shin-1さんの日記

○近所に棟上の槌音

 私は役場に勤めていたころ、何年か土地開発公社の事務局長を兼務しました。事務局長といっても職員一人、それも地域振興課長職と兼務なのですからいたって零細な公社でした。土地開発公社といえば塩漬け土地(造成したものの売れない土地)や赤字財政が多く、余りよいイメージを持たれないのですが、私が担当した3年間で宅地造成した土地は全て売れ、かなりの黒字で次の担当者に引き継いだのですから胸を張ってもよいと思うのです。土地開発公社の造成した土地は購入すると余程のことがない限り3年以内に家を建てなければならないし、決められた期間は転売もできないのです。その分定住促進という大義名分から儲け度外視の格安で販売されるのです。しかし定住促進といいながら地元の人は殆ど家持、若い人もどうせ家を建てるなら都会という志向が強くて売り辛い条件もあるようです。

 私の家の直ぐ近くに5戸分の宅地造成をしました。農家から農地を取得し、様々な許認可事務や公社の総会にかけて承認され始めて農地から宅地と名の付く土地になるのですが、役場に勤めていても複式簿記などやったことのない私にとってはまるで暗中模索の状態でした。都会ではないので田舎暮らしのゆったりを考えて土地は1戸100坪弱としましたが、これも理想(土地の広さ)と現実(資金増大)の狭間で苦戦を強いられました。それでも完売し次第に家が建って行く姿を見ると、今までの空間が景観に変わって、何となく活気があるように見え嬉しくなりました。

 そんな中1戸だけゴタゴタした区画がありました。二転三転しましたが、今日その土地に家が立つ建て前のようです。30歳前半の私の知人が建てるのですが嬉しいことです。

 ふと私は自分が自宅を新築した頃を思いだしました。忘れもしませんが青年の船でアメリカへ行った頃、今の家の建っている土地の話が持ち上がりました。畑と田んぼながら660坪という広さは魅力でしたが、その頃の値段で600万円だったと記憶しています。給料の安い私たちには高嶺の花ながら後先も考えず購入し、そこに70坪もの大きな家を建てたのです。でも若かったのでしょう。向こう意気が強かったのでしょう。妻が綿密な資金計画を立て親の援助を受けながら闇雲に突っ走りました。子ども4人の教育のこともあり銀行借入は15年間で返済するようしたのですが、最初のうちはは殆ど利子ばかりの償還で元本は中々減らないぼやきもありましたが、妻は10年目に繰上げ償還する奮闘振りを見せてくれました。31歳から始めたわが家の小さいながらも壮大な自宅建設プロジェクトは隠居建設、車庫建設、煙会所建設など次々と整備され、わが家にとってはユートピアとなって現在に至っています。

 今日の夕方孫と散歩をする途中、新築準備で慌しい現場付近を通りかかりました。顔見知りの新築するという施主の若者夫婦に会いました。彼ら夫婦の結婚披露宴の司会をした縁もあって、日頃から何かと付き合っていますが、彼のお父さんは私より一つ上なのですがガンで既に亡くなっており、その分しっかりした対応に他人事ながら嬉しい気持ちになりました。

 人間のエネルギーはやはり年齢に比例します。青春とは心の若さだとか、今やれる青春を標榜してはばからない私ですが、彼ら夫婦のエネルギーには到底及ぶべきもないのです。私は妻の勧めもあって、ささやかながらお祝いのお酒を贈りましたが、夫婦とお母さん、それに一男一女の子どもを含めた彼の家族がいい家庭を築いて欲しいと願っています。

  「いいもんだ 槌音響く 棟上げは あんな馬力が 俺にもあった」

  「がむしゃらに 働き続けた 三十年 屋敷も家も 時を刻みて」

  「石ひとつ 庭木ひとつに 思いあり 庭を眺めつ 思いにふけり」

  「棟上の 写真捲りて われ夫婦 これ妻?疑う 程に若くて」  

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shin-1さんの日記

○同じ伊予市なのに

 昨日は伊予市大平公民館の依頼で、唐川老人クラブの総会を兼ねた高齢者学級に招かれました。一昨年合併して私たちの町双海町も伊予市の仲間入りをしましたが、同じ伊予市といっても行ったこともない場所があって新鮮に思えました。折りしも昨日は低気圧や前線接近の影響で通称やまぜ風という南からの強風が吹き荒れ、名残の桜吹雪が見えるなど印象的な日となりました。唐川は伊予市といえども奥まった山間地で過疎と高齢化が進行している場所でした。会場となった旧唐川小学校は統廃合されて既になく、跡地として残る運動場や校舎の一部、記念碑が当時の名残を留めていました。ふれあいセンターという福祉施設の入口には立派な遅咲きの八重桜があって今が盛りと咲いていました。砥部町に通じる道の両側の山も春爛漫、唐川ビワの産地とあって白や黄色の袋がかけられたビワの木があちらこちらにまるで花が咲いたように見えました。

 双海町ならさしずめ老人憩いの家といった感じの社会福祉協議会が運営する陽だまりの部屋があって、マッサージ機や電気浴などの機械が並べられ、5~6人の高齢者の方々が世間話に花を咲かせながらその器具で体をほぐしていました。この日は総会が長引き10時半の予定が20分も延びたため暇つぶしに世間話の輪の中に入りました。「兄さんはどこから来たの」。私「はい、双海町から来ました」。何をしに」。私「はい、老人クラブの総会に話を頼まれて来ました」。「ほう偉い人なんじゃねえ」。私「いえいえ、田舎者ですよ」。「田舎者に話など頼まんけんやっぱり偉い人なんじゃあ」。「そんなことありますかい、ただの人ですが」。「ところで双海町は何処ぞな」。私「はい上灘です」。「それじゃあ○○さん知っとるかな」。私「はいよく知っていますよ」。「会ったら○○がよろしゅう言よったと伝えて下さい」。私「はいはいそう言うときます」と、会話も弾み、おまけに電気浴なる機械を勧められ20分もその機械に座らされました。

 やがて案内されて会場へ入りましたが、約40人ほどの高齢者が実にお行儀よく座り私の話を12時10分まで聞いてくれました。中にはビワ茶でまちおこしを進める元伊予農協組合長の大西要さんや区長だった顔見知りの竹田さん、それに民生委員さんもいて老いてかくしゃくといったところでした。

 集まった方々は戦後の厳しい時代を生き抜いて来られた方々だけに、現代と過去の狭間に生きる人への話として「心豊かに生きる」というタイトルで話をさせてもらいました。このところ合併の影響か、はたまた謝金の安い地元講師でお茶を濁そうとするのか市内のいたるところから講演の依頼が相次いでいます。地元といっても2年前までは他所の町なので顔見知りも少なく「まあいいか」の類で出かけていますが、地元はやりにくいというプレッシャーもなく山一つ向こうの知らない土地といった気楽さで出かけています。しかしさすが旧伊予市だけあって聞く耳がよいのか、老人クラブ会長さんの謝辞「今まで聞いた話で一番よかった」というお世辞を鵜呑みにするならを私の話がよかったのか会場は爆笑の渦で、総会後の休憩を取らずいきなり始めたのに、席を立つ人が一人もなく、かえってこちらが近くなった小便の心配をする程でした。

 帰りに松山の幼稚園まで孫を迎えに行き、自宅に着いたのは4時過ぎでした。孫は昨日捕まえた蛙の入ったコーヒー瓶が心配らしく盛んにそのことを車の中で話していて車を降りるなり一目散、結局人間牧場へ先日手で触れるようになった団子虫を捕まえに行くことになったのです。

 孫が団子虫を探している間私は蕗を取りました。先日獲った蕗を炊いたところとても美味しかったので妻から依頼されていました。あるあるあるある、ナイロン袋にいっぱい獲りました。


 雨がポロポロしてきたのですが、孫は蕗の葉っぱを頭に被せ「おじちゃんこれ帽子」と大はしゃぎでした。急いで車で下山しましたが、夕方になると雨は激しくなり稲光や雷の音も凄い荒れようでした。職場から帰宅予定の妻も帰るに帰れず私に迎えの要請です。蕗を粗方剥いていたので、妻はさっそく蕗の佃煮作りを始めていました。昨日も楽しいいい一日でした。

  「市内だと いうのに一度も 踏み入れぬ 唐川ビワの 産地で話す」

  「あんた何処 私双海だ 珍しや こんな会話に 顔もほころぶ」

  「歳とると 足腰痛くて つまらんと 愚痴をいうより 笑って暮らせ」

  「ひょうきんな 蕗を帽子の 孫姿 思わずにっこり 顔を見合わせ」

 

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