shin-1さんの日記

○浴衣

 先日まちづくりのお手伝いをした山口県美川町の皆さんと道後温泉のとあるホテルに泊まりました。最近は温泉街のホテルといえども洋室が主流でベットに寝るのですが、このホテルは全てといってよいくらい和室で、逆に珍しいホテルですねと、宿泊客が口を揃えていました。先日沖縄のホテルに3日間逗留しましたが、主催者が私のために手配したその部屋は私一人しか泊まらないのにベットが2つもあって、変な考えをしてしまいそうな雰囲気でした。いくら講師だからって、しがない田舎者の私にこれ程手厚くしなくてもと恐縮するくらい手厚くしてくれる所もあり、群馬県太田市では「この部屋は貴賓室では」とこれまた勘違いするような立派な内湯付きの温泉ホテルに泊めてもらいました。

 ところで世の中の暮らしが洋風化したのでしょうか、部屋備え付けの寝巻きも浴衣からパジャマへと変化しつつあるようです。勿論先日泊まった道後温泉はさすがに浴衣でしたが、浴衣に丹前、セッタに羽織とくればやはり温泉街を酔ってそぞろ歩きと行きたいところです。山口県から来た人の中には重要文化財に指定されている道後温泉本館の外湯を楽しもうと浴衣がけで湯かごを提げて出かけていました。

 浴衣とくれば夏祭り、浴衣とくれば大相撲を連想します。今週の日曜日にはいよいよ春場所がスタートしますが、浴衣を着たお相撲さんが町を歩く姿はチョンマゲと似合ってこれまた日本の良き風景だと思います。お相撲さんには序の口・序二段・三段目・幕下があってこの位置にいる人は無給だそうです。実力社会の厳しい掟のある大相撲の世界では、番付によって着る物まで制限されていて、無給の幕下まではたとえどんなに寒かろうと一年中浴衣一枚で過ごさなければなりません。最近は部屋でいるときはトレーナーを許されているそうですが、一歩外へ出るときは必ず浴衣に着替えなければならないのです。勝ち越せば上、負け越せば下と一見単純そうに見えるこの世界も、一歩中に入ると江戸時代にタイムスリップしたような錯覚にとらわれるといいます。私たちがテレビでいつも見ている化粧回しをつけた華やかな世界は十両以上の人で、浴衣一枚で暮らす幕下以下とはまさに雲泥の差なのです。

 それにしても私たちの暮らしはいつの間にか随分洋風化したもので、家にいるときは浴衣など殆ど身に付けません。たまに旅行に出てホテルへ泊まって浴衣を着て寝ると、朝には浴衣の前がはたけて見るからに哀れな姿になっています。そこへいくとパジャマは少々ね増の悪い私でも前がはたけることもなく休めることができるのです。椅子と机でご飯を食べ、パンとコーヒーで朝食すぉ済ませる、それは洋風ではなくもう日本風になりました。

  「浴衣など旅の思い出お相撲さん連想ゲーム時代は変わる」

  「寒くても浴衣一つで外に出る相撲の世界何と寒いか」

  「浴衣着て湯篭ぶらぶら街歩き平和長閑な湯上り夫婦」

  「温泉は浴衣寝巻きと兼用でこれも日本のおかしな話」

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shin-1さんの日記

○卵ご飯がブームとか

 私が子どもの頃卵はご馳走でした。私の家も子どもの頃はヤギと鶏を飼っていました。ですからヤギの乳は青臭くて飲みにくいといいますが、ヤギの乳を搾った経験のあるある私は平気で飲めますし、ヤギの乳がよく出るようにタンポポやチチモモといわれる木の葉っぱをヤギが好んで食べることを、子供心に知っていましたから、この葉っぱがヤギの体内を通って乳になるんだと納得していました。

 卵も平地に放し飼いのような形で飼っていましたから、ヒヨコ草なんてハコベを沢山刻んで米ぬかと混ぜて食べさせましたし、鳥は日がな一日のんびりと大地をつついてミミズなども食べる様子を見ていましたから、「ああ鶏はあんなものを食べるから白身と黄身ができるのか」とこれまたヤギと同じように納得したものでした。

 しかし、ヤギと鶏が同居するそんな長閑な風景も一変するような大事件が時々起こりました。卵は大きな青大将という蛇に襲われ、鶏は一夜のうちにいたちに殺され、ヤギまでもが野犬に教われました。子供心に悲しい思いをしたものです。そんな大事件の後は卵もヤギの乳も私たちの食べ物や飲み物から姿を消していたのです。

 最近島根県雲南市から小さなブームが起こりました。卵かけごはんです。元々は卵かけの醤油が村おこし産品として登場したのが火付け役でしたが、インターネットや情報誌がブームにあやかろうと加熱気味の情報を流すものですから否応なしに広がり、挙句の果ては卵かけご飯全国シンポジウムまで開くという盛り上がり方でした。

 私が子どもの頃は高価だった卵は何故かずっと安値のままで、今はスーパーなどの客寄せや献血の記念品にまで使われるという有様で、卵生産者の苦悩が読み取れます。しかし中には有精卵やヨード卵のように一個300円の卵まであるのですから、食べ物の世界もセレブ化が進んでいるようです。

 卵を割ると安い卵は黄身がグジャッとするように潰れるのがありますが、有精卵で高級な卵はしっかりと盛り上がり、箸でつついても中々潰れない、それでいて黄身の色が赤味を帯びた黄色の、何とも奥深い色をして食べてみたい気持ちになるのです。

 炊き立ての熱々のご飯の真ん中にくぼみを付け、そこに卵を割って少しばかりの醤油をかけて混ぜながら食べる卵ご飯の醍醐味は、これぞ日本の朝食というに相応しいものです。最近は鳥インフルエンザが流行し、卵の値打ちが更に下がっていましたが、卵ご飯のブームは日本人が日本食を食べる当たり前の食生活に気付かせた久々のヒットだと思うのです。ついでに卵を使った玉子焼きや目玉焼き、オムレツなどの復権もいいかも知れませんね。

  「卵飯喰った思い出母の味今や卵は見向きもされず」

  「妻ねだり卵ご飯に味噌汁を食べて早立ち寒き日の朝」

  「孫何故か卵のことをエッグという卵は卵お前は日本人」

  「ゆで卵何故か黄身が黒くなるそれは鉄分釘と同じか」

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shin-1さんの日記

○確定申告終わる

 サラリーマンをしていた頃は自分の申告の殆どを職場の担当がしていてくれていたので、申告をさして深刻考えることもなく済ませていましたが、自由人になった今は深刻の一から十まで自分で全てしなければなりません。なーんて書きましたが、実は私には税に詳しい税理士にも似た仲間がいて、その殆どを手伝ってくれるのです。「確定申告の時期が来たのであれとこれを揃える様に」まず指示をしてくれます。妻はそんな一切合財を私用の袋に入れて保管してくれているので、それを順番に並べてパソコンで一覧表を作り、彼の事務所に持って行くのです。私はいつも思うのですがあんな難しい税のことをよくも簡単に片付けられるものだと感心していうと、「若松さん、あんたが人の前で苦もなく話すほうがよっぽど私から見ると感心しますよ」というのです。ああ人にはそれぞれ得意や不得意があるのかと納得したりもします。

 17年、つまり昨年の私は3月までの給料、退職時の退職金、6月からの基礎年金、それに何がしかの講演料が主な収入源でしたが、その都度所得税を引かれているので合算すると戻りが出るそうです。妻にその話をすると「まあうれしい」と喜んでくれました。

 今は妻も税金がかからない程度のパートで、私と二人合算の暮らしをしていますが、人間は不思議なもので、給料が入らなくなっても、昔のままの暮らしの仕方を維持しなければならないのです。定年退職したからといって付き合いをやめるわけにもいかず、また食生活も肉や魚は贅沢と思ってみてもそんなに惨めな暮らしはできません。でもいよいよ今年の10月に誕生日を迎えると年金暮らしが始まります。妻はそのために頭を悩ませて、どうしたら軟着陸ができるか考え、少しずつ暮らしの質を変えようと考えて、私にも理解を求めています。人のことだと思い、遠い先のことだと思っていた老後の生活がいよいよ始まります。私たち夫婦にとって未知の世界だけに不安もありますが、今年の確定申告をスタートと考えていい老後を健康で送りたいものです。

 確定申告を終えると何だか一仕事終えたような気分になります。書きあがった用紙に印を押し、封筒に入れてのり付けし140円の切手を貼って郵便ポストに投函しました。私は金融広報委員会の推進員をしている手前、しっかりとした経済観念がないと人生の生活設計は立てられないし、いい暮らしもできないと、生活設計に基づいた暮らしを実践してきました。人間牧場の建設もその延長線上での楽しみですから、妻も子どももみんなが協力してくれるのだと、いいわが人生に少しだけ満足した確定申告の日でした。

  「申告を深刻思う訳でなく仲間助けでやっと終わりぬ」

  「退職後不安な一年過ぎました何とかなるものこの世の中は」

  「この一年数字を見てはおどろぬ妻の家計簿やりくり上手さ」

  「まだ一人学生抱えて四苦八苦来年来るを鶴のごときに」

 

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shin-1さんの日記

○私を覚えていますか

 ある日突然メールが入り、「私を覚えていますか」と書き込まれていました。Mさんと名前を書いているのですが、あのMさんかな?、いやあのMさんかも?、いやいや先日会ったあの人かもと名前と顔を想像するのですが、賞味期限の切れた私の頭ではついに思い出せませんでした。仕方がないので知っているようなかぶりをしてメールを送り「またお会いしましょう」とメールを送り返しました。ところが昨日その方から写真入のメールに添えて私の話を3度も聞いたと、私の話の内容の一部を書き込んでくれていました。嬉しいですね。このメールのお陰で「あああの人」と思い出し、思い出せなかった侘びと真情を吐露しながら再びメールを送りました。このように人を覚えることは容易ではありません。特に私のように毎日毎日不特定多数の方とお会いしていると、失礼ながらその人の顔と名前が一致して思い出せないのです。それでも町を歩いていたりデパートへ行った時などに唐突に声を掛けられたり会釈したりされると、同伴の妻が「お父さん、あの人何処の誰」と聞きますから、「何処の誰さん」と答えると、「お父さんは感心じゃねえ。よく人の名前を覚えてる」と褒めてくれるのです。

 人の名前を覚えるのにはコツがあります。その人の身体的特徴もさることながら、名前と顔を合体させ自分流の暗号のようなもので覚えます。例えば「若松さん」は「目出度目出度の若松様」とか、「高知さん」だと南国土佐の高知さん」などと意味不明の自己流で暗示し、20回以上その人の名前を口に出して復唱し覚えます。

 メールの相手Mさんのように、3回会っても覚えていないのは相手にも責任があります。みんなと同じ集団行動をしていると余程の特徴がないと相手にPRできません。ですから自分の売り込みをしなければなりません。「そこまでして覚えてもらわなくても」と思われるかも知れませんが、覚えてもらうといいことがいっぱいあります。Mさん、期待してください。

 私の前には毎日毎日多くの人が現われ多くの人が現われ消えて行きます。私の机の上には頂いた名刺も山のように積まれています。こうして留めもなく人の交流は続くのですが、一回会っても100回会ったような顔の人もいれば、100回会っても一回しか会ったような顔のできない人もいます。これが縁の不思議なのです。「若松進一に覚えてもらったところで何になる」と開き直られる人は、私に名刺を渡したり私に声を掛けないで下さい(笑い)なーんて開き直っています。

  「覚えてる唐突メールに戸惑ってお茶を濁すが直ぐにバレバレ」

  「重要度ハガキメールを使い分け縁糸たぐる憎い付き合い」

  「流行ったな私はだーれここは何処自分忘れて人の名覚え」

  「人間は忘れる動物そう思や俺の記憶も人並みくらい」

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shin-1さんの日記

○私のプロモーションビデオ

 まちづくりや地域づくりにいささかなりの関わりを持っている私は、これまでに沢山のテレビやラジオに登場していますが、顔に自信の持てない私としては特に映像に出ると何とも面映い感じがします。しかしながらこれも自分の顔だからと呆れて見ているのですが、その殆どはビデオにダビングしているものを自分で再生し、自分や家族で見る程度なのです。だから少々恥ずかしい場面でも笑って済ませるのです。

 ところがところがつい先日松山市で開かれた「地域の自立を考える」シンポジウムでは、こともあろうか本人がいるのに300人もの聴衆を前に私のプロモーションビデオが大写しに上映されてしまったのです。このプロモーションビデオは、えひめ地域政策研究センターの清水さんと脇田さんがこの日のために密かに作った本邦初公開の映像ですから、出演者の私も始めて見る代物です。

 ビデオの内容はまずフーテンの寅さんシリーズ19作目の映像が出てきます。下灘駅のベンチに寝そべっている寅さんを駅員さんが起こす場面で私に早代わりするというずっこけで、会場は笑いに包まれました。その後はシーサイド公園砂浜で清掃する姿や、人間牧場で草刈やハーモニカを吹く姿が夕日とともに印象的に作られていました。清水さんが監督を、脇田さんが撮影と製作を担当したそうですが、ご存知戒田節子さんのナレーションも抜群で、その技術たるや玄人はだしで恐れ入りました。

 昨日の夜そのプロモーションビデオを妻と二人で見たのですが、妻は大受けで笑って見ていました。

 それにしてもフーテンの寅さんの映像に出てくる下灘駅界隈は30年も前のことですが相当の変化です。何せ日本一海に近い駅だった頃の映像ですから、その後海岸国道バイパスができ下灘駅も無人化して駅構内の複線が単線化しました。また駅周辺には桜の老木が沢山ありましたが枯死し、官舎跡には夕焼け団地の建物が立っています。こうしてみると映像はやはり生き証人なのでしょう。

 このDVDはこれからも大切に残しておきたいものです。

  「三十年前に映りし映画見て時の流れの速さ感じる」

  「この駅が私の始発駅だった終着駅は何処になるのか」

  「妻乗せた鈍行列車で松山へ顔も忘れて大恥汗顔」

  「俺主役短い映画上映し腹を抱える妻と二人で」

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○国道の名前

 私が現役として役場でまちづくりの仕事をしていた頃、国道に愛称をつけてはどうかと発案し、土木事務所を通じて県庁に提案したところ、「国道には番号がついているので、愛称をつけることが前例になると混乱を招くので止めろ」と冷たくも冷めた返答でした。しかし私は味気ない番号よりも地域住民が国道を愛するような名前を公募して決めようと、食い下がりました。結果的には「勝手にしろ」でしたから、わが意を得たりとばかりに公募を始めました。ところが公募で選ばれた人に賞金を出す金がないものですから、今度はイメージアップの県単独補助事業を狙いました。色々な手を使い何とか補助事業に乗せようとしましたが、補助金で懸賞金など聞いたことがなく前例がないので駄目だというのです。二転三転しましたが隣の長浜町と広域連携でやるという作戦を立てて補助金をゲットしました。

 結果的には全国公募で3800件もの応募があり、熱い行政の壁を崩して「夕やけこやけライン」と決めたのですがこれがまたひと悶着、お偉方は「サンセットロード」がいいと言い張るのです。「ロードが何で道路なの」なんて洒落にもならない喧嘩を吹っかけ、新聞社の部長さんを見方に引き入れてコンセプトを書いてもらい「夕やけこやけライン」という愛称は誕生したのです。今ではこの愛称が「道路地図」にも載り、特に若い人は国道378号という数字番号よりも親しみを込めて使っていただいています。

 国道とは道路のうち特に重要と思われる国の管理下に置かれた道路を指しますが、私たちの町を通る国道のように300クラスの国道は県が管理をしています。今は1号から507号まであるのだそうですが、国道の数が507本あるのかといえばそうではないのだそうです。

 最初は道路の重要性に応じて一級国道に1から100番、二級国道に101番からの番号を与える計画だったのですが全てを一般国道にまとめたため、その時までに誕生していた一級58号線を最後に59号から100号までが何と欠番になっているのです。101号以降で欠けているのは途切れたルートが一本に結ばれたもので、109号から111号、214号から216号までが欠番になっています。

 無名だった378号が「夕やけこやけライン」の愛称で見事に有名になりました。

  「酷道といわれた国道整備され今は愛称夕やけこやけ」

  「知なんだ国道欠番あるという裏の話になるほど納得」

  「前例のないことしたら叱られた前例作れど人は真似せず」

  「国道の菜の花今は有名に種を明かせば種を落としてた」

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○人間牧場研修第1号

 今日は朝から雨模様で、過疎を逆手に取る会の和田さんが6月に人間牧場で開催予定の会場下見を兼ねて、宿泊先の内子町から早朝にやってきました。啓蟄というだけあって何となく春めいて海は春特有のやまぜの風が少し吹いていましたが、海も穏やかで閏住の菜の花は早くも満開を迎えています。

 先日沖縄に出張中に下灘中学校の谷岡先生から電話が入り「ふるさとと夢」について、人間牧場で子供たちに話をして欲しいと依頼がありました。「今は沖縄なので」と電話に出ると驚いた様子でしたが、3月6日の10時30分からということで日程を入れました。今日はその日なので広島の和田さんに少し早めに来てもらい中学生を迎える準備をしました。準備といっても電気をつけるくらいなのですが、松尾校長先生、教務主任の武智先生、担任の谷岡先生の3人に引率されて11人の中学生が研修にやって来ました。

 本降りの雨の中生徒たちは板間に座り私の話を聞く事になったのですが、人間牧場へは見学者も結構多いのですが、研修と名のつくものは始めてで、さしずめ今日は人間牧場の研修第1号を受け入れた記念する日となりました。

 下灘中学校は私の母校ですが50人そこそこの小さな学校です。でも子どもたちはバレーや剣道では小さなハンディをものともせず、大きな成果を上げていますし成績も態度も立派で、いい教育環境といい先生に恵まれていることを誇りに思っている学校です。

 私が少し話した後それぞれが私に質問するのですがなかなかどうして、みんな素晴らしい質問をしてくれました。特に人間牧場への関心が高く何故ここに人間牧場を作ることを決意したのか、また人間牧場を作るのに困ったことは何かなど、いい掛け合いだったと思います。

 私はこの人間牧場を『心の港」と表現しました。眼下に見える豊田漁港は船の港、この人間牧場は人間の港になるべきだと思っています。また先日魚梁瀬杉の根株を高知県の坂本さんから貰い、親父がテーブルに仕上げてくれた杉を見て『百年の木」の話もしました。人間はこの年輪のように年齢を重ね概ね100歳まで生きるのだから、目標を持って生きなさいとも話しました。

 生徒たちの心に私の発した言葉はどんなメッセージとして受け止められたでしょう。僅か1時間余りの短い時間でしたが50歳近くも歳の離れた生徒たちに、私の話を分らせようとすること自体無理な話だと思います。でも全員が手を上げて自主的に、主体的に発言したのですからこれはもう立派と言う他ありません。今度は友だちと一緒に、晴れた日や満点に星空が見える頃に来て欲しいと願っています。

  「先生も粋な教育するもんだわざわざ牧場連れてきて聞く」

  「年輪を数えて驚く魚梁瀬杉俺の十倍生きてるなんて」

  「この牧場心の港と考える疲れ病んだらいつでもおいで」

  「木を叩く音がこだまし春誘う今日は啓蟄虫も目覚める」

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shin-1さんの日記

○届いたハガキ通信

 私の友人に広島県福山市に住んでいる平井悦夫さんという筆まめな方がいます。私の主宰していたフロンティア塾の講師として双海町へ招き、そのご縁で私も彼の主宰する魅力人間交流マーケットの講師としてお邪魔しました。彼の町は広島県新市町でしたが、早々と福山市に合併してもうその自治体はありませんが、字体こそ違え私の名前と同じ名前の町だったのでより親近感を覚えたものでした。私が広島県向島の半田さんと出会いハガキを書くようになったきっかけも、じつはこの平井悦夫さんを介してでした。ですから彼は私の大恩人と言わざるを得ません。物腰の柔らかい語り口や柔軟なフットワークは私には真似の出来ない生き方です。

 そんな彼が凝りに凝っているのはハガキ通信です。「ときめ木堂の喜びタイムス」という一風変わったハガキ通信です。何人かに出すためコピーした紙をハガキに貼り付けて、決してスマートとはいい難い体裁なのですが、この内容たるや人に合ったこと、何処かへ行ったこと、感じたことなど多岐にわたっています。私にも毎号届くのですが、その数がNO.143号ですから驚きの数字です。私のハガキ通信は一年365日続けましたからNO.365号ですが、私の場合はそんなに沢山のハガキは出していませんから、どっちこっちといったところでしょうか。

 先日彼からお便りが届きました。仲間と「愛と平和」をテーマにした書と絵の展覧会を開くからハガキに絵かメッセージを書いて送って欲しいと言うのです。

 彼のように絵も書も上手くない私は意気消沈といったところですが、それでも彼への義理もあるのでちょっとした工夫を思いつきました。私が彼に出している双海町の夕日の絵葉書を二枚書く事にしました。夕日の絵葉書は裏に夕日の写真が印刷されていますから、一枚はメッセージ、一枚は写真を裏表使えば、裏と表を組み合わせれば二つのメッセージが展示できるというアイディアです。

  福山市駅家町万能庫ー5  平井悦夫様

 「いつの頃からでしょうか。あなたから『ときめ木堂のよろこびタイムス』というハガキが届くようになったのは・・・・。数えてみたら早くも143号となっています。パソコンやインターネットが持てはやされる時代に、こんなアナログな世界で『愛や平和』につい書かれているメッセージは他にはないと思い、大切にしまっています。たった50円のハガキですが、便りが来る度に、愛や平和について考えさされます。『人は人によりて人となる』あなたのハガキを見ていつもそう思います。あなたのハガキは自分が人間であることを忘れかけたころに届きますから、『ああ私は人間なんだ』と思います。人間は愛と平和を求める動物なのです」

 福山市駅家町万能倉806-5 平井悦夫様

 「双海町の夕日を見るたびに思います。この夕日はどこかの朝日だということを。人間は同じ太陽を朝日と夕日として見ているのです。でも同じ太陽の恵みを受けながら、一見平和そうに見える日本や戦争をしている国もあるのです。愛を忘れた日本人、愛を求めて戦争をしている国々、どちらも本当の愛を知らないのかもしれません。平和は愛なしでは語れないのです。日本一と自認する双海の夕日は私に、愛と平和の尊さを教えてくれるのです。みんなで夕日を見ようよ。」

  「一枚のハガキ届いて143読んで気付いて生き方変える」

  「彼に会いハガキ書くよに勧められ書いた年数十九年にも」

  「字が不味いそんな言い訳しなくても書けば届くよたった五十円」

  「ハガキよりブログに熱中近頃は早い魅力についつい誘われ」

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shin-1さんの日記

○青年団のかつての愉快な仲間たち

 今日は宇和島市高光公民館の50周年記念式典の記念講演に招かれ出かけました。昭和28年に産声をあげ、昭和30年の市町村合併で私立公民館になったそうですが、奇しくも平成の大合併で新宇和島市となり、半世紀を振り返る集会となりました。かつて愛媛県公連会長の河野常正さんもご列席で顔見知りの人が沢山いました。その中に顎にひげを蓄えた西平一生さんの姿もありました。彼は私の前の愛媛県青年団連合会の会長として一緒に活動した仲間です。寝食をともにした彼とはまだパスポートがいる時代に沖縄へ海外派遣で一緒に出かけましたし、国立大洲青年の家の誘致運動にも大きな功績を残しています。

 25歳前後の若かった頃の思い出は切がないほどあって、どれから喋ってよいやら戸惑うほどですが、その時の活動が肥やしとなって今があるのですから感謝しなければなりません。

 私は青年団で大きく分けて4つの道具を手に入れました。一つ目は仲間です。西平さんを始め、全県下、全国至る所に多くの仲間がいます。二つ目はふるさとです。私のまちづくりの原点はやはり青年団活動で輪が住む町を良くしようと取り組んだことがきっかけでした。夕日によるまちづくりもその伏線上にあるのです。三つ目は主張です。私は若いごろとても口下手でした。いまもその謗りは免れませんが、青年団で努力し青年団で学んだお陰で人の前で堂々と主張が出来るようになりました。四つ目は感動です。自分が感動する人間になったことは勿論ですが、人に感動を分け与えるような心に育ったことは嬉しい成長です。

 集会が終わって誘われるままに近所の西平さんのお家へお邪魔しました。西平さんの奥さんとは顔見知りですが、忙しいのに昼食まで用意してもらい、食事をしながら四方山話をしました。かつての青年団の仲間が病気で亡くなったり、定年退職や転職で音信が途絶えたりしていますが、こんな温かい家庭を持っておられる西平さんに敬意を表し、再会を約束してお暇しました。

 お互いが青年団に別れを告げてから35年の歳月が流れました。人それぞれの35年であったと思いますが、西平さんも、勿論私も菊田一夫ではありませんが「第一の山を登れば第二の山がある。第二の山を登れば第三の山がある。第三第四山は続く。何処まで続くか山々々。偉人とは最後まで登り続けた人なり」でしょう。私にもまだ山がたくさん立ちはだかっています。あせらずゆっくり次なる山を登らねばなりませんね。

  「変わんないそりやそう一緒に歳をとる何時の間にやら白髪禿ゆく」

  「俺も歳昔はこうだ話する横で聞いてる息子席立ち」

  「人の嫁綺麗に見えるだけれどもやっぱりわが妻変えれぬ女」

  「青年団四つの道具くれました恩を戻さにゃバチが当るぜ」

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shin-1さんの日記

○夕べは寝れなんだ

 同じ敷地内に住む親父の隠居へ毎朝出かけ、ストーブの前の座椅子に座って待っている親父の背中をめくり、サロンパスを張るのが日課になっています。母亡き後一人暮らしの親父の元へは妻が毎日一汁一菜の夕餉の膳を運んでいます。私は血を分けた親子ですから何ともない日課なのですが、妻は母が死んでからずっと、「硬い、柔らかい、甘い、辛い」などと文句を言いながら食べる老人のわがままな言葉にも耐えながら日課として食事を運んでくれていて、頭が下がる思いです。

 元気な親父も88歳の年齢を超えるとさすがに老域というのか、最近親父の動きが鈍く、親父の体が小さくなったような感じがします。それでもみんなに迷惑をかけまいと、暇さえあれば畑を耕し、暇を見つけては散歩を心がけています。

 親父の朝は早く、もう4時には起き6時には身支度してスタンバイです。ところが今朝は親父の隠居を覗いても電気もストーブも、テレビも点いていないのです。おかしいと思って親父のベットへ行ってみましたが、昨晩は夢を見て寝れなかったらしく、朝方二度寝したらしくてゆっくり起きてきました。「まさか死んでいるのでは」とよからぬ取り越しな考えをした私を恥じました。親父の話によると『最近夢を見て寝れない」と言うのです。妻の言うのには「午睡をたっぷりとって、夜も7時頃にはもういびきをかいているのだから大丈夫」と観察の状態を説明してくれたので安心していましたから、「じいちゃん眠れんで死んだ人はいないから大丈夫」というと「そんなことをいっても眠れんことは死ぬほど辛い」とこぼすのです。

 私ははっと気がつきました。起きてこない親父を見てもしや「死」、この悩みを聞いた妻も「死」、親父自身も「死」、私の受け答えも「死」なる言葉を平気で使っているのです。私は親父の周りにいる親父を含めた全ての人間が「死」なる存在を意識し始めている事実に驚きました。

 人の死は仕方がないと思うのですが、いざ最も身近な親父のこととなるとまだまだ心の整理がつきません。こんな文章を書くことすら不謹慎で、この文章を見れない世界に親父がいることを少しだけ安堵します。

今年もまあまあの元気で寒い冬を乗り切った親父さん、更に元気で長生きしてください。

 昨日孫がやって来て親父の部屋へ連れて行きました。おじいちゃんと並んで煎餅を食べてる姿は何とも幸せそうでした。

  「子の孫と並んで煎餅食いながらさも幸せな笑顔満面」

  「無意識のうちに使っている言葉はっと驚き口に飲み込む」

  「この冬も元気乗り切り春が来た親父偉いぞしっかり生きろ」

  「寝てるのか死んでいるのか分らない遅い目覚めに心動揺」

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