shin-1さんの日記

○天道(天理)と人道

 日ごろ何気なく使っている日本語も、その意味を説明せよと言われたら、はて何人の人がその意味を明確に説明できるでしょうか。その意味さえも分からず使っている私などのような凡人は、はてさて困ってしまうのです。昨日小さな集会の卓話で、理論と論理についてお話ししました。すると忘年会を兼ねた飲み会でそのことが話題となり、理論とは何ぞや、論理とは何ぞやとホットな議論が交わされました。何気なく話したつもりの卓話でも、こうして聞いているのですから軽はずみな話はできないと思いました。ましてや最近はやたらと横文字が登場して、この歳になると「それも分からないのか」と言われそうなので、分かったふりをしてうなずきながらやり過ごし、家に帰ってから広辞苑を引いたりインターネットで調べたりしながら反芻して覚えて事なきを得ているのです。

 さて広辞苑によると理論とは「ここの事実や認識を統一的に説明することのできる普遍性を持つ体系的知識」「実践を無視した純粋な知識」と書かれています。一方論理とは「思考の形式、法則、または法則的なつながり」「実際に行われている仕方、論証の筋道」と書いてあり、読めば読むほど難しくて分からなくなってしまいます。

これでは分かりやすい話が余計分からなくなってしまうのです。私は理論とは実践を無視した純粋な知識、つまり物の本を読んだり人の話を聞いて得た知識だと解釈します。一方論理は実際に行ったことから生まれる知識だと思うのです。私のような学歴や学習歴の少ない人間には理論など殆どないに等しいのです。しかし私たち自称実践家には実践から生まれた論理は山ほどあって、うまく言葉で体系的には喋れないものの沢山の事例を持っているのです。株をやったこともない先生が株の話をしますが「こうあるべきだ」と語れるし、「株はいつかは下がると予測することも学問上可能なのです。しかしいつ下がるかというと顔の見えない世界で暮らしている人は「そのうち下がるだろう」と当たらずも遠からじの話をするのです。今回の世界を揺るがす同時株安も殆どの人が的確な予想は付けれなかったのです。

 私たち実践家はどちらかというと論理型で、顔の見える現場で失敗経験や成功経験を積み重ねているので

たとえ言葉の使い方は下手でも話す言葉に重みがあって人々の心に共感を得ることができるのです。

 天道と人道はどこが違うかと問われたらこれまた、広辞苑の助けを借りねばなりませんが、天道とは自然の理にかなった流れで、人は生まれ死んでゆく、道に草は生えてゆく、形ある堤は崩れ堀はヘドロや砂で埋まってゆく、橋もいつかは朽ちて落ちてゆく、これが天道なのです。一方人道とは草を引いて道を保持して歩くのに便利なようにしてゆく、堤は崩れないように補修をしてゆく、堀はさらって深見を維持し、橋は掛け替えるのです。また生まれて死ぬまでの期間様々な努力をして延命をするのです。天然自然の道理に対応し私利私欲を投げうって人間としての対応をすることがだと思うのです。

 そのたゆまざる行いを怠ればさも神仏の罰が当たったように思える様々な負の部分が生じるのです。シーサイド公園の防波堤フェンスが腐食して人が落ち怪我をしたことが県議会の一般質問でも取り上げられましたが、まさにこれは天道に人道がそむいた結果の出来事だったと思うのです。

 日本語とはこれほど難しいものかと思われるくらい、様々な対比語があるようですが、日本人はもう少し日本語の持つ意味について勉強する必要があるような気がしています。

  「理論とは 論理とはなど 尋ねられ 答えも出来ぬ 駄目日本人」

  「分からずに 分かった顔して うなずいて 知ったかぶりで 日々を過ごしぬ」

  「天道に 逆らい生きる 愚かさよ 人道極め 人の道生く」

  「難しい 話をするな 言われるが 難しくもない 逃げてるだけだ」

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shin-1さんの日記

○久し振りのスナック

 昨日はえひめ地域政策研究センターで今年最後のえひめ地域づくり研究会議の運営員会があり出席しました。数日前事務局から卓話を予定していた人が二転三転出席できず、代理登板して欲しいとの連絡が入っていたので、「これぞ卓話」という見本を示そうと意気込みました。私の場合は別に原稿を書いて喋る訳でもないので、このように軽いノリで話せるよう日常から訓練をしているのです。昨日もアドリブで30分間軽快に喋りました。

運営員会ではメンバーの行動学を学ぼうと毎回卓話を会議が始まる前に行っているのですが、卓話を聞いたり喋ったりする機会の少ないメンバーには、卓話が一体どういうものなのか飲み込めずに喋る人もいるものですから、見本を示したかったのです。私は各地のライオンズクラブやロータリークラブから卓話の依頼があってお話しする機会がよくあります。ライオンズの例だとゴングが鳴って一応のセレモニーが終わると30分間部外講師の卓話を聞くのです。卓話が終わると講師を囲んで食事会というストーリーが毎回行われているようです。いい発想だと思い、お金のない研究会議なので部外講師を雇う余裕もなく、願わくばメンバーの話を聞いたり、メンバー自らも話術を学ぼうと卓話を取り入れたのです。まだまだ改良の余地は残っていますが、それでも毎回卓話を聞いたり喋ったりするストーリーが定着し、私自身も大いに勉強になっているのです。

 昨日は、来年1月24日に行う予定の年次フォーラムの企画と2月28日・3月1日に行う予定の視察研修が主な議題でした。既に企画委員会の企画したプログラムも出来ていて、議事運営も予想以上の速さでスムースに行われ、少し早目の終了となりました。

 この時期の集会は忘年会がつきものです。この日の一次会はさかなやという始めて行った店でした。店先でマグロの解体をショーとしてやっている珍しいお店でした。松山でなぜマグロなのかよく分かりませんが、それでもこのところ新聞紙上を賑わせているマグロですから、注目度は抜群で店先の解体作業には黒山の人だかりができていたようです。

 会費4千円で2時間飲み放題だそうですが、薄利多売的な感じがして、師走ながらも不景気風の吹く飲食産業を象徴しているようでした。私や塩崎さんは昔大酒を飲んだため体を壊して酒が飲めなくなっているため、もっぱら食べることに専念し、私などは刺身のつま物である大根のケンも全て平らげてしまいました。


 酒を飲まなくなった私たちは最近2次会に繰り出すことは滅多になくなりましたが、昨日は久しぶりにそのビルの9階にある桂子というスナックに行きました。始めての店なのですが実はこの店のマスターとはご縁があって、一度は訪ねたいと思っていました。というのもここのマスターである小笠原さんは変わり者でスナックを経営しながら4年前には社会教育主事の講習を愛媛大学で受講しているのです。その時「社会教育とまちづくり」について講義をしたり、現地演習で双海帳に来てもらったりした旧知の間柄なのです。加えて先日国立大洲青少年の家で平kれた地域教育実践交流集会の実行委員でもあるため、必ず近いうちに行くからと再会を約束していたのです。たまたま一次会とお店のあるビルが同じだったため、千載一遇のチャンスとばかり乗り込みました。お店は清潔感が漂い、10人で行ったのですが話も出来ていい雰囲気のお店でした。驚いたのは隣にかつて行きつけだったシーホースというお店が隣なのです。ここのママさんとは私が工業高校のPTA会長をしていた折の役員さんで、昔はここが根城のようなものでした。いずれの店も9階のにあるため野球になぞらえ「九回の裏で後がない」なんて軽い冗談を飛ばして飲んでいました。小笠原さんは奇遇にも松工ラグビー部出身だし、地元の消防団にも入ったりしてかなり幅広くコミュニティ活動をしていて、頭の下がる思いです。また行きたい思いで、10時過ぎお店を後にしました。


  「概念を 吹き飛ばすよな マスターに 出会い二次会 楽しく過ごす」

  「久し振り 同行二次回 ウーロン茶 それでも酔った 気分で話す」

  「飲む金も 安くなったと 財布から 言われるままに 釣銭貰う」 

  「またおいで また行くからと 手を振って スナック出れば 師走の風が」

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