○新聞取材で気がついた私の発想の原点
「若松さん、双海町の夕日をテーマにしたまちづくりについて取材したいのですが・・・」と電話がかかってきたのはもう2カ月も前のことです。多分どこかで先で電話を受けたような記憶があるのですが、自分の予定表にも書いてないし、その後何の連絡もメールも届いていないのでそのことすらすっかり忘れていました。ところが一昨日、「7日午前中だったら何とかというお約束でしたので、大阪から当日の朝そちらに参りますのでよろしくお願いします。多分11時には到着できると思いますので、シーサイド公園でお会いします」というのです。講演に行く途中の車での電話受け答えに、まるで狐につままれたような気持ちでした。早速自分の予定表に目を通しましたが、確かに午前中は予定が空いていて、そこへ?マークが付けれれているのを見つけました。間一髪もう少しで予定を入れるところでした。
このところ忙しくてシーサイド公園へも覗かなかったものですから、少し早目に家を出てじゃこ天のお店や特産品センター、魚屋さんに立ち寄り雑談に講じました。シーサイドでは間近に迫ったクリスマスの飾りつけの真っ最中で所長さんや従業員が一生けん命電飾を取りつけていました。また特産品売り場の電気をハロゲンから省エネタイプのLEDに帰る工事も行われていて、開業以来15年経ったことを物語るようにあちらこちらに工夫の跡が見えるようでした。
11時少し過ぎに報知新聞の田中さんという記者はやって来ました。所長さんに了解を得て事務所横の応接室を借り、取材に応じました。「まず夕日を地域資源に生と思ったきっかけからお聞きしましょうか」と、取材の王道である5W1Hについて、撒き返し繰り返し聞かれました。私の話は講演なのでも話していることなので、相手がどんな記事にしたいのか探りながら、相手のメモを取るスピードに合わせてお話をⅠ時間ばかりさせてもらいました。
聞けばこの記者は今は伊方町と合併した旧瀬戸町足成出身だそうで、どうりで目のつけどころが違うなあと思いました。「ところで若松さん、あなたの発想の原点は」と聞かれました。その時思ったのですが多分私の発想の原点は子どもの頃、人間牧場のあるみかん畑から海や空を見つめ、「海の向こうに何があるのだろう。いつかあの海の向こうまで行ってみたい」と思っていたことかも知れないのです。そのことがきっかけで青年の船でアメリカへ行ったり、水産高校の練習船で南太平洋へ行ったりして、私はその通りの人生を生きて来たのですから、まさに発想の原点なのです。そしてそれらの旅で潜在能力を蓄積し色々なきっかけで顕在能力となったのです。
ゆえに人間の育つ環境は大事だと思いつつ、自分の子どもたちが私と同じ町で育ちながら、育つ環境から何を学んでいるのだろうかと少々疑わしくなりました。私の育ちの環境は戦後という時代背景、しかも半農半漁という職業環境、さらには5人兄弟という家庭環境などが微妙に絡み合っているのです。それらは子どもたちの世界には殆どない環境ですから、影響を受けることは殆どなかったのです。それでもまあ平凡ながら人間として育っているようなので良しとしなければなりません。
取材を終え、恋人岬でスナップ写真を撮影して1時間半ほどの取材は終わりました。夕日や菜の花、水仙などの写真は市役所支所の観光担当にお願いすることで一件落着です。第一線を退いて早4年半余り、取材依頼の度に別の人をと思うのですが、役所に聞けば「そのことなら若松さんに」といつも振られてしまうので、仕方なく応じていますが、いつまで続くのでしょうか。今私に最も注目が集まっているのは「人間牧場」に関することです。夕日も最初は夢でした。勿論人間牧場も夢でした。でも夢を一つ一つ実現する、つまり私の持論である「夢はドリームではなくターゲットである」を地でゆく、しかも自分が資金を出してまでやっていることの意味は、これからも大いに語って行きたいと思っています。
「発想の 原点聞かれ ハッとする 海の向こうに 何があるのか」
「もう取材 終わりと思い 応じるが 人間牧場 幾らも語る」
「環境が 人をつるか なるほどな 田舎に生まれ 良かった思う」
「予定表 ?マークが ついていた 俺も歳だな 忘れてしまう」