shin-1さんの日記

○昨日は博多でした

 昨日は「百年企業を創る」というセミナーに招かれ福岡県博多へ出かけました。前日は愛媛県越智郡上島町弓削島にある弓削商船高等専門学校で開かれた「自殺防止講演会」に出かけているので、もう3日間も家を空けているのです。

 「自殺防止講演会」と百年企業を創る」という話は、誰に話してもその落差の大きさに驚くことだろうと思うのです。講演会のその間隔が開いていればまだしも、家にも帰らず対応するのですから私もよほど図太い感覚の持ち主なのでしょう。

 自殺防止の話は国立の施設に勤める私の友人からの紹介でした。私は最初「自殺防止」というテーマを聞いたときあまり自信がないのでお断りをしようと思ったのですが、勇気を出して引き受けました。それというのも私は弓削商船と同じようなタイプの愛媛県立宇和島水産高等学校を卒業し、あの実習船えひめ丸で遠洋航海に出かけているのです。そして冬としては珍しい低気圧の洗礼を受け、死を覚悟した海から生還しているのです。受講対象が先生たちなので、その経験を踏まえて話せばいいと思って、沢山のことを話しました。偶然にもこの学校には双海町出身の教授と準教授の二人が勤めていて、知らずに行ったものですから、最初は戸惑いましたが、1時間半の話をして帰りました。弓削島へは2週間前にも「希望の島へ」というフォーラムに出かけたばかりなので、安心して出かけましたが、この日は朝からあいにくの雨で、足元を気にしながらの往復でした。

 さて昨日の「百年企業を創る」というセミナーには15人ほどの企業経営者が集まっていました。船井幸雄研究所の流を汲む株式会社S・Yワークスというコンサルティングが仕掛けたセミナーでした。1ヶ月前奥さんというこの会社に勤めるブランドディレクターの女性から一本のメールが入りました。私は知らなかったのですが東京の東洋大学で開かれた地域資源学会で私の話を聞き、四万十市西土佐村の舟母という民宿の若主人と懇意なということで、観光カリスマ百選の私に縁の深さを感じての登板となったのです。

 昨日はラッキーでした。少し早く博多入りしたため、前段佐藤社長さんのセミナーをタダで受講することができたのです。昨日はサンドウィッチ講義で、佐藤社長さんが私の話を挟むように前段と後段を話したのです。残念ながら秋田への出発時間もあって後段は聞けませんでしたが、いい勉強になりました。私のように人の前で話す人は意外と人の話を聞く機会に恵まれないものです。これからも生涯学習の気概を持って学び続けて行きたいものです。

 しかし私にメールをいただいた人の名前が奥さんとはこれまた珍しい名前です。メールの返信文章を打つ度に「奥様」と書かなければならず、思わず一人ほくそ笑みながら書いていました。妻に話をすると、「その人に失礼だからくれぐれも落伍の題材にしないように」と釘を刺された次第です。

 つい最近第一線で働く奥さんのような人に会うと、こちらが逆に勉強になります。仕事に取り組む態度に熱心で、そこら辺の役所に勤めている同じ年代の不平不満を言っている男どもをみて、情けなくみすぼらしい感じさえするのです。やはり夢を持ち夢の実現に向けて頑張る人は輝いて見えるものです。

 佐藤社長さんがいわれた「10年後の自分」の意味をしみじみと思いました。

 東京から秋田に向かう大宮の駅で、二人の姿を思い出しながらハガキを書きましたが、残念ながら切手の手持ちがなく、秋田からの投函になってしまいました。

  「旅に出て ふるさと離れ はや三日 妻の電話で ふとわれ返る」

  「奥さんと 書いたメールに われ一人 思わずウフフ 笑ってしまい」

  「立ったまま ブログを打つや 旅先で 束の間時間 書斎思いて」

  「目の前を 通る学生 覗き込む この人何を しているのやら」

 

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shin-1さんの日記

○思えば遠くへ来たもんだ

 新宿西口人に会い、東京経由の目的を果たしたので、4番線から新宿ラインに乗って大宮まで出て11時22分発の秋田新幹線こまちに乗り込みました。今日は移動日なので急ぐ旅でもなくのんびりと東北の景色を眺めながら行こうと決め込み、駅弁とお茶を買って乗り込みました。今日は天気もよく車窓に流れる景色もどことなく早春の雰囲気が漂っていました。この季節、乗り込んだ人それぞれにどんな目的があるのか知りませんが、列車は満席でした。私のような気楽な一人旅はいないのでしょうが、みんな列車に備え付けの雑誌に目を通したり弁当を食べながら思い思いに過ごしていました。雑誌には東北の新幹線に沿線の旅の見所や食べ物が紹介されていましたが、この日の雑誌の特集は奥州平泉の藤原三代についての記事でした。雪のないころなら平泉へも立ち寄りたいのですが、このところの寒波で少し交通事情が悪いため、いきなり秋田へ乗り込むことにしたのです。

 東北本線の駅の数は秋田までざっと数えただけでも150を越えます。新幹線はその駅を位置も簡単に飛び越えて、秋田まで僅か3時間半の旅なのです。今更ながらに便利さにはただただ驚くばかりです。

 明日の会議は秋田県能代市です、ここから更に特急に乗って北を目指さなければならないのですが、行き当たりばったりの旅を楽しむ私としては、今晩は秋田に泊まり、きりたんぽやハタハタも食べてみたいと思い。駅前からアクセスされている東横インを選びました。東横は全国どこへ行ってもロビーにパソコンが置いてあって、3日間も留守をして書き込みができていないブログを書くことができる魅力があるのです。しかし欠点はロビーにパソコンが2台しかないため、時々私のように長い時間占有している人がいると、利用できないのです。

 今日はチックインの4時までにはまだ間があるため、私以外使う人もなくラッキーとばかりに秋田発のブログを打っているのです。一番最初沖縄に行った折、ブログを打とうとして、自分のアドレスが開かず娘に電話をした初歩のころの苦労も今はなく簡単にメールを開いてブログを打てるのですから、アナログ人間を自称する私としては偉い進歩なのです。

 秋田はえらい雪です。東北の山脈を越えると車窓の景色は一変し一面の雪化粧でしたが、秋田市内は思ったほど雪の量はなく、明日の飛行機便は飛ぶだろうと安心しているのです。

 旅の途中だというのに私の携帯電話には相変わらず様々な人から電話が入ってきます。講演依頼や打ち合わせ、それに音信とまあ尋常に居眠りしながら列車の旅を楽しむ余裕はないのです。ポケットのバイブレーションが響く度に列車の出入り口まで走り対応するのですが、隣の席の人に迷惑をかけないようにしても窓際に座っていればその都度席を空けてもらわなければならず中々厄介なものです。

 隣に乗った方は51歳になったのを機にJR旅の会員になったので有給休暇を利用して1週間のんびり旅をするという、何とも羨ましい人でした。私の話を聞いて羨ましい生き方だとお世辞を言ってくれました。縁もゆかりもない人とこうして話ができるのもいいものです。今晩はお互い秋田泊まりなので「どうです一杯」と誘われましたが、酒も飲めない私としては、丁重にお断らした次第です。

 旅に出ると私の体のことが気になるのか、妻から朝、昼、晩と電話がかかってきます。今夕も秋田に着いたことを見透かしたように夕方4時電話がかかってきました。「亭主元気で留守がいい」はずなのに・・・・。

  「旅つなぎ 遠い秋田へ 一人旅 ここは雪だと 妻に電話を」

  「この地さえ 知り人多く ホテルまで 会いに来てくれ 感謝感激」

  「雪のなき 国に暮らせる 幸せを 除雪の人を 横目見ながら」

  「便利だね こんな遠くで ブログ書く 旅のつれづれ 文字にしたため」

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shin-1さんの日記

○今日から上島町弓削島~福岡県博多~秋田県能代市へと日本縦断の旅に出ます

○旅の思い出近日ブログ公開予定・乞うご期待。

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○ひな祭り

 日本の各地からひな祭りのニュースが届くようになりました。昔はどの家庭でもお雛様と鯉幟は子どもの健やかな成長を願う伝統行事として広く定着していた子どもの伝統行事でした。ところが住宅事情の変化や少子化の影響によってお雛様や鯉幟を飾る風習が段々消えて、子どもの記憶から消えようとしているのです。昔を懐かしむ人にとって復活を望むのは当然の成り行きかもしれません。

 そこで登場したのが地域づくりの手法です。家庭で持て余している伝統的なお雛様を譲り受けて商店街に飾ったり、大規模な町では体育館に飾って人を呼び寄せ、村おこしで成功を収めた所だってあるのですから面白いものです。人形を飾るひ毛氈やきらびやかな衣装と対照的な何処か寂しそうな憂いをこめたお雛様の顔立ちは、まさに日本の伝統文化である詫寂の世界で、見る人を幽玄の世界へ誘ってくれるのです。

 一昨日ふたみシーサイド公園のイベントホールへ出かけてみると立派なお雛様セットが飾られていました。もう恒例行事になりましたが、漁協女性部の皆さんが飾ってくれているのです。

 「これをイベントにしたらお客さんが来て、何ぼ儲ける」と、野暮な事を考えてイベントを仕組んだ昔が懐かしくなるほど、お雛様の飾りつけは女性たちの手で素朴に飾られていてついつい嬉しくなりました。

 そして最も嬉しいことは前日の土曜日、猫の手も借りたい忙しい手を休めて漁協女性部の皆さんは雛豆を作っていました。私たちの町では古い風習として雛節句には豆入りというのを作ります。干し飯をホウロクで炒ってはじかせます。同じように旧正月ころに色とりどりのアラレを作っておき、アラレもホウロクで炒って膨らませます。それらを水あめや砂糖を溶かして煮詰めたもので絡めモロブタに入れて熱いうちに切り分けるのです。これは少々硬くて歯の丈夫な人でないと食べられませんが絶品で、物のない時代に育った私などは記憶の片隅にちゃんとおご馳走レシピとして残っているのです。お雛様に供えた豆入りを何度くすねて食べ叱られたことか、今では淡いお袋の思い出なのです。

 漁協女性部の皆さんはひな祭りが月曜日ということもあって一日早い日曜日にこの豆入りをジャこ天の店に来訪した子どもたちに無償で配るのです。大判振る舞いといえば聞こえはいいのですが、こんなささやかなおすそ分けが、行列の出来る店の隠された秘密であることを知っている人は私くらいなものでしょうが、「感謝と真心、そして本物を売る」ことに徹したからこそ年間6千万円もの売り上げを記録するまでに成長したのです。

 団体をリードする指導者は余程カリスマ性がないと誰からも慕われるような運営は出来ないものです。しかもまるで暖簾のように長年続けることは容易なことではありません。漁協女性部を長年リードしてきた富岡喜久子さんや松本洋子さんはその点凄いリーダーで、私のいなくなったシーサイド公園のジャこ天部門を見事に発展させてくれているのです。「信用は石垣の如くひとつひとつ丁寧に積み重ねる」、そう肝に銘じた14年間は確かに苦労の連続でした。しかも折角積み上げた信用の石垣も、一瞬のうちに吹っ飛んだ苦い経験も幾度かありました。それでも諦めずまた一から積み上げてきたのです。豆入りという小さな善意が今年もまた多くの仲間によって成し遂げられました。嬉しいの一言です。

  「信用は 心幾つも 積み重ね 手間暇かけて 造るものなり」

  「ひな祭り 今年もお裾 分けしたる 豆入り配り 感謝の気持ち」

  「お雛様 どこか寂しい 顔してる 子どもの数が 少ないからか」

  「嬉しいね 心の出来た 人に会う 何処かほのぼの 春風のよう」

 

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shin-1さんの日記

○黄砂とスギ花粉

 「今年のように冬が寒いのは久しぶり」と、90歳になる親父がいうように今年の冬は寒い日が続きました。確かに昔から比べると、冬日なんて0度以下になることは、海沿いの町ゆえに殆どなく、氷が張ったなんてことも殆どないのですから、暖冬傾向に違いはないのです。私の記憶でも若い頃氷点下に下がって水道管があちこちでは損したこともあったし、大雪に見舞われて交通が麻痺した事を広報に写真入りで書いたことも何度かありました。まあ寒いといっても早三月ですから、そのうち三寒四温の巡りの中で温かくなることでしょう。

 春といえば黄砂と花粉症が代名詞のように言われます。黄砂は日本の西に位置する中国大陸の砂塵が風で吹き上げられ、ジェット気流に乗って東に移動して日本の上空でばら撒かれるのです。昔は春を呼ぶ自然現象として仕方がない春の風物詩として諦めていましたが、最近は高度成長著しい中国の開発が原因とする見方もあって、黄砂のように何かモヤモヤした気持ちになるのです。中国は三千年も前の古い時代から文明においても政治経済においても常に日本の前を走っていた国です。そしてその影響をもろに受けて中国とともに成長してきました。その中国というランナーを後追いの日本が抜こうとしたのは戦争でした。小さい国力を過信した日本は侵略という形で中国に侵攻しましたが、各国の同盟や反対にあって戦争は失敗し終戦となり、深手を負いながら元の形に戻ったのです。その後占領されたアメリカの影響で日本は著しい発展を遂げ、経済的には中国を抜き、経済を国力と勘違いし再び遅れをとった中国に経済戦争という形で進出し、やがて日本やアメリカの影響を受けた中国の目覚しい経済発展の影響をもろに受けて現在に至っているのです。

 その中国と靖国神社でもめた歴史認識問題も覚めやらぬのに、今度は餃子という食べ物が原因でもめ始めています。中国の食べ物である餃子を日本人が常食するようになったのはつい最近のことです。しかも安くて美味い餃子を中国人に作らせてそれを食べる、商社の仕組んだシナリオに乗って、今では給食にまで普及しているのですから驚きです。もし黄砂に何かを交ぜて上空に舞い上がらせたら日本はどうなるのでしょうか。昨日は折からの雨に混じって黄砂の量が特にひどく、車の上は黄砂の固まりのような状態で見る影もありませんでした。前日洗ったばかりの車はもう廃車寸前の車のようにみすぼらしく見えました。悪いことは思いたくありませんが、自慢の夕日をも包み隠した黄砂を見ながら、中国と日本の間に立ち込めた暗雲のようなものを感じた一日でした。

 黄砂と並んで春の使者はスギ花粉です。今は天気予報に洗濯情報と並んでスギ花粉情報というのが加えられる程です。私のように子どもの頃からスギ花粉の中で育っていると別に花粉の影響など受けないのですが、現代人はスギ花粉アレルギーの人が多いようです。これも暮しや食べ物の変化が日本人の体調を知らず知らずのうちにアレルギー傾向にしているのだと思うのです。日本がまだ発展途上だった頃は、衛生状態も悪く子どもの殆どが体内に回虫を宿していました。その頃は食べ物アレルギーの子どもは殆どいなかったそうです。一見何の関係もないアレルギーと回虫の関係は、回虫の撲滅とともにアレルギーを生んでいるようです。

 昨日頃から妻も「私も花粉症かしら」と自覚させるように目をしょぼしょぼさせ、くしゃみをし始めました。そういえば私も目がしょぼしょぼするような感じがしてきました。「えっ、私も現代人?」、私だけは古い時代の人間だと思っていたのに・・・・・・。

  「黄砂降る せっかく洗った 車さえ まるでポンコツ 文句は西に」

  「見えぬ国 黄砂に交ぜて 飛ばしたら 日本一コロ 考えゾッと」

  「スギ花粉 くしゃみと涙 合わせ出す 涙もろいと 勘違いです」

  「春来たが 黄砂と花粉 持ってくる 要らぬ土産に うんざりしつつ」 

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shin-1さんの日記

○神様棚の福助人形

 昔の人は信心深く、神仏への祈りを朝夕欠かさずしたものでした。私の脳裏にも亡き祖母や母の呪文を唱えながら祈る姿が今も焼きついているのです。88歳で亡くなった祖母は朝日や夕日にさえも手を合わせていました。その姿から学ぶのは人間は自然への畏敬の念を忘れてはならないということのようです。最近起こる天災さえも人間の身勝手な快適性の追及が自然を破壊したからであると警鐘を鳴らす人がいて、その数は増え続け「環境保全」を叫ぶ声が次第に高まりつつあることは喜ばしい限りです。でも一方では心無い人たちによって自然はどんどん壊れているのです。何処でどう調べたのかは分りませんが、北極の氷が去年一年間で日本列島の二倍の量も溶けたというのですから驚く他はありません。

 こんなデーターを見たり聞いたりしても余りピンと来ない人もいるようですが、私の町ではつい最近、今まで見たこともないような魚が取れ始めています。聞くところによると私の町の海水温度がこの10年間で2度くらい上昇しているという話を聞きました。これも二度くらいと思う人がいるかも知れませんが、2度とは100キロ南の海水温度なのです。海の水は太陽や外気温に左右されて温度が変化するものですから、海水温度を2度上昇させるためには相当の付加をかけないと上がらないのです。つまり何らかの人為的が自然為的な負荷がかかった結果の上昇なのですからこれは驚嘆の数字なのです。

 この数字を元に戻すことは人間の力では至難の業なのでしょうが、それでも私たちの身近な暮らしの中で一人一人が始めなければ始まらないことも事実なのですから、今日から、いや今からでも出来ることから始めなければなりません。ストーブの温度を低くする、小まめに電気を消す、ぢ度頃の流し台からの雑排水を気をつけるなどなど、気がつけばやることはいっぱいあるのです。

 母や祖母が朝な夕なお祈りを捧げていた神様棚に昔、福助人形があったのを覚えています。濃い意藍色淡色だけの焼き物人形でしたが、いつの間にか姿を消しているのです。妻に聞いてもよく覚えていないそうなのですが、私の記憶では確かに神様棚の奥の方にすすけた姿でありました。

 子どもの頃、この福助人形が何で神様棚にあるのか不思議で祖母に聞いたことがありました。祖母は明快に福助さんの教えを五つの言葉で説明してくれました。

 まず顔です。いかにも円満な顔立ちは「仁」、眼差しは「義」、裃を着けて身なり正しく正座した姿は「礼」、チョンマゲ姿の豊かな思想を連想させる頭は「智」、ぬかずく姿は「信」と教えられました。まだ子どもだったため、その5つの言葉全てを理解することは出来ませんでしたが、なるほどと分ったような顔をして聞き入ったものでした。

 「仁」とは、慈しみ、思いやり。

 「義」とは、理にかなったすじみち。

 「礼」とは、敬意を持ったふるまい。

 「智」とは、知恵、知能。

 「信」とは、言いたがえないこと。

 なるほどなるほどです。近いうちに骨董屋へでも立ち寄り福助人形を買い求め、神様棚に座ってもらいたいと思う今日今朝この頃です。

  「福助の 教え祖母から 聞いていた 人形消えて 教えも消えた」

  「なるほどと 文字に表し 確認す 五つの教え 未だ極めず」

  「パソコンを 使え進んで いるように 見える私は 祖母より以下だ」

  「人形が たった五文字の 深い意味 教え諭した 足袋は何処に」

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shin-1さんの日記

○愛媛県知事の答弁

 わが家は愛媛新聞という地方紙をとっています。本当は中央紙も読みたいのですが、長年中央紙は役場で読むものと依存していたためと、2紙もとる余裕がなかったし今もないというのが本音なのです。私のようによく中央紙に取り上げられると、その日自分が掲載された新聞を読むことができず、「出とった」「読んだ」と全国から電話やメールが届いて慌ててコンビニへ買いに走るのです。確かに地元紙と中央紙とでは視点が違いますが、これまた私のように長年まちづくりなどに携わっていると、地元紙の影響が多いためついつい地元紙を最優先してネタを回すことも長年の癖なのです。

 一昨日新聞の三面を読んでいて面白い記事を見つけました。面白いといっても別に人様にとっては何ら面白くない記事です。三面記事といえば昔は事件事故でしたが、愛媛新聞の場合は社会面なのです。そこには2面の政治経済の続きが混在しています。その中に県議会の代表質問の要旨と答弁要旨が載っていました。木村誉議員の質問に愛媛県知事が答弁しているのです。

 〈木村誉氏の質問〉

 地域づくり人材育成への取り組み

 〈加戸知事〉

 地域の自立的発展には中核となる人材の育成が欠かせず、県内でも町並みを活用した喜多郡内子町や夕日を観光資源にした旧伊予郡双海町の成功を支えたのは熱意あるリーダーや賛同する地域住民の熱心な取組だった。県は四月の地方局再編に伴い、新ふるさとづくり総合支援事業創設し、地域づくりマネージャー招聘など市町村が取り組む人材育成を積極的に支援したい。

 以上のような記事が載っていました。目敏く見つけた読者である知人がメールで感想を述べてくれましたが、「成功を支えた熱意あるリーダー」とは誰か、「賛同する地域住民の熱心な取組みだった」とは誰かを察しながら読んだそうです。

 地域づくりにとって欠かせないのはリーダーの存在でありそれを支える地域住民です。もし知事さんが頭に描いて答弁したリーダーが、知人の言うように私であるとすれば、それは大変光栄なことなのですが、リーダーとはいかなるものか、最近になって時々迷うことがあります。リーダーの素質は最初から持って生まれたものではありません。私がそうであったように色々な場と機会、それに人に会って感化され成長して行くものなのですが、その場所や機会それに感化を受けるべき情熱を持った人が極端に少なくなっているのです。またそんな場所や機会があっても、自主的に学ぼうとする人が残念ながら少なくなってきたことは事実です。いい指導者はいい後継者をつくるという話が本当なら、私の後には沢山の後継者がいてもいいはずなのに、その数は少ないようですから、私は落第指導者となるのです。それでも私はまだましな方で、私の周りには沢山の仲間が集まり、次を目指す意欲ある人も人間牧場へ沢山集まってきています。

 地域住民の存在はこれまた、社会の変化や経済の潤いによって大きく変化します。もし知事さんが頭に描いて答弁した地域住民がじゃこ天のおばさんたちであるとすれば、納得のいく人たちなのです。漁協女性部の存在なくして夕日を観光資源にした地域づくりは語ることができないのです。年年歳歳元気度をアップしているおばさんたちの存在がこれからも長く続くことを祈るのです。

  「新聞を 読んだと仲間 メール来る お前のことと いわれ戸惑い」

  「県知事の 答弁読んで 妻曰く 選挙に出るな 出たら離婚と」

  「落第の レッテル貼られ 去ってゆく そんな日近し 後なきいのち」

  「もう少し もう少しだけ 頑張ろう さすれば生える 根や芽が伸びる」 

 

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shin-1さんの日記

○春の夕日も日本一

 春は春霞といって空気が霞むことが多いし、もうそろそろ中国大陸から黄砂が降ってくるので、夕日の美しさは今一だと誰もがいいます。でもこれからしばらくは冬と春が喧嘩するような形の天気の変化の中で、時折空気が澄んで見たこともないような夕日に出会うことがあるのです。

 あれは2月28日だったと思うのですが、玉川町から帰りに娘の家へ立ち寄り、久しぶりに温泉へ立ち寄り汗を流しました。そして帰路につく頃太陽はかなり西に傾いて、この分だと夕日が拝めるかもしれないとシーサイド公園へ車を止めました。知ってか知らずでか恋人岬に設置したモニュメントにそろそろ夕日が入るのを狙って沢山のアマチュアカメラマンがわれ先にスポットを陣取り、後追いの私などが入り込む余地など殆どないのです。仕方がないので隙間を選んだり腰をかがめてチョイ写しを試みました。絶好のスポットへカメラを設置するのは早い者勝ちの特権があるものですから、みんなそれを承知で早い時間に陣取るのです。そこへ割り込むことは仁義に反するので出来ませんが、さすが夕日にかけては一目も二目も置かれる自分ですから、相手がかなり気を使ってくれて、何枚かカメラに収めることが出来ました。この日の夕日は沈むほどに下に雲が出て、ああ今日も駄目かと引き上げそうになっていましたが、その後雲の下に夕日が再び顔を出し、カメラマンたちも諦めかけていただけに「よっしゃー」とか「やったー」とか、「ラッキー」などと連発し無我夢中でシャッターを切っていました。

 私も何枚か撮りましたが、その中の3枚をご紹介します。まず一番最初の写真はモニュメントの上に夕日を乗せた作品です。雲も程よく茜色に染まって、まるでローソクのような姿が何とも美しいのです。


 次の一枚はモニュメントの穴に夕日がスッポリ入った瞬間です。人の背中越しに遠慮気味で撮った写真なので、今一押さえが足りませんが、それでもこの写真のような夕日をシーサイド公園に来た人に見せたくて、私が考え私が現場監督をして設置したものですから、この姿こそ本物の恋人岬の夕日なのです。本当は3月22日の春分の日頃が一番いいのですが、欲をいったら切りがないのです。

 3枚目の写真はオーソドックスなシーサイド公園の春の夕日です。雲の配置や空の色も抜群でいい色に仕上がりました。

 考えてみれば私はこれまでどれ程の夕日を思いを込めて見てきたことでしょう。綺麗だとか美しいとかいう言葉で表願してきましたが、夕日はやはり見る心によるとしみじみ思うのです。失意のどん底で見た夕日と、希望に燃えて見た夕日はやはり何処となく違った印象を受けるのですから面白いものです。願わくばこれからも生きる力となるパワーをいただくような夕日に会いたいと思っています。

 この日の写真を絵葉書にして早速全国の仲間に毎日三枚書き綴って出したいと思っています。

 そうそう、先日日本一の朝日を見せてもらった大分県佐伯市上浦町の岡崎さんにも、先日のお礼にとメールを送り、この写真を添付しました。

  「何故だろう 同じ夕日の はずなのに 欲目ひいき目 これが一番」

  「この頃は 俺にも増して 自慢する 人増えこれも 俺の自慢だ」

  「夕日売り 続けて何と 二十年 今は立派な 商品になり」

  「明日の朝 大分上浦 昇るとは 何とも不思議 夕日朝日に」 









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shin-1さんの日記

○心のふるさと今治市玉川町へ

 2月28日に今治市玉川健康大学へ行きました。前日に今治市自治会連合会に招かれて出かけていたので、二日連続の今治ですが、今治といっても端々の旧町村とはまったく地域性が異なっています。玉川へは地域づくりグループで何かと元気のいい「源流」の立ち上げ頃から、再三再四出かけている馴染みの地域なので顔見知りも多く、公民館長の井出さんから事前に昼食でもと誘われるほどなのです。

 10時半からなので少し早めに家を出て、奥道後経由の山道を選びました。寒さが厳しく水ケ峠付近は一面白い霜に覆われてまるで雪化粧のようでしたが、組一つない好天で、玉川に通じる道沿いは何処となく春を感じさせるようでした。 

 少し早めに着いたので公民館に越智憲行さんを訪ねました。彼とは若い頃から随分の知り合いで、いまだにご厚誼をいただいています。加えて源流のメンバーでもあるので気心が知れていて、何かと気になる方なのです。顔なじみの妙ちゃんにレモンティを入れてもらって様々な話をしました。合併前の思い出、合併後の情勢、源流とのかかわりなど、前向きに生きている姿が頼もしく伝わってきました。私も仕事柄あちらこちらの公民館にお邪魔しますが、殆どの人が金がないことや合併後のデメリットを話してため息をつくのですが、彼にそんな姿は微塵もなく、こちらまで何か元気をいただいたような感じさえしました。

 30分前になったので、会場となる保健センターの場所を確認しておいとましました。センターの駐車場に着くと駐車帯の一角に「若松様」と書かれた張り紙がされていました。すると健康大学に来たであろう女性がわざわざ張り紙の貼っている椅子をどかせてくれてのです。嬉しいやらで駐車をして車から降りると、「私は若松さんの大ファンで今日は楽しみにして聞きに来ました」と、私の素性も分らぬであろうに、いきなり言うのです。嬉しいやら面映いやらで恐縮してしまいました。それでも今日の会はこのような人のためにも頑張って話さなければと意を強くして会場へ行きました。

 沢山の人が集まっていました。それから約1時間30分、思いを込めて話しをさせてもらいました。前回いつ頃来たか、前回どんな話をしたかはまったくお構いなしの話に終始しました。「私はあなたの話しをもう3回も聞いた」といいながら、幸せな事に前回の話しを覚えているような人はいないものですから安心しました。

 会が終わって外に出ると公民館長の井出サツミさんが玄関で待っていました。彼女の車に乗って近くの小粋なそば屋さんへ案内してくれました。そば屋の奥まった予約席には既に森保子さんが来ていて、妙ちゃんと艦長さんと四人で積もる話に花を咲かせながらの昼食となりました。美味い蕎麦で、蕎麦好きな私としてはとても美味しく、満腹でした。森さんとはこれまた彼女の温泉つき別荘で昔お世話になったことがあり、県展に入選するほどの絵画の腕前があり、奥ゆかしい人です。井出さんといい、森さんといい、そして妙ちゃんといい、素敵な女性に囲まれ、いい一日でした。わたしの妻は愚妻ですが、それでもこうした出会いを察してか出かける時に手土産を渡すよう手配をしてくれていて、お陰様で恥をかかずにすみました。

 私は幸せ者です。何処へ行ってもこうして待ってくれている(本当かな?、いやそう思っている目出度い人間にしておきましょう)人がいるのですから・・・・・。

  「今日来るの 今日行くからね 電話口 嬉しい予感 嬉しい出会い」

  「ファンです いきなり言われ 不安なる 講演先の 玄関口で」

  「女会う 手土産持たせ 送り出す 度量の太い 妻に恵まれ」

  「女とは 男ときめく 人がいい そんな女に 今日も出会った」 

 

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shin-1さんの日記

○ドライブスルー

 この二日、間孫と一緒にドライブスルーのマクドナルドへ立ち寄り、ハッピーセットを購入しました。こうしたファーストフーズのお店は私たちのように物のない時代に育った古い人間は、立って食べるとお行儀が悪いと注意されて育ったものですから、余り馴染みのない店なのです。それでも孫にだけは甘いおじいちゃんとしては、孫の希望に応えない訳にもゆかず、結局は2度も同じ場所へ訪れてしまったのです。

 ドライブスルーは車の外へ出ることもなく車の中で用件が終わるシステムになっています。店の中ほどまで進むとカメラが作動して注文の品を相手とカメラ間線で音声で話ながら次に進むと、そんなに待つこともなくもう品物が用意されているのですから、これくらい便利なことはありません。お金を払い品物を受け取ると、丁寧な挨拶があって道路に出る仕組みになっているのですが、人間はここまで野良にならなければならないのかと、内心驚くやら感心するやらで、現代の商売の変化にはただただ考えさせられることばかりでした。

 孫のような小さい子どもがマクドナルドの店を求めるのは二つのことが理由のようです。まずひとつは子どもの食べ物の嗜好の変化です。ご飯と味噌汁で育った私たちと違い、今の子どもの食生活は完全に洋風化して、カレー、サンドウィッチ、焼きソバ、焼き飯、スパゲティ、目玉焼き、のようなものが好まれるのです。これは大人の食べ物が洋風化したことが子どもに移っただけですから、今の子どもを責める訳にはいかないのです。これら子どもの好きな食べ物の頭文字をなぞっていくとカ・ア・サ・ン・ヤ・ス・メとなるのですから、いかに現代の若いお母さんが食事に手間をかけないか、いかに外食産業に依存したメニューで子どもたちを飼育?しているかが分るのです。歩きながら食べながらのながら族にとっては、ハンバーガーやフライドポテト、チキン、シェークは格好の食べ物や飲み物で、これ以上便利な食べ物は見当たらないのです。

 孫にとってマクドナルドに行くもう一つの理由は、ハッピーセットにお土産がつくのです。ポケモンやドラえもんのおもちゃが幾つかあって、その中から番号で選べるようになっているのです。このお土産が何日かすると変わるため、お友達が持っているこれらのおもちゃが子どもの世界で話題になり、親やおじいちゃんにおねだりするといったお定まりのしたたかな経営戦略に乗せられてしまうのです。

 私流の疑問として、ファーストフーズの食べ物は殆どが油を使用してと繰られていることです。ハンバーグも、フライドポテトもチキンも口当たりはよいのですが、腹持ちが良く食べた後はお腹が張って他の食べ物を食べられにくいようです。昨日もハンバーグを食べた孫は夕食が軽めで、食が進みませんでした。

 ある栄養学の本の著者が、「子どもを病気にさせようと思ったら、毎日ハンバーガーを食べさせなさい」というほどに高カロリーで、肥満な子どもを作るには最適だと警鐘を鳴らしているのです。まあ毎日食べさせる訳でもないので、その警鐘には値しないと思いますが、そういえば親のメタボリ肥満が増えたように、子どもの肥満も大きな問題のようです。こうした高カロリーのものを食べ、運動を余りしなかったら確実に栄養過多となって小児成人病になるのは当たり前の話なのです。

 おじいちゃんは孫の健康を守ることを第一義に考え、たとえ孫に嫌われても体にいいものを与えるくらいの強い信念を持たねばならないと思った次第です。

  「ハンバーガー 欲しいと孫が おねだりし 目じりを下げて 行ってしまった」

  「便利だね 車に乗るまま お買い物 人間どこか 可笑しい予感」

  「本当の 狙いはおもちゃ 欲しいから 孫の作戦 一枚上だ」

  「食べ物が 随分変わる 身の回り 魚人間 俺たち古い」

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