている自分が情けなく思うことがあります。

 私の名前「若松」という文字の「若」という字には「右」という文字が組み込まれています。「左」という字は一からノと書きますが、「右」という字はノから一と書くのが正しい書き順です。学校で習ったに違いないこんな小学校一年生で習ったであろうことさえ忘れて、今は右も左も一からノと書いているのです。寛治の本を読んでいて右という字は元々左と同じ一とノではなく、ノが逆の右に向いていたという話を聞きました。私の友人が作ってくれた落款のてん刻文字もそのように逆さとも思える書き順で彫られているようです。

 ここまで文章を書いたところで、一瞬画面に書いた文章がどういう訳か全部消えてしまいました。書き直せばいい訳ですから別にパニックにまではなりませんでしたが、直前に書いたはずの文章を一字一句覚えているような緻密な頭脳は持ち合わせていないため、ここまで書いている文章は二度も書いたお粗末な文章になってしまいました。パソコンにはよくあるハプニングなので、早朝の貴重な30分を無駄にはしましたが、パソコンの練習をしたと思えばいい頭と指先の運動になったと感謝しています。

  「意外です 以外を意外と 指摘され 意外や意外 以外と間違い」

  「パソコンの せいだといって 逃げている 感じ忘れて 手紙も書けず」

  「ああ俺も ついにボケたか 漢字さえ 思い出せずに 意気も消沈」

  「右はねえ 学校先生 そういえば 教えてくれたが 未だ一から」


  

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