○不便な暮らしが感謝の気持ちを育む
5月に入って雨らしい雨が殆ど降らず、ひと雨欲しいと思っていた矢先の2~3日前の夜、お湿り程度の雨が降って家庭菜園の野菜類が息を吹き返したように元気になりました。と同時に畑の雑草もぐんぐん伸び始め、菜園の仕事が一気に増えてきました。親父は相変わらず愛用の草削り鍬で手当たり次第に雑草を削っていますが、親父の草削りのスピードより雑草の勢力の方がはるかに早く、「綺麗に草を除けていたのにもう生えた」と愚痴をこぼすようになっているのです。
その言葉を聞きながら、息子の私も最近では暇さえあれば菜園畑に出て草を削っているのです。5月の太陽は初夏と呼ぶにふさわしく以外とさわやかながら強烈で、幅の広い麦わら帽子を被って作業するのですが、妻が「お父さん色が焦げたねえ。真黒になって・・・」と言うとおり、日焼けで顔がくすんでいるのです。昔は言葉は悪いのですが貧乏人や労働者の代名詞は日焼けとやせ型でした。お金持ちは概して色白で肥え気味とされていたようです。しかしつい最近はその概念が崩れ、ゴルフやアウトドアー趣味のお金持ちは戸外で健康的に遊ぶので日焼けしているようで、逆に日稼ぎにあえぐ人は陽に当たらないから色白で、しかも運動不足で肥満気味だと言われています。そのことから考えれば私は日焼けしてやせ型ですから、実態と違っていたって貧乏ながらお金持ちのイメージを備えているのです。
5月に入ってから殆ど毎日、夕方太陽が西に傾くころ畑に出て苗植えした野菜に水をやりました。畑には親父が作った井戸水をエスロンパイプで引いているのですが、ホースで水をやると強烈過ぎて土の表面をはねて固くするので、しっかり根付いていない苗にはジョロに水を汲んで優しく頭からかけてやるのです。
お陰さまで植えた苗も今のところは順調に活着してトマトもピーマンもナスもトウモロコシも成績はいいようです。それにしてもジョロにいちいち井戸水を汲んでやるのはかなり手間暇がかかります。特に成長著しいブルーベリーの鉢植えは排水を良くしているため、2~3日ほおっておくと新芽がしんなりするほど乾燥するのです。ブルーベリーは早いものは受粉して実が大きくなっていて、遅い花は今が受粉の時期なのです。この時期に水を枯らすと折角の実が太らないばかりか落下する恐れがあるので注意をして水やりをしているのです。ブルーベリーはジョロなどの水では不足気味で、バケツに一杯たっぷり根元にかけるのです。ブルーベリー栽培の指導を受けている西岡さんの話だと、カルキの入った水は根を傷めるので水はバケツに汲み置きしたものを使用するよう言われましたが、わが家は井戸があってその心配はないようです。
蛇口をひねれば水が出て、スイッチを入れれば電気がつく便利な時代に、あえてこんなまどろこしい方法でみずをやるのは、少々面倒くさいし違和感を感じますが、あえて不便を感じるようなこんな作業は逆に新鮮で、これまで見えたり感じたりしなかった部分が見えてきて結構水やりを楽しんでいるのです。
私の祖父や祖母の時代、つまり戦前は水道も電気もまだ不自由で、家には水をためる飲料水専用の大きな水瓶がありました。今は水道が普及して家の中には洗面所までありますが、その当時は水汲みは子どもの日課だったと祖母が語っていたのを思い出しました。そのことを考えれば今はお殿様のような暮らしで、何の不自由もなく水の恩恵を受けて暮らしているのです。
便利さゆえに失い、不便さゆえに見えてくるものはいっぱいあります。ジョロに水を汲んで運ぶと一滴の水も無駄にしたくないような水への感謝の気持が湧いてきます。これこそ現代人が忘れている水への感謝なのです。便利が当たり前の現代だからこそ不便を体験して感謝の気持ちを復活させたいと思いました。
「水を汲み ただひたすらに 水をやる 恵み感じて 野菜活き活き」
「水を汲み 重さと不便 実感す 水への感謝 思い出しつつ」
「今までは 親父の苦労 など忘れ 当然実ると 信じて食べた」
「色黒く なった顔見て 驚きぬ 元気そうだと 友に褒められ」