shin-1さんの日記

○農業のあり方

世の中が随分変わってきました。最近では建築業者が農地を取得して農業を始めてみたり、接木苗だけで年商う10億円の農業産業が県内に誕生したり、またバイオで沢山の格安ランを栽培したりと、農業を巡る話題は中山間地の農業疲弊とは裏腹にかなり格差が出始めてきました。3K産業といわれる農業ですが、やり方によってはかなり可能性があるという証明のような気もするのです。

 私たち人間はいつの間にか既成概念で物事を考え過ぎるようになっていると深く反省をするのです。例えば有機栽培と称する農業です。これまでの農薬や化学肥料に頼る農業は健康に悪いという考え方から自然に淘汰されつつありますが、じゃあ自然循環型と称する有機栽培は安全かといわれたら必ずしもそうでないのです。ある雑誌で静岡県浜松市の永田農業研究所を紹介する記事を読みました。リード文には「一般の農法で作った野菜や果物よりはるかに美味しく栄養たっぷりのものを作る永田農法。環境破壊を最小限にとどめ日本の農業再生の可能性をはらむ農法を開発」と興味をそそるように書かれていました。

 静岡県浜松市の農場に行くと、そこにはかぐわしい空気がいっぱい漂っています。肥料が沢山入れられた農地とは違うし勿論農薬を散布したあとのぬ地とも違う草や木の香り、ふりそそぐ光でその空気を感じると梅を思いきり開いて深呼吸をしてみたくなるそです。「有機農法の農場へ行ってもこんな匂いはしない。有機農法では牛や鶏などの糞を堆肥に使っているのでどうしても匂いがする。うちの農法は液肥を使うからそんな臭いはしない。だから深呼吸したくなる」という。

 「有機農法なら安全」という概念は永田さんの話で見事に覆される。「植物は微生物が有機物を無機物に分解してから吸収する。有機だろうが無機だろうが肥料はいずれ無機物にされる。それを知らないからやたらと有機農法を有難がる。それでは有機肥料のもとになる動物の糞は安全といえるか。何を食べているのか分らないのだから安全とは言い切れない。ただし安全で健康的に育てられた動物の糞から作った肥料は別だが、最近までBSEで問題となった肉骨粉を食べた糞や病気を防ぐために抗生物質を投与された糞も有機なのだ」。ここまでくると有機農法というラベルをありがたいと思っていたことが非科学的に思えてくるのです。

 農家は早く育てたい、良く育てたいと思うから沢山の肥料をやる、そうすると土地が肥え過ぎて土壌や水を汚染し、富栄養化して環境を汚染する」のだそうです。

 「平地で育ったみかんより険しい岩山で育ったみかんが美味しい。それは何故かと考えることから試行錯誤が始まった。みかんを甘やかさずに厳しい環境で育てれば美味しくなる。その頃九州大学の福島栄二教授に会い、開発されたばかりの窒素、リン酸、カリウムの3つからなる液体肥料を厳しい環境で育ったみかんに最低限やる、そうしてみたらそれまでの3倍のスピードで甘いみかんができた」そうです。そこで永田さんは考えました。「今の農業はせっせと土を耕して肥やし、農作物を育てようとしている。本来は厳しい環境の中でこそ生物は生命力を発揮するはずだ。例えばトマトはもともとアンデスが原産、乾燥した厳しい土地で生まれたトマトが、日本では甘やかされて育っている。それなのに味は水っぽい。なるべく原産地に近い環境で育ててみてはどうだろうか」。そこから発展していったのが現在の永田農法なのです。

 永田農法では農作物をできるだけ原生地に近い環境の土地に植え付け、ぎりぎりまで水や肥料を与えずに育てる。枯れる寸前に水をやり、最低限の液肥をやるとどうなるか。水分を求めて細かい根をいっぱい伸ばしてゆく。少ない肥料を最大限に取り込んで早く成長するし、しかも糖度が高くとても美味しい野菜や果物ができるのだそうです。

 この話は従来の農法とは逆のこと、つまり先入観にとらわれず、現実をよく見て科学的に分析したことで可能になったのです。

 いやあ驚きました。こんな農法もあるという、しかも美味しい健康的な野菜や果物が現実にできているという事実に驚くのです。と同時にこの土地が素晴らしい環境ではなく掘り返された土には大きな石がゴロゴロして、肥沃な土地とは違い痩せた土地名のですから二重の驚きです。

 人間は長い歴史の中で土に触れ生きてきましたが、農業従事者以外は殆ど土に触れず昼も夜もない環境に生きるようになりました。また自然をコントロールして冬にスイカを作り夏にみかんを作るのです。植物の生命力を胎内に取り込んで生きる人間ですから、いい食べ物をたべなければいい体にならないのは当たり前です。今一度永田農法から何かを学びたいものです。

  「有機なら 安全安心 そう思う 何を根拠に 言うのでしょうか」

  「この体 命の基を 補給する もっと考え いいもの食べよう」

  「なるほどと 思う節あり 近頃の トマト臭いも せずに水味」

  「又一つ 暮しの知恵が 見え隠れ まずは実行 今年のとまと」


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shin-1さんの日記

○早期退職の盟友北原さん

 今年は暖冬の影響で桜前線の北上が予想以上に早いとマスコミが騒いでいましたが、蓋を開けてみると何のことはなくわが町では平年どおりのようで、海岸通りの桜も今が満開のようで、町内のあちこちでは今が盛りの桜を愛でようと花見の小宴が開かれています。私にもあちこちから花見のお誘いがかかるのですが、あいにくお酒を飲めない私は丁重に断り、私の身代わりとしてお酒やビールを送るのです。そうすると間もなく酒に酔った主催者から御礼の電話が携帯にかかってくるのですが、これがまた相手は酒酔い私は素面とあって、長々訳も分らぬ話が続きます。「元気か。お酒を送ってもらってありがとう」くらいならまだ良いのですが、昨日の夜などは11時過ぎになって電話がかかり「近頃お前は付き合いが悪い」などと、お酒を送ったばっかりに叱られる始末で、おうた話ではありません。

 しかし中には早くも5月病ならぬ4月病なのか、ご栄転を果たしたものの仕事の難しさや人間関係の煩わしさに行き詰まり、泣きを入れてくる友人もいます。また今春愛でたく早期退職し自由人となった仲間からは「自由とはいいもんだとこの1週間は思ったが、これからどう生きればいいのか・・・」という深刻な話まで飛び出しています。

 そんなこんなの3日前、55歳で早期退職した北原さんが人間牧場へ訪ねて来ました。彼は学校の先生をしていましたが思うところあって今春退職しました。世に言う「次の人生の身の振り方を考えれば、55歳が最終決断の時」と聞いてはいましたし、私もそんなことを考えたことがありました。しかし人生はそんなに甘くはないからと相談を受けた折慰留を勧めましたが、彼は思い切って退職したのです。彼の人生と私の人生は奇妙な出会い曲線で結ばれています。私が第10回総理府派遣成年の船の班長としてアメリカへ行った折、彼は一般団員として乗船していました。聞けば青年の船に乗りたくて当時勤めていた役場の上司に相談したところ「青年の船に乗るなら辞めて行け」と言われ、「それなら辞めて行きます」と辞表を出して乗船した芯の強さを持っています。彼は帰国後教員採用試験を受けて教員になり、教員生活の傍ら私の主宰する21世紀えひめニューフロンティアグループの活動に参加し有形無形の影響を受け合いながら今日まで生きてきました。

 彼は今の教育のあり方に疑問を持っています。特に愛媛の教育は管理型で、校長や教頭になることや、大きな学校へ赴任することが栄転だと何の疑いも持たず上(教育委員会)を向いて生きている教員が多いと、口では言いませんが言動の端々から読み取れます。彼は教員生活の大半を僻地の学校で過ごしました。僻地というレッテルは学校教育にとって一体何を意味するのでしょう。人口密集地の大規模校がいい学校ではないと思うし、僻地といわれる山間地の学校こそ人間性豊かな教育ができると私も彼の生き方には大賛成です。「じゃあどうするのか」、彼の自問はまだ答えが出ていないのですが、そんな心の揺らぎにけじめをつけたい彼の気持ちは痛いほど分るだけに、これからまた自分探しや教育の原点への旅を付き合いたいと思っています。

 彼と出会ってから教育に対する私の考え方も少なからず変わりました。教育長という小さいながらも教育行政のトップとして2年間仕事をしましたが、いい教育、いい教職員、いい学校の基準は画一的な今の勤務評定では推し量れない部分がいっぱいありました。いい子どもを育てるという教育の目標は教育基本法や文部科学省、各審議会など猫の目教育といわれる制度だけでは達成できないのです。

 彼の生き方と、私がやろうとしている人間牧場での教育は比較的似かよった部分があることも気付きます。私たちが目指す理想の教育は知識の教育ではなく知恵の教育です。頭に入った知識が手足や心を動かさなければ何の意味もないのです。彼ともう少し教育の入り口の部分を話したい。そしてその理論を論理に高めて行きたいものです。

  「教育の 何であるかを 考える 一石投じた 彼の生き方」

  「どの道を 行こうか迷う 分かれ道 選んだ道を 信じて歩く」

  「あと何年 生きる当てなし 人生を 生きたいように 生きるが徳だ」

  「無欲にて 老後の蓄え 糞食らえ 食えなくなったら 死ねばいいです」

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