shin-1さんの日記

○便利な世の中

 9月に入ってからも日中は30度を越す残暑が続いていますが、朝夕は少し秋の気配が感じられるようになってきました。そのせいでしょうか秋どれの煮干しがボツボツ上がり始め、漁協に頼んでいた煮干しが今朝家に届きました。毎年山の町に住む人を中心に、この煮干しを心待ちにしている知人友人もいて、今朝からその宛名書きや発送におおわらわでした。何せ宛名を取り出すのに一苦労です。名刺を繰ったり住所録を調べながら探すのですが、日ごろ整理整頓が出来ていないこともあって、30人の名前を書き上げるのに朝から昼までかかってしまいました。それでも送る相手の顔や名前や思い出を蘇らせながら作成しました。どうしても分らなかった2人の名前はインターネットで見つけられて事なきを得ました。便利な世の中になったとしみじみ思いながら郵便局から発送しました。明日明後日にはそれぞれの場所に届くことでしょう。

 世の中を見渡すと、いつの間にかこのように便利なものが身近なところに溢れています。携帯電話やEメールさえあれば何処にいても、自分の好きなときにいつでも誰とでも連絡が取れるようになりました。また全国各地には24時間営業のファミリーレストランやコンビニエンスストアーがあって、今では銀行のATMまで付いているのですから、かゆい所に手が届くような便利さの中に生きているのです。

 しかしこんな便利さの中で忘れされれたり失っているものも少なくはないのです。ファミリーレストランやファストフードの普及によって、私たちは外食を食べたり電子レンジでチンさえすればいつでも困ることなく食にありつけるのですが、一方で家庭での食事が疎かになり、地産池消などとは程と多い不健康なものを食べる習慣が見に付いてしまっているのです。また郊外には24時間営業のコンビニエンスストアーや安売りの大型店が出店し、地元の電気屋さん、酒屋さん、金物屋さんは立ち入って行かなくなり、商店街がシャッター通りになった話は全国いたるところで話題に上っているのです。まさに表を立てれば裏が立たずでしょう。

 車を運転しても、80キロの制限速度を守って走る私の車を100キロを越えるスピードで軽々と追い越して行く車が沢山います。「狭い日本、そんなに急いで何処へ行く」と言いたいスピードの代償として高い高速道路料金を払い、挙句の果ては僅か15分の速さのために大きな事故を起してしまうのです。

 今や私たちの暮しは「早い」安い」「便利」というのがキーワードとなり、麻痺さえするようになりました。忙しいという字は「心を亡くす」と書くのですが、豊かさや便利さの代償として「相手を思いやる心」が消えてしまったように思います。昨日の運動会のテントの下で昼食を取る何組かの親子を見てガックリしました。車座の真ん中にあるのは、お母さん手づくりの弁当ではなく、弁当屋で買い求めた弁当でした。確かに見た目には豪華で、色合いも申し分ないのですが、果たして子どもたちはこんな弁当を喜んで食べるのでしょうか。愛情はお金で買えないといいますが、愛情を金で買う時代となりました。親子や家族の側に忍び寄る暗い影や吹き抜ける隙間風に早く気付かないと手遅れになるかもしれませんね。

  「コンビニの 弁当広げる 運動会 親の顔指 まるで女優だ」

  「商店街 まるで気抜けの ビールのよう 時代進んで 時代遅れだ」

  「百キロを 越えるスピード 軽々と 何処へ行くのか そんなに急ぎ」

  「ブログ見た? メール届いた? チンプンカン やらない人には 浦島太郎だ」

 

 

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shin-1さんの日記

○人生の狭間

 昨日テレビを見ていたら愛媛県内の100歳を越える高齢者が622人いると報じていました。「えっ?そんなに」と目耳を疑いましたが実際にいるのですから驚きです。しかもその殆ど8割強が女性ですから、男性の私としては複雑な心境です。その一方で昨年一年間の自殺者が3万人と9年連続で3万人を越えているのです。長生きと自殺というデータを見る限り、これほど科学が進んだ世の中でもなお、人間の生き方は奥が深いと思うのです。人間の生と死の間は私たちが子どもの頃は僅か50年か60年と聞いていました。故に死生観というのがあって命を粗末にするなと教わりました。昔の人は学校へ行くでもなく殆どの人は小学校を出れば貧乏な親の手助けとして働き、死ぬ直前まで働きに働きました。そんな時代ですから自分の命を絶とうなどと考える暇などなかったのです。

 今は幼稚園から始まり大学を卒業するまでの長い学びという助走期間があるようになりました。それでも今の若者は定職にも付かずモラトリアム人間となってうろちょろするのです。働く期間は今も昔も変らずせいぜい40年足らずです。でも今の世の中はリタイアした60歳からの人生がやたらと長いのです。仮に100歳まで生きるのであれば第一線で働いた期間と同じ40年もの間生き続けるのです。「助走モヤモヤ中パッパ後はどうにか生きてるだけさ」なんて感じの人も相当いるようです。

 現代は人生が長くなった分悩みも長くて深いというのが今の世の中だと思うのです。それは病気と老いと危ない社会がもたらす成熟社会の悲劇かも知れません。医療の乏しかった昔は病気は即死でした。働き終ると死ぬのですから老いも心配要りませんでした。また世情は安定して安心安全があり人が殺されるというニュースなどテレビもなかったので耳にすることなどそんなにはなかったのです。ところが医療技術が進んで結核や流行病でで死ぬなどということはなくなりましたし、ガンでさえも治癒して元気に暮らしている人が沢山います。また人が殺されたという話は新聞やテレビで毎日のように報道されて、身近な町や村で人が殺されても「今日も死んだか」くらいの聞き流し情報になっているのです。問題はこうした社会の中での人の生き方です。自殺者3万人は変ない言い方ですがある意味からすると勇気ある人です。自分の人生に自らピリオドを打てるのですから・・・・。また自分の心の発露を他人をあやめる行為に走る人もある意味で自分を主張しているのです。ところがそんな勇気を持てない人は心の病にかかり社会から隔絶せざるを得なくなっているのです。私の友人にもうつ病に苦しむ人がいます。職場でのいざこざ、近所でのいざこざ、家庭でのいざこざ、数え上げれば切りがないほどのいざこざが自分の心の奥深い部分に入って出口を見出せないのです。考えれば考えるほど深みに入ってしまう心の病は、目に見えない病気だけに手の施しようがなく医者さえも治せないといわれています。

 昨日人間牧場へうつ病と診断され仕事を休んでいる心の病を持った中年男性が訪ねて来ました。友人の紹介でやって来たのですが、外見も会話もまったく普通の人と変りはないのですが、目は少しうつろで体中活気がないように感じました。2時間ばかりウッドデッキで私と話し込んで帰って行きました。夜その方の奥さんから電話がかかり、「主人がいつになく元気になりました。時々治療を兼ねて訪ねたい」というのです。私は医者でもないので心の悩みは直せないと思いつつ、「また来て下さい」と相槌を打ちました。人間牧場はひょっとしたら心の病を治すような魅力があるのかも知れません。

  「長生きを するのもよいが どう生きる 心の病 ならないように」

  「いい場所に 来たと喜び 帰り行く 後姿が 寂しかりけり」

  「金もなく 地位もないけど 幸せだ 家族や友が 支えてくれて」

  「牧場は 駆け込み寺か 悩む人 次々来ては 悩み打ち明け」

 

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