shin-1さんの日記

○自治会長という大役を終えて

 先月の3月27日地元では新旧組長会というのですが、自治会の総会がありました。約300戸弱の灘町という役場(今は合併して市役所総合支所)のある中心地の区長を2年前に仰せつかり、多少の戸惑いはありましたものの無事務め上げ、総会の承認を得て後任にバトンタッチをすることになりました。思えば2年前教育長を退任し自由人になった矢先の4月2日に地元の役員さんが大挙してわが家へやって来て、区長を引き受けるよう依頼されました。これまで不義理を囲ってきた地元の世話だけに断る理由もなくあっさり引き受けてしまいました。内輪では本命指名の人がどうしても受けずたらい回しの様相を呈しようとしていましたが、私が引き受けてホッと胸を撫で下ろしていました。

 しかし、区長の仕事は想像以上のもので、やればやるほど信頼が増して、続投を余儀なくされるとあって2年の任期はあっという間に過ぎ去ったものの、総会を前に開いた役員会で満場一致で続投が決まろうとしました。しかしこの手の役はみんなが経験することが肝心とかたくなに我を張り、ついには元町議会議長に白羽の矢を立てお願いに上がりました。結果的には渋々了承して引き受けていただくことになりました。そして今夜は新旧役員の引継ぎ会です。今日で退任を終えると思うとホッとする気持ちの方が先で、朝から少しウキウキの感じです。

 自治会長という仕事は草の根のようなものです。広報を配ったり、ゴミ集や危険物回収の仕事をしたりする市役所の末端行政をつかさどります。と同時に自分たちの地域の一斉清掃や盆踊り大会、敬老会、秋祭りの神輿守りなどの自治活動もします。また灘町では夏の間は集会所が簡易宿泊所に早代わりするので、その貸し出しや世話までしなければなりません。役員は副区長2名と会計、それに放送担当と監事2名がいるのですが、自治会の仕事は主に区長と会計が運営するのです。この2年間副区長にも会計にもよき人材を得てチームワークもよく、気が付いた旧態依然の馴れ合い運営をかなり改善しました。

 この2年間で最も苦労したのは天一稲荷神社の建築問題でした。そうとは知らず引き受けたものの建築に関する地区内の合意形成が成されていなかったため最初から大もめでしたが、ひとつひとつ段階を踏んであや糸をほぐしていったため、今は正常化して建築問題も概ね順調に推移しています。区長は退任しましたが建築委員として残ることになっているので今後もいい方向に進むよう努力したいものです。

 もう一つは一昨年の敬老会に食中毒が発生し大きな衝撃を受けました。不幸にも参加した皆さんが食中毒になりましたが大したことに至らず、仕出屋の営業停止で終わったのは何よりも救いでした。

 有線放送施設の老朽化が心配され、その資金について検討を加えていた最中に、30年満期の建物共済が満期を迎え、何と500万円が転がり込んできたのです。自治会長最後の仕事はこの500万円の使い道を総会で承認することでしたが、500万円を300万円と200万円に分けて定期預金にして特別会計を創設しました。こうすれば有線放送への出費が簡単になるのでそのようにして少しでも有利なことを考えました。そして新たに30年満期の建物共済にも加入しその証書も引き継いだのです。

 赤字が心配された区の会計も様々な苦労が実ってこの2年間で160万円もの剰余金を繰り越すまでに改善しました。心残りは防災自治組織の組織化が遅れたことですが、この件についても皆さんにかなり強く危機感を説明していますので時間の問題だと思っています。

 たかが2年間、されど2年間の自治会長という大役は今日で一応終わりました。私の留守中集会所の貸し借りや問い合わせどを代行してくれた妻や家族、それに多くの方々に感謝します。今宵はぐっすり眠れそうです。

  「小さくも 自治会長の 大任を 終えてホッとの 夜を迎える」

  「ご苦労さん ねぎらう妻の 嬉顔 一番世話は あなたでしたね」

  「早二年 経ったか区長 終わるとは 感慨深く 引継ぎ文書」

  「金のない 自治会 一転 金持に 俺の力か 時の流れか」



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shin-1さんの日記

○女性の新聞記者

 昨日突然の電話で愛媛新聞の丸岡さんという女性記者がわが家にやって来ました。何でも伊予市を担当することになって、前任者からの紹介もあってあいさつがてら会いたいというので、急遽自宅書斎でお会いしました。地元紙ということもあって愛媛新聞の記者とはもう30数年間も付き合っていますが、最近の傾向は女性が多いということでしょう。かつては酒を飲みながら新聞ネタを語ったものですが、酒を止めた今はそんな酒宴もなく淡々と話をします。しかし記者になって2年目の初々しい女性を前にすると、もどかしさの方が先にたって、かつてのような想いなるものが感じられないのも私の歳のせいなのでしょうか。

 私は社会教育課や産業課、企画調整室、地域振興課などを渡り歩き、たえず新聞に載るようなまちづくりのネタを仕掛けてきました。他の市町村から羨ましがられるほど新聞に載り、そのことによって双海町の知名度は急速に高まって、交流人口が増えたのも確かです。多分自分が月2回、10年で240号もの広報を書いた経験がそうさせたのかも知れませんが、インターネットなどなかった新聞とテレビに情報の殆どを頼る時代であったため、特に活字媒体によるPRは大きな情報源として受け止めていました。ですから町を担当する記者とはたえず連絡を取り、小まめに情報を流してきたのです。合併したからか、自分が関わらなくなったからかどちらなのか分りませんが、つい最近双海町という記事は極端に減ったと周りの人は私に話します。事実私の新聞スクラップの趣味も開店休業といったところです。

 私の知人で一昨年愛媛新聞の記者になった宇和島市遊子出身の藤田圭子さんは一年間、県庁の番町クラブに勤務していて今度の異動で宇和島支局へ転勤になりました。丸岡さんは藤田さんと同じく2年目だそうで、早くも伊予地方の担当になり早速エリア内を回ってネタ集めのようです。新聞記者は見た目にはジャーナリストで格好よく見えますが、これは大変な仕事で事件が起こると不眠不休の取材をしなければなりませんし、行事やイベントの殆どは土日に集中して休みなどないに等しいのです。ましてや地方紙こそ日刊新愛媛がなくなってからは愛媛新聞だけですが、中央紙が腕利きの記者を配して戦々恐々スクープを狙っているのですから容易なことではありません。もしすっぱ抜かれることでもあるなら、デスクも含めて責任さえ取らなければならないのです。今は県議会議員選挙の真っ最中で、選挙の動向を読むことやその読みに沿ってあらかじめ当選の記事も書き写真も用意しなければならないのです。時には取材拒否の厳しい仕打ちにも耐えなければなりません。私の町も何年かに一回いわゆる新聞一面を賑わす警察沙汰のような事件が起きました。選挙違反事件、課長の詐欺事件、町名変更問題、舟券売り場問題などその度に記者は張り付き、警察や役場の動向を追いながら記事を書いていました。その時「新聞記者だけにはなりたくないな」と何度も思ったものでした。それでも時の記者たちは歴史に生き証人として正しく伝えるための努力を惜しまなかったのです。佐藤さん、井上さん、篠浦さん、増原さん、吉田さん、岡本さん、野村さん、伊藤さん、一宮さん、樋口さんなどなど、かつての地方記者の顔が浮かんできます。

 先日はは別件で別の新聞記者でない新聞社員がわが家にやって来ました。インターネットを使ったタイムリーな情報発信の準備をしているらしく、田舎暮らしで生きていることを実感できるような情報を流したいとのことでした。私の人間牧場や牧場を巡る楽しい人や話題を欲しがっているようでした。新聞もペーパーだけでは生きていけない時代のようです。新聞の記事がインターネットで読める時代ですから、うかうかすると新聞は時代遅れになってしまうという危機感もあるようです。

 私たちの生活がそうであるように新聞オンリーの時代は終わりました。しかし新聞社の持ってる情報とネットワークは生かし方を考えれば凄く価値のあるものです。シニア世代のためのウエブサイトが、戸惑う人生の道しるべになるのかも知れなおのです。

 丸岡さん、頑張って地域の応援記事をしっかり書いて、非はしっかりと正すような記事を頼みます。及ばずながら応援します。

  「前任の 記者の写した 写真持ち 宜しく名刺 早速ネタを」

  「この頃は 女性の記者が 大流行 悪い気はずも 少し不安も」

  「顔浮かぶ あれやこれやの 記事書いた 人は何処に おわしますやら」

  「ノートメモ しながら話す 記者姿 今も昔も 変わらず同じ」

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shin-1さんの日記

○孫は恐竜が大好き

 いよいよ孫の春休みも今日と明日で終りです。母親の入院で約10日間双海町で過ごした孫にとって久しぶりのリフレッシュとなり、様々な経験をしたようです。しかし昨日まで、「おじいちゃんが一番大好き」と言っていたのに、母親の退院予定の知らせを聞くと「お母さんとお父さんが一番大好き」と現金なものです。それでもこの2ヶ月余り母親の入院で寂しい思いをしていたに違いないと思うと、何となくしんみりしますが、その寂しさも、幼稚園が春休みで友達のいない寂しさもこれで一気に解決です。昨晩までは私と寝ることを希望していた孫ですが、「明日お母さんが退院したら誰と寝るの」と聞くと迷わず「お母さん」なのです。

 このところ私のスケジュールも孫のお守に合わせて休眠中でしたが、やっと開放のきざしが見えてきました。でも新年度の大学シラバス準備やなにやかやと調べものもあるので、もっぱら孫は私の書斎の隅でお気に入りの恐竜模型を持ち込んで目の届く範囲で遊んでいます。孫にとってただ今は恐竜が一番の遊び道具のようです。

 この恐竜模型は孫の誕生日にふたみシーサイド公園で買ったものですが、目下のところこれを含めた恐竜の模型で遊び、恐竜の絵を書き、恐竜ごっこで遊び、風呂には恐竜を持ち込み、寝るときは恐竜を持って布団へ入るなど、恐竜なしでは夜も日も明けないようです。それにしても恐竜の名前をよくもまあこれだけと思うほどに覚えています。ステゴサウルス、マッタブラサウルス、プラテノドンなど図鑑と照らし合わせカタカナなど読めないのに、私の読んでやったことを正確に覚えているのですから驚きです。


 先日の日曜日孫を私たち夫婦で県立砥部動物園へ連れて行きました。今回が2度目ですが動物園の動物たちも孫にとっては自分の持っているお気に入りの恐竜の仲間に感じるらしく、ワニやスネークといった動物に関心があるようで、鳥や猛獣の前はさっと通り過ぎる程度しか見ません。特にワニには関心を寄せお土産コーナーでは前回ワニのおもちゃを買いました。今回は「動物園には連れて行くがおもちゃは買わない」という我慢の約束を事前にしていたので、おもちゃコーナーも「見るだけね」と自分に納得させていました。「我慢する心を育てる」孫育ては一応成功しているように見えますが、ついつい情にほだされることもあって、気を引き締めています。

 孫にとって動物園は見る動物園から感じる動物園に少し変化しているようにも見えました。動物と触れ合うコーナーなどは恐ろしくて遠巻きにして見ていましたが、この日はキーパーさんウサギを抱っこさせてもらったし、温室内を歩く亀に触ったりとかなり積極的になっています。人間牧場での団子虫もそうですが、子どもにとって動植物は最大の友達であるようです。

動物園の出口にはキーパーさんの姿をして写真に写るコーナーがありました。孫とおばあちゃんのツーショットです。



 動物園内で友人の山本さん親子に会いました。一緒に役場を退職した娘さんも結婚して子どももこんなに大きくなってびっくりしました。若いおじいちゃんもやはり私と同じように孫は目に入れても痛くないようでした。

 帰りに温泉に入り近くの公園で少しの間桜の花見をしました。

 自宅に帰ってから潮風ふれあい公園に出かけましたが、かつて私たちが植えた公園の桜も年月が進んでとても綺麗な桜でした。

  「春風に 誘われ孫と ピクニック 今が一番 幸せな日々」

  「人の子は まるで筍 早育ち スクスク伸びて 何時の間にやら」

  「恐竜に なってくれよと せがむ孫 負けて喜ぶ 顔がみたくて」

  「桜など どうでもいいと いう仕草 綺麗と言いつつ 顔は横向き」




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