shin-1さんの日記

○年輪塾始まる

 月日の経つのは早いもので、人間牧場がオープンして3年余りが過ぎました。その間施設設備の充実に主眼をいて活動してきましたが、今年計画している釜戸小屋が完成すれば施設的には活動に支障がないほどになりました。しかしこの施設は利活用してしてこそ人間牧場という名の通り生かされるものですから、ソフト面も並行して充実しなければならないのです。プログラムについては、既に子どもたちを対象にした農場体験や逆手塾の開催、宮本常一を語るなどなど、実験的に行った活動が早くもそれなりの評価を受けるようになってきました。

 私が一番欲しかったのは現代にマッチしたネットワークの整備でしたが、これも塾頭である清水さんの努力で年輪塾ネットを立ち上げることができて、いよいよ念願の年輪塾を立ち上げる機運が高まったのです。この機を逃すまいと昨日年輪塾オープンを記念して、第一回公開セミナーを開きました。

若松進一ブログ(正座して高座で話す星さん)
若松進一ブログ(熱心に聞き入る受講生)

 昨日は山形県高畠町の農民詩人星寛治さんをメーンゲストに招きました。星さんは前日えひめ地域政策研究センター主催による「耕す教育の時代」と題したまちづくりトークサロン出演のため来県されていて、快く講師を引き受けていただきました。

 星さんの話は1935年生まれのため戦前や戦中の思想が深く、特に農民詩人といわれる人ですから宮沢賢治に傾注していて、また戦後の青年団活動や有機農業に取り組んで来られた実績を惜しげもなく話されました。人間牧場最高のステージは樹令150年という高知県馬路村産魚梁瀬杉の切り株です。宇和島の山本さんから送られた座布団を敷いてその上で正座をして話すのです。約90分熱のこもった話を拝聴しましたが、高座の直ぐ傍で拝聴した私は時折、松下村塾で話す吉田松陰の姿をダブらせながら身ぶるいするような気持でした。

 その後塾長である私もこのほど出版した自著本「夕やけ徒然草・水の書)を元に30分間小噺をやりました。星寛治さんの話に比べたら月とスッポンで、私の話など取るに足らないものですが、それでも参加者を爆笑の渦に巻き込んで、いい雰囲気となったのです。星さんの話が三ツ星レストランなら、さしずめ私の話は梅干し屋体のようなものですが、おでんやコップ酒もおつな庶民の味なのです。

 私の話が終わると食談と称した交流会です。松本小番頭が奥さんまで手伝わせておでんをメイン料理にして用意してくれました。また今治の大河内さんはいなり寿司とイギス豆腐、大洲の亀本さんはイノシシの角煮などなど差し入れも沢山あって、星さんからいただいた山形の銘酒を味わいながら楽しいお喋りとなりました。途中今ではすっかり一芸に秀でた高知県馬路村の塾生木下さんのマジックで一同大爆笑でした。

 最後は全員が少しだけ肌寒いウッドデッキに出て、大河内さんからリクエストのあった「ふるさと」「みかんの花咲く丘」「しあわせのうた」を、私の下手くそなハーモニカに合わせ大合唱しました。かつて若かったころの青年団活動そのままに腕を組み、思わずジーンときました。


若松進一ブログ(酒もまたよし交流会)

 年輪塾は塾長の私と、清水塾頭、米湊大番頭、松本小番頭の4人でとりあえず運営する予定です。この日は塾生の脇田さんが記録係としてビデオカメラを回してくれました。この映像はCDにして今後の活動に利用したいと思っています。そして近い将来この年輪塾をモデルとして県内各地で私塾を開いてほしいと願っています。塾とはそういうものなのです。

 塾生浜田さんの宮本常一論を聞いた集会を第一回とするなら、本格的に年輪塾がスタートした今回は第2回目となります。当面は10回を目指して様々な試行錯誤が行われるものと思われますが、折しも山の端に沈み始めた夕日に顔を赤く染め、別れを惜しみながら下山する参加者に再開を誓いました

  「念願の 年輪塾が 始まった 人を育てる 気概を持って」

  「腕を組み 歌を歌った 若き頃 想い重ねて ハーモニカ吹く」

  「星さんの 姿松陰 ダブらせて 教え心に 深く染み込む」

  「もう歳と 思っていたが まだ若い これからですと 心の紐を」

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shin-1さんの日記

○忘れ得ぬ2月10日という日

 私の64年の半生の中で忘れ得ぬ日は幾つもありますが、特に2001年2月10日は忘れ得ぬ日となって記憶の中にとどまって、その日が来る度に鮮明に思い出されるのです。「皆さんは2001年2月10日を覚えているでしょうか」と尋ねられても、はてさて?と首をかしげるのは当然のことです。しかし人間の脳は潜在能力の中に2001年2月10日をちゃんと覚えていて、「愛媛丸がハワイ沖で米軍潜水艦グリーンビルに衝突して沈んだ日」と少しヒントを出せば、その日の出来事が思い出されるのですから凄いものです。

 2001年2月10日、私は自分の書いた本の出版記念パーティーを開くべく、近くの特別養護老人ホーム夕凪荘の近くの田んぼで改造を飾る菜の花を摘んでいました。三抱えもあるほど摘んだ菜の花を車に積んで自宅へ帰りました。そしてあらかじめ用意していた孟宗青竹の花器に差しこんでいました。そこへ近所に住む姉悦子が息せき切ってやって来ました。「今テレビの臨時ニュースであなたの母校である宇和島水産高校の実習船えひめ丸がハワイの沖で潜水艦に衝突し沈没したようよ」というのです。私は立ち上がれないほどの衝撃を受け、直ぐに家の中に飛び込んでテレビのスイッチを入れました。テレビの画面には臨時ニュースが流れていて、詳しいことは分からずも、えひめ丸が沈没したことだけが何度も何度も伝えられていました。


 私にとってえひめ丸は特別なものです。僅か18歳の青春真っただ中の時代に、宇和島水産高校の実習船えひめ丸で珊瑚海まで遠洋航海した経験を持っているからです。私が乗船したえひめ丸は初代の船でした。214.5トンという小さな船に乗って約4ヶ月も海の上の暮らしを経験し、後の自分の人生感をも変える大きな大きな旅でした。沈んだ船は初代のえひめ丸の航跡を受け継いだ4代目の船でした。しかし船の大きさは変わっても船の構造はそんなに変わらず、記憶の中にあるえひめ丸の船内に閉じ込められて海底に沈んだえひめ丸と自分の記憶をダブらせながら何度も何度も犠牲になった9人の行方を追ったものでした。

 それから一年は学校を訪問したり、卒業生と連絡を取り合ったりしていましたが、えひめ丸の記事が新聞からテレビから消えることは殆どなく、その度に胸を締め付けられるような気持になりました。しかしその事故も人々の記憶の中から次第に遠ざかり、宇和島周辺や関係者の間では語られるものの、残念ながら今では殆ど忘れ去られているのです。

 私の方「昇る夕日でまちづくり」という本の出版記念パーティにはマスコミ関係者も多く、出席通知をいただいていたものの特別な事故だけに取材対応で急遽欠席となって少しばかりむなしい風が吹いたことも2月10日のえひめ丸事故に添えられた記憶として残っているのです。あれから8年の歳月があっという間に流れました。昨日は水産高校の慰霊碑やハワイの慰霊碑の前でしめやかな追悼の式典が行われたようですが、寂しい限りです。

 余談な話ながら、あの日知人友人に披露された自著本「昇る夕日でまちづくり」は、有名書店の片隅に並べられ、6千部の田舎では小さなベストセラーとなって話題をさらいました。今も全国各地から引き合いがきて長生きしているし、その後出版した「今やれる青春」「ミレミアム2000年その日私は」や「夕やけ徒然草・地の書・水の書」も好評を博しているのですが、そのスタートとなったのは2001年2月10日でした。

私は2001年2月10日を命のある限り忘れることはないと思います。そして新しく建造されたえひめ丸が今後もより安全に航跡を受け継いで航海してくれることを心から祈っています。

 

  「早8年 記録と記憶 薄くなる されどこの日は 死して忘れず」

  「自著本を 手に取る度に 思い出す えひめ丸船 今頃どこに」

  「寂しき日 打ち消すように 仕事する それでもどこか 心ひかかり」

  「菜の花忌 司馬さんだけじゃ ありませぬ えひめ丸事故 菜の花咲いて」


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shin-1さんの日記

○コーディネーター役は中々骨の折れる仕事です

 私は仕事柄、これまで様々な集会やシンポジウムの司会、コーディネーターなどをやってきましたが、いつも思うことは講演や講義のように一人で喋るより、司会、コーディネーターという役割が中々骨の折れる仕事だということです。最近はファシリテーターなどの横文字が登場して、司会、コーディネーター、ファシリテーターを混同しているような感も否めませんが、それらの役割はテーマに沿って会を進行し、正しい方向に導かなければならないのです。と同時に自分の意見も言わなければならないため、まるで聖徳太子のように人の意見を聞き自分の意見を述べるのですから、並みの人間ではできないのです。じゃあ「あなたは並み以上ですか」といわれたら、「はい潜水艦」、「えっ、並み以下」と答えなければならないのです。

 コーディネーターは事前準備が必要です。昨日はえひめ地域政策研究センターの依頼を受けて、はからずも「教育とまちづくり」というテークサロンのコーディネーターをさせてもらいました。コーディネーターをするにあたって、出演者であるお二人の著書である星さんの「耕す教育の時代」と草野さんの団体を紹介している「日本一の学校」という二冊の本を事前に取り寄せて読みました。そして二人の考えを頭に入れパソコンで思いつくままにレポートしました。ここまでは予備知識の習得です。

若松進一ブログ(県立美術館講堂を会場に星さんと草野さんと私の楽しい会話が繰り広げられました)
若松進一ブログ(手前が星さん、向こうが草野さんです)
 

サロントーク「耕す教育の時代」という鼎談ともいえる三人のコーディネーターをするにあたって、私は2時間の時間配分をする上で、1テーマ30分として3つの分割テーマを考えました。①これまでの教育に欠けていたもの、②これからの青少年教育、③学校の持つ意味です。このテーマについて話したいことをそれぞれの分割テーマごとに3つくらい考えて欲しいと、お二人のパネラーにメールしました。星さんからは分割テーマごとに3~4項目が出てきましたが、草野さんからは分割テーマごとのテーマは届きませんでした。私の計画がここで大きく変更を余儀なくされたのです。でも草野さんにも討議に加わってもらわなければ討議ができないのです。そこで考えたのは星さんと同じ分量の自分のおしゃべりを分割テーマごとに3項目用意し、星さんと私のサンドウィッチに草野さんのスパイスをはめ込むという、アドリブ作戦に転じることにしました。

 問題は参加者の存在です。参加者に「教育」という難しいテーマをどう理解させるか、私は前日高松へ行く列車の中から、閃いたホワイトボード利用の図式説明のために、ホワイトボードを用意して欲しいと担当の清水研究員にメールを打ちました。早速メール返信が届きOKとのことでした。

 星さんの1時間講演、草野さんの30分話題提供の話が終わり、休憩時間で会場セットされていよいよスタートです。教育とまちづくりの関係について少し経緯を述べ、ホワイトボードに書いた縦軸ポイント(星さん1935、若松1944、草野さん1951の生まれ)、横軸ポイント(星さんは山形県、草野さんは徳島県、若松は愛媛県)、円軸ポイント(星さんは内陸部、草野さんは太平洋沿岸、若松は瀬戸内海沿岸)の図表に沿ってパネラーの考えの違いを話しました。そして討議の進め方や時間配分の了解を求めてスタートしたのです。

 時には参加者を巻き込み、歌のない歌謡曲に歌をつけて歌わさなければならないのですから大変です。でもさすが星さんも草野さんも一流で、それぞれの立場の違いを鮮明にしながら話をかみ合わせてくれました。終わりの時間が気になり始めましたが、私のまとめ的発言はあえてせず、不燃人、可燃人、自燃人と残り火という話や6つのゆとり(①時間的ゆとり、②人間的ゆとり、③空間的ゆとり、④経済的ゆとり、⑤文化的ゆとり、⑥安心安全的ゆとり)を求めて人は動くことを話し、1分超過の17時01分で役目を終えまました。1分超過は許容範囲です。

 参加した人からの拍手の勢いにまずまず成功の手応えを感じ役目を終えました。昨日も長くてしんどい一日でしたが、さわやかな気持ちの幕引きでした。


若松進一ブログ(共済会館で行われた交流会も楽しい一夜でした)
若松進一ブログ(請われるままにハーモニカを熱演しました。もうすっかり地域づくりの世界ではお馴染となりました)
若松進一ブログ(いつの間にやら私のカメラに竹森さんと鹿島校長と原田校長が写っていました。三人とも私の大好きな人です。また会いましょう)

  「進め役 簡単いうけど 難しい 事前準備に 心血注ぐ」

  「話す人 客席の人 俺加え 二時間ドラマ プロデュースする」

  「二時間が あっという間に 過ぎ去りて カーテンコール 拍手も強く」

  「もう嫌だ こんなにきつい 役割は 終わってみれば 快感あって」


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shin-1

○もう一つの電子メールアドレス

 自分の机の上にあるパソコンには、毎日沢山の人からメールが届いています。私のメールアドレスがwakamatsu@yuuh.jp という、物覚えの悪い私でも簡単に覚えてしまうアドレスなので、嬉しいメールがどんどん入ってくるのです。勿論それらに交じって迷惑メールも沢山入ってきますが、それらの殆どは自動的に迷惑メールフォルダーに整理されるので、息子から教えてもらった消去方法によって日の目を見ることもなく闇から闇へ葬り去られてしまうのです。

 パソコンに疎い私は、時々パソコン画面に出てくるとんでもない表示に一喜一憂しながら、その度に息子や娘婿に助け船を出して、どうにか今日まで乗り切ってきました。まあメールのやり取りとブログを書いて登録する方法、それに文章を書く程度の利用内容ですから、それほど難しくはないのです。それでも写真を取り込んだり、年賀状用に住所録を作成したりする技術もオロオロしながらマスターして、少しだけ使い方の幅が広がったことを喜んでいる今日この頃です。

 今日は大学の出勤日です。事務所に出勤簿押印のため立ち寄ったら、大学に申請していた電子メールアドレスの利用承諾書を事務官の先生から渡されました。ルールに従って幾つかの記号を入力すると、メールが使えるようになりました。この手の類の作業は息子や娘婿にやってもらっていたのですが、大学という限られた世界のことだし情報機密を守らなければならないので、息子や娘婿に対応してもらうこともできず、いじくった結果やっと通じるようになりました。そして記念すべきメールを自分の家のパソコン宛てに文章を添付して送信したのです。今日は私にとって自分の大学のメールと自宅のメールが接続できた記念すべき日となったのです。家に帰って自分が自分に送っためるが来ているかどうか、今日の帰りは交流会もあるので深夜になると思いますが、楽しみです。二つのメールが接続したことで、これから仕事の幅が随分広がる気配です。つまり自宅で大学の仕事をして、それを大学のパソコンに送ると、居ながらにして二地域での仕事が可能になるのです。今までは自分の家で打ったパソコンのデーターはプリントアウトして大学へ持って行き、サイド入力しなければならなかったのです。


 夕方遅く自宅へ帰って、遅い夕食を食べながらその話を妻にすると、パソコンに弱い妻は「へえー、そんなことができるのと驚いた様子で私の話に聞き入っていました。私は早速恐る恐るパソコンのメールを開きましたが、多くのメールに交じって私の送ったメールがちゃんと届いていて安心しました。これからは、大学でプリントアウトしなくても出来るし、文章の手直しだって出来るのです。

 それにしても便利な世の中になったものです。このくらいなことで喜ぶ私ですが、パソコンに堪能な人はもっともっと便利な使い方をしているに違いないと、少しだけパソコンの苦手な自分がみじめな気持になりました。でも一段一段階段を上って行くように、少しずつ深化してゆきたいものと思うのです。

 今日はトークサロンのコーディネーターとしての仕事に全精力を傾注したため少々お疲れモードでの帰宅です。明日は今日の講師である山形県高畠町の星寛治さんを招いて年輪塾公開セミナーを開く予定です。少しだけ早く休んで、また思いきり楽しみたいと思っています。


  「大学の 職場と自宅 パソコンで 結んで送る メール届いた」

  「ああ嬉し 出来ぬ仕事が 出来るよに 今日は記念日 私にとって」

  「今日からは 大学仕事 自宅でも 逆の仕事も ひょっとしたなら」

  「精力を 使い果たした 感がする 疲れを知らぬ 俺だというに」

 

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shin-1さんの日記

○充実した列車の旅

 昨日は一日中列車に乗っていたような錯覚に陥るほど、近い四国の中ながら長い旅をしました。北国の人からすると馴染みのない四国は、一つの県くらいにしか思わないのでしょうが、どうしてどうして私の町からだと高知県足摺岬へは5時間、室戸岬へも5時間、徳島や高松という県庁所在地さえ高速道路を使っても優に3時間はかかるのです。昨日は高松市で行われる内閣府の会議に出席するため、車で約一時間走って松山駅まで行き、そこから特急いしづちに乗るコースを選びました。中国・四国・九州は車で行くことが多いのですが、会議の開かれる場所がサンポート高松という駅のすぐ近くなので列車を選んだのです。さすがにこの歳になると3時間の運転はきつく列車だと休憩や読書三昧ができるのです。それでも列車で松山から高松まで2時間半はかなり長く、家を8時に出て家に帰ったのは午後7時30分ですから、一日を費やした計算になるのです。

 県の局長さんと担当者が同じ会議に出席するため、同じ列車に乗り込みましたが、私は少し調べものがあるの、大変失礼ながらでお話をすることもなく高松を往復しました。それでも昼食はご一緒しようと、駅前のうどん屋に入りました。ちょうど昼時ということもあって、セルフのうどん屋には長い行列ができていました。うどんは回転が速いためそんなに待つこともなく、ぶっかけうどんを注文してかき揚げ天ぷらをトッピングしても500円そこそこで、さすがうどん王国高松だけあって、うどんの味もまずまずといった感じでした。

 会議は午後1時から始まりましたが、地域活性化統合事務局の総括参事官や説明や、今年度採択されて事業を推進した四国内の7事業の進捗状況と成果や問題点の発表が会議予定時間の2時間のうち1時間45分と大半を割いたため、意見を言う時間は殆どなく、15分の時間延長があったものの、今回もイライラや不完全燃焼の会議となってしまいました。

 いつも思うのですが、私たちは意見を述べるために一日を割いて高松まで足を運んでいるのです。もちろん政府のお役人も東京から来られているわけですが、もう少し会議の運営に配慮があってもいいと、前回も提案や苦言を呈しましたが、全国のブロック会議のストーリーが決まっているのか、一向に改める気配はないのです。こんな苦言を呈する委員は次から指名しないと無視されそうですが、私の性格に合わない会議に出るのは次回からお断りしようと思っているのです。それでも委員に指名されているので短い時間ながら何点か気がついたことをお話をさせていただきました。

 行きも帰りも今日に迫ったトークサロンの進め方が頭の中にありました。今日は耕す教育の時代」と題したトークサロンがあって、元山形県高畠町教育委員長星寛治さんをお招きしているのです。私と伊座利の草野裕作さんを交えた座談鼎談を私が仕切ることになっているのです。

 列車の中で二人の本を読んだり、おしゃべりの筋書きを考えてメモをしたりしました。ゆえに車窓の風景も殆ど目に入ることもなく、ある意味充実した列車の旅となりました。アドリブなのでどんな展開になるか分かりませんが、まあ何とか目鼻は付きそうです。

 私はこれまで、講演や講義、パネラーや司会、コーディネーターなど様々な役割を担って会議に参加してきました。その度に書物を読み、自分の考えを整理して多少のメモを用意してきました。他の人から比べるとそんなに事前の準備に時間をかける方でもなく、ただ意の向くままにやってきましたが、年齢的にもうそんな出番も終わりかなあと思ったりしています。さて今日はどんな方向になるか、久しぶりに列車内で少しだけ考えた成果は出るのでしょうか。


  「列車内 時間を有効 活用し あれやこれやと 思いめぐらす」

  「迎え撃つ 相手想像 策を練る 参加した人 満足するか」

  「一言を 言うため 長い汽車の旅 俺に分からぬ 会の運営」

  「旅先で うどん天国 列に入る 大を注文 意気込みすする」  

 

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shin-1さんの日記

○選挙に出ない公約も公約

 親しいある人から先日、「若松さん、あんた選挙に出てみないか」といつものことながらお声がかかりました。そういえば合併して早くも4年近くが経つのかと、今更ながら時の流れの速さに驚いています。今年の4月にはわが市でも市長や市議会議員選挙がおこなわれる予定で、「どうやらあの人が出馬するらしい」などと下馬評の上がっている人は正月の恒例行事に顔を出すなど行動が急に騒がしくなっているようです。縁もゆかりもないのにさも100年前からの友人のように笑顔で話しかけてくる人たちを見て、思わず婚譚を垣間見るのです。

 「選挙に出ないか」という話は正直な話、これまで何度もいただきました。しかしその度に私は「選挙に出ると妻から離婚される」などとたわけた笑い話をして相手をはぐらかすのです。ある人が「選挙はイベントみたいなもので、選挙で一儲けしてやろうと思っている人にとっては無投票になると困るから、裏であおっているだけなので、信用して出てえらい目に遭った」などという話もまんざら嘘ではなさそうです。

 人間は自分の力を過信する癖があります。「選挙に出たら」と後押しされると力量もないのに、「私もそんな人物に見られているのか」と過信します。そこがボタンの掛け違えの始まりで、頭の中に首長や議員のバッチが光り、同級生や地域でちやほやされる自分の姿を描くのです。確かに実力を備え首長や議員になっている人も沢山いて、そんなまやかしに耳を貸すことなく、地域をよくするという理想に燃えて働いている人は立派としかいいようがなく、尊敬の念を持つのです。

 私に「選挙に出ないか」といった人の真意は分かりませんが、第一線を退いて既に4年、こんなロートルな男に選挙を戦う馬力も、よしんばなったとしてもまちのために働く活力などはもうないのです。それよりも私にはそれほどの価値もないと自認してしているののです。


 私が政治という社会に魅力を感じないのは、政治の裏を見てきたからかも知れません。全てではありませんが政治には二重人格的なところがあります。一方では本当のことをいいながら、一方では嘘をつかねばならないのです。その人を嫌いだと思っても、少なくとも選挙期間中は好きだと言わなければならないし、できもしない公約をいっぱい並べねば当選もしないため、嘘の上塗りをするのです。4年後にその公約を全てやったと自分が認めていても、周りは冷めた目で公約違反と思っているのです。その証拠に最近は投票率50パーセントなんてザラの選挙区が多いのです。つまり二人に一人は政治や選挙に失望し、それを無視しているのです。かつて選挙権を勝ち得るために血や汗まで流して戦った先人の努力も今や地に落ちているのです。

 私は選挙に出ないことを公約にして生きてきましたが、私たちに代わるいい人を後押ししたり選ぶ努力だけはしなければなりません。でないとオバマアメリカ大統領の言う市民としての責任は果たせないのですから、いい市民となるようこれからも一市民として活動を続けてゆきたいと思っています。


  「妻が言う 選挙に出たら 離婚する だから出ないと これも公約」

  「公約を 変換したら 膏薬と まるで貼ったり 剥がれたりする」

  「私など 何の値打も ないのです 力わきまえ 誘いに乗るな」

  「わが家系 政治家もなく ホッとする 選挙の度に 一憂もなし」

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shin-1さんの日記

○九死に一生を得る

 「生者必滅会者定離」「人間の死亡率は限りなく100%」といわれるように、生あるものは必ず滅び、人間も必ず一度は死ぬことになっているのです。だからといって、せっかく両親からいただいた尊い命を粗末にすることはもってのほかで、自分で命を絶たない限り、天命まで生き続けれるのですから、もっと生きることの喜びを感じながら生きてほしいと思うのです。日本人の自殺者が年間3万人になったといって驚いたのはそんなに遠いことではありません。しかし最近は10年間はコンスタントに3万人を超えている統計を見ると、日本もアメリカのように悩みの深い社会になっていることは確かなようです。人間の生き方には社会が鏡のようになっていて、雪深く冬の長い北日本、しかも裏日本といわれる日本海側に自殺者が多いのも、また世の中が不景気になれば生きる希望を失った人たちが自殺を図るのも、そのせいだと思わなければなりません。自殺者3万人という数字は統計になって現れますが、自殺未遂や自殺願望者の数はこの数字の10倍、つまり30万人とも言われているのですから驚きです。

 最近ネットで人を誹謗中傷する事件が警察によって摘発されました。ネットの匿名性をいいことに、電子文字による脅迫や殺人予告をするのです。する方は面白半分やっているのでしょうが、された方はたまったものではありません。まさに現代社会が生んだ悲劇なのです。日本の道徳に「陰徳」という言葉があります。人の見ないところで徳を積むことの大切さ諭す言葉ですが、現代は人の見てないところで間違った「隠匿」を行っているのです。

 今の世の中ネットなしでは考えられないくらい普及発展しています。私のように学校でパソコンを習っていない人間には住みにくい世の中となりました。そんな時代遅れの私でも、毎日の日課としてパソコンを開けてメールをやり取りし、ブログ記事を朝晩二本書いて配信するのです。パソコンやネットが危ないのだったら見ないが一番と、パソコンをやらない人はパソコンを使う人を笑っていますが、人間の発明した道具はすべからくそうで、包丁さなければ怪我もしないし、火さえなければ火事も起こらないのですが、人間はそれらを道具として使いより良く生きているのです。

 死のうと思ったとき、誰かに助けられたという実話をよく聞きますが、これはまさに「九死に一生を得た」話です。私は自分で死のうと思ったことは64年間の半生においてまだ一度もありません。ただ「死ぬかも知れない」と思ったことは何度かありました。高校生の時、宇和島水産高校の練習船愛媛丸に乗ってオーストラリア近くの珊瑚海までマグロを獲りに行きました。マグロを腹いっぱい抱えた帰りの船が伊豆半島沖に差し掛かった折、冬としては珍しい980ミリバールの低気圧の中に入ってしまい、船長さんは私たち実習生に「死ぬかも知れない」と死の宣告をしました。実習生の狼狽は計り知れず大混乱になりましたが、低気圧が二つに分かれて脱出しひん死の思いで日本へ帰ってきました。台風一過の荒れ狂う水平線の彼方に富士山の姿を見た時の感動は今でも忘れることはできず、まさに「九死に一生を得た」私の生の原点となったのです。死ぬのはいつでも死ねるが生きることは難しい、でもつらいことはあっても生きることは楽しいと、今年も高校生の前で命を大切にするよう話をさせてもらいました。


  「死にたいと 言う人多く その度に 九死一生 経験話す」

  「世の中は 暗い話が 多過ぎる もっと楽しい ことを話そう」

  「もし俺が あの時死んで いたならば こんな楽しい ことも知らずに」

  「死の淵を さまよい生きた 人話す 生きていたなら 神は見捨てず」

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shin-1さんの日記

○久しぶりの大家族

 昨日今日は長女の家族4人、長男の家族3人、それに次男がわが家にやって来て、大賑わいの一日となりました。ありったけの布団を出し、どの部屋もまるでタコ部屋のように蒲団が敷きつめられ、この家の主たる私たち夫婦は隅の方で寝ているような感じです。子どもたちは朝が早く、私が起床する午前4時にはさすがにまだ起きてはいないのですが、午前6時前に起きては動きだし、朝から泣いたりわめいたりの1歳半の孫二人が殆ど主役の座を占めて、食事も孫二人を中心に行うのです。このブログでこれまで主役だった孫朋樹は早いもので6歳になり、4月からはいよいよピカピカの一年生なのですが、残念ながら二人の孫にお株を奪われてしまっているようです。

 それでも子どもの鳴き声が聞こえる家とはいいもので、どこか活気があって、私たちが若い頃はこんな風だったと、妻と二人で過ぎし日を述懐しました。それでも私はまだ孫を遊んでやる程度ですからまだしも、妻は4~5日前から布団を干したり掃除をしたり、また食料を調達したりと、土曜日や日曜日で休むはずの休日が骨が折れて、今晩も少し肩が凝ったといいながら二階のマッサージ器で揉んでいたようです。まあ今日はこれから風呂に入った後、マッサージのサービスでもしてやろうかと思っているのです。

 わが家の長男は設計の仕事をしています。ゆえに今は松山に住んでいますが、そろそろ同居をと昨年真剣に親子で話し、家の増改築まで考えていました。ところが長男の嫁に二人目の赤ちゃんが生まれることが分かり、その話は当分お預けといった感じになってしまいました。両方とを忘れたわけではありませんが、ことその5月に赤ちゃんが生まれれば、当分子育てのために、今のマンションに住むことになるのでしょう。

 妻の心配は、二世代同居になった時の住み分けです。お互いが不可侵の原則を貫きながらも、孫の面倒も見なければならず、嫁に来た時の気苦労を思うと手放しでは喜べず、年齢とともに衰えを感じている気力と体力がどこまで維持できるかということです。

 91歳になる親父は孫にあたる長男家族が帰る日を、折に触れ楽しみにしていることを口にして、「わしが元気なうちに帰って欲しい」というのです。どっちの言い分ももっともな話で、中に入った私と長男がそろそろ覚悟を決めて話さなければならないと思っているのです。幸い長男の嫁は同居に賛成をしていて、子育ての方針さえ決まれば問題は解決するのです。

 久しぶりに帰ってきた次男に「もうそろそろ」と結婚のことを投げかけてみました。次男は今年34歳になります。日赤の看護師をしていますが、女性の職場の真っただ中にいるだけに、女性に対して恐れをなしているのではないかと思ったりもしていますが、警察官をしている三男も30歳の大台に乗ったことでもあるので、親の気持ちとしては早く身を固めてほしいと願っています。

 世の中は中々思ったように順風漫歩で進むものではありません。心配の種は幾つになってもあるもので、退職して早4年が来ようとしているのに一向に悩みは尽きないのです。それでも世の中不景気だといいながら、家族みんな息災で元気に働いているようなので、ひとまず安心をしているところです。

 老いの道が少し気になり始める年ごろとなりました。同年代の人に出会う度に、年金のこと、孫のこと、自分の老後のこと、働く場所がないこと、病気のことなどなど、呑み会でも風呂屋でも、また同級会でもそんな話しか話題に上らなくなりつつあります。ふと気がつくとその端の方に自分の姿が垣間見えるのです。これが世の中、人生かと思う今日この頃です。


  「会う度に 年金病気 孫のこと 耳にするから 俺も歳かな」

  「孫が来た 孫が帰った 二日間 鳴き声聞こえ 疲労困憊」

  「大好きと キッスサービス 孫二人 ハナとヨダレが べっとりついて」

  「疲れたね 妻の言葉に 俺同調 マッサージする 妻のやわ肌」 

  

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shin-1さんの日記

○大和ミュージアムを訪ねて

 昨日は広島県呉市大和ミュージアムで広島広域都市圏形成懇談会主催のフォーラムがあり、早朝より出かけました。立春を過ぎたとはいえ、まだ冬真っただ中のはずなのに、昨日はポカポカ陽気で瀬戸内の海も穏やかに凪いで、松山観光港から約1時間の高速船の船旅は、眠気を催すほど快適でした。

 普通は二便に一便の割合で広島宇品港までの途中寄港地ながら、殆ど降りることもなく通過する呉港ですが、昨日は数少ない昇降客と一緒に呉の港に降り立ちました。港には恐縮ながら主催者の皆さんがお出迎えをしていただき、早速DVDの入力状況や出力タイミングなど簡単な打ち合わせを行い、念願の大和ミュージアムを見学させていただきました。

若松進一ブログ (カメラを忘れたため、いただいたパンフレットより展示されてる戦艦大和の雄姿を転載)

 一度は訪ねたいと思っていた施設なのに、中々機会に恵まれていませんでしたが、念願かなっての見学です。しかし残念なことにデジカメを忘れて出かけたため、その全容と感想は紹介できず終いになりそうです。大和ミュージアムは開館以来大変な人気で、年間100万人を超える入場者があるそうす。昨日は土曜日といいながらかなりの人が見学に訪れていました。ボランティアガイドさんの案内でそれぞれのブースを見学しましたが、圧巻は一階に展示している2億円をかけて製作したという戦艦大和の10分の1の模型です。これはド迫力で度肝を抜かれました。戦争という比較的近代の、しかも日本中が巻き込まれた多くの悲劇を、平和への願いを込めて展示している内容は、いつまで見ても、いつまで聞いても飽きないほどの充実ぶりで、もう一度ゆっくりと見学したいと思いながら、駆け足で話を聞きました。

 フォーラムは講演・発表・対話の三本立てで、私の仕事は「すすめよう 協働のまちづくり」というテーマでの講演と、発表に対しるコメントそれに対話への対応でした。午後の5時までびっちり集会に絡みましたが、協働のまちづくりを①ローカルコミュニティ(住んでいる地域を住んでいる人が協働で自立的に守る)⇒求心力のまちづくり⇒虫の目的なまちづくり、②テーマコミュニティ(住んでいる地域と住んでいる地域が共通のテーマのもと協働でネットワーク的に守る)⇒遠心力的まちづくり⇒鳥の目的なまちづくりとの視点で、主にテーマコミュニティについて話しました。

 地域振興、産業振興、観光振興、森林・河川・海の保全、福祉に充実、教育文化の振興などなど、人々の暮らしの広域化の中で、広域行政と協働のまちづくりはこれから益々大切なテーマになって来るものと思われます。平成の大合併で市町村域が拡大し、市町村の中でのネットワーク、近隣市町村とのネットワークなどテーマコミュニティにおける協働のまちづくりは、どこかがしっかりとシグナルを出ししかけてゆかねば他人事となってしまう恐れがあるのです。そのためには何といってもそれぞれが地域が個性を発揮して輝かなければならないのです。

 ①フォレストサポートクラブ、②田舎暮らしを楽しむ会、③くれシェンドの発表は中々のものでした。また対話集会も1時間の時間が短すぎるほど参加者から沢山の意見が出ました。私にとっては初めて聞くような話もあってとてもいい活動が広域圏の水面下で行われているようで頼もしく思いました。

 どの町でも港周辺は何となくさびれを感じるものですが、呉は港周辺に大和ミュージアムという拠点施設ができたお陰で、随分活性化しているように見えます。過去には戦争という歴史の中心地だっただけに、イデオロギーの問題もあってどちらかというと沈黙を続けなければならない運命にあったようです。でも今こそ平和の祈りをこめて戦争の愚かさを後世に伝える大切な役割を果たして行かなければならないと思うのです。

 「広島広域都市圏まちづくりフォーラムin呉」に参加して、これからの協働によるづくりを考えさせられたことに加え、昨日は64歳という私の歳がそうするのか、戦争や戦後について考えさせられた充実した1日でした。


  「訪ねたい 念願かない ミュージアム 戦艦大和 さすがにでかい」

  「戦争は 愚かなことと 語り継ぐ ガイドの声が あちこち交差」  

  「目頭を 押さえたたずむ 老婆あり 人生重ね 感極まりて」

  「名を聞けば 大和魂 浮かぶ俺 戦争語る こともできずに」


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