○「まだ生きてるご安心を」という年賀状が届く
正月が明けても相変わらず私の元へは毎日のように年賀状が届いています。「出した人」「出さな人」を頭の中で分類しながら、「出さなかっただろうなあ」と思う人に残りの年賀状を書いて出すのですが、パソコンが主流になってしまうと、全て機械的で早いものの出した人と出さなかった人の記憶があいまいで、結局はリストアップされたデーターをもとにチェックする暇すらなく、年に一度の恒例行事として片付けられてしまうのです。
今年私は600枚の年賀状を出しました。しかし私の元に届いたのは驚くなかれ約1000枚なのです。退職したら年賀状からも解放されたいと思って、一年目には断腸の思いで400枚に減らしたものの、いつの間にか3年半前の現職時代に戻ってしまったのです。
でも年に一度のやり取りながら、年賀状はやはり唯一一年に一回の近況を知る上で貴重な存在になってきました。特に私のような年齢になると、先輩と称する人たちの消息は気になるのです。ある公民館時代に世話になった90歳の方から「まだ生きてるご安心を」などと、思わず笑ってしまえるような一枚が届きました。この人の昨年の年賀状は「まだ死ねぬこれから先が楽しみだ」でした。1000枚の年賀状の中からナンバーワンを選べと言われたら私は真っ先にこの年賀状を選ぶでしょう。人間は生きている限り自己主張をしなければなりません。その意味でもこの先輩のウイットはもうそろそろ私も見習いたいものだと思っています。
今年の特徴は、私たち同年代のかつて酒も飲み遊びもやり、仕事にも一緒に燃えた仲間から「退職しました」「間もなく退職します」「後が残り少なくなりました」という年賀状が沢山届きました。「一歩前行くあなたを見習って私も夢だった晴耕雨読の暮らしを始めます」というのには公務員の方々が多いだけに少し疑問の首をかしげました。例えば来年4月からは自由人になれば自由は確保されますが給料は出ないのです。多分来年の4月以降になって初めてそのことに気づくのでしょうが、まるで決まったように何の苦労もなく頂いていた給料の有難さは計り知れないものです。世の中が不景気といいながら公務員には天下りや再就職先の打診がありますが、その第二の人生といわれる職場でも、これまでのような権力も財力も殆どないことも承知しておかないと、こんなはずではないギャップに苦しむことになるのです。
さて晴耕雨読という言葉はとても響きのいい言葉です。でも晴れた日に耕せるか、雨の日にどんな本を読むのか、これまた心得ておかなければなりません。パチンコやゴルフや温泉三昧にうつつを抜かす同年代の人を見ながらやはり60代を楽しく生きようと思えば50代にどんな生き方をし、どんな将来像を描いているのかが問われるのです。
幸い私はそんなモデルのような生き方をしているつもりで今を生きています。情報もあり余るくらい受信して適当に発信もしています。質素ながら暮らしの基本である経済も安定しています。若年から老年までバラエティに富んだ年齢層の人たちと交流もあります。適当に全国を旅をして適当にリフレッシュしています。交流の拠点である人間牧場も新しいアイディアが次々生まれています。基本となる家族も仲良く元気です。こう書けば「まあ幸せそうで羨ましい」といわれますが、幸せは幸せと感じる心、幸せとは与えられるものでなく努力して得るものと心して今日も「さあこれからだ私の人生」と胸を張って生きている私です。
「千枚の ハガキの中で ダントツは 『まだ生きてる ご安心』でした」
「そんな歳 なったかあの人 思い出し 晴耕雨読の 言葉気になる」
「一歩先 サンデー毎日 生きる俺 文句があるか しっかり生きろ」
「お父さん あんたも契約 社員だね 大学辞令 いつかは切られる」