shin-1さんの日記

○2、父親の言葉

 私の父親は何処にでもありふれたごく普通の人間です。学歴があるでもなく、特に功なし名を上げた訳でもなく、太平洋戦争を挟んだ90年の時代をただ一生懸命田舎の漁村で生きてきました。近頃は気力と体力も少しずつ衰えつつあり、母親の七回忌を迎えるこの頃は、私たち家族と同じ敷地内隠居家に一人暮らしていますが、老いの寂しさを口にするようになってきました。私のような凡人を育てたのですから、取り立てて子育てが上手く行った訳でもありませんが、私はこの親父から人生の生き方の根本を学んだように思うのです。昔人間ゆえ文字という武器も持たないため家訓のようなものはありませんが、振り返ってみれば私の旅路や岐路の折々に次のような言葉を言っていました。愛媛県立宇和島水産高等学校に進学するため町を離れる時、疲労による病気入院が元で漁師から役場職員に転職した時、実習船愛媛丸で珊瑚海へ遠洋航海に出発する時、総理府派遣第10回青年の船の班長として建国200年のアメリカへ旅立つ時など、人生の転機に父親が私に断片的に言った言葉の数々は今も私の耳から離れないのです。小学校もろくに出ていない無知文盲な親父が、何でこんな言葉を知っているのか、私には不思議でならないのです。

   「父親進10の言葉」

 ①草鞋を履け、草鞋を脱げ

 ②酒は大いに飲め、ただし酒に溺れたり酒に飲まれるな

 ③金が全てではなく信用が第一、金は入るを計りて使うを考えよ

 ④人生は一生懸命やっていれば必ずどこかでいいことが待っている

 ⑤学校へ行かなくても勉強は何処ででもできる、心の窓を開けろ

 ⑥人生はうどん粉(運・鈍・根)、それをつなぎ合わせるのは水と力と技だ

 ⑦焦ることはない、お前にしか出来ない事をやれ

 ⑧身体をいとえ、人生迷ったら基に戻ることだ

 ⑨今を見据え来た道行く道の遠い向こうを見ると間違いはない

 ⑩生きている間に一つぐらいは世の中のためになる事をやれ

 平凡な親父が平凡な私に言った言葉ゆえ上手く表現できていない部分もありますが、概ねこのような言葉を私に日々の戒めとしていっているのです。若い頃はその言葉を聞く度に何かにつけて憂うつになり、時には反感反目したものです。でも不思議なもので息子たちが成長して私が親父と同じような年代になると、親父と同じような言葉を息子たちに発して、反感反目されているのです。

 例えば①の草鞋を履けは「旅に出よ」、草鞋を脱げは「旅人を家に迎え入れよ」という意味ですが、私にとって親父のいっている言葉の中で最も気に入っている言葉なのです。その言葉どおり若い頃から沢山の旅を経験し、マクロな視点で物事を見れるようになりました。また草鞋を脱いでもらうために、家の敷地内に「煙会所」という私設公民館を造り、概ね年間1500人もの人々を30年間にわたって迎え入れてきました。 まさに「親の意見と茄子の花は千にひとつのあだがない」の諺どおりなのです。62年のわが人生は親父というファインダーを通して見てきた62年でもあるのです。親父が生きているもう少しの間、親父というファインダー越しに世の中を見つめて見たいと思う今日この頃です。

  「ああ俺にゃ 真似の出来ない 十本の 指折り数え 息子諭すは」

  「ガンになり 摘出手術 した後は 健康人より 何と長生き」

  「学校へ 行かずもこんな 言葉吐く 誰何処習うか 大したものよ」

  「草鞋履く 草鞋脱いだる 六十年 これから先も 続く限りは」

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○漁村下灘の民俗学

 民俗学者宮本常一の本を読みながら、高い見識の民俗学などは分らないものの、自分の生まれ育った古きよき時代を回顧しながら、私が編さん委員長を務めてまとめた双海町誌以外、まだ誰も書いたことがないであろう下灘という漁村のことだったら書けるかも知れないと、項目を拾ってみました。思いつくままに拾い出してみると結構あるもので、50ほどの項目が浮かんできました。これだけでも十分一冊の本になると思いつつ、とりあえず書いてみる事にしました。

 私が覚えている少年時代の双海町下灘という漁村はいかにも貧しく、いかにも長閑で、流れの早い今の時代から見れば、時計が止まっているような錯覚さえ覚えるのです。でも貧しくても幸せでみんなが助け合って生きていたような気がします。そんな漁村にスポットを当てながら、時には90歳になった親父の助言を得ながら、私という人間の目と心でとらえる民俗学的な発想で書いてみたいと思っています。

 まず最初に書くのは親父若松進という男のことです。

 1、親父若松進という男

 親父は大正7年9月1日、当時の下灘村大字串に12人兄弟の長男として生まれました。当時は生まれてから直ぐに戸籍に入れることをしなかったため、年齢不詳な部分があるようです。後日祖母から聞いた話ですが、昔は乳幼児の死亡率が高く1歳か2歳でなくなる子どもも珍しいことではなかったようです。多分それは貧乏による栄養失調や赤痢やチフスといった流行り病が原因で命を落としたのではないかと思われますが、産んで直ぐに死ぬと折角戸籍に入れても除籍手続きが面倒なので、2、3年様子を見て元気に育つようであれば戸籍に入れるという曖昧な親の思惑があったようです。

 親父は幸いにも12人兄弟全てが元気に育ち成人を迎えたため、暮しを成り立たせて行くため、小さい頃から祖父の元で家業の手伝いをして家計の助けをしました。したがって学校は義務教育になっていても殆ど行かず、それは漁村の子どもの常識でしたから、別に苦にもせず物心ついてから一生懸命働いたようです。小学校4年の時初めて船頭として小さな弟を連れて櫓こぎ舟で佐田岬半島まで出漁したといいますから凄いとしか言いようがありません。小さな1トンそこそこの漁船に寝泊りして漁をするのですが、冷蔵庫などのなかった時代なのでそこそこの港で魚を売りさばいて換金し、お金を母親に渡すというまるで二宮金次郎のような暮しをしていたのです。幸い祖母が佐田岬の中ほどにある瀬戸の小島出身だったし、子どもに優しい半島の人たちに助けられて貰い、風呂や食べ物を買って2~3日間船上生活をしていました。船には水樽と木綿の着物、麦や芋、煮干しといった簡素な食べ物程度で飢えをしのいでいたようです。

 その親父に転機が訪れたのは結婚と戦争でした。隣の集落に住む2歳年下の母と結婚し、姉を筆頭に3男2女をもうけましたが、祖父が戦後間もなく流行した赤痢にかかって死ぬという悲劇にも遭遇し、一家の大黒柱としての役割は親父にますます重くのしかかったようです。また太平洋戦争の真っ只中で何度も召集令状が届き、中国へ派兵されました。中国との戦いで左腕を負傷し傷痍軍人となって帰国、全国の病院を治療のため転々としたことで命をとりとめたことは不幸中の幸いでした。この戦争で徴用先の大阪で2人の姉妹が焼死したことも戦争の悲劇としてわが家の墓所の一隅に深く刻み込まれています。それでも親父夫婦は働き者の母と二人で漁業を生業として生き、10人の兄弟全てを嫁がせたり分家させたりしながら祖父亡き後の責任をまっとうしました。

親父の実力は自他共に認める漁師の腕で、物心ついた頃から遊びや手伝いの中身体で覚えた六感は冴え渡り、豊田の浜一番の鯛取り名人の名を欲しいままにしていました。わが家の座敷にかかっている年間漁獲高1位の漁協からもらった表彰状が何枚も誇らしげに掲げられているのです。そのお陰で貧しいといっても現金収入のよかったわが家は、人に遅れることなく新造船や自宅などに投資が可能となりそれなりの暮しが出来たのです。

 親父90年の生き様はざっと振り返っただけでもかなりの量です。鼻ガンに侵され九死に一生を得たことや、小さな5トンの船で伊豆諸島三宅島まで乗り出した尋常とは思えぬ仕業や漁師の晩年母と夫婦舟となったことなどを語ると切りがないくらい話題がありますが、その話は折々に項目を立てて書いて見たいと思いますが、私的なことなのでブログで深く書くことは出来ません。こうしてさわりを書くことで自分の民俗学的スキルを高めてゆきたいと思って始めました。

  「九十年 生きて働く 人生を わが目で追って 民俗学に」

  「貧乏に 負けぬ気性を この肌で 感じて育った 故に逞し」

  「親父とは 高くて登れぬ 山のよう 俺などしれた 小さき砂山」

  「親と子の ダブった人生 六十年 知らない部分 余りに多く」

 

 


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○旅のお供の一冊の本

 旅に出る時は必ず1冊の本を持ち、若しくは旅先の書店で買い求め長い道中のつれづれに本を読みます。読書に費やす時間が忙し過ぎてだんだん狭められるような感じのするこの頃なので、何か工夫をしなければ読書の時間が確保できないのです。幸い講演なの全国行脚が沢山あるので、行き帰りに本を読むのです。お陰で随分本を読むことが出来て大助かりです。

 昨日は和歌山県の宅建協会の招きで和歌山市に行きました。何で宅建協会に私が呼ばれたのか未だに不明です。でも和歌山の宅建協会には眞野賢司さんというつわものがいて、何年か前に宅建協会に呼ばれたことがあるので、あるいはその方面からの紹介だと思うのですが、まあ呼ばれた所へは誠意を持って仕事をしなればなりません。

 講演が終わって宅建協会の小倉明支部長さんと面談した際、「シンデレラのその後」という一冊の本をいただきました。【運命の方程式を解く本」高橋佳子著と書いているのです。講演が終わって武田部長さんにJR和歌山駅まで送ってもらい、紀州路快速に乗ってからわが家に帰るまでこの本を粗方読んでしまいました。

 シンデレラといえば誰もが知っている物語です。多分物語のあらすじはこうだったように思います。「幼い頃実母を失ったシンデレラは父親の再婚で新しい家族と暮らす事になります。しかし養母と姉たちにいじめられながらもシンデレラは健気に生きました。ある日お城で舞踏会が開かれ、姉たちは着飾って出かけました。留守番をしている所に魔法使いが現れドレスや馬車を用意して舞踏会へ送り出してくれました。舞踏会ではその美しさを王子に見初められますが、約束の時間になったので片方の靴を残して帰ってしまいました。王子は残されたガラスの靴を手がかりにシンデレラを探し出し、お后に迎えられ目出度し目出度し」というハッピーエンドでした。

 実はシンデレラの物語には「その後の物語がある」というのがこの本の物語なのです。私などのような凡人にはそんな物語があることさえも知らないし、考えたこともないのです。その後の物語は「破滅の運命」「安逸の運命」「衰亡の運命」「放蕩の運命」というのがあるそうです。「破滅の運命」はシンデレラが意地悪をされた母親や姉たちに復讐をするという物語、「安逸の運命」はシンデレラが宮中でお后として何不自由なく暮らしたものの怠け者になって家来や王様の心が離れてゆくという物語、「衰亡の運命」は慣れない宮中生活の挫折感でいたたまれず逃げるようにお城を出てゆくという物語、「放蕩の運命」はシンデレラが人生の絶頂を欲しいがままにして、陰謀に巻き込まれお城から追放されるという物語です。

 著者はそれを証明するために「余の辞書に不可能という文字はない」と語ったナポレオンの人生を描いた曲線を紹介しています。人生には幸運と不幸という運命があるのですが、順調発展をプラス、不調障害をマイナスとするならナポレオンの生涯を人生曲線のどの位置でどんな出来事があったか明快に説明できるのです。

 著者が提案しているように自分の人生曲線を作ってみたいと思いました。大切なことは順調発展のプラス時にいかにマイナスの芽を摘むか、不調生涯のマイナス時にいかに新しいプラスの種を蒔くかということでした。自分の運命は他人や社会、あるいは目に見えない自然現象にによって牛耳られていると思っていたものが、実は自分の心に宿る意思によって決められているという話は私も大賛成な意見です。

 昨日帰りに大阪梅田の駅の紀伊国屋書店に立ち寄りました。あの広い本の売り場は肩と肩がすれ違うほどの混雑ぶりで賑わっていました。しかしいつも驚くのは所狭しと置いてあるあの本を書いた人がいるという事実です。私などの田舎者はまだ4、5冊しか自著本を出版していませんが、日本には凄い人がいるものです。もう少し頑張って読む方も書く方も極めたいものです。

  「この本を 書いた人あり 偉いもの 俺など何の 役にも立たず」

  「旅すがら 本読み知識 取り入れて 知恵に変えるは 何年先か」

  「シンデレラ 話の続き あるという ハッピーエンドが 一番いいのに」

  「運命は 結局自分が 決めるもの 心しっかり 生きよということ」

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○4、半農半漁(肥汲み)

 私たちの暮しも今ではすっかり水洗便所になりましたが、驚くなかれわが家は10数年前までは溜め置き式の便所でした。田舎のことゆえ公共下水道の整備もままならず、未だに合併浄化槽での処理ですが、それでも水洗便所になった時の清潔感の変化は言葉では言い表せないものでした。

 私たちの暮らした少年時代の漁村は全てが溜め置き式の便所でしたから、その汚物処理は年に2度くらい、親類が協力し合って山の上の段々畑に人糞肥料としてばら撒かれていたのです。その日が来ると親類縁者は本家の威厳で集められ、その体力に応じた個々の役割区域が設定されるのです。肥タゴと称する木桶が一対で天秤棒で中の汚物が跳ねぬよう上手く調子を取りながらリレーするのです。中身の重さはみんな均等ながら、急な坂道は力の強い健脚が当りました。また女性は汲み出しと人糞まきを担当し、それぞれの役割で知らず知らずのうちに便所の汚物が空になるという算段です。人糞の空になった家は良いのですが、人糞を撒いた畑はしばらくの期間凄い悪臭で、雨が降らなければ何日も辺りに異様なにおいが立ち込めていたものです。100メートルくらい置きに人が配置された人糞運搬リレーは漁村の冬の風物詩であったようにも思います。

 しかしこれは何も漁村に限ったことではなく、私たちも体験をしましたが中学校の便所も教師が子どもたちを使って実習畑に撒いたりしたものです。こうした不衛生な人糞処理のせいか子どもたちは年に一度の検便があるのですが、殆どの子どもが回虫を体内に育てていたのです。つまり人糞で育てた野菜が口から入り回虫がいるのです。これは戦後の農山漁村の近代化にとって大きな汚点であることから、役場や学校が生活改善運動として回虫駆除に乗り出していました。検便検査もいい加減なもので999マッチの小箱に割り箸を使って入れ、その上を新聞紙で包んで紐で縛り、学校にブラブラさせながら持参するという何ともお粗末な検査なのです。検査の結果回虫などが発見されると虫下しという苦い薬を飲まされ、その効果はてきめんでかなりの虫が下りました。ある学説によると体内から回虫がいなくなってから子どものアレルギーが増えたそうです。ひょっとしたら回虫がアレルギーの源を食べていたのかも知れません。そういえばアレルギーなんて子どもは一人もいませんでした。

 本当に合った嘘みたいな話ですが、戦後新制中学が誕生する時、新しく出来た学校の便所の人糞は誰のものか、真剣な議論がなされたそうです。結果的には入札で落札した人にその権利が有料で与えられました。化学肥料とてなかった時代ですから人糞は最高の肥料だったのです。家庭のトイレも学校のトイレも落と紙は全て読み終わった古新聞を適当な大きさに切って備え付けていました。今のテッシュペーパーのような柔らかいものではないので、新聞紙を手で揉んで使っていたようです。トイレが留め置き式なので臭さと季節によっては虫が湧き、トイレは北向きの日陰、しかも臭いものという印象を、今も日本の文化は引きずっているようです。これも苦き思い出ですが、トイレで少し硬いウンコをするとポチャンと落ちてお釣りが来ることがありました。何と最早思い出してもゾッとする思い出なのです。

 これもすっかりなくなりましたが、畑の隅に野壷という小さな穴がありました。そこへは余った人糞を溜めて自然の力腐らせ、必要に応じて作物に撒いていたのです。昔は若者の悪さも度々合ってスイカ泥棒などの話題には事欠きませんでした。ある日青年たち数人がスイカ泥棒に行ったそうです。夏の暗闇に乗じての悪ふざけでしょうが、スイカを取ったまでは良かったもののスイカを持ったまま野壷に落ちて糞だらけになったという笑い話は先輩から酒の肴として何度も聞かされました。臭い話です。

 いつの頃からか漁村の便所の隅から肥タゴと天秤棒と肥勺の三点セットが消えてなくなりました。臭いものの代名詞のように言われた肥タゴは私たちの暮しにとって極めて大事な道具でした。多分焼却処分されたのではないかと思われますが、下水や合併浄化槽や汲み取りバキュームカーが普及した現代の暮しに肥タゴの復権はないでしょうし、こんな話も「えーっ」「うそー」なんて言葉で語られる死語となることでしょう。

  「肥タゴを 天秤棒で 担いだ日 半世紀ほど 前のことなり」

  「臭いもの 思っていたのに 部屋の中 風呂と同居の ホテル泊りぬ」

  「検便の サンキュウーマッチ ぶら下げて ふざけて通う 学校懐かし」

  「カイジンソウ 鼻をつまんで 呑まされて 回虫出てき これはたまらん」


 

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shin-1さんの日記

○ビールの贈り物

 昨日外出先から帰ってみると、玄関の引き戸に「お届け物を配達しましたが留守でした。下記にお電話ください」と宅配業者のメモが挟み込まれていました。妻は「留守で悪かったわねえ」と言うなり下記の宅配業者に連絡すると1時間後に小さな小包が届きました。顔なじみの方なので「お茶でもどうぞ」と言いましたが、「急ぎますのでハンコだけ下さい」と言って帰って行きました。

 「お父さんビールが届いた」、私がビールを愛飲していた頃は多い年にはビールの贈り物が20箱以上もあって、その度に妻のこんな言葉に一喜一憂したものですが、さすがに私がビールを飲まなくなった事を知っている人からはビールが届かなくなってしまいました。ゆえに昨日の「お父さんビールが届いた」はより新鮮に聞こえました。差出人の住所と名前を見ると「山梨県清里、萌木の里舩木上次」と書いているのです。舩木上次さんといえばフィールドバレエで有名な私と同じ観光カリスマ百選の名物男なのです。彼の凄さは前にもブログに書きましたが、昨年はラベルに私の長年の夢であった「夕日ビール」と書いたビールを送ってくれましたし、何かと近しい間柄です。先日も来年春に関東で二人の対談をやるからと予告の電話をいただきました。

 ビールの箱の中に八ヶ岳ブルワリー醸造長山田一巳さんの記事の載った一枚のコピーが入っていましたので紹介します。

 「最近プレミアムビール市場が盛り上がっていますね。私の古巣であるキリンビールが発売したレギュラー価格帯の「座・ゴールド」などを見ても、ビール本来のコクや苦味などが見直されつつあるようです。長年ビールを造る続けてきた者としては、喜ばしいことだと思います。発泡酒や第三のビールが悪いというわけではありませんが、でもビール会社なんだから、やはりビールで勝負して欲しいいう思いがあります。-中略ービールを造り続けて50年になりますが、未だにビール造りは難しいですね。自分のビールを造るようになってから、ますます億の深さを感じるようになりました。清里でテレビ局の取材を受け「究極のビールとはどんなビールですか」と聞かれたことがあります。その時は、「私が造ったデュンケル(オールモルトの濃厚なタイプ)です」と答えたんですが、今思うと、とんでもなく恥かしい発言です。どれだけ造り続けても、究極のビールなんて造れない。ビール造りにゴールはないんです。何といっても相手は生き物です。発酵段階で糖をアルコールと炭酸ガスに分解する酵母なんてまさしく生きものです。発酵時には「お願いします」「もう少し頑張ってくれよ」なんて心の中で酵母に話しかけながら、酸素を与えたり、酵母を入れ替えたりして面倒を見ているんです。データやプログラムは勿論重要ですが、それだけではビールは造れない。ビール造りは生き物と会話しながら向き合う、とてもアナログな作業なんです。」

 酒でいうと杜氏さんのような人なのでしょうが、山田醸造長さんの話は雑誌の表題「有訓無訓」のとおり、何にでも通じる中々奥行きの深い話のようで参考になりました。

 さて私は送ってもらった舩木さんには悪いのですが体の都合でビールを飲むことが出来ません。私のすることはこのビールを使って舩木さんや山田さん、それに八ヶ岳ブルワリーの紹介をすることなのです。そのためには知人友人の中で情報発信源になりうる人に飲ませることなのです。クール宅急便で届いたということは、味の落ちないうちに早く処分せよのコールサインでもあります。早速今朝から行動を開始しました。

  「昔なら 喉から手が出る ビールだが 酒断つ俺にゃ 猫に小判だ」

  「ビールにも 奥行き深い 味わいが 安けりゃいいと 発泡飲む人」

  「世の中が 変っているのか どっちだか ビール発泡 飛ぶよう売れる」

  「あの苦味 死ぬまでも一度 味わって 見たいものだね 何時になるやら」

 

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shin-1さんの日記

○ある宇和海沿岸漁村の苦悩

 私が漁村生まれで元漁師ということもあって、私の元へは県内の漁業関係者が時々やって来ます。とりわけ青年団や漁業後継者活動の指導で知り合った比較的若い人の数が多く、その人たちは私のアドバイスを求めにやって来るのです。昨日の朝のことです。「今、ふたみシーサイド公園にいるのだが立ち寄ってもいいか」と私の携帯に電話が入りました。私の携帯番号を知っているくらいだから余程の深い知り合いに違いないと思い出掛ける前だったので「少しの間なら」と了解をとって彼はわが家へやって来ました。彼が若い頃県の漁業後継者協議会の役員研修会で知り合ってから付き合いですからもうかれこれ20年以上経っています。あの頃の逞しさはすっかり陰を潜め、病気を患ったという風貌は空気の抜けた風船みたいでどこか元気がない感じです。

 彼の話を要約すると三つでした。まず一つは養殖魚の斃死問題です。宇和海沿岸では連日新聞紙上を賑わせているように今年の夏も赤潮が発生しました。最初は毎年繰り返される軽めの赤潮ギノデマニュームの仕業だと思っていたのですが、意外や意外その勢いは凄いもので、宇和海全体に飛び火し、養殖魚に留まらず真珠にまで被害が出始め、海域全体の被害総額は30億円ともいわれているのです。普通の斃死は沿岸域で沖合い域には及ばないのですが、今年は沖合い域さえも青物が死んでいるというのです。普通斃死の時期には餌を減らせて予防したり、薬剤散布を試みるのでしょうが、環境問題への関心の高まりもあってそれも出来ず、いかだの沖合い移動による移動も中々思うに任せないようなのです。魚の養殖漁業は毎日餌を与えなければ魚が成長しません。稚魚を買い、魚の餌を買って与え、やっと大きくなったと思う矢先の斃死はこれまでの苦労が全て水の泡となるのです。加えて死んだ魚の処分も海に捨てることも出来ず処分費用も相当なものなのです。

 二つ目はこうした慢性的な被害の場合緊急対策として県や市町村が資金の低利融資を行って対応するのですが、相次ぐ被害や長年の不況で資金の融資をしても回収のメドが立たず、資金繰りが悪化して廃業に追い込まれている現状を思えば中々頭の痛い問題なのです。漁協も市町村も漁民の味方のはずなのですが、とりわけ不良債権で漁協運営そのものが立ち行かなくなっていて、苦悩の色ありありです。県は「組合の合併なしでこの急場は乗り越えられない」と、この機会をとらえて盛んに詰め寄ってくるようですが、果たして組合合併が漁民の窮状を救えるかどうか、農協合併や市町村合併の前例を見ている漁民からは根強い反対運動もあって合併寸前にご和算になった話もよく耳にするのです。最近は資金力を持った漁業産業がこうした浜を狙い撃ちし、漁民を雇用者として使う、かつての網元制のようなものが復活しているとも聞いています。

 三つ目は漁村の活気がなくなりつつあることです。農業に比べ鉄壁の団結を誇っていた漁村のコミュニティも過疎と高齢化、少子化、それに有能なリーダー不足で漁村そのものが危なくなっているようです。若者が溢れるほどいた漁村はもう遠い昔の思い出でしかないのです。

 こうした現状を踏まえ、さておらが漁村をどうするか、彼が私に求めたアドバイスはここからなのです。解決方法は二つ、一つは日本全国の漁村が戦後辿ったように漁村の暗い未来に決別し外に働きに出かけるか村を捨てるかです。もう一つは今なら間に合う漁村の改革を始めるかです。前者はいつでも出来る安直な考えです。後者はいいに決まっている解決方法なのですがそれなりの覚悟と苦しみが伴うのです。その漁村はまだ千人もの人が暮らしていて40億円の漁業売り上げがある地域なのです。私はふと高知県馬路村を思い出しました。今をときめく馬路村と同じ人口を抱え、売り上げは馬路村より上なのです。やり方によっては馬路村の上を行くかもしれません。ただしこの村には負の部分が馬路村より大きいのですから、それをどうするかが知恵の出しどころでしょう。

 結論は出ませんでしたが、村の行く末を思って相談に来た彼は立派だと思いました。村に住んでる高齢者が安心してあの世に行ける村を作らなければなりません。私が育った漁村も右肩下がりですが残念ながらその事に気付かず、今をテーマにしか村づくりができないで、不安や不満が渦巻いている姿を見ると、相当な荒治療をしない限り日本の漁村は十年後確実に消える運命にあるのです。

  「いつの世も 厄介問題 次々と それを乗り越え 人は歴史を」

  「元漁師 こんなレッテル 剥がさずに これから先も 私は生きる」

  「この村を どうかしたいと 相談に お前はどうする 俺はこうする」

  「ああ悲劇 明かりの消えた 空き家あり 墓地さえ草に 埋もれし漁村」


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shin-1さんの日記

○岩盤浴は凄い

 五月に長女の出産があり、産後の実家暮らしやその後ずっと土日になると孫が訪ねてきて、今年は何かと慌しい日々でした。加えて3日後が長男嫁のお産予定日とあって、お目出度続きながら今年いっぱいは何かと忙しいようなので、せめて今日ぐらいはリラックスタイムにしようと、意気込んでは見たもののやはり長男嫁のお産が気になって遠出も出来ず、結局は温泉にでも行こうと二人の話がまとまり伊予鉄健康ランドの券があるので二人で出かけました。こんな暑い日には温泉など人が行くものかと思って行ってみると、あにはからんやかなりの人が訪れていて、今さらながらに日本人の風呂好きを垣間見ました。今日はベスト8に残った今治西の試合があるので、リラックスルームはお風呂そっちのけで超満員で個人席に付いているテレビでは殆どの人が野球観戦をしていました。

 私たちは物珍しく岩盤浴に入ろうと入場券に更に千円支払い早速体験です。最近ブームになっている岩盤浴は女性のエステのようなものと思いきや、結構男性の利用者もあり、しかも浴衣を着て男女一緒に入れるコーナーもあるのでそのコースを選びました。まず普通のお風呂に入って発汗準備をし、指定された畳一畳程度の広さの温かい岩盤上にバスタオルを敷いて寝そべるのです。枕元には枕と5分計の砂時計が備えられており10分から15分程度汗を出した後、氷点下0度の氷の部屋へ入って体のほてりを取り、再び岩盤浴の部屋で発汗させるのです。このパターンを3回ぐらい繰り返すと体中から汗が噴出し、500ミリリットルのペットボトルが水分を補給して熱中症にならないようするのです。

 私は時々温泉のサウナを利用するのですが、サウナのような息も出来ないほどの暑さではなく、ほの暗い照明と静かなBGMが全身をすっかりリラックスさせ、程よい効果を発揮するのです。

 隣り合わせの妻は私より短めの岩盤浴でしたが、2度目とあって戸惑う私を尻目にマイペースで利用していました。隣の席だった妻は私に色々話し掛けて来るのですが、疲れているのか私はほんの少しの間浅い眠りについていたようです。

 12時を過ぎていたため夫婦水入らずで昼食を取りました。最近は妻と食事の話も上手くまとまって、私と妻が別々の物を注文し二人が半分ずつ食べあう知恵を生み出しました。お陰で何か豪華な食事をいただいたような気分になるのです。腹も太ったところで再び軽く温泉に入り3時頃健康ランドを出ましたが、こんなにリラックスしたのは久々であり、「いい休日になった」「また来よう」と夫婦そろって相槌を打ちました。「こんなことを贅沢と思うのだから私たちも歳だなあ」と二人で笑いましたが、夫婦円満はいいものです。

 締めは帰りに道後に住む孫の顔を見に立ち寄り束の間の休日を終えました。明日からお互い忙しくなりそうで、私は和歌山へ参ります。リフレッシュして昨日の草刈りで積もった疲れが取れたので、さあ頑張りましょう。

  「聞きなれぬ 岩盤浴を 楽しんで すっかり疲れ 取れて明日から」

  「暑い夏 あえて金だし 汗をかく 貧乏してても ささやか贅沢」

  「俺たちは 仲が良いのか 悪いのか 比較対照 する人いない」

  「お産から お産の間の 谷間ゆえ せめて休日 休んでおかねば」


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○トラブル解決能力

 昨日わが家の菜園の写真をデジカメで撮影して、画像を500Kb以下に落としてブログに取り込もうとしたら、いくらやっても3枚の写真がどうしても取り込めないのです。業を煮やしてその写真の取り込みを断念してしまいましたが、何とか取り込みたいと娘婿のメールに助け舟を出しました。こんな場合は長男か娘婿に助けを求めるのですが、今回は娘婿にメールでことの成り行きを説明しました。夕方だったこともあって私の送った写真はとり込めるとの返事を貰った以降は、まだその解決策も見えぬまま気になりながらも朝を迎えています。

 今までにも「これぐらいなことでイライラするのだったらパソコンなど止めよう」と何度思ったことか知れません。でもその壁を越えないと次に進めないものですから、人の力と教えを請うてここまで到達しました。でもパソコンは日ごろ言う事をよく聞く時は「これぐらい便利なものはない」と思いながら、一度トラブルと「これぐらい厄介なものはない」とまるで正反対な気分になって、イライラが募るのです。

 トラブルも解決方策が分ると何のことはなく、「何だこんな操作で出来るのか」と思わずウキウキし、あんなことくらいでイライラした自分が馬鹿馬鹿しくなったりもするのです。

 「トラブル解決能力は修羅場の数」だと思います。本当はパソコンの基本基礎から習っておけばトラブルの原因は容易に発見でき解決するのでしょうが、ことパソコンに関して私の場合は「いい所取り」で余りにも便利な近道を歩いて来たように思うのです。これはパソコンだけでなく人生にも通じることだとしみじみ思います。日々の暮しの中でも毎日のように小さなトラブルが沢山降りかかってきますが、私たちは長い経験からそれらを平気で乗り越えてきました。

 一昨日の出来事です。一昨日は予定していた会議が都合で中止になり、人間牧場へ草刈に出かけました。まず最初のトラブルは水平線の家のカギを忘れたことから始まりました。草刈りは屋外ですから水平線の家に入らなくても出来るのですが、水平線の家の中に地下足袋と軍手、それに麦藁帽子や蚊取り線香などの草刈り七つ道具を置いているのです。泥棒にこの情報を知られたくないので秘密にしますが、カギを開けなくても私流で中に入れる方法を知っているものですから、その方法で中に入りました。

 さあ草刈りを始めました。順調です。約1時間くらい経ったでしょうか。吹き出る汗を拭いながら喉の渇きを覚えたので休憩です。妻の作ってくれた氷の入った冷たいお茶を木陰で飲みました。その美味しさは格別でした。腰に巻いた蚊取り線香のお陰で蚊も寄り付かず、気温は上がっているものの心地よい風に吹かれてのんびりです。少し休んだのでさて始めようと草刈機をかけようと紐を引っ張るのですが、何度やってもオーバーヒート気味の草刈機は言う事を聞かず、再び汗が噴出しました。普通だとこれで頭にきて「やーめた」なのでしょうが、草刈機も自分も頭と機械を冷やそうと、先日取り付けたばかりのミニコンポでラジオをかけ、甲子園の高校野球を聞き始めました。10分くらいして草刈機を引っ張ると何のことはありません。あれほどむずがった草刈機が一発でかかったのです。機械とは不思議なものよと思いつつ、時々休んで機械を冷すとうトラブル解決能力を身につけた次第です。

 パソコンの写真はまだトラぶったママですが。まあそのうち娘婿がいい助け舟を出してくれることでしょう。他力本願もたまにはいいものです。私にはパソコントラブル解決のためにサポートしてくれる二人の強力なスタッフかいることを知っているトラブル解決能力があったのです。

  「イライラは 便利近道 した報い 基礎を習わず 出来るはずなし」

  「トラブルを 幾つ解決 しただろう これから先も 新たトラブル」

  「助け舟 呼べる間は まだいいが やがて適わぬ そのこと自覚」

  「出来ました 私の悩み 何だった 過ぎてしまえば いとも簡単」

  


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shin-1さんの日記

○豊作と不作

 わが家の家庭菜園は折からの猛暑でギブアップの状態です。何せ8月2日に台風5号がやって来て雨を降らせてからはこの10日余り雨らしい雨が降らず、連日報道されているように猛暑日が続いて、夏野菜が枯れ始めたのです。夏野菜といえばキューリ、ナス、トマト、ピーマン、オクラ、カボチャ、スイカなどが代表選手ですが、今年は天気が良いため殆どの野菜が豊作でした。しかしここに来て水不足は否めず、キューリなどは早々と根を上げてしまっています。

 近所の家庭菜園を見ると、殆ど全ての夏野菜が枯れかけているのに、わが家の野菜が元気なのには理由があります。それは親父の力なのです。数年前わが家では池で鯉を飼うため地元の水道業者に頼んで小さく簡単な井戸を掘りました。井戸といってもパワーショベルで少し深めの穴を掘りそこに長目のコンクリートのヒューム管を埋めているだけのものです。井戸を掘った近くには清水が湧いていた所なのであるいはと淡い期待を持ちました。最初はそんなに水も溜らず失敗かと思われたのですが、次第に水が溜り始め、地下に水道が出来たのか、今ではかなりの量を使ってもポンプアップした水が勢いよく出るのです。親父は自分でエスロンパイプを畑まで引いてちゃんと散水が出来るようにしているのです。夕方太陽が沈むと親父はやわら畑に出て井戸水を野菜にたっぷりやるのが夏の日課になっているのです。

 その恩恵を受けているのは私たち家族で、近所ではもうトマトもナスも枯れ始めているのにわが家のナスは食べ切れに程量産されて、毎日のように近所におすそ分けして喜ばれているのです。

 今年豊作だったものにミニトマトがあります。ミニトマトは病気に強く毎年豊作なのですが、今年はその丸いミニトマトが普通のトマトと一緒の場所に植えていたため、どういう訳か食べ頃になったら腐るのです。連作障害だろうかと思いつつ、口に入れるものなので消毒も出来ず今年は諦めています。しかし別の場所に植えたドングリ型のミニトマトはかなりの豊作で、二日おきに大きなボールいっぱいの収穫で、お陰様で今年は完熟トマトを毎日毎日賞味しています。来年はこの品種を購入して今年のような豊作を期待したいと妻と話し合っていますが、さてこのトマトの苗は何処で買ったのか、いや誰かに貰ったのか未だにそのことが分らず終いなのです。真赤なトマトを畑かでもぎ取る楽しさは何にも変えがたく、ただ今私の夕方の日課になっています。


 オクラも遅まきながら毎日10個ほど収穫しています。わが家はオクラ大好き人間が多く、納豆にオクラ、すり大根にオクラ、オクラの天ぷらなどなど逸品として食卓で存在感を誇示しています。

 今月末にはになると月を愛でながらのいもたきの話題が出始めますが、その主役は里芋です。ところがこの里芋は真夏の時期に地下茎が太るのに水が不足するため水の大好きな里芋は中々太らないのです。親父は今年この里芋を思いきって沢山植えました。親父の水やりがかなりの時間を費やすのはこの里芋のせいなのです。他所の里芋が根を上げつつあるのに大きな葉っぱを茂らせているのは親父の水やりのお陰なのです。

 この分だとあと20日ももすれば美味しい里芋が賞味できるだろうと淡い期待をして、自分は水もやらず親父の水をやる風景を横目で見ています。

  「水をやる 人と食う人 違う人 役割分担 上手くできてる」

  「井戸水で この夏乗り切る 野菜たち 今日もこうして 近所裾分け」

  「陽が落ちて 畑水やる 親父さん あなたのお陰 健康身体」

  「夏過ぎりゃ 里芋掘り出し 芋を炊く 目の前浮かぶ 美味しい日々が」

  

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shin-1さんの日記

○今年も実行委員を引き受けました

 リタイアして2年4ヶ月余りが過ぎました。辞めると「あいつは暇だ」と思っているのでしょうか、あちらこちらから声がかかりボランティア活動に参加するよう誘われるのです。中には「集会の人数が不足しそうなので動員に一役買って欲しい」とか、「選挙の運動員になって欲しい」などと私の足元を見ているような誘いもかなりあるのです。私はその都度「あいにく都合が悪い」と、行けないことややれないことの理由を探して敬遠するのですが、敵もさるもので私が逃げないようにどんどん囲みを狭めてくるのです。「仕方がない。それ程言うのだったら顔を立てて一回くらいは」と甘い顔を見せれば、どんどん深みに引きずり込まれてゆくのです。これまでにも色々な所に顔を出している私ですから、面は割れていて「えっ、何で若松さんがこんな所に?」なんて驚きのであいもあったりして、ホトホト困っています。

 でも中には双海町の少年少女おもしろ教室の実行委員長などのように行き掛かり上仕方のないものもあり、人間牧場を開放してそれなりに力を入れてボランティアをしているものも少なくないのです。


 一昨日出かけた国立大洲青少年交流の家の「大人を考えるフォーラム」の実行委員もその一つで、過去2年間委員長に就任して企画や運営に携わった経験から3年目の今年も、渋る私に有無を言わせず引きずり込まれてしました。そしてこともあろうに委員長というまとめ役を仰せつかってしまったのです。

 出掛けに嫌な予感がしました。人間牧場の近所で火事騒ぎがあり、「人間牧場が燃えているのでは?」と思った騒動はブログに書きましたが、その余韻を引きずって家を出る時妻が「お盆の16日に会議をするなんて、お役所仕事ねえ」なんて陰口(言った事を書くのですから陰口ではないですね)を叩き、「みんなの都合の良い日を探していたらたまたま16日になっただけ」と言い訳をして出かけました。

 会議は夕方5時から7時まででしたが、嫌な予感は的中し断る理由もなく委員長を引き受ける羽目になりました。これから12月のフォーラムに向けて水面下の会議が続くものと思われます。

 今回の会議は過去2回のフォーラムの経験を活かして「大人とは何か」といった概念論などはせず、むしろプログラムの充実と運営、それに募集に重きを置いて話しましたので、昨年までの経験が随分活かされそうで大助かりです。新しくメンバーに加わった方々には少し理解し難いところもあるようですが、スライドで昨年の担当者の武田さんから微細の説明があったので納得したのではないかと思われるのです。

 まあそんなところでまた忙しくなりました。やるからにはいいプログラムを企画し、いい人に集まってもらい、いい運営が出来るよう、そして次につながるような集会にしたいと思っています。

  「俺だって 暇じゃないけど 仕方ない 今年もない知恵 出さにゃなるまい」

  「お盆だと いうのに会議 持つ役所 俺に合わせた 仕方ないだろ」

  「いつの間に コップがボトル 変身し 机の上に お茶が配られ」

  「40度 越えたと報道 するその日 大洲秋風 トンボスイスイ」

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