shin-1さんの日記

○カレンダー

 年末になると沢山のカレンダーがわが家に持ち込まれます。現職の時代は選りすぐって必要なものをいただいて帰っていましたが、今は息子の仕事上のものが多く、旅や自然ではなくむしろ建築物といった感じの物が多いようです。基本的には一番家にいる機会が多い妻が居間、台所、トイレの順で決めて行くのですが、台所には大きな日めぐりと私の一ヵ月の予定を書き込めるこれまた大きなカレンダーが掲げられ、新しい年を迎えう準備は着々と進んでいるのです。

 数日前郵便局へ荷物を出しに行ったら役所の大森さんに出会い卓上用の双海カレンダー2009というのをいただきました。大森さんは双海町役場時代に広報を担当していたこともあって、パソコンでこうしたものを作る技術にたけていて、人間牧場来客用のスクラップブックをリーフレットにしてプレゼントしてくれました。

 月捲りのカレンダーの表紙は翠小学校の全景です。昭和6年にできた赤い屋根の校舎は現役木造校舎としては最も古く、すっかり有名になっています。今ははエコ改修が行われつつあります。さてさて一足早くカレンダー12ページをめくってみましょう。

1月は日本水仙花開道   ご存じ下灘豊田漁港を一望できる高台に白い水仙畑が青い海をバックに広がっています。今年は17日と18日の二日間水仙祭りが開かれ大勢の人が訪れることでしょう。

2月は冬の海です      満野から高野川に至る国道378号はどこからでも綺麗な冬の海がのぞめます。特に冬になると浮島現象によって島影が空中に浮かび沖の船も空中を走っているようです。

3月は閏住地区の菜の花です JR予讃線と国道378号の間になる斜面が一面菜の花に彩られます。3月1日の菜の花祭りや菜の花ウォークも沢山の人がやってきます。また菜の花トロッコ列車も運行されています。

4月は本郷千人塚の桜です 双海町には通称八景山周辺は桜の名所として知られていますが、千人塚の池周辺の桜はひと際美しくカメラの被写体として度々登場しています。

5月は潮風ふれあい公園のツツジとアジサイです 毎年5月の連休ころに咲く潮風ふれあいの館周辺に咲くツツジと高野川駅のツツジも見事です。また潮風ふれあい公園内にはアジサイも沢山植えられています。

6月はほたるの里ふたみほたるまつりです 毎年6月第1土曜日に行われるほたる祭りには多くの観光客がやってきて、幻想的なほたるの乱舞を楽しんでいます。ほたる市やめーセージフーセンも話題になっています。

7月は双海のシンボル本尊山です。 一山をなすこの山はまるで絵にかいたような美しさで、春夏秋冬それぞれ趣があります。特に唐崎方面から見た本尊山と秋のハゼ紅葉の頃が一番美しいといわれています。

8月はシーサイド公園です 夏になると沢山の人が海水浴に訪れ砂浜は原色のパラソルや水着に彩られます。特に若者に人気の高いスポットで恋人岬は全国恋人の聖地100選にも選ばれています。

9月は下灘駅の夕焼けプラットホームコンサートです 今年で24回目を迎えたコンサートも今では県下屈指のコンサートとして有名になっています。当日は夕焼けトロッコ列車も運行されます。

10月は秋祭です 三島神社や豊田神社、天一稲荷神社、若宮神社、高野川神社などから神輿が繰り出し威勢良く町内を練り歩きます。子ども神輿や獅子舞も出ます。

11月はやはり本尊山の秋でした 7月の写真は下灘みなと祭りでも良かったかと思いつつ、めくる楽しみを感じつつめくりましたが、この写真ののアングルが長い長い灘町の鉄橋なので納得です。

12月はシーサイド公園のサンセットロママンチッククリスマスです 大空からサンタクロースやトナカイがパラグライダーに乗ってやってくる奇抜なアイディアは当時全国的に話題になりました。

 人それぞれに人それぞれの思い出の場所があります。双海町も探せばもっともっと町外の人に自慢できるようなカメラアングルがあるはずだと思いつつ、まだ新年も来ていないのに楽しく一年を追いかけてしまいました。大森さんありがとうございました。

  「歳の瀬に いただき物の 新しき 卓上カレンダー めくりつ夢を」

  「明日から 机の上で にらめっこ このカレンダーに 管理されるか」

  「後輩が こうして手配 してくれる お陰で俺も 音痴ならずに」

  「アイディアは こうした実践 積み重ね いつか芽が出る 陰徳果実」

  

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shin-1さんの日記

○縁起を担ぐ

 昨夕親父が、「明日は暦を見ると仏滅のようなので、今日中にお飾りを飾った方がいい」と言ってきました。「藁を貰う日も、藁をそぐる日も、ましてやお飾りを作る日もいい日を選んでいるのですから、最後ぐらいはきちんと」というのが親父の本心のようです。夕食が終わって少しくつろいでいた頃だったので腰は重たかったのですが、年寄りの言い分にも一利あると思い、帰省している長男と一緒に私の書斎にストーブをたいて始めました。既に作っているお飾りのほか、竹やウラジロ、干しガキ、ダイダイ、半紙、水引き、お参盆などを取り急ぎ用意し、慣れた手つきで始めました。息子もこれまでに何度か手伝ったこともあるので通称おたまじゃくしというお飾りにウラジロをつける作業をしてくれましたがスムースです。私は包書の中にタツクリやお米、切り餅などを要領よく包み込み水引きで綺麗に縛るのです。最近は近所のお店でもこの水引きの入手ができなくて、三年前から新品の祝儀袋に使っている水引きを丹念にほどいて使っていますが、これが案外重宝なものなのです。

若松進一ブログ
若松進一ブログ (熱心に見入る長男の長男希心)

 やがて本番とでも言うべき本宅の玄関と隠居の玄関、それに神様棚のお飾り仕上げに取り掛かり、氏神様からいただいたお札を付け、出来上がったお飾りを暗闇の中息子と二人、懐中電灯と脚立で取り付けました。昨夜は季節風が吹き荒れ寒い夜で強風で吹き飛んでいないか心配していましたが、今朝はどっしりと玄関を飾っていて安心しました。

 風呂を入る前の長男の息子もまだ1歳4か月で何のことか分かりませんが、お父さんとおじいちゃんが別室で何やらやっていることが気になってときどき覗きに来ていましたが、この子どもの頃にはこんな古い日本の正月を迎えるしきたりも古いとい名の下に消えてしまうのかと思うと、少し寂しくなるのです。近所の人に聞くとお年寄りがいてももう何年も前からお飾りはお店で買うものと決めているそうで、近所かいわいでは私の家が最後の砦になっているようです。


若松進一ブログ(隠居の玄関のしめ飾り)
若松進一ブログ(本宅の玄関のしめ飾り)

 民族学者宮本常一の本を読み、民俗学に興味を持つ私にとっては、余りにも早い時代の流れに翻弄されて日本人が日本人たることを忘れてタダ無意味に行動いるような気がして心が痛むのです。確かに頭では民俗学も本を読めば分かるし理解もできるのですが、いざ自分の身の回りの実践ということになるとかなり怪しいのです。

 私の家は3代続いた漁師の家です。私が4代目なのですが漁師の後を継がず、わが息子も、多分その息子も漁師と縁のない世界に生きることでしょう。でも私まで4代続いた習慣を私で終わらせるわけにはいかないと思って、色々と考えた行動をしていますが、はて時代につながるかどうかはこれまた微妙です。人は神仏をも含めた自然という目に見えないものに恐れおののき、信仰という形で神仏のご加護を願い生きてきました。この町には漁師町故にそんな伝統や風習が沢山ありますが、この10年くらいでほとんど姿を消してしまいました。記録にとどめるすべもなく消えてゆくのを指をくわえて見ている今に生きる人間の愚かさも垣間見るのです。そんなジレンマのはざまの中で今年も暮れようとしているのです。


  「風邪伏せる そんなの理由 なりはせぬ 今日中飾り 作って飾れ」

  「明日あたり 四代長男 集まって 記念に写真 撮って残こそか」

  「長男の 長男一番 風呂に入り 長男の次 長男残り湯」

  「よく出来た 見上げる戸口 しめ飾り 神々しくて 新年間近か」 

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shin-1さんの日記

世にも珍しい紫色のカリフラワー

 「進兄ちゃん」このカリフラワー凄いねえ」と、近所で「くじら」という小さな海産物屋を営む妹が畑の中で見たこともない紫色のカリフラワーを見つけました。妹は同じ町内に嫁ぎ幸せに暮らしていますが、時折親のご機嫌伺いに手作りのものを持ってきてくれるのです。この日もいも餅を持ってきてくれました。私はその度に家の畑に連れて行って野菜を収穫してやるのです。

 先日も親父から妹が沢庵漬けにする大根が欲しいと言っていたという話を聞いていたので、30本ばかり引き抜いて水洗いしてお店まで持って行ってやりました。妹は大層喜んでくれましたが、「そういえば去年も大根を洗ってやったな」というと、「あらそうだったかしら」とごまかされました。まあ商売をしながらおじいさんの介護をしたり妹も大変だろうと思う優しい兄の心根だ思ってもらえればいいので、別に押し付けたり勿体ぶる必要はないのです。その妹がここの野菜は凄く生き生きとして育ちがいいというように、毎年伊予市の水口まり子さんからいただく苗が良かったのか世話が良かったのかは分かりませんが、零年になく良い出来で、カリフラワーは軽く塩ゆでしてマヨネーズで和えて食べたり、てんぷらにしたり、シチュウに入れるととても美味しいのです。

 わが家ではカリフラワーもさることながらブロッコリーが欲しかったのに、今年は何故かブロッコリーと思って植えたものがカリフラワーばかりで、少し意気消沈しているのです。

 妹が畑の隅で見つけたカリフラワーは私もまだ見たことがなく、全てが綺麗な薄紫色をしているのです。私はこれまで忙しさにかまけてカリフラワーがどんなに育っているのかも知りませんでした。12月の初めに親父が「畑のカリフラワーが食べごろになっている。食べないのなら誰かに差し上げろ」というのです。見ると丸々と太ったカリフラワーが収穫の時期を迎えていました。姉や妹、近所に住む叔母たちにもおすそ分けしましたが、これから冬になると野菜が不足がちになるので重宝して使いたいと思っています。親父は草も早さない代わりに2~3本残るとそこを引き抜いて耕す癖があるので、気分を損なわないようにやんわり話さなければなりません。

 しかしこの紫色の品種は一体何という品種なのでしょう。まだ試食していませんが、正月には息子たち家族や娘たち家族がやってくるので楽しみにしたいと思っています。


若松進一ブログ

 今日は年末らしく、また海沿いの町らしく寒い北西の風が朝から強く吹き荒れていています。波しぶきは容赦なく岸壁を洗い、潮煙りは国道を走る車のフロントガラスにこびりつきます。漁師さんはもう既に昨日で漁を止め正月休みに入っていて、来年の1月4日まで休みのようです。そんな強風が寒さを殊の外感じさせ、道行く人も足早に歩いていますが、体感温度は寒いものの外気温が0度を下がることはまれで、風邪対策さえすれば海の温かさの恩恵を存分に受けれるのです。野菜も雪囲いや防寒対策を全くしなくても腐ることはないのです。ただし風邪ひきに弱いサツマイモなどはやはりモミガラなどで防寒対策をしなければ腐るようです。

 今年は伊予路に春を呼ぶ椿さんが2月1日だとか、早い春の訪れになりそうな予感です。 

  「今晩は 紫色の カリフラワー 食べてみといと 手ぐすね引いて」

  「植えたはず ブロッコリーが 見当たらず 収穫する頃 分かるお粗末」

  「そういえば 大根洗った あの時が 風邪の始めと 今頃分かる」

  「風邪ひくと 悪いことだけ ではないと 働きもせず 楽して年末」

 

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shin-1さんの日記

○涙が出るほど痛かった皮下注射

 何が嫌いかって尋ねられたら、私は子どもの頃から今日までずっと注射をされることが大嫌いです。小学校や中学校で担任の先生が「はーい皆さん明日は予防注射がありますから、今晩はお風呂に入って綺麗にして来て下さい」何て言われると、本当に腹や頭が痛くなったようなふりをして学校を休んだことだってあるのです。しかし欠席の児童生徒は数日後医院に直接行くよう促されあえなく注射の餌食になったのです。学校医の先生も私が注射嫌いだということをよく知っていて、「進ちゃんはまたずる休みしたのか」といわれる始末です。

 そんな私も胆のうを取る手術を受けてからは2ヶ月に一度の定期健診を欠かさず、その度に注射による採血検査に応じているのですから偉い進歩なのです。でも残念ながらインフルエンザなどの予防注射は生まれてこの方まだ一度もしたことがないというこれまた珍しい人間なのです。ゆえあってかまだ一度もインフルエンザにかかったことがないのです。

 昨晩9時ころ39度近くの熱が出ました。知恵熱ではなく風邪による熱なのですが、寝ているとパジャマが濡れたのではないかと思うほどの汗をかき、その度に妻の介助を得て汗を拭きとり、パジャマを4回も着替える奮闘でした。お陰で妻は少し寝不足のようですが、水分補給をしながら朝を迎えました。

 妻が「お父さん、今日の午後から年末年始の休診になるらしいから病院へ行こう」と、この歳になって付添つきで長浜の城戸岡病院へ出かけました。今日は早かったこともあり比較的空いていました。早速先生に「薬を飲みましたが一向に良くなる気配がなくむしろ悪くなようです」と先生の気分を逆なでするような発言をしましたが、先生は笑って初診からまだ3日目でしょう。そんなに早く良くなるのだったら医者話要りませんよね」とグサリやり返されました。

 「先生私は昔から注射が大嫌いですが、昨日の晩は熱にうなされ大汗をかきました。風邪だと馬鹿にしていましたが、これ以上は我慢が出来ないので、痛くない注射だったら打ってください」というと、大笑いをして「肺のレントゲンを撮りましょう」とレントゲン室です。やがてレントゲンの結果は直ぐに大写しにされて「肺に異常はありません。ご希望通り注射をしますが、この注射はめっぽう痛い皮下注射です。覚悟をして処置室へどうぞ」と相成りました。もう帰ろうかと思いましたが、妻も一緒のことゆえ大人げないと思いついには看護婦さんに二の腕に痛い痛い注射を打たれてしまいました。まさに病気が治ったような目の覚める一撃でした。こんなはずではなかったと思いつつ、妻の運転する車の助手席に乗ってわが家へ帰ってきました。


 家に帰ると長男家族がやってきていましたが、マスクをしないと孫に風邪がうつるとか、妊婦に風邪がうつるからマスクをするようにとかまるで隔離病人で、結局はみんなどこかに散らばって行きました。妻からは暖かくして寝ているようにと布団を敷いてもらいましたが、日頃から寝る時間の短い私が昨晩など夜8時に床につき、朝8時まで床にいたのですから、そんなに眠れるわけがないのです。

 妻の心配は私が書斎にこもってパソコンをいじる時間が長いことも風邪をこじらせた大きな原因だと勘違いしているようです。病院に勤める妻はパソコンを使うと肩に張りが出るそうで、私などはむしろ寝ている方が肩が凝るのです。そんな訳で妻は只今正月用の餅つきのためシーサイドへ出かけているのでこれ幸いとばかりに居間を抜けだし、書斎でパソコンを打っているのです。

 しかし年末は来客もかなり多く、座ったと思えば玄関や勝手口のチャイムが鳴り、留守番も中々大変なようです。こうして今年もあれやこれやの一年もあと一日となりました。「うん?、注射が効いてきたのかな?。体が少し楽になったような気がするなあ」。


  「誰だって 注射が好きな 人いない 今日の注射は 飛びきり痛い」

  「あの医者は 俺より上だ 楽しんで しっかり儲け もっと意地悪」

  「お大事に 声もそぞろに 医院出る 注射の仇 打てないものか」

  「一日が あっという間に 過ぎて行く 風邪をひかずば できただろうに」   

 

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shin-1さんの日記

○強い助っ人たち

 今日は私が風邪をひいたという知らせを受け、親孝行な長男と次男が手伝いに帰ってきてくれました。今日の手伝いは家の周りの全ての冊子と網戸の拭き掃除なのです。わが家の毎年末の恒例行事なので、子どもの頃から手伝わされていることもたちにしてみれば一階と2階のサッシ窓だけで大小合わせると52枚にも及ぶ相当量なのです。お湯を沸かし中と外からしかも窓枠サッシに加え25枚の網戸も拭かなければならないのでそれは大変な重労働であることは百も承知でなのに、次男は夜勤明けで眠いだろうに手伝ってくれるのです。

 昼前から始め昼食をはさんだり来客対応するなどのしょようもあってか、4時近くになっても一向に終わる気配がないのです。実の妹みゆきがやってきて二人の善行を持ち上げてくれ大助かりです。

 親父もそれにつられて、本来私がやらなければならない裏庭の草の手入れをこれまた朝早くから夕方までやってくれ、見違えるように綺麗になりました。今夕からは雨になるそうで今にも泣き出しそうな曇り空ながら幸せなことに温かく、無風状態なので作業がはかどっているようです。

 わたしはというと、時折ご機嫌伺いにやってくる長男の子ども孫希心に風邪をうつさないようにマスクをして抱いてやるくらいで、パソコンを打ちながらボケーと過ごしているのです。風邪の具合も少し良くなってタンも咳も少し治まったようなのです。

 今日の昼は妻と嫁が共同で長男の大好物であるスパゲッティを作ってくれました。すこぶる美味しいものの食欲は今一回復せず、皿盛りしたスパゲッティを半分残し息子に食べてもらいました。これで食欲が復活するといいのですが、まだ少し時間がかかりそうです。

 食後という指定された時間に5種類もの薬を飲み、その都度眠り薬が入っているのか眠気を催し、そんな繰り返しをずっと続けているのです。

 高座本の原稿も少し片付き後5話ですから年内には書き終わるかも知れません。今回の水の書も前回の地の書と同じように面白い話を満載です。しかし目標が150話とは気の遠くなるような目標をよくもまあ立てたものです。書き始めてこれがとんでもない数字だったことを私自身身をもって体験しました。人に公言すると後に引けなくなるからと信じて始めましたが、今は後に引きたい心境なのです。でもあせらずコツコツただコツコツと牛歩のごとく歩を進めて行かねばなりません。小さな田舎の町の元役場職員が退職後もこんなことを考え行動しているのですから、世の若い職員さんたちよ頑張ってくださいと、風邪気味の体に鞭打つ今日この頃です。

 それにしても今年は風邪をひいたというアクシデントが二人の息子支援を引き出しました。これからもよろしくお願いいします。


  わが息子 ながら頼もし 限りなり 誰の教育 きっと妻かも」

  「妻に似て 男前だと 妻が言う 俺に似たこと 果たしてあるか」

  「今日だけは 妻を持ち上げ 息子まで 持ち上げお礼 年玉はずむ」

  「ガラス戸を 磨いてどこか 風景が 違ったような錯覚覚え」



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shin-1さんの日記

 今朝勝手口の戸が開いて親父が「息子の風邪はまだ良くならないのか?」と心配してやってきたようです。それもそのはずもう3日間も親父の隠居へ行っていないのですから、息子恋しくなったのでしょう。妻いわく「まだ治らないようですよ」というと、「風邪が治るまで来なくていいから温たかくして寝とるように」と言って帰って行きました。親父は案外風邪に弱いので私が風邪を持ち込むと移って大変だからと思ったのでしょうが、有難いお言葉です。

 風邪をひくと急に妻が優しくなるような気がします。「お粥を炊いたから食べて」とか「薬は飲んだの」とかいちいちうるさいくらい世話を焼いてくれるのです。年末の忙しい時期なので手助けしてもらおうと思って手ぐすねを引いていたでしょうに、これでは役に立つどころか足を引っ張る始末なのです。

 風邪をひくと食欲が体を動かさないためか食欲がなく、何を食べても美味しくないのです。妻は体に良いものをと作ってくれるのですが、結局は喉に通らず、この3日間で少し痩せたのではないかと思うほど足元がフラフラするのです。病は気からといいつつ自分が病気になるとそんな気分にならないのももどかしい所です。

 「お父さん、今晩は暖かいものを食べてさっと風呂に入って温まり、布団をかぶって汗を出しなさい」というので、風呂上りにたまご酒を呑んで早めに床につきました。病院で処方してもらった薬の中には眠り薬が入っているのか、ついウトウトして眠っていると、妻の言うとおり体中から汗が噴き出してきました。妻を起こして汗を拭いてもらいパジャマを着替えて床の中にもぐりこみました。

 夢を見ました。友人たちと一緒に北海道に旅行しているのです。メンバーの中には10月20日に66歳で亡くなった友人の大森安幸さんもいました。私が声をかけるのですがどういう訳か一言も喋らず、デジカメで私の写真を何枚も撮ってくれました。ふと我にかえって夢から覚めるともう汗びっしょりでした。再び妻の介護?でパジャマを着替えましたが、妻は「お父さん、これで風邪は抜けるかも知れないね」と言ってくれました。

 死んだ人が夢の中に出てきて、しかも私の写真を撮ってくれたのですから、年末までに仏壇に線香でもあげに行かなければなりますまい。

 風邪は自問の登竜門だと思います。夢を見たり、ひょっとしたら肺炎になっているではとか、また人の優しさが心の琴線に触れるのです。そして早く元気になってあんなこともこんなこともしようと思いめぐらすのです。風邪をひいたくらいでこうですから病院に長期入院している人にとっては、当然色々なことを考えるはずです。時には悲観の谷底へ突き落されることもあるでしょう。日ごろ元気な私ゆえに弱者の気持ちなどには目を向けることもありませんでした。親父や妻が風邪をひいてもそのうち治るだろう、風邪くらいで弱音を吐いてと思っていましたが、少し心を改めてみたいものです。

 私が書斎にこもってストーブの前でぬくぬくとパソコンをいじっている窓の外では90歳の親父が這いつくばるようにして庭の草をひいてくれています。本当は反対の立場なのにと思いながら、ただただ感謝の思いを込めて親父の姿を見ているのです。

 親父は貧乏な家庭に生まれ辛酸をなめながら90歳まで生きてきました。親父などから比べると私は月とすっぽんです。小学校さえもロクに出ていない無知文盲ながら、人の道を自学で悟り、多くのことをなし得てきました。親父を見ながら親父のように強く生きたいと、自問の蓋を閉めました。


  「風邪ひいて 自問の蓋を 開けつつ あれやこれやと 思いめぐらせ」

  「風邪ひくと 妻が優しく なりにけり こんな優しさ すぐに現実」

  「ストーブの 前でぬくぬく してるのに 九十親父 外で草ひく」

  「九十の 親父息子の 風邪見舞い 心配掛けて 返す言葉も」 

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shin-1さんの日記

○しめ縄づくり

 お正月の準備も簡素化したもので、おせち料理は外注し、餅も売っているものを買ってくるだけ、しめ飾りさえもスーパーで買ってきたもので済ませてしまうのです。わが家は年寄りがいるためこのことについては特に口うるさくて、しめ飾りを作るのは長男たる私の仕事なのです。私は親父から伝授された技で、しめ飾りを中学生の時から作っています。したがっても半世紀は作り続けている計算になります。

 しめ縄飾りを作るのにはまず藁が必要です。今はコンバインで稲を刈るため細切れにして畑に還元するため、頼んでおかないと確保が難しいのです。10月に稲藁を貰いに行って倉庫に確保しておくのです。親父は元漁師なので大安とか市の満ち引きなどを見計らって藁の袴をそぐり、真だけにして和tら市の出番を待つのです。しめ縄を作る日も大安か先勝、友引を選べと口うるさく言います。スーパーなどで売っているしめ縄はそんなこともなく無造作に作っているから駄目だというのです。

 今日は先勝です。午前中なら日がいいから作れというので、少し熱っぽい体を押して作り始めました。わが家ではオタマジャクシと称する小さめのを15個、玄関用にのれん風のを1個、親父の玄関用に1個、それに神棚用にエビ風のを1個の4種類を作ります。今日は気力も体力も減退していますが、台所のストーブの前にゴザを敷き、

縁起ものなので気合を入れて作りました。 

 作業は2時間弱で終わりましたが、私が作ったしめ縄飾りを見て親父も満足したようで、これで今年も新しい年が迎えられそうだと喜んでいました。これれのしめ飾りにはウラジロというシダの一種が必要なのです。最近は山が荒れてそうしたウラジロも遠方まで取りに行くのだと友人から聞きましたが、私には歩いて4~5分もの近い場所にとっておきの場所があるのです。気分転換のつもりで出かけましたが、僅か10分ほどできれいなウラジロを確保することができました。風邪をひいた私の体を気遣って親父は私と同じような場所へウラジロを取りに行ったらしく2重になりましたが、それでもたくさん取れてホッとしています。

 今年の年末は明日が友引、明後日は先負、大みそかは仏滅らしく、明日にでもウラジロやカブスを付けて飾ろうと思っていますが、はてさて親父から私への年中行事の伝授は行われているものの、私が長男である息子にこうした年中行事の伝授をしていないことに気が付いています。もうそろそろと思ってはいますが、今の若者は縄をなうことすら知らない世代ですから、ちょっと危ないような気もするのです。

 三人の息子たちが小さい頃はみんなでしめ縄づくりを賑やかにしたものですが、一年に一回の作業で伝授できるものでもなく、今年こそはと手ぐすね引いていたものの、蒸すかは風邪気味の嫁に代わって子守りが忙しいらしく、とんと当てにならず、今年もそのことは棚上げとなりました。


 餅つきもこれから妻の仕事です。餅つきはシーサイドの加工場で友人たちと賑やかに行うようですが、妻にはおせち料理を作る仕事や年越しソバを作る仕事がたっぷり待ち構えています。わが家では毎年年末に家の周りのガラス戸や網戸を掃除する習慣がありますが、私の体調が優れないこともあって長男の協力を得なければ不可能なのです。

 いつの間にかわが家にも世代変わりが進みそうな雲行きですが、おせち料理はもうそろそろ息子嫁と妻も思っていたのに、来年の5月に第2子誕生の身重な体にて、今年も妻の負担になりそうです。

 あと3日で今年も終わりです。やり残した仕事を片づけながらもう少し頑張ってみようと思っているところです。


  「スーパーで 買えば苦労も ないものを 縁起担いで しめ縄くらいと」

  「縄をなう こともできない 世代にて しめ縄伝承 難し過ぎる」

  「私には 次に伝える 義務がある 息子へそして 更なる息子」

  「日本の 正月ありよう 随分と 変わってしまい 何が何だか」


 

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shin-1さんの日記

○風邪で原稿書きが大幅に遅れる

 昨年は正月を挟んでぎっくり腰に悩まされ、整体院へ何度も足を運びましたが、今年はこともあろうか風邪をひいてしまい、戸外へ出ることもできず悶々の日々を送っています。正月休みには「夕日徒然草・水の書」を執筆するよう予定に組んでいて、本当は年末に全ての原稿が書き上がる計算でした。しかし風邪の症状がおもわしくなく、気分が乗らないのです。気持ちは焦るし、こんな気持ちで書くと出来上がった原稿もどこか沈みがちなのです。やはりいい原稿を書こうと思えば体を万全にして臨まなければならないようです。

 昨日は熱っぽい私を見て妻が体温計で計ったところ38度5分もの熱が出ました。熱なんか出たこともないのですから妻は心配をして、ヒエピタという孫のために買っておいた熱さましのサロンパスのようなものを額に張り、熱い粕汁を作ってくれました。そして早々9時には風呂も入らず床に就いたのです。咳と痰が絡んで体の節々が痛くてたまらないので、夜中は何度も目が覚めましたが、余り寝過ぎると腰が痛くなるので、今日は少し遅めの6時に起床しました。

 妻曰く、「お父さんあんたももう若くないのだからあまり無理をしないようにしてください。この一年とにかく傍で見ていてもよく体が持つなあと思うほど動き回っているのだから、この際正月はゆっくり休んでい英気を養ってください」と肩を持ってくれました。

 確かに思い当たる節はいくつかあります。今年は全国大会などの大きなイベントが沢山あって、年中忙しく振舞いました。また講演活動に加え人間牧場の活動もいよいよ活発になり、毎日空いた日が殆どないのです。私の歯車も順調に回っている間は間断なくいいのですが、少し狂うとガタガタになるような気がしているのです。

 生涯現役を掲げているものの、「そうだ、あれとあれから身を引こう」と心に決めていますが、うまく軟着陸できるかどうか心配です。

 数日前、東京の出版会社から一冊の本が届きました。私が頼まれて書いた今年一番長い原稿用紙50枚の刷り上がりです。妻に読んで聞かせると「お父さん、よくもまあそんなに長い文章が書けるね」とあきれ顔でした。最近は請われるままにエッセーや文章も書いていて、これも年間では相当量に上るのです。愛媛新聞社の【自悠くらぶ】というサイトには毎週必ず1本の記事を書いて送らねばなりませんし、あれやこれやの締め切りに追われた原稿書きも少しボディブローのように体に効いているのかも知れません。

 そういえば最近は人間牧場の作業も冬に入って一休みのため、体力をつけるような運動も不足しているようです。あれやこれやと思い当たることを改善することも大切ですが、ともあれ風邪を早く直して元気に新年を迎えたいものです。


  「風邪ひくと 妻が優しく なりにけり それもそのはず 大黒柱」

  「お父さん あんたは偉い 褒めてくれ 長い文章 書くのですから」

  「この一年 とにかく動いて 働いた たまには気分 優れぬ時も」

  「俺の顔 鏡に写して 驚いた まるで病人 これはいかんな」 

  「


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shin-1さんの日記

○無医になった上灘地区

 双海町上灘地区で開業医として長年医療に携わってこられた梶原先生が急に亡くなり、病院は11月いっぱいで閉鎖となりました。10月7日に開かれた双海史談会では元気な姿を見せられ、戦争の思い出について熱っぽく語られていたので、今でも信じられない思いです。私は11月8日のブログに梶原先生の写真を載せて先生の紹介をしているますが、まさかこんなに早く姿を消すとは・・・・・。

 先生の息子さんは医者なので無医になっては大変と強烈なラブコールを送ったのですが、先生にも都合があって向こうの病院を辞めることができないとのことでした。

若松進一ブログ(二か月前は元気だった梶原忠弘先生)

 双海町は昔から下灘地区と上灘地区に分かれていて、下灘には診療所があります。私の親父は合い派が合うというのか、下灘の診療所の先生が気に入って、何かにつけて7キロも離れた下灘の診療所へ通うのです。それでも歳をとった人たちのように交通手段を持たない人にとっては、直ぐ傍にお医者さんがあるということだけで安心するものなのです。私は定期健診で県立中央病院へ二ヶ月に一度出かけていますが、それ以外は病院にはほとんど行きません。この顔で注射が嫌いというのも理由ですが、余り病気をしないのです。しかしこの2~3日の風邪の症状などは近くの病院であれば気軽に通院できるのです。

 私は今日妻の勧めもあって長浜の城戸岡という病院へ風邪の症状を診察してもらいに行きました。この病院の院長先生は妻の妹の旦那さんの甥になるらしく、妻も何かがあるたびに出かけているようです。今日年末の休みになったこともあってか病院は余り患者さんがいませんでした。したがって5分ほどの待ち時間で診察が始まりました。注射もせず、簡単な問診と聴診器診断で注射をすることもなく薬を処方されました。年末年始が休診のためお願いして一週間分をいただきしめて1250円を支払いました。もし近くに梶原先生のような人がいたらいいのにと思ったものです。

 最近は公立の病院が赤字運営を理由に病院を閉鎖するところが増えています。銚子市ではやむなく病院を閉鎖したことを公約違反だと住民が訴え、市長のリコール運動にまで発展しているようです。財政難の地方自治体にとって病院の運営は厄介なものです。幸い私の町は下灘診療所も施設借与の開業医です。したがって病院の

赤字などは全くないのです。これまでの行政サービスは機嫌取りや補助金漬けにして、住民の自立心をそいでいる部分も多分にあるようです。さりとて今まであった病院がなくなるとこれまた厄介なものです。松山市の郊外などに出かけてみると、病院が滅茶苦茶できていて、見える範囲に病院の看板とコンビニの看板が軒を連ねているのです。

  「無医地区に なったはてさて どうしよう 車に乗れない 人たち嘆く」

  「医者だって 潰れる時代 あちこちに 乱立気味の 看板目立つ」

  「医者だって 自分の寿命 分からない 人も一度は 死ぬのですから」

  「健康に 暮らしていると 分からない 健康の意味 初めて分かる」

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shin-1さんの日記

○長男が糞をひらねば家は潰れる

 昨日は風邪気味なので自室にこもって年賀状の作成をしました。机の上に置いている新旧2台のパソコンには、私の個人情報とでもいうべき友人の名簿がぎっしり入っているのですが、古いパソコンから新しいパソコンへ移し替える技術など私にはなく、息子にお願いしなければならないのです。息子はそんな私の悩みを察して、早々と名簿を映してくれたようですが、調べてみると約半分しか移し替えていないのです。

 息子に電話をしましたが、あいにく仕事が忙しいようで年末休暇になったら対応するといっただけで何の応答もないのです。年賀状が片付かないとどうも仕事が終わったような気がしないのです。結局年賀状は半分しかプリントできませんでした。

 昨晩は看護師をしている次男が夜勤明けで久しぶりに帰ってきました。早いもので日赤の看護師として務めるようになって1年9ヶ月が経ちました。最初は女性中心の職場に翻弄されながら、かなりきつい仕事のように傍目から見ても見えましたが、今では自信がついたのか明るい好青年に成長してきました。30歳を超えたのでそろそろ身を固めるよう願っていますが、当の本人はいたって平気で「まだまだ」と相手にもしてくれないのです。私たちが次男の歳にはもう子どもが4人もいて、しかも自宅を新築するという大事業までやっていたのですから、もっと真剣に考えろといってやりました。

 次男は昨日、買ったばかりの単車に乗って帰ってきました。何もこの寒空に単車になど乗らなくてもと思うのですが、今年一番の冷え込みの中を元気はつらつでした。昨晩は親子水入らずで3人で鍋を囲み楽しい話をしました。わが家は幸せなことに子どもは4人とも全て県内に住んでいます。これは私たち夫婦の方針なのですが、子どもは4人とも凡人に育てたため都会を目指すことはしませんでした。

 田舎は貧乏しながら勉強させて都会予備軍を作ることを良しとするような向都離村の教育を戦後60年余り続けてきました。故郷に錦を飾ることが何よりも出世だと勘違いしたのです。その結果歳老いた親は独居や寝たきりになって寂しい一生を終わるのです。そんな姿を随分見てきた結果の選択ですから私も子どもも満足しています。

 私の子どもは県内にいますから帰ろうと思えばすぐに帰れるし、兄弟のきずなもすこぶる良くって、これ以上の幸せはないのです。孫も週末にはわが家へ訪ねて来てくれるのです。

 目下のところ90歳になる親父の心配は長男をわが家に呼び寄せ一緒に住むことなのです。尾籠な話ですが親父の口癖は「長男が糞をひらねばその家は潰れる」です。親父も私も長男に生まれこの家に糞をひってきました。私の長男にそれを求めるのは酷かもしれませんが、できることならそうしたいと思っています。今日は長男が帰ってきます。

 

  「長男が 家に糞ひる 言い伝え お前も守れ 親父口癖」

  「年賀状 手助けなくば できないと 息子携帯 電話を入れる」

  「県内に 住むの理想と 言い続け 子ども分かって 県内に住む」

  「優秀な 子ほど都会へ 行きたがる 凡人ゆえに わが子県内」  

  

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