○中世の風景
人間牧場での逆手塾に参加した伊予市の門田さんが、全国から来た人に面白い話をしていました。「今見える風景は中世の人が見ていた風景と同じですよ」と言うのです。門田さんは伊予市の文化協会会長なのでそういう視点で見えるのだと感心しました。一世紀程前のつい最近まで日本人の交通は陸路より海路が開けていました。特に瀬戸内海は海の道が出来ていて物や情報の殆どが船で上方へ運ばれていました。中世時代はそこここの要所に山城出城があって、敵が攻めてくるとお互いが狼煙を上げて敵の接近を知らせていたのです。今でも黒山山頂には狼煙場の跡が残っています。電話もインターネットもない昔の最高の情報伝達手段は狼煙だったのです。
中世時代の人はこんな山の上で海を眺めていたに違いないと思うと、何か背中がゾクゾクして歴史の重みを感じるのです。
先日関西汽船の浜田さんが一冊の本をプレゼントしてくれました。山崎善啓著「瀬戸内近代海運草創史」という少しお堅い本です。帯には「瀬戸内の海上交通はどのような発達を遂げたかその全容を解明-明治の近代国家草創期、政治・経済・社会の諸方面に未曾有の大改革が行われたが、交通、とりわけ海上交通の整備は急務であった。しかしその発達過程には未解明な部分が多い。本書は断片的に残されている資料を収集・整理し、瀬戸内海沿岸航路や就航船舶等海上交通の全容を明らかにする」とありました。
中を捲って読んでみると、中々味のある資料が掲載されて興味をそそりました。双海町のこともほんの数行ですが書かれていました。「双海地方には明治26年に初めて上灘・下灘に汽船の寄港を見たが、長く続かず廃止された。交通の不便を痛感した栗田愛十郎は、長浜の有志と共同で明治39年、三津・二名津間に汽船を就航させて貨客輸送と地元の利便を図った。この航路は一日上り下り4航海であった。ちなみに栗田愛十郎は、明治35年豊田郵便受取所を開設し、大正9年まで局長を務めた資産家である」と・・・。
海の見方は色々あります。門田さんのように中世の時代に遡って歴史的に見るのもいいし、私のように漁業的見地から見るのもいいものです。私が子どもの頃は山見さんが(魚見ともいう)山に作られた山見櫓の上から双眼鏡でイワシの魚群を見つけて、それを集落や沖で待つ船に知らせて漁業を営んでいました。魚群探知機のなかった昔は海の色の識別によって魚を発見していたのです。大声で采を振る姿はまさに勇壮で、子どもの頃の思い出として強烈に残っています。
海の色は空の色を映す鏡のようなものですから、空が青いと海も青く見えます。日々刻々と変わる海の色の変化を眺めるのもまた味わい深いものがあります。門田さんの言うように中世の風景と思って見るとまた違った味があるようです。
「同じ海 中世人も 眺めてた 歴史の重み 感じながらも」
「この高さ 魚群見つけて 采を振る 子どものころの 思い出彼方」
「空の色 映して海の 青さかな 風ざわついて 海もざわつく」
「白い船 航跡引いて 遠ざかる 波紋に夕日 映えて輝き」