shin-1さんの日記

○今日はとても嬉しい日になりました

 12年も前のことでしょうか。ある日電話で友人から金の無心がありました。金の無心はその友人ではなく友人も私もよく知っている女性に無心をして欲しいとのことでした。聞くところによると親の反対した人と出会いの末身ごもり、子どもを産むための費用だそうです。勘当された親にも頼めず途方に暮れた末の切羽詰った話に同情し、何人かでお金を工面して遠い異郷の地で無事出産の知らせを友人から聞いた時はわがことの様に嬉しかったものです。その後様々な遍歴を経る度に手紙や葉書で近況連絡する律儀さは見上げたものだと思いつつ、貸した金のことなどすっかり忘れていました。

 今日外出から帰ってみると妻が「お父さん女性の方から現金書留が来とる」というのです。表書きの下には昔の名前が記されていました。封を切り中を開けてみると貸した現金がきちんと入っていて、手紙にはこれまでのいきさつや近況が詳しく記されていました。

 妻は女性ですからもてない私でも女性に金を貸ということは余程の理由だと、当時の事をちゃんと覚えていました。私は急ぐというので当時の収入役に嘘をついて2日後の給料日まで借用書を入れてお金を借りたのです。当然2日後の給料日には私の給料から天引きされました。薄っぺらい給料袋の時代ですから、手渡した妻は理由を聞きました。私は「お前にもいえない理由で金を貸した」とだけいいました。妻は何にもいわず納得したのかしないのか一応了解しました。

 あの日以来10数年の時が流れました。年に1、2度の年賀状や暑中見舞いも沢山の葉書に隠れてお金を貸したことなどすっかり忘れていたのです。相手には失礼な話ですが「訳ありのお金だから戻ってくるかどうかも分らないし、借用書など書かない信用貸ですから戻ってこなくてもいい」くらいに思っていました。

 処がどうでしょう。ちゃんと戻って来たのです。私は涙が出るほど嬉しくなりました。察するに彼女は元の鞘に納まって実家へ帰り働きの中からコツコツと貯えて今日の日を迎えたに違いありません。小学生の長女と次女をかかえて暮しも大変でしょうが、恩を恩として返したのです。勿論妻に彼女からの手紙を読んでやり、当時の給料袋の思い出を二人で振り返りました。妻も涙ぐんでいる様子で喜んでくれました。そしてそのお金は妻の家計簿に戻したのです。

 世の中色々なことがあります。余程裕福に見えるのか私の元にさえ金の無心に来る人もいます。中には貸したっきりで返さない人もいます。人には人に言えないことだっていっぱいあるし、特に金に困った時の難儀さは本人でないと分らないものです。わが家の先祖も貧乏、私も未だに貧乏ですが、親父が口癖のようによくいう「騙されても騙すな」はお金の世界でも通用するものだと思うのです。

 今日は妻が「お父さん、今日はいい日でしたね」と言ってくれました。そうです。今日はハッピーなのです。

  「十二年 ぶりに返った 貸した金 手紙読みつつ 目頭熱く」

  「一枚の 借用書もない 貸した金 さぞや心に 重き荷となり」

  「俺の妻 あの時何も 言わず首 横に振らずに よくぞ了解」

  「嬉しいね 今日はいい日だ 思い出す 昔のままの 彼女の笑顔」  

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○人間牧場付近が火事だ

 昨日の昼過ぎ、わが家に妹みゆきから一本の電話がかかってきました。仕事先から昼休みで帰ったばかりの妻が電話を取ったのですが、「お父さんみゆきちゃんから電話が入って人間牧場付近が火事だそうです。消防車が走り、何でも池ノ久保の梶野さん方の上付近が山火事らしい」というのです。私の胸はとっさに高鳴りを覚えました。梶野さんがよりにも寄って「火事のさん」と聞こえるのが何よりもその事を照明しているのです。梶野さんといえば人間牧場から直線で500メートルしか離れていないし、その上だったらまさに人間牧場辺りなのです。

「お父さん行ってみないと」「気をつけてね」「向こうへ着いたら電話をしてね」「そういえば水平線の家は火災保険にはまだ入っていない」などと矢継ぎ早の話しに諭され、取るものもとりあえず乗用車で出発しました。

 海岸国道378号に出ると人間牧場付近が山の端に見え隠れするのですが、高速道路並みに走るお盆帰省客の車に注意しながら、車の列が途切れる度に目を凝らして人間牧場を見ながら走りました。途中妹みゆきの経営するくじらという小さな店に立ち寄りその真意を確かめました。先程の電話と余り進展のない話でしたが、近所の人に電話で様子を聞いたところ「鎮火した」とのことでそれ以上の情報は入っていませんでした。

 いつも通る近道を走ろうとその道に差し掛かると、前を消防署の赤い指令車が現場に向かって走っていました。急な山道は慣れていないのかノロノロ運転でじれったい気持ちになりました。さらに現場に近づくと二本の分かれ道に出ます。その分かれ道でも不案内な指令車は一旦車を止めて後続の私にどちらの道か聞く有様です。

(真ん中の広場が焼けた場所です)

やがて梶野さんの家付近に来ると少し広くなった道沿いに何台かの車が駐車し、消防車も2~3台いました。みかんハウスのその向こうに土木業者が残土処理した空き地があり、その付近の枯れ草が焼けて当たり一面からまだくすぶりの煙が立ちこめていました。どうやら「梶野さん方の上」は「梶野さん方の下」だったようで、何はともあれ火事になった方には悪いのですが人間牧場ではなくホッとしました。見たところ広場の枯れ草程度で被害はまったくないようで、枯れ草でも焼いていて延焼したのか火元と見られる人と消防署の人が現場検証しているようでしたし、地元の消防団も引き上げていましたので、野次馬になってはいけないと横目に見ながら通り過ぎ、とりあえず人間牧場に到着し、鍵を開けて中に入り点検しましたが何の変りもなく猛暑の静寂の中でセミの声だけが賑やかに聞こえていました。ふと妻が出かけに漏らした「火災保険に入っていない」ことが気にかかり、状況を知らすべく家に電話を入れました。わが家にはこの二日間夏風で仕事を休んでいる次男がいましたので、「人間牧場が火事ではなかった」旨を告げ、続いて妻の職場に電話を入れました。「お父さんよかったね。ホッとした」と妻も喜び「人間牧場は火を使うし無人になることもあるので火災保険に入ろう」と勧めてくれました。

 そうこうしていると3時過ぎとなって、この日は国立大洲青少年交流の家で開かれる「大人を考えるフォーラム実行委員会」がある事に気がつき、着替えもせずにカジュアルな服装で別のルートの山道を下って国道に出て興奮冷めやらぬまま大洲へ向かいました。

 一瞬にして全てを失う火事の怖さは、火事を起こした張本人でないと中々分りません。わが家でも無人島キャンプから帰ってきた私たち親子を迎えに出た妻の一瞬のスキに天ぷら油に引火して窓を焦がしたボヤ騒ぎがあり肝を潰した経験があります。幸い大事には至りませんでしたがあの時以来火の始末はしっかりしています。息子は建築士らしく完成した水平線の家に何本かの消火器を置いてくれていますが、蚊取り線香や囲炉裏、それに雑草の野焼きも行う人間牧場の火に対する備えをもう一度しっかりしたいと思ったお盆16日の昼下がりでした。

  「牧場が 火事かも電話 受けた妻 火災保険が とっさに頭」

  「胸を撫で 無事を喜ぶ 牧場の 夏の静寂 セミは賑やか」

  「有り難や 火事を心配 電話する 妹存在 改め思う」

  「降って湧く お盆休みの 昼下がり 心動揺 ハタハタ鳴りて」


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○変る写真事情

 昨日伊方町の塩崎さんから手紙が届き、中に7月7日人間牧場で合宿した時佐賀関の渡辺さんが撮影した写真が何枚も同封されていました。渡辺さんは写真が趣味でわが町の恋人岬に沈む夕日をわざに撮りに来るほどの腕前ですから、一枚一枚の写真のおくが深く、見ていても飽きないほどリア売るに表現されているのです。私もかつて教育委員会に在職中広報マンとしてカメラを仕事道具に10年間も地域の話題を追った経験があるので、話題やアングルなど一通りのことは習っているつもりですが、ペンタックスの一眼レフカメラの時代とデジタルカメラの現代ではその手法が全然違うものですから、渡辺さんのような時代を先取りした人に比べると大分時代遅れだと自負しているのです。

 カメラの変革が一応それなりの進化を遂げてきましたが、最近はプリンターの技術革新が目覚しく、居ながらにして自宅で写真が出来るのですから驚くほかありません。写真屋さんにフィルムの現像に出して1日、写真を焼き付けて1日とまる2日間もかかっていた行程は全てカットされ、撮影即プリントですから気に入らなければ再撮影するチャンスだってあるのです。更にその写真の画像がインターネットで送られるというのですから、私たちのような凡人の頭脳では何が何だか分らない時代なのです。

 私は今エプソンのプリンターを使っていますが、今度手に入れたプリンターは中々の優れもののようなのです。父の日のプレゼントとして届いたばかりで、まだ私自身の手で使い初めしていないので、その性能はまだ未知ですが、息子の話によると多分このプリンターだと、かなり性能が良いのでいい写真の仕上がりが期待出来そうなのです。

 手元に使わなくなった一眼レフのペンタックスカメラがあります。役場で工事用に買ったものなのですが故障して廃棄処分され備品台帳から抹殺されたカメラなのです。メーカーに送ったところ、故障部分は少しお金をかければ直るというので3年前自費で修理に出し、何ヵ月後に手元に帰って来ました。直ったので備品に復活するか問い合わせたところ、廃棄の復活はしないとの返事だったのでそれからデジタルカメラを手に入れるまでの1年間、様々な場面でこのカメラは活躍しました。

 ところが退職時に当時の仲間が当時としてはかなり性能のよかったフジフイルムのデジカメを退職の記念品として贈ってくれたため一眼レフは使われることなく使い方も忘れるほどの長い間机の隅で埃を被っていたのです。使い捨ての時代といいながら勿体ないので少し使ってみようと思い始めているこの頃です。荷物にはなりますが月末に上京予定のためこのカメラを持参しヨドバシカメラにでも立ち寄って電池の交換やフイルムの購入などしたいと思っています。

 デジカメ万能の時代となり、一眼レフなどは古い時代の物として捨て去られる運命にありますが、一眼レフだっていい写真はいっぱい取れるのです。むしろ一眼レフにはデジカメにはないオンリーワンのよさがあるのです。

 そういえばダンボールに入れられたままで未整理の写真の数々も気になっています。亡くなった友人がカメラ気違いといわれるほど多くの写真やフィルムを残してあの世へ旅立ちました。まちづくりの世界だと遺し伝えるはずの遺品なのでしょうが、遺族や価値が分らない人にとっては最早ゴミに近い存在なのです。私の写真も家族にとっては同じように最早ゴミです。ゴミにならないための方策は整理整頓してせめて7回忌くらいまで思い出のよすがにしてもらいたいものです。

 渡辺さんの写真を見ながら、はて渡辺さんはどんな整理整頓をしているのだろうと思いました。

  「わが家でも 写真が出来る 世の中に 変ったものです これから先も」

  「一眼を ごみの中から 拾いあげ 修理しつつも 使わず放置」

  「送られし 写真に友顔 思い出す 取った本人 何処にも見えず」

  「記憶とは 曖昧模糊な ものですね あった出来事 既に忘れて」 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○墓参り

日ごろは不信心な私ですが、春と秋の彼岸、それにお盆や正月は地元の風習にしたがってお墓参りをしています。お墓まで家からだと直線距離にして500mほどしか離れていないため、行こうと思えば毎日でも行けるのでしょうが、ついつい忙しさにかまけて足が向かないのが実情です。親父は1週間に一度は必ずお墓掃除に出かけ、シキビの花を手向けて帰りますから、地元の人から見ると「若松さん所のお墓はいつも花があって綺麗」と感じるらしく、お褒めの言葉をいただくのですが私にとってはきまりの悪い言葉で、「親父がちゃんと墓守をしてくれていますので」と親父の顔を立てるのがやっとなのです。

 今年は日程が立て込んでいて8月14日のお参りとなりました。前日人間牧場へシキビの花を取りに行き準備をしていたのでそのシキビを三つに分け、ひとつは家の入り口付近にあるお地蔵様用、ひとつは仏壇用、そしてもう一つはお墓用に束ねお墓用を持参して出かけました。朝8時前だというのにセミの声が賑やかで、「今日も暑いなあ」といいながら墓地へ到着、3日前に親父が掃除に来た時に供えたシキビですが夏の暑さでかなり傷んでいたので思い切って新しいのに取替え、たっぷり水を入れ、線香を手向けてご先祖様に敬虔な祈りを捧げました。やはりお盆でしょうか、あちこちのお墓には早朝の涼しい時間を選んでの墓参りの人たちも多く、馴染みの人たちに声を掛けながらお参りを済ませました。

 息子夫婦は昨日墓参りに来たようです。長男は誰に似たのか毎年春秋の彼岸や盆と正月は欠かさずお参りをします。妻に言わせれば「私の教育がいいからだ」と胸を張りますが、確かに妻の信心は偉大で、毎日の仏壇へのお茶とご飯のお供え、それに線香やお光は欠かすことなくやっている習慣なのです。そんな無形の妻の姿を子どもたちは見ながら育っているのですから、これはもう妻の最大の功績なのです。

 急な思いつきながら、昨日の夕方送り火をして先祖の霊を送った後、妻の実家八幡浜のお墓参りに出かけました。最近は道路事情もよくなって海岸国道378号を通れば八幡浜まで1時間弱で到着するのですが、保内の入口で八幡浜ヘ向かう道路が多少混雑し1時間強かかりましたが、それでも夕暮れの墓地にはやはり涼しい時間を狙ってのお参りなのか線香の煙が立ちこめ、見知らぬ人が何人か挨拶を交わしながら行き交いました。妻の実家の墓地はお寺に境内の中腹にあって登るほどに八幡浜湾の絶景が広がりいい眺めです。昨日は小雨がパラパラ落ちていましたが濡れるほどではなく程よい涼しさでした。

 お墓にも人間模様が見え隠れし、あちらこちらのお墓は既に墓守も途絶えたのか草に埋まって見る影もない寂しいものも幾つかありました。中には江戸時代の年号も記載された立派なお墓なのに荒れているものや、比較的新しいのに荒れているものまで様々です。自然の草木は偉いもので、地震等でびくともしない墓石でも、長年放置すると礎石が動いて墓が倒れているのです。昔は若死にする人も多かったようです。また沢山いた子どもたちはみんな田舎を捨てて都会を目指しました。都会で一旗あげることが家や郷土の誉れでもありました。しかしいくら成功して金があっても、先祖のお墓がこれではと思いました。近頃は日本人の先祖に対する敬愛の念が大きく揺らいでいると思いました。

 そんなお墓を横目に見ながら妻と二人で色々な事を話しました。私たちのこれからのこと、私たちの死後のことなど、先祖守りをしてくれるであろう長男夫婦のことなど、歩きながら人生とは何かまで話しこみました。母の7回忌も来月に近づき、今日の送り火の時親父が「来年はわしの迎え火を焚いてもらうかも知れん」と、つい弱気な話をしたことなどを考えると、生きている人間の住むこの世と、先祖が眠るあの世の垣根はいよいよ近くなりつつあるようです。

 妻が唐突に「お葬式の時死者が頭につける布の三角帽子はどうして付けるの」と聞きました。「あれは天冠といってな、死んだ人が極楽の閻魔を通る時冠をつけていないと失礼にあたるから着けているんだ」と、母が亡くなった折知人の葬儀社に聞いた話をしてやりました。「まあお父さんはもの知りじゃねえ」と褒めてくれました。そういえば四谷怪談にでてくる幽霊も必ず頭に三角帽子をつけているし、バラエティー番組でも幽霊イコール三角帽子の出で立ちのようで、あんなことを遊びにしたら今に閻魔大王の怒りに触れ、地獄へ落とされるのではないかと思いました。まあ彼らはかなりお金を儲けているので、「地獄の沙汰も金次第」で天国へ行くのかも知れませんね。

  「お参りの 人もいなくて 草ボウボウ せめてわが墓 息子よ頼む」

  「出世して お金できても これではね 先祖敬う 心なければ」

  「三角布 被りて閻魔 通りゃんせ やがて私も 例に習って」

  「お墓にて 夫婦が語る これからの 人生いかに 生きればよいか」



[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○ヒーローが一転奈落に

 世の中はつくづく何が起こるからないと思います。郵政民営化で小泉自民党が大勝したと思えば一転、年金問題で阿部自民党は結党以来の大敗で、参議院では議長も出せない逆転現象が起こりました。マスコミの力を借りた追い風で小沢民主党は勢いづいていますが、こんな現象がいつまで続くのか、これも先行き不透明なのです。阿部総理が誕生した時は政界のプリンスなどと持てはやされ、「美しい国日本」をスローガンに登場したヒーローの出現に国民は新しい日本の姿を感じたに違いありません。ところがどうでしょう1年も経たないのに民意を無視した居直りで続投とどこもかしこも阿部総理の悪口でいっぱいです。

 私の友人に鳥取県日野郡江府町で町会議員をしている田中さんという方がいます。何かにつけて古くから親交があり、手紙や電話で様々な時事問題を話し合う間柄なのですが、今日届いた暑中お見舞いのはがきには、歴代総理の名前が丹念に調べて書いてあり、興味を持って読みました。

 岸信介(60)、池田勇人(60)、佐藤栄作(63)、田中角栄(54)、三木武夫(67)、福田赳夫(71)、大平正芳(68)、鈴木善幸(69)、中曽根康弘(64)、竹下登(63)、宇野宗佑(66)、海部俊樹(58)、宮沢喜一(72)、細川護照、羽田孜(58)、村山富市(70)、橋本龍太郎(58)、小渕恵三(61)、森喜朗(62)、小泉純一郎(59)、阿部晋三(52)と就任年齢を比較するといかに阿部総理が若いかが分るのです。若いということは若さへの期待と経験不足への不安が必ず交錯します。今のところ民衆は若さ露呈に傾いた批判を繰り返しているようですが、もう少し様子を見ないと若さへの期待は見えてこないような気もするのです。

 最近の報道でもう一人ヒーローから奈落の人がいます。大相撲横綱の朝青龍です。先日終わったばかりの名古屋場所では逆転優勝しさすがと世間をうならせたものですが、体調が悪いので夏巡業を休みモンゴルに帰国してサッカーをしていることが問題になって2場所の出場停止という重い謹慎処分が下され、国内では当然、モンゴルでは重過ぎると、両国間の外交問題にまで発展しようとしているのです。モンゴルでは英雄扱いされ、朝青龍のファミリー企業が活発な事業展開していることもあって、病気謹慎中の主役不在でマスコミがかなり熱を入れて騒いでいるようです。

 阿部総理も朝青龍もある意味での頂点を極めた成功者です。判官びいきの日本ではこうした成功者にはやっかみもあってか、かなり厳しい目で見られがちです。別に阿部総理が悪いから年金問題が起こった訳ではありません。しかし総理と名がつくと結果的には人の不始末、世の中の悪さえも責任を被らなければなりません。朝青龍だって長い間一人横綱として斜陽化する大相撲を支え続けてきたではありませんか。人の世の厳しさも時には必要でしょうし、阿部総理も朝青龍も自戒の念を持って事に当たらなければならない部分もあるようですが、心機一転日本の政治と日本の国技のために再起して欲しいと願っています。

 鳥取県の町会議員田中さんからの一枚の暑中見舞いが、お盆休みということもあってこの日3本目のブログ記事となりました。田中さんは本文の中で「地域格差の拡大」と「ふるさとは遠きにありて思うもの」という問題提起をされていました。確かにサービスの質も量も低下させない事を公約に始めた郵政民営化は、地方の郵便局から人の引き上げが行われ、地域格差は益々増大しています。またこの数年で200を越える集落が日本の各地で消え、限界集落の増加で遠きにありて思えない惨状だとも訴えています。

 いいまちを作りたい。これは誰もが考えることですが、今日本の田舎は社会の発展に逆行して後退の道を進ん

でいるように思えてならないのです。

  「一枚の 見舞い葉書に 込められた 田舎が故の 厳し現実」

  「議員なら こんなアクション 起こしてよ 近い議員に 言うてやりたい」

  「阿部さんも 朝青龍も 苦しんで 今年の夏は 暗き話題が」

  「ヒーローが 一転奈落 嫌だねえ ヒーローでない 俺は落ちない」 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○石垣

 わが家には人の積んだ石垣が100メートル以上にわたって続いています。この土地を手に入れる前からあった田んぼの石垣は長い風雪に耐え今でも堅牢で、後に敷地拡大のため積み上げたコンクリートブロック積みに比べるとひ弱そうに見えるものの、何処か懐かしく感じられる田舎の風景なのです。この他にもわが家の周りは古い石積みと親父がついた石積みがあちらこちらにあって中々面白く私としては気に入っています。

 つい最近は伝統的な石積みが単価の高さや資材入手の困難さそれに技術者の不足でどんどん姿を消して、コンクリートやコンクリブロックが主流になってきました。スプリットンと称するコンクリブロックを人工破断して擬似的に石に近づけようとしていますが、大小の形だけは真似るすべもなく、結局は同じような画一的となってしまっているのです。

 石垣といえばお城の石垣を思い出します。風林火山の武田節に出てくる「人は石垣人は城」を髣髴するように、上を見上げると反るように積み上げた石垣は当時の為政者が威信をかけ、領民に命令して造ったのでしょうが、そんな石垣も立派ながら、名もなき庶民たちが暮らしの中で造った石垣もまた城の石垣に勝るとも劣らぬ芸術品だと思うのです。

 石垣は石のクセ組みだとしみじみ思います。人工的なブロックとは違い自然石は姿かたちもバラバラで、その石を積み上げてゆくことは容易ではなく、かなりの熟練がないと積んだ石垣が脆くも崩れてしまうのです。石積みの工法には矢積みなど伝統的なものが地域の特性として残っていますが、多分石は重いためそんなに遠くへは運べなかったため、その地域の石の性質によって積み方の特長が生まれたものと考えられるのです。

 わが家の石垣はさして特長のあるものではありません。多分田んぼを造るときに畑の中から出てきた大石小石を拾い集めて畑内処理したものでしょう。そのため近所の岩盤とよく似た茶色の安山岩系のようです。それでもこの石の数たるや相当なもので、今の工事費に換算するとかなりの資金が投入された計算になるのです。

 石垣は手入れをしないと長持ちしません。石垣が古くなると石と石のすき間にコケや土分が溜って、そこに草や木が無数に生えてくるのです。昨日裏庭の7唐メートルの短い石垣の草取りをしました。高さ1メートルにも満たない細長い石垣ながらキャリーに3杯分もの草が生い茂っていたのです。石垣の中ほどには薮椿の木が石垣に自生し、もう腕首ほどに生長していて、草取り掃除の度に勿体ないと遺しておいたので、今では親父の剪定で春には真赤な椿の花を楽しむことが出来るのです。

 人の思いや苦労によって造られた石垣は日本の財産、わが家の財産です。住む人が絶えればあれ程強固な石垣ですら名もなき植物の根によって壊されてゆくのですから自然の力は凄いです。今日本の田舎はどんどん住んでいる人がいなくなって石垣が崩れようとしています。この石垣を造ったのも人ならばこの石垣を守るのも人なのです。人地自然の調和なくして美しい国日本は次世代に残せないのです。

  「石垣が 崩れしままの 田舎行く  住む人絶えて 寂しかりけり」

  「石一つ 一つに人の 技ありて 名もなき人に 思いを馳せる」

  「細長き トカゲ一匹 出入りする 石垣住家 熱射を避けて」

  「上手いこと 積んだもんだと 感心し 草取り作業 汗が噴出す」


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○迎え火と送り火

 本家の長男の家に生まれると年中行事や仏事があって何かと忙しいものです。長男の私は外に出る機会も多く、本家の長男という意識はあってもそれ程年中行事や仏事に振舞わされることはありませんが、長男の嫁たる妻は嫁いでからこれまでの30年余り、年中行事や仏事のその度に厳しい田舎の目としつけが重圧となってのしかかってきたに違いないのです。30年も経つとそれは当たり前のように身体に染み付いて何のわだかまりもなくこなしているように見えますが、長男に嫁を迎えたことやその長男が同居する話が持ち上がる度にそれらわが家の伝統行事を長男の嫁にどう引き継ぐのか、これまた厄介な出来事として頭を悩ませるのです。

 わが家では今年の秋、母親の7回忌を迎えます。そのため妻はそのことが頭から離れず準備に余念がないのです。そんな仏事が間もなく来月に予定されているので、今年のお盆はそれなりに長男の嫁の仏事に対する取組を見てみました。

 この地方では迎え火を8月14日の早朝麻殻を折って焚きます。8月4日にお寺の住職さんが棚行に来るというので仏壇を構え、お料具を作って供えました。以来お光と線香を欠かさずあげて14日まを待つのです。親類縁者がお盆のお墓参りにやって来て我が家に立ち寄り、仏壇にお供え物をし談笑して帰るので、妻はお盆期間中家を空けることは殆どありません。これも本家長男の嫁の務めと割り切っているようですが、これが中々大変なようです。仏壇のお料具膳を迎え火に合わせて作り、今朝も早く起きて同じような仏壇用の料理を作って供えます。今日の料理やお供えは夕方送り火を焚く時あの世へ帰って行く先祖の霊が持って帰るお弁当や手土産となるものだそうです。

 親類縁者は中々口うるさいものです。本家長男の嫁のこうした年中行事や仏事に対する行動をしっかり見ていて、信用を得るまでにはかなりの年月を要したようです。目に見えぬそうした鋭い視線や口に耐えて日々の暮しを組み立てている妻は口でこそ言いませんが偉いもんだと常日頃から思っています。

 昨晩母が登場する夢を見ました。親類縁者もエキストラで出演する豪華顔ぶれの他愛のないドラマでしたが、それでも母に久しぶりに夢で会いました。言葉も交わさず夢の彼方に消えていった母は私に何を伝えたかったのでしょう。察するに、「こうして今年も繁ちゃん(私の妻の愛称)に迎え火を焚いて迎えてもらってありがとう。母ちゃんも元気でいるからお前も身体には気をつけて、これからも家族仲良く過ごしてね」てな調子ではなかったかと思うのです。

 私を選択して結婚したその日から本家長男の嫁というレッテルを貼られ、そのレッテルに翻弄されながら30年余りを過ごしてきた妻、そしてわが息子の嫁も妻のような厳しい時代ではないにしても本家長男の嫁という地裁ながらもレッテルを貼られる息子嫁、日本の女性はこうして日本の古きも悪しきも清濁合わせて伝統文化を守ってきたのです。それらは古い因習として消え去ろうとしてしています。

  「麻殻を 折りて迎え火 焚く朝は 妻の顔立ち 神々しくも」

  「迎え火に 両手合わせる 親父見て いずれどちらか 親父のように」

  「長男の 嫁のレッテル 外したい そんな風にも 見える妻見る」

  「枕辺に 母が主役の 夢ドラマ 母は一体 何を言ったか」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○若者の集会

 NPO法人Eyesの横山史さんから「若者に元気の出るような話をして欲しい」と連絡が入り、「えひめ仕掛け人を巡るTuor」の会場となっている県立図書館へ行きました。いわれるがまま二の丸公園下の駐車場に止め、顔見知りの県庁守衛さんに少し長引くと訳をいって久しぶりに堀の内界隈を歩きましたが、県民館や競輪場など思い出の施設は既になく、広大な跡地が後ろに聳える城山やお城をより引き立たせているようにも見えました。少し時間が早いので涼を求めて県立美術館に立ち寄りロビーで過ごしました。夏休みの週末とあって家族連れや若いカップルが沢山来ていました。顔見知りの人にも何人か出会い、軽く会釈や会話を交わし高い窓越しに夏空に映える城山を眺めながらBGMを聞きながら束の間の時間を過ごしました。

 横山史さんからは「愛媛に眠る地域資源を活かした事業として、若松様のこれまでの取組を是非聞かせて下さい。私がこれまで伺ったことで印象深い内容としましては、何もないといわれていた町を、観光客が訪れ、子どもたちが誇りに思う町にすることが出来る、

 ・知恵を出せば第3セクターは黒字運営が出来る

 ・ユニークな発想で自分たちが楽しみながら町づくりをする

 ・夕日がきれいと気付いたのは「よそ者」の視点から

 ・周囲の反対を押し切って、最初の一歩を踏み出す人になれるか

 ・海岸清掃、道沿いの花づくり、葉書など小さな活動の積み重ねが大切

              若松さんのお話を聞いて、それぞれ自分の地域に思いを馳せ、日々の生活で実践していく勇気を持てたらと願っております。」というメールをいただいていたので、その辺に主眼を置いて話そうと思いました。


 参加した人は社会人と学生が混在、愛媛出身の県外在住者と愛媛在住者が混在、地域が好き、地域を元気にしたいという若者が中心の30数人でしたが、どの若者も熱心に私の1時間弱の話を聞いてくれました。かつては地元に残った若者や青年団などが主流の地域づくり集会でしたが、最近はこうした大学生たちの集まりに呼ばれることが多く、時代が変った事を実感しました。

 私の話は横山史さんのメール希望にほぼ沿った内容としました。1時間弱の話では舌足らずになったきらいもありましたが、想いだけは伝えたつもりです。講演が終わってからの質疑や名刺交換も何時になく活発で、それにもまして帰るなりメールが届くなどいい雰囲気の集会だったように思います。県外組みも何人かいて、人間牧場への来訪約束もさせられました。

 NPO法人を組織して頑張っている代表の横山史さんを見ていると何か「ワクワク」します。また夢や希望に燃えていた若い頃の自分の姿を見るようです。若者に元気がない時代だとよく言われますが、愛媛という少しだけ元気のない地域にもにも横山史さんのような元気な若者がいることを忘れてはなりません。頑張れ若者。

  「若者に 背筋伸ばして 話する 少し早口 全て早口」

  「NPO いつの間にやら あちこちに 実態分らず 右往左往し」

  「四十も 歳の開いた おっさんが 若者相手に 熱弁ふるう」

  「故郷を 愛する心 伝えたい そんな想いで 今日も何処かへ」

  

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○講演会を3倍理解するための情報リスト

 一昨日、県立図書館で開かれた「えひめ仕掛け人を巡るTour」という集会に出席しました。かつてはこの図書館内にフィルムライブラリーがあったり、巡回図書館の拠点であったりしたものですから、仕事柄随分と足繁く通ったものです。加えて博物館と歴史資料館も併設されていたため、資料の貸借のためトラックで乗り付けもしました。しかしここ数年は近くにある美術館やNHK、市民会館などには訪れても私の記憶の中から完全に姿を消していました。色々な県立施設がリニュアールされたり新設されたりしているにもかかわらず、図書館相変わらずの出で立ちで、かえって私の記憶とのギャップもなく新鮮な懐かしさを覚えるのもおかしな話です。

 普通図書館といえば蔵書をこれ見よがしに展示し、インターネットや雑誌類でコーディネートしているのが現代風なのですが、この施設は古いためそんな風景には出会えないばかりか、玄関に入っても「えっ、これが図書館?」てな感じで、図書館の趣きとはまったく違うのです。

 この日も2階の会議室で集会を開くというので、「また無料の会議室をよく探し当てたな」なんて半信半疑で出かけたものです。少し早かったので事務所前で右往左往していると、事務所の中で事務をとっていた職員さんと偶然にも目が合い、面識があったため中へ通されました。「今日はご苦労様」と声をかけられお茶まで出てきて二重の驚きです。聞くところによるとこの日の集会には図書館も一枚加わっていて、私がこの集会で話をすることも当然知っていたのです。

 事前にいただいた図書館作成の資料でまたまたびっくりです。「愛媛県立図書館は仕事に役立つ図書館を目指します」と控え目に書いた下には、1仕事に役立つ資料を提供します。2司書がご相談に応じます。3専門機関を紹介します。などと書かれ、図書や雑誌記事WEBまでA4裏表に私の書いたり載ったりしたものがズラズラとまあこと細かに紹介しているのです。

 【図書】では「若松進一さんの著作」で、町に吹く風、今やれる青春、昇る夕日でまちづくり、「若松進一さんが登場する資料」で、ニッポンの課長、えひめ地域づくり人100人、地域づくり活動のススメ2001。【雑誌記事】では、「若者とまちづくり(連載)」81(04.07)若者とたまり場、82(04.10)若者の発想と行動、83(05.01)若者と人づくり、84(05.04)大学生とまちづくり、85(05.07)ハガキが結ぶネットワーク、86(05.10)大学生が調べたまちの姿、87(06.01)大学生が考えた住みたいまちの条件と訪ねたいまちの条件、88(06.04)石垣島の若者たち、90(06.10)新しいまちづくりのかたち、91(07.01)手に入れたい四つの道具、92(07.04)ある若者との出会い。「あなたはどんな社会教育主事を目指しますか『社会教育』。「県立図書館に所蔵していない雑誌の最近の記事」で、地方議会人、ベンチャー通信、地上、月間レジャー産業、【WEB】で、若松進一NET、観光カリスマ百選(国土交通省)などなど多彩に紹介されているのです。

 インターネットの時代ですから、これぐらいなことは調べられると思うのですが、それにしても集会に先立ちこれらを羅列的に調べ、しかも会場の後にそれらの図書類をしっかりと展示しているのです。自分でも忘れているし、その所在さえも分らないものまであるのに、まあ凄いです。

 私はあらためて思いました。これこそ新しい時代に対応した図書館のあり方だと・・・・・。蔵書数を競ったり貸し出し数を競うことも大事ですが、どう生かされたかが問われるならば、今回の集会は私の話を聞くこと以上に事前準備として100%の条件整備がなされた事になるのです。私の心に強い衝撃波を投げかけた愛媛県立図書館の清水館長補佐や天野司書にブログを通じてお礼を言いたいと思います。

  「図書館の 機能が変る 新時代 衝撃波受け 新たな火種」

  「私でも こんなに書いて いるのかと 改め思う リストマジマジ」

  「文字残す それくらいしか 出来ぬ俺 これから先も 書いて遺すか」

  「県立の 図書館久し 懐かしや 日課のように 通った昔」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○善十郎の言葉(民俗学者宮本常一の父)

 大正12年4月18日、故郷の人々に見送られて島を離れるとき、善十郎は宮本に向かってこれだけは忘れないようにせよと、十ヶ条のメモを取らせた。それは次のようなものだった。(佐野眞一著「旅する巨人」より)

 ①汽車に乗ったら窓から外をよく見よ。田や畑に何が植えられているのか、育ちが良いか悪いか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か茅葺か、そういうところをよく見よ。

 駅に着いたら乗り降りに注意せよ。そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また駅の荷置場にどういう荷が置かれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるのか貧しいか、よく働くところかそうでないかところがよくわかる。

 ②村でも町でも新しく訪ねていったところは必ず高いところへ登ってみよ。そして方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見下ろすようなことがあったら、お宮の森やお寺や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方見、周囲の山々を見ておけ。そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへは必ず行って見ることだ。高い所でよく見ておいたら道にまようことはほとんどない。

 ③金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮しの高さがわかるものだ。

 ④時間のゆとりがあったらできるだけ歩いてみることだ。いろいろなことを教えられる。

 ⑤金というものは儲けるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのは難しい。それだけは忘れぬように。

 ⑥私はお前を思うように勉強させることはできない。だからおまえには何も注文しない。すきなようにやってくれ。しかし身体は大切にせよ。三十歳まではお前を勘当したつもりでいる。しかし三十を過ぎたら親のあることを思い出せ。

 ⑦ただし病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へ戻って来い。親はいつでも待っている。

 ⑧これから先は子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならぬ。

 ⑨自分でよいと思ったことはやってみよ。それで失敗したからといって親は責めはしない。

 ⑩人の見のこしたものを見るようにせよ。そのなかにいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分の選んだ道をしっかりあるいていくことだ。

 高等教育を受けたわけでもない父が、どうしてこれだけの教訓を垂れることができたか、宮本には不思議だったが、旅の暮らしの中で身につけた父なりの人生訓らしいことは、子供心ににもぼんやりわかった。

 先日「旅する巨人」の著者である佐野眞一さんの話を周防大島で聞く機会を得ました。宮本常一生誕100年の記念行事でのことですが、善十郎の言葉である10ヶ条はおぼろげながらのメモだったため、人間牧場水平線の家の蔵書の中から彼の著書である「旅する巨人」を取り出し、背もたれ椅子に座ってしっかりと読みふけりました。そして24・25ページにわたって書いてある善十郎の言葉を抜き書きして見たのです。

 不思議な事に今年90歳になる私の父親も、私が宇和島水産高等学校へ遊学する時、また体調を崩し漁師から役場に転職する時、同じような意味の言葉を私に垂れているのです。文字にてメモこそしなかったのですが親父の言葉は大陸への戦争出征や、県外出漁で僅か5トンの船にて三宅島辺りまで漕ぎ出した、そして12人兄弟の長男として生まれ人生の辛酸をなめ尽した人間の言葉として私の心に深く刻み込まれ、後の私の生き方に多くの示唆を与えてくれたように思うのです。その内「善十郎の10ヶ条」ならぬ「進むの10か条」もまとめてみたいと思いました。

  「勉強も せぬにどうして このような 言葉残すか 昔の親父」

  「どの言葉 ひとつ取っても 味のある 転ばぬ先の 杖と心得」

  「わが親父 さえもわが子に このような 言葉伝えて 戒めおりし」

  「家訓など 要らぬわ俺の 生き様で 十分思い 息子育てし」? 

[ この記事をシェアする ]