○使われなくなった盆栽鉢
私の趣味は盆栽でした。30歳の時建国二百年のアメリカへ青年の船で渡った時、隣のおじさんに「盆栽を枯らさないよう隣の奥さん(私の妻)に宜しく」とハガキを出した程ですから、いかに盆栽のことが気になっていたかがよく分るのです。役場に入った頃、同僚に盆栽の好きな方がいて、感化を受けたのだと思うのですが、それ以来20年余りも盆栽に凝り、多い時は500鉢もの盆栽を育てていました。近所でもそのことは有名になっていて、何かの式典があれば必ずといって良いほど松の盆栽などを貸してくれと来たものだし、時には地元の盆栽展示会に出品して賞を貰らったりもしていました。
ところが20年前にまちづくりの担当になってからは、水やりはおろか植え替えも剪定も出来なくなり、ついには沢山の盆栽を枯らしてしまい、惨めな結果に終わってしまったのです。
その名残りですが、家の隅には親父が枯れた盆栽を引き抜いて片付けてくれた盆栽鉢が整理をされ、忘れ去られたようにうず高く積まれているのです。その鉢を見る度に昔を懐かしみ心が痛むのですが、暇が出来たら必ずもう一度とリベンジを誓ったものの、その思いはいまだに解決していないのです。
今日は昨日の雨もあがり、10時からの来客に備え家にいたので、朝飯後久しぶりに庭の草取りをしました。草削りの鍬で草を削って行くと、草の向こうの隅に植木鉢が出て来ました。懐かしくなってその中から幾つか取り出してみましたが、「この植木鉢にはけや木が植わっていたなあ」とか、「この植木鉢は高かったなあ」とか思い出し、少しだけの余裕ながら、また始めてみようかと思いました。
折りしも今日は東京から、「50歳未満お断り・エンターテイメント情報『STAGEステージ』というシニア向けのコミュニティサイトの取材があって、旧三間町出身の中矢真奈美さんというライターが取材に見えられましたが、その見本原稿をいただいた中に、盆栽家加藤文子さんの紹介文がありました。加藤さんは「針金をかけた盆栽は美しくない」という信念を貫いている方で、とても興味をそそりました。
加藤さんの話は、趣味ながら盆栽で一度は挫折した私ゆえによく理解が出来ました。時が作り出す自然の「盆栽」に、美しさを確信して長い時間をかけて「待つ」という見出しにも深い共感を覚えたのです。
「松」はひょっとしたら「待つ」かも知れないとひょっと思ったりしました。世の中がスピード化され速いことが一番の世の中のような錯覚が私たちには定着しています。でも年輪を見ても一年に一つしか年輪は刻めないのです。もう一度スロ-ライフを考えてみることも大切だと思うのです。
「そうだ盆栽にもう一度挑戦しよう」と思いました。昔のような大型な、しかも高級な盆栽を求めるのではなく、さりげなく書斎や玄関に飾るような小型のものをとりあえず36鉢(思いつきながら10日間に1鉢を年中鑑賞できるための概数)くらいをメドにしようと心に決めました。早い方がいいと幾つかの小型の鉢を取り出して洗ってみました。「はて、この鉢に何を植えるか」と想像しながら夢を膨らませています。時はあたかも春真っ盛りです。植え替えは少々遅いようですが、まだ間に合うかもしれないと、急いで書棚の奥に眠っているままの盆栽の本を取り出して乱読し始めました。また悪い虫が体の中で動き出しました。
「待つは松 のんびりゆるり ご隠居さん 盆栽手入れ 昔に帰る」
「針金を 掛けて矯正 するでなく 個性生かして 自然とともに」
「庭の隅 高く積まれた 鉢数個 取り出し洗い 盆栽始む」
「なるほどと うなずき読んで 感化され 始めるあたり 俺いい加減」