shin-1さんの日記

○覚え易い数字

 私は余り数字に強くないタイプなののでしょうか、人の電話番号も車の番号も、自分の携帯電話の番号も自分の車のナンバーも未だに直ぐは出てきません。そこへいくとわが妻は実によく覚えていて、昨日も「○○さんから電話が入っていましたよ。電話番号は○○です。直ぐにかけてください」と覚えている番号をすらすらと言うのです。驚き桃の木といったところでしょうか。「人間は何か取り得があるもの」と褒めると、「その褒め方は余り嬉しくない」ととがめられました。妻曰く「あなたは人の名前をおぼえるのが得意、私にはとともとても真似ができません。人間には何か取り得ああるものです」とその褒め方が悪いと私を咎めておきながら、口の渇かないうちにこんな言葉を返されました。まあ担ったら一貫、夫婦足して2で割ったら丁度いい夫婦ってところでしょうか。

 しかし、私のような数字を覚えられない人間でも、最近のように車のナンバープレートを語呂合わせで取っている車などはよく覚えることができます。役所のTさんは6666なんて数字を使ってますし、2525は私の息子の番号です。自分の車の番号も覚えずに、人の車の番号を覚えているのですからおかしな話です。

 先日高知へ行って面白い話を聞きました。日本には3が何と12個も並ぶ緯度経度の地点があるというのです。東経133度33分33秒、北緯33度33分33秒という地点が高知市を流れる江の口川の河口付近に実在します。同じ数字が12個も並ぶ地点は日本でここだけだそうです。そこで思いつくのは村おこしやまちづくり、この奇妙な数字にあやかって高知ロータリークラブが南岸にモニュメントを建て、「地球33番地宣言」をしたそうですが、当時はテレビもそんなに普及していなかった昭和37年頃のことだったので有名にはならずに経過しました。その後高知市が平成3年に「地球33番地フェスティバルを3月3日に333万円の予算で333匹の鯉を地元小学校3年3組の33人の児童で放流するというユニークなイベントをやりました。

 あやかりもここまで徹底するとマスコミが飛びつきますが、じゃあその経済効果はとなると疑問符がつくのです。いくらいいアイディアでも投資効果や地域への定着がなければ川に捨てるようなものです。もう一度その辺を考えて平成33年に向けて考えてみては如何でしょうか。愛媛県から高知県へ伸びる国道はご存知33号線です。高知は晴れの国燦燦と降り注ぐ太陽もサンサン(33)と呼べますし、3を九つ並べればサンキューともいいます。サン(3)フルーツだって、珊(3)瑚だって、3月3日生まれだって何だって3は縁起のよい数字ですから探せばゴロゴロ、面白いですね。

  「携帯も車も番号覚えない数字に弱い俺の欠点」

  「3言われ3のつく事思い出すここから始まる謎解き問答」

  「世の中は面白楽しいことがある思い出しつつ思わずウフフ」

  「うとうととしつつパソコン打ってたら同じ数字が画面いっぱい」

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shin-1さんの日記

○結婚披露宴の司会537組やりました

 そんなに結婚式の司会をやったという意識はありませんが、昨日ある知人から結婚披露宴の司会をやってくれないかと内々打診がありました。その知人は自分の結婚式の司会を私がしていたので、夢よ再びと思ったそうです。やれないことはありませんが何が何でもそれはと、妻の助言もあってお断りをしたのです。

調べてみようと書棚に保管していたこの30年余りの手帳を見みると、やはり紛れもなく結婚披露宴の司会は537組まで通し番号がつけられ、1999年5月12日に終わっているのです。プロの司会者ならいざ知らず、これだけの結婚披露宴の司会を素人がこなすことは容易なことではありません。537組といえば毎日司会をしても優に一年半かかる計算ですから気の遠くなるような数字なのです。手帳のあちこちにはナンバーの打たれた○○家結婚式(司会○○時間~、会場町民会館)などと詳しく書かれていますが、多い年には一年間で20組もやっているのですから驚きです。私が司会した全てのけぅこん披露宴を覚えているわけではありませんが、私の司会をしたカップルは離婚率も低くみんな幸せな家庭を築いています。

 先月ある研修会で講師に招かれ行った会場で、私が若い頃に司会をした結婚披露宴に招かれて私の司会ぶりを体験した人にお目にかかりました。その人の話だと最初披露宴の案内をもらった時、正直気が乗らなかったそうです。双海町という田舎の、しかも生活改善運動の一環で会費制の結婚披露宴なんて、一生に一度だのにと不振がっての出席だったそうです。でも幕を開けてみるとそんな暗い雰囲気どころかハラハラ、ドキドキ、ジーンとする手作りの、それでいて手間暇かけたどの会場にも負けない実に素晴らしい披露宴だったそうです。彼女はそのお礼が言いたくて走り書きのメモとご家庭で作られた立派なトマトを持ってこられていたのです。彼女も私も感激しましたがふとその時のシーンが蘇りました。

 住所が分らずそのままにしておいたのですが、先日知人を介して再び立派なトマトが届き、私はその知人に住所を聞いてお便りを出し、その家を訪ねて双海町特産の煮干しを少しお礼に伺いました。こうしてこの方とはやりとりが始まり、深いご縁を交わすようになったのです。

 結婚式も当世はすっかり様変わりし、まるで芸能人の披露宴かと思わせるような華やかなものから、地味婚まで様々です。幸せになれるのならどんなに派手でお金をかけた結婚式でも良いのですが、一分に一組の離婚が定番となった現代では、結婚とは何かという根本を何か忘れているような気がしてなりません。

  「結婚の司会を頼まれ辞退する自信はあるがやれないそぶり」

  「結婚の司会で俺は度胸つく人の前でもあがらず喋る」

  「やったよな涙と笑いの披露宴お陰でわが家記念の品々」

  「気がつけばあいさつ増えて司会なくそんな歳になったいうこと」

 

 

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shin-1さんの日記

○自分の生き方を変える

 自分の生き方は変えようと思っても中々変わらないものです。過去に失敗を繰り返していれば、「変えたらまた失敗するかも知れない」といらぬ心配をし、過去のそれなりの成果を上げておれば、「今までの成果を捨てるのは勿体無い」とついつい現状に依存するのです。

 私のように退職してもう捨てるものも何も無いと思える人生でも、過去に執着し未来への不安を抱くのが普通の人間ですが、私は以外とさばさばしていて、昨年の3月で随分過去を処分しました。しかしその暮らしが一年間続いた最近、自分の身の回りが以外と変わっていない事に気がつきました。それは多分人間牧場建設という作業がそうさせたのかもしれません。ブログへの挑戦もそんな新しい発想からの変化でした。

 「新」という言葉は「立ち木」とも「辛い」という字にも読めます。「新」を始めるには立ち木」を使って斧で道具を作る辛い仕事であると考えます。木だの斧だのはもう人間の暮らしには必要の無い世の中になったように見えますが、昔は鍬や鎌といった道具は木を斧で削ってt作っていたのです。

 昨日急に自分の身の回りにある本を水平線の家へ移動しようとしたのもそのためでした。空っぽになった書斎の書棚を見てこれこそ私の目指す革新だと思ったのです。この10年、一度も日の目を見なかった書棚の本を見たときに、なんて私は馬鹿なんだろうと思ったものです。

 さあ、私の人生の再出発が始まりました。私の人生は考え方のある意味でゼロに戻ったのです。ゼロから出発しどういう方向に進むのかまだ定かではありませんが、少なくとも書斎の環境が一変したことは間違いありません。この一ヶ月、いや3月中に60年の人生で培ったものや思い切り染み付いた垢を落とすつもりです。やがて、「ああ若松さんは生き方が変わったなあ」と思われるようにリニュアールしたいと思っていますから、どうかご期待下さい。

 明日、私にえひめニューフロンティアグループの会長を押し付けた、ある意味で伝統や格式を重んじる変わらない人間の一人である大野哲治さんが人間牧場にやってきます。私の役目は彼を再生させる役目も負っているのです。私の変身振りにきっと驚くことでしょう。私は生まれ変わったのです。

  「何でなのそんなに変わって大丈夫妻の心配狂った思って」

  「新を書く立ち木に斧で出来上がり漢字作りし先人偉い」

  「俺だってまだまだこれから一勝負元気源妻の後押し」

  「春が来た俺の心も春が来たウグイスさえも春来たさえずる」

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shin-1さんの日記

○水平線の家の本立て棚に本が並びました

 私はこれまでいかほどの本を読み、いかほどの本から知識を得たのだろう。そう自問自答しながらわずか4畳の、まるで屋根裏部屋のような小さな部屋の書斎に備え付けられた二つの書棚から、幾重にも詰め込んだ本を水平線の家に運ぶつもりで取り出しました。出るわ出るわで、あっという間に部屋中が本だらけになってしまいました。妻曰く「お父さんこれ何」と驚いた様子でしたが、妻の驚きよりも私自身の方がもっと驚きました。こんな小さな書棚によくもまあこんなに本が入っていたもんだと感心せざるを得ませんでした。

 私はこの本を軽四輪の後ろに3回に分けて無造作に積んで山道を水平線の家に運びました。本は重いので車のタイヤもへこむほどでしたが、どうにか運んで水平線の家に運び入れ、本棚にこれまた無造作に並べました。するとそれまで殺風景だった家の中がまるで別の家に行ったみたいに輝いて見えるのです。しもうた、もっと早く本を移動をしていて、下灘中学の生徒が来た時に読書について話してやりたかったと思ったのですが後の祭りでした。

 昔は調べ物といえば本しかありませんでしたから、様々なジャンルの本を用意して自分の手元に置き、自分の疑問を解き明かしていました。今本を読むのは新しい知識を得るためであって調べるために本を開くということは殆どなくなりました。調べるにはインターネットで十分過ぎるほどの情報が手に入るのです。そういう意味では私の部屋の本はこの部屋に置くことの意味もなく、もう既にお役ご免となるのです。しかしこの本は私以外の人にとっては知識を得る本になる訳ですから、水平線の家での読書の意味が生まれてくるのです。

 しかし私が35年かけて集め読みした本の数は凄いもんだと思います。今まで小さな書棚に押し込んでいて見えなかったのですが、こうして一目瞭然に並べてみるとその凄さが分ります。勿論その本の全てが身についてはいませんが、折々に読んだ本からの知識は私の人生を蔭ながら支えてくれました。

 普通セカンドハウスと称するものは遊びの空間ですから、こんな難しい本など必要ないのですが、水平線の家は遊びの空間といえども立派な学びの館です。疲れた心と体を癒すのも結構だが、ここでの学びが新しい自分の発見になることを期待しています。私の持論は「学習とは自分の発見」です。

 早速私は、私専用の背もたれ椅子に寝そべって「安岡正篤の人間学」を読みました。人間牧場建設をこの地に思いついてから約1年、やっとここまでたどり着いた水平線の家での初読書となりました。今日は天気予報が外れ、曇りのち雨だったのに何故かうららかな春日和、その陽気に誘われてついつい眠気をもよおし、ついつい10分ほど昼寝とあいなりました。これも初昼寝でした。

  「俺の知恵並べた本から授かった読んだ昔を思い出しつつ」

  「探したが見つからなかったあの本がこんな所に眠っていたとは」

  「貧乏の最中内緒で買いました傍線手垢捲れば出てくる」

  「この本も今は無用となったけどあの頃みなで回し読みした」

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shin-1さんの日記

○一瞬女性専用車両に乗ってしまった私

 先日上京した折、私の旧友が集まって歓迎会を開いてくれました。酒も飲まない私ですが彼らの酔った姿にウーロン茶で酔って夜遅く私鉄に乗りました。電車のドアが開き無造作に中へ入りましたが乗ってびっくり、何と乗っている乗客は全て女性なのです。一瞬全ての女性の目が私に集まりました。不思議に思ったのは乗客女性よりむしろ私の方で、そう田舎者の私は間違って女性専用列車に乗ってしまったのです。気がついた私は直ぐにプラットホームへ降りて難を逃れましたが、もう少しで電車は発車するところでした。お陰でさっきまでのホンワカ気分は一辺で冷めて次の電車に乗り目的地へ着いたのです。

 私たちの田舎では女性専用車両はありません。都会のラッシュのようなギュウギュウ詰めなどは殆どありませんから痴漢などしようと思ってもできないのです。私は一瞬思いました。弱い立場の女性を保護する意味から設けられた女性専用車両なのでしょうが、これでは男性の私が差別されてると・・・・。いやいやそれは差別ではなく区別ですよとお叱りを受けそうですが、はいその通りです。

 女性専用車両は東京の京王電鉄が導入したのをきっかけに他の私鉄やJRが通勤電車に導入しています。最初の試みは酔っ払い客の多くなる深夜に下り限定だったのですが好評だったことから朝のラッシュ時にも設けられています。痴漢に間違われ大変な目にあった世の男性も多いのですが、痴漢にあった女性は数多く、時にはあんな職業の人がと疑いたくなるような人まで痴漢に手を染め、一生を棒に振った人もいるようです。

 ところでこの女性専用車両はつい最近の出来事と思っていましたが、何と明治時代にもあったそうです。その頃は婦人専用車といって女子学生の通学時間帯に限って運行されていました。そもそもの発端は日露戦争の英雄として名高い乃木希典が学習院院長だったころ、女学生の親からの陳情を受けて鉄道省に要請し実現したのだそうです。今は痴漢対策ですが昔は男女交際の厳しかった時代ですから、女子学生に虫がつかないようにという親の気持ちも分る様な気がします。

 それにしても私はとんだ恥をかき、もう少しのところで週刊誌のネタにされるところでした。「愛媛県の元教育長、痴漢目的に女性専用列車に乗車。車掌が見つけ次の駅で降ろし鉄道警察に引き渡す。本人は知らなかったとシラをきったが痴漢目的は明らか。何と彼は観光カリスマだった」なんて記事が出たかも知れないと思うとゾッとしました。

 「何で車内でタバコを吸うの」と男性がタバコを吸ってる女性に禁煙を促す禁煙車。えっこれ男女逆じゃないの?、と一瞬思った光景にも出くわしました。とかく都会は住みにくい。田舎者が田舎暮らしを誇りに思った一瞬でした。

  「来た電車乗った瞬間女性だけあのドキドキは今も忘れず」

  「俺差別それは区別と人は言う女性・男性どちらがどうなの」

  「痴漢する人に見えるか俺の顔はいその通り痴漢見えます」

  「田舎では予想もつかぬ出来事がとかく都会は住みにくいもの」

  

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shin-1さんの日記

○給料が下がる

 昨日所用で役場へ行ったら、かつての同僚が「給料が4パーセント下がるんですよ」と不機嫌そうな顔をして言うのです。そういえば昨日の愛媛新聞に「職員の給与4パーセントカットの議案」とありました。「そりゃあ大変でしょう」と相槌を打つと、「若松さんはいい時に辞めましたね」と返されました。「何で」と訪ねると「だって急慮が下がる前に辞めたのですから」という。「おいおい」と言ってやりたかったけど途中でやめました。彼が言うのには「景気も回復し民間では給料が上がっている」と相当不満顔でした。「民間が不況のどん底にいる時、給料が下がらなかったのだから我慢しなしなさい」と言って役所を出ました。

 地方公務員の給料が安いのか高いのかは人事院が調査して勧告を出すようになっていますが、自治体の台所事情によって減らされるのは正直合点がいかぬところでしょう。しかし自治体の財政がこれ程逼迫しているのですから、三位一体の改革には職員も協力しない訳にはいかないはずなのです。

 ところで不況と無縁の社会があることをご存知ですか。そう国会議員の先生方です。議員の歳費といわれる給料は月額137万5千円だそうです。これにボーナスが8百7万円、加えると2千457万円だそうです。

 それh度給料が良いのなら俺も国会議員になろうと思っても、中々なれないのが国会議員なのです。その国会議員さんも国の台所事情がよほど悪いのか、これまで一度も給料が下がったことがなかったのに、平成14年度から一割カットされたそうですが、庶民の私たちや地方役所職員の給料から比べると、下がったといっても端数程度でしょうか。

 しかし、昨日私は役所の職員と話してガッカリしたのは、給料の減額案よりも機構改革案が上程されたという事実を誰も問題にしないことが問題ではないかと思いました。今回の機構改革案では総合支所の機能が大幅に縮小され、6日が2課になるというのです。合併時に約束した総合支所方式は完全にホゴにされるというのです。これはある意味で地方の切り捨てです。昨晩ある市会議員が我が家を訪ね、議会でのやり取りを吐露して苦悩の色を滲ませていました。自分の給料が下がることも大事だが、こうした機構改革こそ職員として心を痛めなければならないのではないかと思うのです。

 私は職域を離れた人間ですから大それたことを言える資格はありません。でも旧町の一市民としてこんな暴挙があって良いものかと憤りを感じました。その点私の家へ相談に来られた議員さんは立派だと思いました。

 街の中が最近しぼんだように静まりかえっています。飲み屋の大将もこりゃあ死活問題だと嘆いています。町が静かなのは良いことなのでしょうか。

  「給料が下がると嘯く職員に言ってやりたいもっと大事が」

  「苦悩する地元選出議員さん誰が切り捨て立案するのか」

  「何もかも変な社会になりましたこんなことなら合併しなきゃあ」

  「言っちゃ駄目口止めされて漏らす人言わない人より言う方まだまし」

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shin-1さんの日記

○えひめ人権同和教育への投稿

 投稿といえるかどうか分りませんが、昔馴染みの教育委員会の職員から原稿を頼まれ、僅かな時間で書き上げ送ったのは昨年の年末だったと思います。すっかり忘れていたらその原稿が掲載されたNO.100号の機関紙が5千円の図書カードとともに送られてきました。この記事は妻に内緒で書いたのですが、妻が呼んでくれと言うので、まるで孫への読み聞かせのような形で読むと、まあ、私だけが悪者なの、と不満顔でした。「僕が選んだ人だから」と題したその原稿を紹介しておきます。

 平成の大合併で自治体の特別職を辞するまでの35年間、何らかの役所の肩書きで仕事をしてきた私は、この4月から殆どの役職を離れた。余命を楽しく暮らそうと多少の憧れもあって自由人の道を撰んだが、世の中には肩書きをその人の値打ちだと勘違いし、去っていく人もいれば、以前にもまして人間的な付き合いをしてくれる人もいるから面白い。

 そんな矢先、わが家の長男に結婚話が持ち上がった。いくら結婚は二人の問題といいながら、私は古風な88歳になる私の父、近所に沢山いる親戚、娘夫婦や弟二人など、結婚に当って相談すべき人たちのことを考えた。長男が数年の付き合いで選んだ一人の女性を、何のわだかまりもなく結婚相手として受け入れることができるか、長年人権・同和教育にかかわってきた私が試されるとあって、私なりに色々と考えさせられた。結婚が人生の全てではないといっても、適齢を越えかけた長男の結婚に一人気を揉む妻の喜びと不安は相当なものでああった。家族会議で「相手を調べてみては」と主張するも、長男の「部句が選んだ人だから信じて欲しい」の強い言葉に、「おじいちゃんにも聞いてみないと、親類もあることだし、あなたはどうなの」と迫ってくる。同席した次男、三男は「兄ちゃんが選んだ人だから兄ちゃんが決めればいい」と長男の援護射撃に余念がない。頑固で古いと思っていた大正7年生まれの親父さえも「将来を決めるのは二人だから」と静かなエールを送ってくれた。

 結局、妻一人の孤独な意見はかき消され「何かあったらあなたが・・・・」のt間の捨て台詞でOKとなった。それまで何かにつけて反感反目していた長男は、口にこそ出さないものの「話の分る親父」と思ったらしく、近頃はすこぶる中の良い親子関係を維持するようになった。

 それにしても「何を調べるん」「僕が選んだ人だから信じて」「兄ちゃんが決めればいい」と、母親を諭す言葉を言った3人の息子たちは何処でどんな教育を受けたのだろう。学校教育の成果か、はたまた親の教育が良かったのか定かではない。しっかりとした結婚観や人を信じることの大切さをいつの間にか身に付けた子どもたちに、大きな拍手を送りたい気持ちであった。

 人の夢は年齢とともにしぼむもの、しかし還暦と定年を同時に迎えた私はサンデー毎日の日々ながら、夢の風船を膨らませ目を輝かせて生きている。海の見える小高い岡の上で「人の心を解き放つ人間牧場を経営したい」と思っていた念願の構想も、家族の後押しや建築家を目指す長男のアイディアを取り入れいよいよ完成間近かとなった。家族とともに向き合った長男の結婚話は、幕の途中ながら結果的にハッピーエンド

になりつつあるが、やがて迎えるであろう次男・三男の結婚話という二幕・三幕のストーリーも、家族の深い絆を確かめ合いながら困難を乗り越えていきたいものである。 

 私がいなくても地球は回るし歴史も動く。人生もまた何気なく過ごせばそれでも一生は終わる。しかし、どう生きたかという人生の意味を確かめながら生きることが重要ならば、タブー視され疎かになりがちな「家族の人権」をお互いが意識し、尊重して生きることこそ人権の基本かもしれない。長年の人権教育とのかかわりは知らず知らずのうちに自分の心を変えていた。人権教育は結局自分づくりなのである。

  「投稿の雑誌とともに図書カード学生次男やると喜び」

  「他人事と思って話す問題もいざ自分だとまるであやとり」

  「投稿の妻が悪者物語読んで聞かせて二人納得」

  「いつの間に小雀大きく成長し親に諭しの言葉言うよに」

 

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shin-1さんの日記

○輝いている人

 昨日ある団体から講演の依頼がホームページに寄せられました。時代は変わったもので、講演依頼をパソコンが代役してくれるのです。私の「名前は知っていても電話番号が分らないので」という注釈の後に、希望する日時と会場など、電話で話してもこんなにはいかないと思うほど講演に必要な条件が書かれているのです。私は早速予定表を見て「快諾」のメールを送りました。見ず知らずの、しかも声も聞いたことの無い」相手と商談成立となったのです。依頼文には「講演の演題をお知らせ下さい」とあるので、相手が希望している話の内容を基に「輝いて生きる」と書いたのです。

 演題が決まってから書棚の本を2、3冊縦読み乱読して仕込みを始めましたが、「輝いて生きる」ということについて話す場合、「輝いている人」とは一体どういう人を言うのだろうと、私の周りで輝いて生きているような人を2、3人思い出しました。

 私の町に富岡喜久子さんという女性がいます。彼女は漁協女性部の部長をしながらシーサイド公園でじゃこ天を起業したおばちゃんです。女性としての気品もリーダーとしての指導力も抜群で、書けて喋れて実践できるまれに見るいい女なのです。彼女との出会いは私が公民館主事として駆け出しのころ知り合い、結局はまちづくりの世界まで同行二人活動をしてきました。年齢は高くもう老域でしょうが、決してそんな年齢には見えないのです。探究心も旺盛で常に前を見て生きています。彼女を見ると「ああ生きているな」と思うのです。

 手前味噌で恐縮ですが私の妻の若松繁子さんも、前述の富岡喜久子さんから見ると月とスッポンって感じですが輝いているなあと思います。富岡喜久子さんが太陽の輝きなら若松繁子さんは月の輝きだと思います。4人の子どもを生み育て、わがままな夫を輝かせるために功名が辻の千代ではありませんが内助の功発揮しています。祖母と母を看取り、父の面倒も見ながら近所の歯医者さんに勤めて民生委員までこなす超多忙な女性です。特にわが家にやって来る年間1500人もの人の中で、逗留や研修生の面倒を長年にわたってサポートしてくれました。

 私は遠い存在の富岡喜久子さんも、近い存在の若松繁子さんも輝いている人だと思いました。結局「輝いている人」は、明るく、逞しく、希望を持って、楽しく、人のために尽くす、よく働く、人間関係が上手い、言葉遣いが上手、金銭感覚が優れているなどなど、幾つもの共通点があることが分りました。妻はさておいてとさて置きがちになりますが、私も随分考えるようになったものです。身近な妻の存在を有難いとこうして歯の浮くようなお世辞が書けるようになったのですから・・・・。ああ恥ずかしい・・・・・・。

 結局輝いている人は、心と体がまるで貸借対照表のようにバランスよくなっている人だと思いました。

  「輝いて生きてる人を数えれば二番目思う妻の偉大さ」

  「何気なく過ごした二人の40年同行二人人という字に」

  「あれこれと輝き条件指折るが明るく楽しい人が一番」

  「パソコンで講演依頼の文届く快諾日時予定書き込む」

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shin-1さんの日記

○本の引越し

 「えっ、本が何処へ引っ越すのですか」と訪ねられそうですが、人間牧場の水平線の家へ私の書斎にある本を思い切って異動させようと思っています。わが書斎が本で埋まってしまったことも大きな理由ですが、4月からはできるだけ水平線の家で読書三昧な人生を過ごしたいのです。でも長年慣れ親しんだ本を書斎の書棚から出すとなるとこれは大変な作業なので、差し当たり人間牧場へ行く時にキャリーやダンボールに詰め込んで運ぼうと思っています。机の横に平積みしている本は最近買ったものが多いので、まだ完全に読破していませんが、水平線の家で読めるので持って行きます。

 もうひとつ持って行きたいものは新聞のスクラップです。無造作に段ボール箱に入れられていますが、これもこの際整理をして来た人の閲覧に供したいのですがその余裕があるかどうか心配です。

 ああやっぱり私には秘書がいるなあと思いつつ妻に話すと「私の勤めももうそんなに長くないから、仕事を辞めたら私が秘書になってあげる」と嬉しい申し出です。ここだけの話で妻には内緒ですが、私は妻を秘書にする気はさらさらないのです。何故なら私の行動が全て彼女によってコントロ-ルされることを恐れているのです。

 まあ秘書の話は私が売れっ子になった時の話で、夢のまた夢くらいにしておきましょう。だって年金暮らしが目の前の惨めな定年退職サラリーマンとしては、実現不可能な夢なのです。でも分りませんよ。私は常々「夢はドリームではなくターゲットである」と言ってますので、来年当たり何処かから講演依頼があれば、「お待たせしました。秘書のSでございます」なーんてことには絶対なりません。

 本で思い出したのですが、先日双海町の元漁師さんが「海族西瀬戸漂流記」なる自分史を出版しました。公民館の自分史講座で学んだ成果物なのですが、先日早朝私の家へわざわざ持ってきてくれました。まだ忙しくて読んでいませんが、早く読んで感想を言わなければなりません。

 私の町も、彼のように私に刺激されて本を書く漁師さんがいるのですから、捨てたものではありません。

文章はさておいて、自分の心の中にしまっている出来事を思い出して文章にすることは相当な勇気と努力が必要なのです。これは書いた人でないと分からない生みの苦しみだと思うのです。でも書いた本人はホンができた瞬間のあの真新しいインクの匂いがまた大きな感動だったはずです。

 あの朝の元漁師さんの晴れ晴れとした顔は今も私の心の中に焼きついています。人間には百人いたら百通りの人生や物語があるのです。自分ではつまらないと思っている人生でも文字にすると人の心を打つような出来事は多いのです。特に失敗談は成功談より感動ものなのです。

  「この本もあの本も皆思い出がよくぞこんなに私の知恵に」

  「わが家から本が引越し明日の朝再び読んで長旅思う」

  「どの本が記憶一番訪ねられあれもこれもと思いつくまま」

  「確実に使わない本実は辞書昔と今は本にも変化」

 

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shin-1さんの日記

○私は痩せている

 昨日友人から送られてきた自分自身のスナップ写真を見て驚きました。「その顔に驚いたの?」なんて言われそうですが、いえいいえ顔の構造に驚いた訳ではありません。その痩せ方です。私は元々65キロくらいがベストで、結婚以来その体重は増えもせず痩せもせずの体型を維持していました。しかし6年前に胆嚢のポリープ手術をして胆嚢を取ってからは次第に痩せ始め、最低では55キロまで落ち込みました。人間の体重は普通1割程度なら減量しても別にどういうことはありません。つまり65キロだと60キロくらいまでが最低ラインでしょうからさらに5キロはちょっと痩せ過ぎだと思うのです。さすがにその頃は体に馬力がなく、周りも心配しましたが、今は2キロ弱回復し56キロから57キロを往復しています。

 毎日顔を洗うときに鏡に映る自分の顔を見ているのですが、毎日の暮らしの結果徐々に体重が減っていたので、自分にはさほど気付きませんでした。

 友人から送られてきた写真は私がある会場で講演をしているスナップでした。面白おかしく話をしているようなのですが、顔の肉は落ちて頬はまるでえくぼのように引っ込んでいます。そういえば一生懸命食べているつもりでも確かに食は細くなっていますし、肉やてんぷらといった油濃いものは遠慮しがちなようです。

 私の手元に一冊の本があります。「昇る夕日でまちづくり」という自著本の表紙に、玉井恭介さんが撮ってくれた私の写真が載っていますが、これが病気前の私の姿です。顔も体もふくよかで私の全盛時代を思わせるようにエネルギッシュな顔つきをしています。酒をやめたことも痩せた一因でしょうが、どうしてこのように痩せたのか未だに原因が分らないのです。

 私の痩せた体を見て「おい大丈夫か」と親戚の人が心配して声を掛けてくれるのですが、当の本人はいたって元気で過ごしています。妻曰く「痩せたい私は太り、太りたいあなたは痩せる。世の中はどうしてこう上手くいかなないのでしょう」。妻の姿を見てつくづくそう思うのです。

 私はどちらかというと体を動かすのが性に合っています。だから旅行しても先日の沖縄行きのようについつい一日1万歩も歩くのですが、まあ健康に留意して元気に過ごしましょう。

  「体重を減らす増やすも難しい妻と私じゃまるで反対」

  「健康は自分に贈るプレゼント努力なしでは喜び半減」

  「これ俺か写った写真正直に病後の体細くげっそり」

  「使用前使用後みたいな顔をして人に健康言えたものかよ」

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