○この道はいつか来た道
人間牧場には何本かの道があって、農道市道が入り混じり来訪者を迷わせていますが、そんな車道以外に直線的につけられた歩道が一本あります。昔は大間道と呼ばれて人馬物流に使われていましたが、時の流れとでもいうのでしょうか車の普及によって使われなくなり、子どもの減少が拍車をかけて通学道路としても使えなくなって草に埋もれてしまっています。先日懐かしくなって歩いてみましたが、所々では石垣が崩れたままで危ない場所や草が背丈まで迫って歩くのに難儀をしました。
この急な坂道を一人で歩きながらふと少年の頃の思い出が蘇ってきました。それは紛れもなく北原白秋の「この道」という歌の歌詞に書いている通りの思い出なのです。
♪この道は いつか来た道 ああ そうだよ アカシヤの 花が咲いてる
あの丘は いつか見た丘 ああ そうだよ ほら 白い時計台だよ
この道は いつか来た道 ああ そうだよ お母さまと 馬車で行ったよ♪
学校から帰ると居間の黒板に「学校から帰ったら庭に置いてある背負子に肥料を一俵くくりつけているので、池久保の畑までかるって来るように・・・・。母ちゃんは畑にいます。と書いてあるのです。遊びたい盛りの若松少年にとってこのお知らせ版は憎くくてたまらないものでしたが、それでも従がって汗をかきフーフーいいながら山坂を登りました。今水平線の家がある畑にたどり着くと母は黙々と畑仕事をしていました。やがて夕方まで畑仕事を手伝うと今度は芋や麦を背負子にくくられ、再び母と一緒に下山するのです。足をガクガクさせながら途中に背負子を背負って休める石垣が何ヶ所かあって、休んでは家へたどり着きました。「ハーハー」言う母の息遣いと私の息遣いしか聞こえない細長い一本道は今となっては思い出の道になってしまいました。
今朝は梅雨の晴れ間の好天に恵まれました。親父を下灘の診療所へ連れて行き、診療の合間を人間牧場へ行きました。海側の窓を全開きにして風を入れ、背もたれ椅子に横になってふと目に留まった作家田中澄江の「思い出の歌思い出の花」という一冊の本が目に留まり、開け読むと冒頭に「この道」が出ていました。早速水平線の家に置いてある4本のスズキハーモニカの中からAのハーモニカを取り出し吹いてみました。爽やかな音色が下に見える思い出の道に聞こえるように広がりました。いい音色です。いいふるさとの郷愁です。思わず感傷的になって死んだ母ちゃんを思い出しました。
遠くに霞む島も見上げた空もあの日と同じ風景です。でもあれからもう半世紀50年もの時が経って、母は遠い国へ旅立ち帰らぬ人となっているのです。時折耳を劈くように鳴るカラス脅しの爆音がなければ、風のささやきも昔のままなのです。
母は生きている。そう私の心の中に思い出として・・・・・。
それにしても「歌は世につれ世は歌につれ」と言いますが、少年の頃を思い出す歌を知ってる私は幸せです。
「この道は 口ずさみつつ 母思う 今は苔むす 道が恋しい」
「亡き母は 小さい体で 荷を背負い 何度この道 行き来したやら」
「背負い芋 おやつか主食 どっちかな 今なら芋は 贅沢食べ物」
「この坂に 鍛えられたる 体にて 今の今まで 丈夫長持ち」