shin-1さんの日記

○岡山倉敷への旅

 前日の午前0時過ぎに出張先の高知県四万十市西土佐から帰って軽い食事を取り、軽い眠りの早朝5時妻と二人で夜明けの伊予路を高速道路にのってただひたすら岡山県倉敷を目指して突っ走りました。倉敷での講演依頼があったものですから、不謹慎ながら妻に休暇を取らせ同行する事になったのです。自由人になった昨年からこれまでに島根県隠岐の島、鳥取県倉吉市などへの旅はまさに一石二鳥で同行二人の二人旅を楽しんでいます。今回も妻に話したところ倉敷への憧れもあって同行しました。

 初夏の早朝はすがすがしく、普段車や列車で何気なく通っていた瀬戸大橋の景観は素晴らしく、途中休憩のために立ち寄った余島パーキングエリアは散閑としていましたが橋をバックに写真を一枚撮りました。

 眠い目をこすりながらの妻はそれでもハイポーズって感じです。これまでの35年間の夫婦暮らしでカメラなど妻に向けたことは殆どありませんでしたが、最近はまるでモデル撮影会のように写しまくっています。

 講演は午後2時からなので鷲羽山ハイランドに立ち寄り、カーナビの示すまま倉敷の美観地区を訪ねました。早朝なので人通りもまばらで爽やかな空気を吸いながら清掃の行き届いた街中を散策しました。

 柳の新緑も随分濃くなって水面に映える姿は何とも風情があるものです。妻をモデルにハイ一枚です。ホテルの地下にあるレストランで朝食を食べましたが、これがまた美味で妻は「このところ随分いい食事に出会う」とご満悦でした。

 さて朝飯も食べたし何処へ行こうか当てもなしといったところで、吉備津神社をカーナビでセットすると案外近いので狭い参詣道路を走りその壮大な規模に二度三度びっくりし見学しました。あいにく本殿は解体修理の真っ最中で見れませんでしたが、本殿へ続く長い屋根付き参詣道は威風堂々の構えをしていました。

看板にアジサイ園があることを見つけ訪ねてみました。

 長い石段の両側にきれいなアジサイが今を盛りと咲き誇っていました。残念ながら花つきは今一でしたが、散水の水に濡れたアジサイは妻と同じくらいまぶしく感じられました。

 すぐ下の池のほとりには菖蒲の花がこれまた美しく思わずパチリです。

 今年は八十八ヵ所参りも再会し桜や石楠花や藤の花の美しさを堪能したばかりなので、花の季節を意識しない旅ながらこうして花の満開にめぐり合うのも嬉しい出来事です。

郊外の厚生年金センターが講演会場なのでそろそろと思いきや、見慣れた国分寺の五重塔が目に入り、風土記の丘周辺を散策する幸運にも恵まれました。

 僅か一日のついでの旅はここで終わり、いよいよ仕事の講演です。先方主催者の都合でプログラムが変更され、1時間も待たされるハプニングに少し緊張の糸が切れ掛かりましたが、それでも存分に活躍し、再び同じ道を引き返し、帰りは川内のインターチェンジで降りてていれぎの湯で一風呂浴び、良い旅は終わりました。目出度し目出度しです。

  「風薫る 吉備路をふたり 巡り来て 束の間の旅 花が出迎え」

  「カメラなど 向ける暇など なかったな 写真に写る 妻はまあまあ」

  「二人旅 始めてからは 妻少し 痩せよう努力 成果表れ」

  「岡山は 晴れの国だけ あるわいな 梅雨の盛りに こんなに晴れて」 

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shin-1さんの日記

○わが村は美しく・玖木(20-1)

 「若松さんですか。第一回目の集落講演会を6月15日に行います。6時ごろまでに西土佐総合支所へお越しください。遠方なのでくれぐれもお気をつけて」と人懐っこい中脇係長さんからの電話の通り、長浜~大洲~城川~日吉~三間~松野~西土佐のコースをのんびりゆっくり出かけました。夜来の雨で肱川や四万十川はかなり増水し濁流が勢いをつけて川下へ流れていました。午後からは心配した雨もあがって時折青空も覗くほどになっていました。出かける朝和田産業課長さんから、飯でも一緒に食べようとお誘いがあり、少し早めに到着して小高い丘の上の星羅四万十というお洒落なレストランで支配人の土居俊雄さんと名刺を交換し篠田さんを交えて少しの間楽しいおしゃべりをしました。

 夕闇迫る頃いよいよ出発です。産業課が主催だというのに、教育委員会や総務課、企画の若い職員が4~5人同行して勉強させて欲しいとのこと、中脇係長の意気込みを感じ車中は賑やかな論議に花が咲きました。途中民宿舟母というかお馴染みの店によってあいさつしましたが、小さかった子ども大きくなり若い夫婦やおばちゃん夫婦も息災との近況を聞いて安心しながら、濁流に沈んだ沈下橋を避け大きな橋を渡って黒尊川沿いを登って行きました。

 訪れた玖木地区は戸数が20戸以下の小さな集落です。廃校になって既に久しい跡地に集会所はこじんまりと立っていました。少し時間があったので周辺を散策しましたが、かつて学校の子どもたちを見守ったであろう桜の木やメタセコイア木がうっそうと小さな運動場跡地を囲んでいました。集会所の入り口には門柱が立っていて今は苔むしていますが「玖木小学校という文字が印象的に残っていました。

 この校門をくぐって何人の子どもたちが学校へ登下校したことでしょう。運動場の隅に古いレンガづくりの焼却炉を見つけました。またそのすぐ隣には鎖を取り外されたブランコの柱だけが赤錆びて寂しく立っていました。ギーコギーコ音がしたのでしょうね。

 ふと見上げるとそこには廃墟と化した教員住宅が朽ち果てるのを待つようにひっそりとありました。玖木のこれらのものは全て近代化遺産で歴史であり文化であるのです。記録にとどめたり写真にして残すこともしているのでしょうが、大切にして欲しいものです。

 玖木の会場は僅か20戸以下なのにこちらから行った人を含めると20人を越えて中々賑やかな会となりました。私の話は①田舎嘆きの10か条をベースにしながら1時間半の話をしました。亀ちゃんだの日ごろ呼んで名前で呼び合う和やかさであっという間に時間が過ぎました。底抜けに明るい人たちにコミュニティの深さを感じましたが、ここでもやはり過疎と高齢化、それに地域の活性化が大きな課題のようでした。私のような人間が外から入ると、活かしたい地域資源がゴロゴロ転がっているように見えました。このお宝をどのように生かすかはこれからの仕事でしょうが、みんな歳をとってきて悠長に、ジョージアのコマーシャルではありませんが「明日があるさ明日がある」なんて考えずに、出来ることから始めないと時間がないのです。

 奥屋内へ行く途中玖木の区長さんに家の前でお会いしました。この人は只者ではないと思いました。ご覧下さい。カーブを回るといきなり山の中の狭い道沿いにこんな美しい花壇があるのです。これは区長さんは自から種を蒔いて育てた花々だと聞いて二度びっくりです。

 家の前なので当然だと笑って話していましたが、凄い美的感覚と行動力です。人の上に立つものかくありたいものです。区長さんのお家の下には黒尊川の清らかな流れとミニの沈下橋がありました。いい山村の風景でした。小さい声で「ここだけの話だけれど天然の鮎が遡上します」と川面を指差しました。確かに黒い鮎の群れが泳いでいるように見えました。区長さんの遊び心は田舎暮らしにとって最も必要なことなのです。人の暮らしをねたみ、人の暮らしをうらやんでも何の得にもなりません。どう生きるか生き方が問われているようですが、どうやらそのヒントは区長さんは見つけているようでした。

  「この村じゃあ 五十六十若い方 もう歳言う人 一人もおらず」

  「何よりも 驚くことは 村中に 笑い絶えない 日々の暮らしが」

  「門柱に つわものどもの 夢の後 記録残さば 朽ち果てしまう」

  「この村は その気で見れば 美しく 花の咲く庭 思わずパチリ」 

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shin-1さんの日記

○四万十川のふるさとへ・奥屋内(20-2)

 四万十川のふるさと旧西土佐村へ行くようになってはや二十年が過ぎました。最初は軽いつもりの出会いだった当時の若者たちも20年という歴史の重みでしょうか、そこここの職場で重要な役割をこなしながらむらづくりに励んでいます。二十年の時の流れは人々の暮らしにも大きな変化が見られ、予想だにもしなかった平成の大合併によって西土佐村という自治体はなくなり、総合支所という体裁のいい繕いで行政が行われています。また四万十川の流れにもこれまた大きな変化が現れて、昨年と一昨年の台風で端々の川や山林は目を覆いたくなるような散々な荒れようです。多分行政の支所化に伴ってこうした災害の復旧は完全には出来ないのではないかと思って寂しく感じるのです。でも西土佐村に住む人たとの暮らしは穏やかで相変わらずの心の優しさで私を出迎えてくれるのです。

 少し早めの村入りだったので、今まで訪ねたいと思いいつつ訪ねていなかった江川崎の駅に行きました。鉄道から車社会への変化の波をもろに受けて駅周辺は散閑としていました。行政が作ったであろう「列車に乗って予土線を守ろう」という看板が空々しくもむなしく目に映りました。江川崎の次の駅が「はげ」だそうで、思わずバラエティ番組に使えそうだと一人にやりしたのです。列車の線路も引込み線や対向線は使われなくなってすっかり赤茶けて錆びつき一層寂しさを増幅させていました。

 この風景は私の好きな風景だったので思わずカメラを向けました。線路の向こうに長い鉄橋が見えました。何処か懐かしい少年の頃の思い出のひとコマです。駅舎に入り列車の時刻表を調べましたが、まだ列車の通過には時間があるので残念ながらマッチ箱のような一両立ての列車が鉄橋の上を通る写真は撮らず終いで駅を後にしました。

 中脇さんと役場で落ち合い、夕食のために川沿いの大好きなポイントにある岩木食堂へ出かけました。日替わり定食を頼んで話し込みながら直ぐ下を流れる四万十川を見ました。4日前に訪ねたときは夜来の雨で増水して濁流が音を立てて流れていましたが、水はすっかり澄み渡り元の静けさや美しさを取り戻していました。

 四万十川には沢山の橋が架けられていますが名物の沈下橋以外にも好きな橋が沢山あります。その一押しは岩木食堂の前の赤い橋で、少しペンキが剥げて赤錆が目立つようになりましたが西土佐のシンボルのような感じさえするのです。

 西土佐村から中村へ向かうため、あるいは村内散策の途中で何度この橋を渡ったでしょうか。やはりこの赤橋も私にとっては思い出橋の一つなのです。この日は梅雨の晴れ間の一日で今年一番の暑さらしく、食事をいただきながらテレビを見ていると江川崎では32.2度を記録して、全国3番目の暑さだと報じられていました。いよいよ四万十川にも夏本番が近づいてきました。

 中脇さんの運転する公用車に乗り込み一路黒尊川の上流にある今日の目的地奥屋内地区へ、4日前に訪ねた玖木地区の写真を雨のため撮っていなかったので補助取材をかねて道の途中だったこともあり散策しました。雨の暗がりで見えなかった玖木の姿にも侘しさと趣が感じられました。

 途中玖木の区長さんに偶然会って「今晩の集会にも行くから」と私に言うものですから、話の内容を変えねばと思いました。奥屋内は今度で2度目の再訪です。何故か建設会社の社長さん宅で飲んだことやと社協ヘルパーの節男君のことが思い出されました。彼はどうしているのやら・・・・。

 奥屋内で一番の気がかりは小学校の休校風景でした。学校をなくしたら地域が潰れるという危機感から止む無く休校という選択肢を選んだそうですが、朽ち果て破れたカーテンを窓越しに見ながら心が痛みました。学校の運動場も体育館も地域のコミュニティ活動で使っているからすごく手入れが出来ているのですが、そこここに人の入らない空気のよどみが施設の劣化を早めているようにさえ感じられました。子どもがいなくなり住民が高齢化する。この現実が奥屋内の地域にも静かに深くしのびよって、地域がなくなるのではという将来の不安にかられて寂しく感じられました。

 研修会には沢山の人が休校の小学校体育館に集まり、文字通り車座の話をしました。この日の話は①社会の変化の10年、②同じ高知に生きてる川村一成さんの百章としての生き方を中心に1時間半話しました。

会場の雰囲気もよく、講演が終わってから「名刺をいただけませんか」「今度人間牧場を訪ねます」「また今日のような話をしに来て下さい」と嬉しい反応がありました。是非そうしたいと思いました。

 帰り際、ここへ来る途中立ち寄った農家レストランで桧のわっぱを2個3千円で買った話をしたところ、その製作者が2合のご飯が入るわっぱをわざわざ自宅に帰って持参しプレゼントしてくれました。嬉しい出会いです。早速お便りを出すべく中脇さんに住所をメールしていただくように依頼し、暗闇の中を沈下橋を渡って岐路に着きました。片道125キロ、往復250キロは帰宅12時、少々きついがほのぼのです。

  「何年か ぶりに訪ねし 奥屋内 学校休校 カーテン破れて」

  「四万十の 流れゆるやか 変わらずも 人の暮らしは おいおい細りに」

  「このままで 朽ち果てるより もう一度 夢を形に 楽し

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