shin-1さんの日記

○選挙に出ない公約も公約

 親しいある人から先日、「若松さん、あんた選挙に出てみないか」といつものことながらお声がかかりました。そういえば合併して早くも4年近くが経つのかと、今更ながら時の流れの速さに驚いています。今年の4月にはわが市でも市長や市議会議員選挙がおこなわれる予定で、「どうやらあの人が出馬するらしい」などと下馬評の上がっている人は正月の恒例行事に顔を出すなど行動が急に騒がしくなっているようです。縁もゆかりもないのにさも100年前からの友人のように笑顔で話しかけてくる人たちを見て、思わず婚譚を垣間見るのです。

 「選挙に出ないか」という話は正直な話、これまで何度もいただきました。しかしその度に私は「選挙に出ると妻から離婚される」などとたわけた笑い話をして相手をはぐらかすのです。ある人が「選挙はイベントみたいなもので、選挙で一儲けしてやろうと思っている人にとっては無投票になると困るから、裏であおっているだけなので、信用して出てえらい目に遭った」などという話もまんざら嘘ではなさそうです。

 人間は自分の力を過信する癖があります。「選挙に出たら」と後押しされると力量もないのに、「私もそんな人物に見られているのか」と過信します。そこがボタンの掛け違えの始まりで、頭の中に首長や議員のバッチが光り、同級生や地域でちやほやされる自分の姿を描くのです。確かに実力を備え首長や議員になっている人も沢山いて、そんなまやかしに耳を貸すことなく、地域をよくするという理想に燃えて働いている人は立派としかいいようがなく、尊敬の念を持つのです。

 私に「選挙に出ないか」といった人の真意は分かりませんが、第一線を退いて既に4年、こんなロートルな男に選挙を戦う馬力も、よしんばなったとしてもまちのために働く活力などはもうないのです。それよりも私にはそれほどの価値もないと自認してしているののです。


 私が政治という社会に魅力を感じないのは、政治の裏を見てきたからかも知れません。全てではありませんが政治には二重人格的なところがあります。一方では本当のことをいいながら、一方では嘘をつかねばならないのです。その人を嫌いだと思っても、少なくとも選挙期間中は好きだと言わなければならないし、できもしない公約をいっぱい並べねば当選もしないため、嘘の上塗りをするのです。4年後にその公約を全てやったと自分が認めていても、周りは冷めた目で公約違反と思っているのです。その証拠に最近は投票率50パーセントなんてザラの選挙区が多いのです。つまり二人に一人は政治や選挙に失望し、それを無視しているのです。かつて選挙権を勝ち得るために血や汗まで流して戦った先人の努力も今や地に落ちているのです。

 私は選挙に出ないことを公約にして生きてきましたが、私たちに代わるいい人を後押ししたり選ぶ努力だけはしなければなりません。でないとオバマアメリカ大統領の言う市民としての責任は果たせないのですから、いい市民となるようこれからも一市民として活動を続けてゆきたいと思っています。


  「妻が言う 選挙に出たら 離婚する だから出ないと これも公約」

  「公約を 変換したら 膏薬と まるで貼ったり 剥がれたりする」

  「私など 何の値打も ないのです 力わきまえ 誘いに乗るな」

  「わが家系 政治家もなく ホッとする 選挙の度に 一憂もなし」

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shin-1さんの日記

○九死に一生を得る

 「生者必滅会者定離」「人間の死亡率は限りなく100%」といわれるように、生あるものは必ず滅び、人間も必ず一度は死ぬことになっているのです。だからといって、せっかく両親からいただいた尊い命を粗末にすることはもってのほかで、自分で命を絶たない限り、天命まで生き続けれるのですから、もっと生きることの喜びを感じながら生きてほしいと思うのです。日本人の自殺者が年間3万人になったといって驚いたのはそんなに遠いことではありません。しかし最近は10年間はコンスタントに3万人を超えている統計を見ると、日本もアメリカのように悩みの深い社会になっていることは確かなようです。人間の生き方には社会が鏡のようになっていて、雪深く冬の長い北日本、しかも裏日本といわれる日本海側に自殺者が多いのも、また世の中が不景気になれば生きる希望を失った人たちが自殺を図るのも、そのせいだと思わなければなりません。自殺者3万人という数字は統計になって現れますが、自殺未遂や自殺願望者の数はこの数字の10倍、つまり30万人とも言われているのですから驚きです。

 最近ネットで人を誹謗中傷する事件が警察によって摘発されました。ネットの匿名性をいいことに、電子文字による脅迫や殺人予告をするのです。する方は面白半分やっているのでしょうが、された方はたまったものではありません。まさに現代社会が生んだ悲劇なのです。日本の道徳に「陰徳」という言葉があります。人の見ないところで徳を積むことの大切さ諭す言葉ですが、現代は人の見てないところで間違った「隠匿」を行っているのです。

 今の世の中ネットなしでは考えられないくらい普及発展しています。私のように学校でパソコンを習っていない人間には住みにくい世の中となりました。そんな時代遅れの私でも、毎日の日課としてパソコンを開けてメールをやり取りし、ブログ記事を朝晩二本書いて配信するのです。パソコンやネットが危ないのだったら見ないが一番と、パソコンをやらない人はパソコンを使う人を笑っていますが、人間の発明した道具はすべからくそうで、包丁さなければ怪我もしないし、火さえなければ火事も起こらないのですが、人間はそれらを道具として使いより良く生きているのです。

 死のうと思ったとき、誰かに助けられたという実話をよく聞きますが、これはまさに「九死に一生を得た」話です。私は自分で死のうと思ったことは64年間の半生においてまだ一度もありません。ただ「死ぬかも知れない」と思ったことは何度かありました。高校生の時、宇和島水産高校の練習船愛媛丸に乗ってオーストラリア近くの珊瑚海までマグロを獲りに行きました。マグロを腹いっぱい抱えた帰りの船が伊豆半島沖に差し掛かった折、冬としては珍しい980ミリバールの低気圧の中に入ってしまい、船長さんは私たち実習生に「死ぬかも知れない」と死の宣告をしました。実習生の狼狽は計り知れず大混乱になりましたが、低気圧が二つに分かれて脱出しひん死の思いで日本へ帰ってきました。台風一過の荒れ狂う水平線の彼方に富士山の姿を見た時の感動は今でも忘れることはできず、まさに「九死に一生を得た」私の生の原点となったのです。死ぬのはいつでも死ねるが生きることは難しい、でもつらいことはあっても生きることは楽しいと、今年も高校生の前で命を大切にするよう話をさせてもらいました。


  「死にたいと 言う人多く その度に 九死一生 経験話す」

  「世の中は 暗い話が 多過ぎる もっと楽しい ことを話そう」

  「もし俺が あの時死んで いたならば こんな楽しい ことも知らずに」

  「死の淵を さまよい生きた 人話す 生きていたなら 神は見捨てず」

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