shin-1さんの日記

○タマネギの収穫

 こんなに長い間畑にある野菜も珍しいといつも思うのがタマネギです。タマネギの苗は昨年の文化の日頃に売られています。したがって植え付けもここ四国地方では11月の上・中旬なのですが、それから秋・冬・春と季節を越えて7ヶ月間も畑でじっとその収穫の時期を待つのですから、忍耐の作物としか表現できないのです。

 わが家では無農薬でタマネギを栽培して1年中の食料として保存するのです。昨年保存し使われず残ったタマネギが一束軒先に吊るしていますが、もう芽が出て食料としてはつかえないようです。それでもタマネギの生命力は大したもので、親タマネギを栄養分として子どものタマネギが緑の葉っぱを空中で出しているのですから大したもので、まるで宇宙で実験をしている作物のようです。

 このところ天気が安定してむしろ松山市などでは水不足が心配で、6月のこの季節だというのにもう取水制限実施などという苦しい水事情が報道されています。でも天気がよいと農作業ははかどって梅の収穫も無事終り、今度はタマネギの収穫とばかり、90歳の親父は毎日私にタマネギを地中から引き抜いてくれとそれとはなしに私にアプローチを掛けてくるのですが、このところ忙しく中々時間が取れないのが実情です。それでも一昨日朝早く起きてとりあえず引き抜き畑に転がして仕事に出かけました(仕事といっても講演と会合程度です)。ところが一昨日家へ帰って畑を見ると雑然と雑草の中にあったタマネギがお行儀よく畑に枕を並べるように並べているではありませんか。親父に聞くと「お前の仕事は雑でいけん。あのままだと天気がよくても乾かないから草を削って並べ替えといた」というのです。驚きです。ご覧下さい。これが90歳の親父のこだわりタマネギ地上絵アートなのです。

 何かにつけて几帳面な親父ですが、ここまでとはただただ驚くほかありませんでした。そして昨日の夕方「明日の天気は晴れ時々曇り、所によってにわか雨」というものですから早速収穫する話がまとまり、夕方5時から包丁で茎を切り落としタマネギの球根を集めてキャリーに入れ、夕観所の軒先に一輪車で運びこみました。今年の作柄は親父も「つい最近で一番の豊作」と喜ぶように玉部鳥もよく、毎年見られる生育不良の外品は殆どなく収穫することが出来ました。

 親父はこのタマネギの一部を近所に住む息子や娘、それに日ごろ何かと気遣ってくれる兄弟のところへ送ってやるのも楽しみの一つです。早速明日はこのタマネギの古い皮を剥いで手づくり愛用のタマネギネットに入れ保存のために私設公民館煙会所の軒先に吊るす準備をするのでしょう。

 親父の几帳面さはこれだけではありません。切取ったタマネギの茎は、こちら辺では「ぜつめ」という草切りの道具で細かく切って畑に還元するのです。夕暮れ迫っているので「明日にしないか」と諭しましたが、「今日しか出来ない仕事を明日に伸ばすな」と言って作業を行いました。ただただ感服です。

 私は父のこうした教えを毎日見聞きしているのですが一向に上達した生き方が出来ません。口でも物を書いてもある種スピードある行動も負けませんが、まるで尺取虫のように日々の行動を積み重ねる生き方はまだまだ駆け出し、フンドシ担ぎといったところでしょうか。親父の少しずつ衰える姿を見ながら、親父のような地道な役立ち感のある人生をこれからも真似て生きて行きたいと思いました。

 昨晩は取れたてのタマネギをオニオンスライスとしていただきました。少し辛くて少し甘い雪のように白いオニオンはドレッシングでいただくととても美味しい旬の味でした。この食べ物の欠点は臭い屁がよく出ること、まあいいか。

  「オニオンを 食って屁をひる わが家かな 父さん臭いと 妻も同じ屁」

  「タマネギを 並べ地上絵 アートです 既に消え行く デジカメ証人」

  「手作業で タマネギ畑 跡形も ないよう元の 綺麗畑に」

  「明日がある そういう息子 諭しつつ 今日しかできない 態度で示す」 


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shin-1さんの日記

○本を買うのは容易いが本を売るのは難しい

 一昨日の地元新聞朝刊に私が代表を務めるえひめ地域づくり研究会議の記事が掲載されました。私の講演要旨が出た翌々日だったので関心も高く、あちらこちらでその話が出ています。今回の記事はえひめ地域づくり研究会議創立20周年記念誌の出版を知らせるもので、わが双海町出身でえひめ地域政策研究センターに伊予市役所から出向して会議の事務局を担当している松本君が記念誌を持って恥かしそうに写真に写っていました。あらかじめ松本君からその話を聞いていたので納得しながら読ませてもらいました。

 3日前私はセンターに出向き立派に出来上がった記念誌を50冊松本君から受け取りました。というのも前回の運営委員会で私の提案で記念誌をそれぞれの運営委員が20冊以上販売する目標を渋々?ながら認めさせました。多分異論もあったのだろうと思いますが、資金難にあえぐ小さな団体なので60万円をかけた記念誌を少しでも多く売らなければ事業をすることが出来ないからです。言いだしっぺの私を含めた代表運営委員をしている3人は最低50冊は販売するとみんなの前で公言したのです。

 さて本は買うもので売ったことなどない人にとっては、これくらい厄介なものはありません。ましてや自分の本でもない記念誌ですから説明や想いがないと相手には無用の長物だし、売ることは困難なのです。幸い私は自著本「昇る夕日でまちづくり」を6千部、ボランティアグループの「今やれる青春」を3千部販売した実績があるのです。ですから50冊のノルマは何のことはありません。まず買ってくれそうな人を頭に描き手始めに人間牧場を見学に来た人にアタックしてみました。小学校の玉井校長ご一行様4冊お買い上げ、東京都奥多摩町視察者ご一行5冊お買い上げ、そして今日はえひめ生協の松本専務さんにご無理をいって3冊お買い上げ、漁協女性部の皆さんに10冊お買い上げと私の業績はうなぎ上りです。それもこれも日ごろの出会いやまちづくりのネットワーク、フットワークがものをいうのです。

 それでも時々「本を買ってください」といっても、「それ何なん」とか、「私はそんな難しい本は要りません」とか幾ら説明しても拒否する人も中にはいるのです。多分そんな人は私たちと価値観や生きてる世界が違うのだとあきらめて引き下がるのですが、私のブログさえ見たことも見る方法さえも知らない人に幾ら必要性を説いても「馬の耳に念仏」なのです。

 本を読まない人たちは一体何で知識を得ているのでしょう。多分察するにテレビやラジオ、新聞や人の話が殆どなのではないでしょうか。まあそれでも生きていけるし本を読んだからといって幸せになるとも限らないのです。でも私の知識の殆どは活字媒体からですし、その事によって随分豊かに暮らしてきました。これからもできる限り本を読みたいと思っています。

 今回の記念誌はワンコイン、つまり500円です。ポケットマネーとして簡単に出し易い金額として五百円硬貨一枚の値段を設定しました。ガソリンだと2リットル強、ペットボトルのお茶だと3本で50円のお釣り、そこら辺の温泉だと1回の入浴料金、子どものちょっとした小遣い銭、勿論双海町から松山までのJR運賃にもなります。こうして価値を比較してみると記念誌は500円といえどかなりグレードの高い情報誌だと私は思いますが、さてさて猫に小判の人も多くいるはずです。

 今回の記念誌販売はややもすると経済を無視する風潮のあるまちづくり人が、本を売るという手法で資金を稼ぐ始めての試みなのです。多分個人差もあるので余り期待は出来ませんが、もし原価である60万円を稼ぐのであれば、えひめ地域づくり研究会議の未来は明るいと、ふと捕らぬ狸の皮算用をしております。

  「買うもので 売るなどできる はずがない そこを越えねば 未来あるまい」

  「ワンコイン 出すのを渋る 人々を 騙して出さす これも裏技」

  「役場さえ 買わぬ記念誌 誰が買う 少しは勉強 しろと言いたい」

  「セールスも 出来ぬ人など まちづくり 出来る訳なし 経済観念」  

 

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shin-1さんの日記

○この日はちょっと

 「若松さんですか。この度東京都の奥多摩町議会から視察の申し込みがありました。6月4日の予定は如何ですか。」と市の議会事務局から電話がありました。「この日は今治に講演に出かけておりますので予定の2時には帰れそうにありませんので別の日にお願いします。この日はちょっと。」と電話を切りました。おっつけまた電話が入り、「この日しか日程が取れないので、できれば時間を遅らせても宜しくお願いしたいとの事です。」で、仕方なく視察研修の受け入れを決めました。ところが先日私が予定した講演が相手の都合で中止になったため、今日は手持ち無沙汰で何処へも行けず、結局は人間牧場の残った梅の収穫作業をする事にして出かけました。これまで20キロ入りのキャリー6箱を収穫済みですが、この日は更に2箱収穫して全ての収穫作業を終わったのです。結局合計160キロという驚異的な大豊作となりました。今日は姉の所や親類、それに妻の友人にもおすそ分けしてやっと処理のめどが付いたのです。でも私の体は梅の刺で無数に傷が付いて見るからに無残な姿になりました。

 山に持っていっていた携帯電話の電源が電池切れで、市役所の担当者から再三再四「議員さんたちが既に双海町入りしている旨の電話を入れてくれてたそうなのですが、結局は通じず昼食に帰って娘からその事を聞かされ2時前に待ち合わせ場所となっていたシーサイド公園で議員さんたちと出会ったのです。



 今日視察に来られた議員さんたちは東京都町村議会議員研修会で私の話を聞いてやって来たようで、その熱心さには頭が下がる思いでした。話は弾み人間牧場へも案内し、わが家の海舟館や煙会所まで見学し、深い交流でふかいごえんができ、再会を約束して次の目的地へ去って行きました。

 月並みな議員研修ではなく心と心のふれあいや双海町のまちづくりから学ぼうとする意欲は旺盛で、かえってこちらが勉強をさせられてたような感じでした。

 普通は議会事務局を通せば議員さんか議会事務局が来訪者に対応するのが普通ですが、今回は議会の開催が間近に迫っていることもあってどなたも見えず、私一人の対応になりました。こんな時こそ市役所の職員でも対応してくれたらと思ったのですが、議会事務局も地域振興課も所用で手が離せないので宜しくと丁重なお断りの電話があったので私はその事を相手に伝えましたが、相手はどう受け取ったかは定かでありません。こちらから議員さんや行政職員が視察に行く場合丁重なもてなしをしてもらっているのに、来る場合は必ずしも丁重ではないのは少し気になるところです。

 視察の目的が私に会いに来ることが多いので、私はまるでまちづくりボランティアガイドのようでもあって、そこら辺が何か奥歯に物が挟まったような違和感を覚えるのも事実です。でも視察効果といわれるように今日も議員さんたちは何がしかのものを落として帰られました。大切なのは交流によって何を学ぶかですが、私一人が学んでも仕方がないような気もするのです。この疑問は当分の間続くことでしょう。

  「田舎者 東京目指す あの頃は 今じゃ都会が 田舎を目指す」

  「奥多摩も 東京いえど 田舎です 気が合い話 延々続く」

  「また合おう 再開約し 去って行く 僅か四時間 だけど寂しや」

  「海のない 町から来た人 海恋し 思わず見とれ 感嘆しきり」  


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shin-1さんの日記

○シノブの緑

 わが家のわが書斎にははき出しの大きな窓があって、裏庭を見られるように工夫を凝らしています。そのはき出し窓には靴脱ぎのための平らな石が置いているため、朝な夕なの出入りは靴脱ぎ石に置いたスリッパでここを出入り口にしているのです。何年か前このスリッパの盗難騒ぎがあり、夜な夜な出没するハクビシンか狸の仕業ではないかというわが家のちょっとした騒動が持ち上がったことがありましたが、今はスリッパがなくなるでもなくこの出入り口を重宝して活用しているのです。最近は顔見知りの来客などはここに招いてはき出し窓に腰掛けて話すものですから、すっかり書斎兼居間兼応接室って感じで重宝しています。

 わが家の庭にも初夏の季節がやって来て、あちらこちらに草が生えだしそれはそれとして草引きが大変なのです。冷房などの設備もなく、僅かに厳寒の頃ストーブを入れる程度で季節を感じるようにしているため、窓越しに見える風景は私の暮しにゆとりと創造をかきたててくれるのです。

 秋の頃一度その見事な紅葉風景をブログで紹介した岩に張り付いたシノブは今、目にも鮮やかな緑の新芽を出して深山の風景を演出してくれています。このシノブは私がまだ公民館に勤めていた頃、わが町の背後に聳える黒山に入って採取してきたものの一部です。当時は職場で盆栽の趣味が盛んで、私も家の周りに所狭しと300鉢以上の盆栽を置いて楽しんでいました。朝夕の水やりや春先の植え替えなど、多忙な日々の合間を縫ってまるで流行り病のように盆栽に熱中しました。しかしその熱もまちづくりやボランティア活動に悩殺されていつの間にか一つまた一つと姿を消して、今では末の盆栽が僅かに残り、家の横にうず高く積まれた植木鉢に往時を偲ぶことが出来るのです。

 30歳の時アメリカへ行きましたが、妻へのハガキに「子ども三人元気に育てよ。庭の盆栽に朝晩水をやって枯らすな」と、「一筆啓上火の用心、お仙泣かすな馬肥やせ」と同じ?名文短文を送って失笑をかった記憶があるほどです。

 30年余りの時を越えて小さな一鉢がこんなに増殖したのですから驚きです。一部は友人に株分けし、切り取ってはそこここに植えているので、シノブはわが家の庭の代表選手のようにも見えます。殺風景だった庭石も春から夏にかけては緑の衣をまとい、秋には錦織なす衣に着替え、冬は鎧のような網目に変身するのです。通称軒シノブと呼んでいるこの植物は水をやる必要はなく木や石に縛り付けて置くだけで蔦のように岩にしっかりとしがみついて生きてゆくのです。その様子は耐え忍ぶようなのでシノブといわれるのかも知れないと勝手に解釈して、飽きることなく毎日眺めるのです。

 わが家にはもう一つこのシノブの親株があります。酒蔵の軒先に新酒が出来る頃吊り下げる杉玉とよく似た形状をしていますが、木炭をシュロの皮で包みその植えにシノブを這わせる要領でもう30年も前に作りました。あの頃と大きさも変らず杉玉ならぬシノブ玉として、夏の涼風を受け軒先で夏を演出してくれています。今年も私にとって62回目の夏がやって来ました。来年も元気でシノブの夏姿を見たいものです。

  「拳ほど 小さきシノブ 株分けし そこここ軒で 夏を演じる 」

  「裏庭に 緑の衣 まとい石 お見事ですね 褒めて帰りぬ」

  「雨もよし 晴れた日もよし 軒シノブ 深山幽景 細めた目には」

  「窓越しに 見える夕暮れ 夏景色 零れ灯少し 緑薄くし」 

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shin-1さんの日記

○梅酒の漬け込み

 人間牧場の梅林に梅の実が実り、この一週間は暇を見つけて梅の実の収穫作業をしました。選定もろくにしていない梅林ですが草だけはきちんと刈っているためいたって作業はし易いものの、梅の木の刺に阻まれ体中嫌というほど引っかき傷が出来て、何とも哀れな姿になってしまいました。それでも27日の午前中と昨日の午前中の作業で20キロのキャリーに6箱ですから120キロも収穫しました。消毒もしない無農薬無消毒の安心で安全な梅は自家消費には多過ぎてご近所へおすそ分けをして喜ばれましたが、それでもわが家は梅酒と梅干用に半分を処理しました。

 今日は午前中妻と二人で(瓶や容器を洗う作業は帰省中の娘と息子嫁が手伝ってくれましたが、まずこれまで長年にわたって漬け込んで消費しながらそのままになっている梅酒用の瓶を空ける作業から始めなければならないのです。約10本の梅酒用容器にはまだ梅酒も漬け込んだ梅もそのままで、その梅酒を漉して一升瓶に入れてゆくのです。「まどろこしいったらありゃしない」とブツブツいいながらも一升瓶に15本ほどの梅酒が完成しましたが、酒を飲まなくなって8年も経つと梅酒の中に入ってる梅を何個か食べただけで酔いが回ったようで最後はかなりきつい作業となりました。梅酒に漬け込んだ梅は本当なら料理用に活用するのですが、量が多いので結局は捨ててしまいました。「スイーツづくりをしたらこれまた美味しいものが出来るのに勿体ない」とも思いました。

 今度は容器洗いです。中も外も蓋も洗って熱湯消毒し、いよいよ洗って水切りした梅を砂糖と一緒に漬け込んでゆくのですが、これもまた梅の量を計ったり砂糖を計って交互に入れたりと中々の作業でした。それでも朝から昼間での作業で8?の梅酒用容器に9本と3l容器4本を作りました。普通梅酒は梅と砂糖と焼酎を使いますが、わが家は子どもや家族が飲むため焼酎やホワイトリカーは使わない梅ジュースと呼ぶにふさわしいノンアルコールなのです。ですからわが家の梅酒は梅酒にして梅酒にあらずとでも申せましょう。

?


 さてこの梅酒の漬け込みを完了した瓶類は一体何処へ保管すればいいのか、元の場所も芸がないと妻と二人で悩んだ挙句人間牧場へ収納し熟成の時を待つのが一番という結論に達しました。昨日はあいにくの雨でしたが、軒先の仕事で妻は少し雨に濡れて水も滴るいい女になったので、私が自分の自家用車に積んでお昼時だのに昼食を食べることも忘れて運びました。水平線の家のフロアーに並べて見ましたが凄い量です。この分だと人間牧場に来られた方々に振舞う一年分は有にあるのではないかと思いました。早速押入れを片付け収納しました。深い眠りに付く梅酒を使い「新酒が出来ました。今年もコクのある美味しい梅酒を味わいに来てください」なんてイベントを考えてみようと思います。

 梅は隔年結果が激しく天候に左右されたり裏年だってあるため、一概には言えませんが、今年の春植樹した10本の梅の苗木や5本のスモモを加えると、梅酒を造る体験ツアーも企画できそうです。今年のように大豊作だと参加した方々に梅酒をプレゼントすることも可能かもしれません。私の持論ですが、「儲けなければならない農業はしんどいけれど、儲けなくてもよい農業は楽しい」いものです。せめて年金暮らしの私ぐらい儲けなくてもよい農業で仲間や社会に還元したいものです。こんなセリフを言うと妻は「それがいい」と同調はするものの、「漬け込みに必要な容器や砂糖など、思わぬ出費が家計簿を直撃する」と少し曇り顔になるようです。結果的に余った梅の処分は漁協女性部のじゃこ天のお店で働く女性の方々に20キロほどプレゼントし喜ばれました。

(水平線の家の倉庫に保管されて熟成の時を待つ事になった梅酒瓶)

  「梅酒梅 食べてほろ酔い 下戸の俺 変れば変る 嗜好の変化」

  「年代は 申年生まれの 梅酒にて 不老長寿の 妙薬ラベル」

  「あっそうだ 人間牧場 ラベル貼りゃ 素敵な梅酒 特産増える」

  「昨晩は 梅酒の寝酒 お陰かな ぐっすり四時まで 安眠楽し」

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shin-1さんの日記

○来客多し初夏の人間牧場

 昨日は双海のほたる祭りで多くの方がほたるを見に来られました。ほたるを鑑賞しようとする人、ほたる祭りのイベントを見ようとする人、翠小学校周辺の原風景を見ようとする人、ほたる市で買い物をする人、イチゴ狩りを楽しむ人などその目的はそれぞれ違いますが、その目的に少し彩りを添えようというちゃっかり組もいて、昨日は私にとって大忙しの一日となりました。そのちゃっかりはほたる祭りに来たついでにわが家と人間牧場を見学するセットメニューなのです。わが家への訪問は直ぐにでも案内や説明が出来るのですが、お陰様で8キロも離れている人間牧場へは車での案内しか出来ないものですから7回も往復しました。飛び込みでやって来た一番遠いのは東京からのお客さんで、「今晩人間牧場へ泊めて欲しい」というのです。急な申し出だったので

準備も出来ず一応丁重にお断りしたのですが、それでも人間牧場だけは見て帰りたいと夕闇迫るころせがむので7組目の締めとしてご案内しました。3人の東京組はえらい感動でビールを飲むなどして帰って行きました。

 昨日のお客さんの中で特に嬉しい出会いは2年前まで下灘小学校の校長を務めていた玉井千恵さんたちです。玉井先生は現在松山市余土小学校に赴任していますが、私が現職中は何かと気の会う仕事をしました。特に忘れられないのは「双海の子育て10の約束」なるものを考えた私の企画に賛同し、上灘中学校の窪田校長先生(現在は松山市九谷中学校勤務)や中尾先生(現在はオーストリアウィーンの日本人学校勤務)などとともにその原案のまとめ役をやってくれました。この約束は当時かなり注目を集め内外から高い評価を受けた運動だったのです。

 3日前公民館のステップアップセミナーに参加されていた玉井先生と赴任後はじめてお会いしましたが、近々人間牧場を訪ねたいとの申し出だったので、思い立ったら吉日とほたる祭りとセットの話をし、携帯電話の電話番号を教えて昨日の出会いとなりました。往年の美女?3人とともにやって来た玉井先生は、かつて3年間も勤めた下灘界隈を縫って走る細い山道を自ら運転して人間牧場へやって来ました。事故でも起こしたら大変と町道から農道に入る道は徒歩での来訪です。

 昨日は朝から降水確率30パーセント、ひょっとしたら雨が降るかも知れないという朝からあいにくの曇り空でしたが、強運な玉井先生の力でしょうか、時には日傘が要るほどの絶好の日和に恵まれ、爽やかな人間牧場を案内させてもらいました。惜しむらくは孫を連れて行っていたので足湯もお湯のサービスも出来なかったのですが、今度来られる時は自慢の女体をお湯に沈めて欲しいと願っています。

 人間牧場での過ごし方は来た人の思いを瞬時に判断しその人たちに合ったようなコーディネートをしなければなりません。中には焼肉が食いたいなどという人もやって来ますが、玉井先生グループには、「みかんの花咲く丘」などの歌をハーモニカで吹いたりして少し女性の優しさに迫ってみました。これも連れて行った孫がクワガタムシの話で多少興ざめといった感じになってしまいましたが、帰り際何度も「さようなら」という言葉をまるで山のこだまのように大きな声で呼び合う孫の姿を見て、思わず嬉しくなりました。



 人の出会いは不思議です。小さな出会いも大きな出会いもあります。また思い出に残る出会いや感化を受ける出会いだってあるのですが、再開の出会いはまた格別な意味を持っています。離れていてもなお記憶の底に残っている人との再会はこれまた何ものにも変え難い味のあるものです。一年があっという間に過ぎ去る超スピードの時代だからこそ、こうした「出会いの重ね」と「確かめ合い」が必要なのでしょう。人間の一年なんて人間牧場の隅にデンと座っている高知県馬路村魚梁瀬杉の切り株に刻んだたった一つの年輪でしかないのですから、大したことはないのです。

 玉井先生は笑顔の人です。玉井先生に会うと何か心がポカポカしてきます。人に不快の念を抱かせない、そんな人になりたいと思うのですが、私はまだまだ修行が足らないのかその領域には踏み込んでいないようです。それは生まれながらにして持ち合わせた性格ではなく、生い立ちかも知れません。100人のうち99人が反対した夕日なる化け物を日本一だと言い張った苦難の生い立ちが反骨となっているようです。でもそれは過去の生い立ちだから、捨てないといけないのでしょう。でも捨てきれないところが私の不徳なのです。玉井先生のパワーをいただいたような一日でした。

  「七回も 人間牧場 足運ぶ 何をしてるの? 地元不思議目」

  「今日ここに 泊めてくれよと せがむけど それは出来ない 断り御免」

  「ハーモニカ これが私の お接待 心ほのぼの BGMだね」

  「裏山に 椎の木あるから 羨ましい そんなウイット 人は駄洒落と」

  「知らぬのか 白色レグホン 面(尾も)白い これも駄洒落だ 俺の得意だ」 


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shin-1さんの日記

○公民館ステップアップセミナー松山会場

 5月29日に続いて昨日は愛媛県立中央青年の家で公民館ステップアップセミナーに出かけました。前日の佐賀県出張の旅の余韻を引きずるように、朝帰りの眠気眼なものですから予定された座談会は結局絡むことなく消化不良のまま終わってしまいました。この日のプログラムはフロアー形式で3人の座談会と銘打っていましたが、お二人の大先輩と私の鼎談形式なのに、リードしてもらいながら対話がなく、多分聞く側も「あれっ」って感じを持たれたのではないかと思われるのです。折角ステップアップセミナーと銘打っているので、公民館の曖昧模糊な体質を少しでも変えるべく、自分自身を厳しく反省評価してみたのです。

 この日の私たち3人の持ち時間はそれぞれ導入5分、本題20分、まとめ5分と指示されました。シンポジウムであればこの時間設定は100分を分割してフロアーの意見を取り入れ完璧な配分だと思うのですが、座談という設定では少々軌道修正をすべきだと思うのです。

 座談は3分から長くても5分、時にはショート1分の会話やり取りを入れて早く回転しないとフロアーに満足行くような結果は得られないのではないかと思われるのです。一年前に4人で行った「地域の自立とは何か」を考えたシンポジウムの座談会はこの形式でやったものですからお互いがお互いの話にかなり深く食い込んで、内面に潜むお話を引き出すことが出来ました。その時は「一回の発言は長くて3分、短いほどよい」を事前に登壇者に徹底し事に望んだため、聞く側に好印象を与えました。多分こうした形式は比較的若い人で慣れていないと現場の空気を瞬時に読み取り対応することは不可能なのです。

 それでも今回の研修会は、講演と分科会を組み合わせる形式を少しでも矛先を変えようとする担当者の熱意が伝わってきました。その意味では前例踏襲ではない評価をしたいと思います。これを次にどう繋いでゆくか考えてみるのも楽しいものです。

 この日は地元中予の会とあって久しぶりにいっぱい知人友人に会いました。中には「あなたの話を何度も聞いた」という人にも出会いました。私はその人に「あれから私も随分進化しました。あなたはどんな進化をされましたか?」とあいさつ代わりに質問するとキョトーンとして、「いえいえ私はただ歳をとっただけで進化なんて」と謙遜して見せるのです。それは謙遜ではなく「私は何がしたいのか」「私は何ができるのか」を真剣に考えず生きているだけだ」と、昼食をしながら話しました。社会教育の会場にはいつも見慣れた顔々が居並びます。長く続いてボランティアをやっているのですから偉いといえば偉いのですが、新鮮味に欠けるのも事実です。社会教育の顔も手法も時代感覚を身に付けリニュアールしないといけないような気にもなりました。

 私「先生、私ブログ書いとるんよ」。相手「ブログって何ぞな」。私「言うても分らんがパソコンで日記を書いとるんよ」。相手「わしらの年代は学校でパソコンを習っとらんのでそんな難しいことは出来ん」。とまあこんな会話が飛び交いました。私「習っとらんことを習うのが生涯学習でしょうが」。相手「そうは言うてもこの歳になるとなあ。(アハハ)、またええ話し聞かせてや」で終わりました。

 昨日は愛媛新聞11面に私の記事が度アップ出たため、「新聞に載っとった」とか、「ご活躍の様子を新聞で見ました」と話題持ちきりでした。「講演会から」という欄に、先日四国中央市の婦人会総会の記念講演の講演要旨が紹介されていました。新聞記者は凄いです。私の90分の話をあんなにコンパクトにまとめるのですから感心しきりです。でも少し面映いところもあって、昨日は旅先から会場入りしたため新聞を読んでいなくて、青年の家の職員さんがコピーをして手渡してくれました。

 仕事を終え自宅へ帰ると相変わらず多くのメールと電話がかかり、産後の休暇を実家でしている娘にはとんだ電話番となってしまったようでした。

  「懐かしき 顔々集う 研修会 何を話すか 一瞬戸惑う」

  「載っとった 言われるけれど 本人は 新聞読まず 会場入りし」

  「習っとらん でも習っとる 人ありて 学ぶ意欲が あればクリアー」

  「産休の 娘わが家で 電話番 これが本当の サンキューですね」

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shin-1さんの日記

○九州佐賀県嬉野への旅

 九州も北九州から南九州まで、さらに南九州も本土から離島まで足を伸ばして行く度に、狭い日本といわれながらも遠くて広いなあとしみじみ思うのです。それでも博多の急激な発展に誘導されてか、鹿児島から熊本八代まで新幹線が延びたり高速道路が整備されて段々便利になってきて、訪ねる方としては嬉しい限りです。車窓に広がる佐賀平野は丁度今頃が麦秋なのか何処までも何処までも黄金色の裸麦の畑が延びていました。遠くには麦畑に火を放つ野焼きをやっているのでしょうか白い煙幾つも見られ、既に焼かれた畑は黒々とした大地の色をしていました。

(黄金の麦の穂が波打つ麦秋の田園風景が見事でした)

(嬉野温泉の玄関口は肥前鹿島駅です)

 昨日は日本観光協会九州支部の総会が佐賀県嬉野温泉で開催され、記念講演を頼まれて出かけました。博多から特急かもめに乗って肥前鹿島まで行き、そこからタクシーに乗ること20分余りで嬉野に到着しました。嬉野といえば日本三大美肌の湯でその名を知らしめた温泉の街なのですが、佐賀県という人口僅か80万人の小さな地方の県だからか意外と知名度がないようです。はなわさんやがばいばあちゃんですっかり有名になりましたが、肥前鍋島藩ゆかりの地は吉野ヶ里遺跡などがあるものの、決定的な知名度ではそのまんま東国原知事の宮崎や、一村一品村おこしの大分に一歩遅れをとっているのは事実のようです。

 かつて繁栄した温泉地は旅行から旅へと国民の志向が大きく変化したこともあって、嬉野温泉もかなり苦戦しているように見えました。今回の会場となった和多屋別荘は規模の大きな、そして気配りの行き届いたホテルでしたが、少し早めに到着したので、お願いして風呂に入れてもらいました。日帰りの旅なので宿泊してゆっくり温泉に浸かることも出来ず沈んだ面持ちでしたが、これで今回の旅の目的である温泉三昧はゲットし、昼食にはこれまた温泉湯豆腐のフルコースを注文、これで女性のサービスでもつけばいうことないのですが、部屋付きの仲居さんがこれまた気のつく人で、まあ3拍子揃った経験が出来た事にしておきましょう。

(商工会の研修旅行に同行した時はもっと賑わっていた小さな歴史テーマパク肥前夢街道)

(中身は忍者屋敷や大道芸もある中々手の込んだ仕掛けがあるようでした)
 朝風呂上りに周辺を散歩してみました。嬉野温泉へは3度目の旅でしたので、そこそこ知ってるつもりで歩いてみました。ホテルの向かい側の小高い丘の上ににある肥前夢海道という古い歴史を再現した小さなテーマパークも営業はしていましたが、散閑としていましたし、12時前だというの嬉野温泉の商店街も人の気配が余り感じられないようでした。

(立派な嬉野温泉随一の規模を誇る和多屋別荘の本館)

(嬉野温泉の商店街)

 商店街を歩きながら嬉野温泉唯一の造り酒屋の店先で珍しい物を見つけました。こうした古い温泉地は必ず有名人や文豪などが長逗留をして作家活動を続けるものなのですが、放浪の俳人種田山頭火もここに立ち寄ったそうで、酒屋さんらしく石で作った酒徳利に山頭火の句が刻まれて思わず足を止めてしまいました。山頭火といえば山口県湯田や愛媛県松山に縁の深い俳人です。自由律詩などという、破天荒な作風で知られていますが、時を越えてこそ山頭火は評価を受けているものの、存命中は乞食のような暮らしをして決して恵まれた人生ではなかったようです。わが家の入口に友人が書いて贈ってくれた「何を求める風の中行く」も山頭火だし、「分け入っても分け入っても青い空」などが代表作として有名です。一見誰にでも出来そうなシンプルな句だからこそ、その句の持つ意味が心に響くのでしょう。

(句碑に刻まれている「湯壷から桜ふくらんだ」も山頭火らしい句のようです)

(この地はシーボルトもゆかりの人らしく、シーボルト足湯なんてスポットも整備され、川沿いの道も整備されぶらり散策できる中々の観光地とお見受けしましたが、若い女性客が沢山やってくる湯布院温泉や黒川温泉とは少し趣きを異にしていました)

 嬉野は真ん中を大きな川が流れていますが、田植えの始まるこの頃は上流で田ごしらえしているせいでしょうか、川の水は完全に濁って、「この川は夜に見るべし田植え時」とこれも山頭火を真似た私の一句を添えてみました。

(まるで近代化遺産にでもなりそうな鉄鋼造りの橋)

(古い時代の温泉神社というのを見つけました。お湯が出る恵みに感謝するために造ったものと思われますが、見忘れるような場所にありました)

(真赤な嬉野温泉橋、まるで夢の世界にでも足を踏み入れるような細くて中央が盛り上がった綺麗な橋でした)


(総会のステージはホテルらしく立派な花が飾られ素晴らしいシチュエーションで、マイクの通りも申し分のない話しやすい会場でした)

 さて嬉野温泉の和多屋別荘での記念講演は3時から始まりました。私の持ち時間は総会記念なので僅か1時間、肥前鹿島16時57分発の特急かもめに乗る予定でタクシーを呼んでいるので、前段で話す佐賀県庁職員の方の話が15分もオーバーしてしまい、メモを入れて終わるハプニングとなりました。困ったと思いつつ2時間番組を1時間に短縮した私の話流暢な日本語で会場の参加者を煙に巻きました。来月の7月5日には再び佐賀県観光連盟の招きで佐賀入りする予定です。

(九州各県からお集まりの参加者、中には今年1月26日博多で開かれた福岡県観光連盟の観光ホスピタリティ研修で出会った顔見知りの方々もいました)

 帰りの列車の中から北九州の夕日夕やけを見ました。美しさでは双海の夕日の方が一枚上ですが、少し寂しげな、それでいて余韻の残る旅の心を癒すにはやはり夕日は最高で、満員の電車の中から一枚撮りました。多分橋の感じが戸畑辺りの若戸大橋ではないかと眠気眼で思いました。

  「終わりそう 終わらないのは 下手話 も少し聞きたい 上手な話」

  「俺にでも 出来そう山頭 火の歌を 真似て作るが やはり凡人」

  「四四を 嫌う人あり 死死と読む 縁起担いで 良い良い思え」

  「夕日見つ 感傷ふけり 旅路にて 今頃わが家 妻は元気か」 


 

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