shin-1さんの日記

○鉄は熱いうちに打て

 子どものころ町の真ん中に宮内という加治屋さんがありました。仕事場には大きな炉があって、炭が赤々と燃えていました。そこの大将は周蔵さんという人で、真冬でも半袖で炉の前に立って鉄を打っていました。ベルトで回る鉄打ち機の下に火の中から取り出した真っ赤な鉄を置くと、容赦なく鉄打ち機のハンマーが打ち続けるのです。火花が飛び散りながらも鉄はまるで飴のように伸ばされ、やがて形状が整うと水の中に「ジューン」と音を立てて入れられ、焼きハガネが完成するのです。私はその姿が好きで、時々学校の帰りにその光景を見に行ったものです。ある日のことすっかり顔なじみとなった周蔵さんが「坊もやってみるか」といわれ、重い重いハンマーで真っ赤な鉄を打たせてもらいました。数日後周蔵さんから「学校から帰りに立ち寄るよう」連絡があり、行ってみると私の打った鉄が小刀になっていて、周蔵さんはその小刀を私にプレゼントしてくれたのです。家に帰ってその小刀を見せると親父は黙って木を削り木製の柄をつけてくれたのです。私はその小刀を小学生の間自分の宝ものとして持ち歩き、遊び道具をたくさん作りました。そしてその小刀の柄に「下灘住人宮内周蔵作」と鉛筆で書き、彫刻刀でそれをなぞって、まるで刀の柄に堀り込んである銘のような気分になっていました。その小刀の行方もいつの間にか分からなくなりましたが、今でも赤々と燃える炉の前に立って鉄を打つ周蔵さんの姿が目に焼き付いているのです。

 その時周蔵さんは私に「鉄は熱いうちに打て」という話をしてくれました。鉄は冷めていると硬くていくら打っても形にはならないので、炭で熱して柔らかくして細工をするのだと仕事の手を休めぬまま得意になって私に話してくれました。その時は「鉄は熱いうちに打て」という言葉が人間にも通用する言葉だとは思いませんでした。しかし何年かしてオトナの話す言葉の中に同じような言葉を聞いた時、その意味が何となく分かったような気がしたのです。私が水産高校へ行く時も、青年の船でアメリカへ行く時も、はたまた海外派遣で青年たちを海外へ送り出す時も、同じようなことを言われ、自分自身の過去を振り返ってみた時も、やはり熱い志を持った若い時ゆえに多くの感化を受けたと思うのです。

 昔の人は様々な言葉を体に染みついた仕事の中から話してくれました。無名に等しい加治屋の周蔵さんがとてつもない教えを幼い私にさりげなく話してくれたのですから、これはもう凄いとしかいいようがありません。


 私は鉄を例にとると、たとえ火の中へ放り込んでも熱くならない歳になりました。自分の考えがしっかりしているといえばそうかも知れませんが、自分の考えがたとえ間違っていてもそれを変えることをかたくなに拒むのです。

「ああ歳だなあ」と思いつつ、これまた歳のせいか熱かった若いころを懐かしむのです。

 私たちはもう熱くはならないのであれば、周蔵さんのように、熱いと思われる若い人を探し出し、熱したりハンマーで打ったりしながら鍛える方に回らなければいけないのです。はてさて今の自分はそんなことをしているかどうか考えた時、少しばかり疑問符?がつくのです。人間の世界は太古の昔から40年(昔の人の寿命)から100年(今の人の寿命)の周期で世代交代が繰り返されています。前人は後人を育てつつ歴史を刻んでいるのですから、少なくとも私にできる「鉄は熱いうちに打て」という言葉をかみしめて、これからも生きて行きたいと思っています。


  「千年の 釘を打ちたる 人の汗 何を語るか 鉄に向かいて」

  「幼な頃 鉄を打つかと 誘われて 重きハンマー 今も忘れず」

  「先人は 日々の仕事の その中で 生きる教えを ちゃんと伝えて」

  「嗚呼俺は 熱きうち打つ 人なのに 打ちもしないで ただただ生きる」

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shin-1さんの日記

○地域づくり人養成講座で高座に上がり落伍をしました

 昨日はコムズという松山市の社会福祉施設で地域づくり人養成講座があり、発表会のコメンテーターとその後の講演を行いました。えひめ地域政策研究センターでは県の委託事業として、地域づくり人養成講座を毎年開講していますが、昨日は今年度最後の発表会がありました。受講生30人はそれぞれテーマを掲げてレーポートを提出していて、そのレポートに基づいて1人10分ずつの発表をリレー方式でするのです。一人一人の発表に導師となった前田講師がコメントを話し、総括的に私が講評を行いました。

 このような催しは毎年行っているのですが、今年の発表も力作ぞろいで熱のこもった発表会となりました。人の前でたとえ10分といえども発表するのですから大変な緊張で、かつて私が若いころに味わったような初々しい姿が印象的でした。中には講演などで話慣れてる受講生もいて層の厚い感じがしました。私もコメンテーターとして発表者一人一人の発表を聞いての感想を、参加者に配慮し務めて平等に話をしました。

若松進一ブログ (講座の発表会)
若松進一ブログ (トップバッターの大内さん)

 発表と閉講式も無事終わり、いよいよ私の出番です。前もって私のプロモーションビデオが上映され、出囃子の軽快な音楽に乗って私が登場しました。会場は既に作り変えられていて、半円状の観客席の向こうに私の席が用意され、私を紹介する「夕日亭大根心」のめくりもちゃんと掲げられていました。

 この日の演目は「ハガキを書いたら幸せになれる」という話です。カバンの中から半田さんの本とはがき数枚を取り出しての熱演です。話の折々には笑いも出て盛りあがりました。

若松進一ブログ (半円状に作られた客席)
若松進一ブログ (熱演する私)

 少し長めの話が終わり、落伍ライブです。この日のために私の「昇る夕日でまちづくり」「今やれる青春」という私の自著本を2冊あらかじめ読んでいる受講生から、一人2問の質問が前もって寄せられていて、その質問を高座の担当者である清水研究員が代表して私にぶつけるのです。私は前もってその資料を見てはいますが、即興なのでその資料を見る時間などはないのです。質問は時には鋭く、時には楽しく様々でしたが、できるだけ短く、できるだけ楽しくお返しをしました。

若松進一ブログ (清水研究員の質問に一問一答です)

 最後はこれまで地域づくり人養成講座に参加した先輩から意見があり、大河内結子さんが朝フルの活動を紹介してくれました。大河内さんとはこの講座で知り合いましたが、最近ではメル友や年輪塾塾生として深い付き合いをしているのです。大河内さんは私と同い年だそうで、私も若いつもりでいますが、やはり女性の特権でしょうか大河内さんの若さには叶わないようです。

若松進一ブログ (朝フルの活動を紹介してくれた大河内さん)

 落伍ライブは無事終わりました。今年は私の本を前もって読んで参加するという手法を取ったため、読書+講演でいつになく腹入りのするものとなりました。普通だと講演で終わりでしょうが、手間暇かけた学習会はやはり一味違っていました。読むこと、書くこと、聞くこと、話すこと、見ることを全て体験した受講生に残されているのは実践することです。県内各地で行われるであろうこれからの活動に期待したいものです。


 追伸

 オフライン交流会には酒も飲めない私もウーロン茶で参加しました。いつも下支えをしてくれている土井田女史と芝女史に慰労の意味を込めてビールを沢山ついであげました。何のことはありません。二人に囲まれて幸せそうなスリーショットの写真が撮りたかっただけなのです。下心は鼻の下を長くして崩れた私の顔に表れているようです。若い女性に囲まれ幸せ幸せな一夜でした。

若松進一ブログ (左は土井田女史、右は芝女史です)

  「発表を 聞きつ昔を 振り返る 今時の人 しっかりしてる」

  「自著本を 読んで参加の 妙案が ズバリ当たりて 凄い深まり」

  「読む聞くや 見たり書いたり 喋ったり 後は実践 するのみですよ」

  「飲むほどに ウーロン茶でも 酔ったふり 若い女性と ばっちり写真」

  

 

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shin-1さんの日記

○笑う門には福来たる

 私の理想は少々顔が悪くても毎日笑顔で暮らしていけるような人と結婚したいということでした。ですから始めて見合いしたその人の笑顔に一目で惚れして結婚を決意したのが今の妻なのです。私は8年間の青年団活動で色々な女性を見てきましたが、顔がよくっても冷たい人、金持ちであってもそれを鼻にかけるような人、また学歴などを見せびらかせインテリぶっている人などを見るにつけ、笑顔のいいことを第一条件としたのです。選ぶ自分もこの顔ですから、笑顔ぐらいしか相手を選ぶ条件を提示できなかったのです。私の女性を見る目は見合いをしたこともなく、特定の人と付き合いした訳でもないので肥えている方ではありませんでしたが、それでも私が理想とした「笑顔のいい人」と巡り合ったのです。

 私は役場に勤めていましたが、わが家は漁家なのでお嫁さんに来たら家を守ってもらわなければならず、また長男の嫁ですからそれなりに親族や地域の人と付き合って、先祖祀りもしてもらわなければならなかったのです。当時は「家付き、カー付き、ババー抜き」、つまり持ち家があって車を持っていて、次三男がいいというのが流行でした。そこへ行くと私は家こそ持ち家ながら車もなく、ババーどころか祖母、父母、未婚兄弟姉妹など、いわゆる小姑がいたのです。多分嫁いで来る妻からすると最も条件の悪い家への嫁入りだったようで、妻の同級生は盛んに反対したようです。それでも妻は将来性のある私を見込んで(大笑い)、結婚を決意してくれました。

 当時教育委員会で社会教育主事をしていた私には青年団活動の延長のように青年が連日私の家に集まって酒盛りをしました。その後はまちづくりで多くの人がわが家の煙会所などに逗留しこれまた宴会を繰り広げました。さらに追い打ちをかけるようにボランティア活動と称して21世紀えひめニューフロンティアグループなどと関わったため妻の仕事は半端ではありませんでした。

 それでもそれらの人たちは妻の笑顔に迎えられ、妻の笑顔に送られる出会いを繰り返したのです。「笑う門には福来たる」ということわざがありますが、妻はまさに福の神といったところでしょうか。数年前に逝った祖母や母の面倒もしっかり見てくれ、祖母も母も感謝と満足の言葉を妻に残してあの世に旅立ちました。

 こうして結婚以来約40年の過ぎ越し日々を振り返ると、わが家は妻の笑顔で平穏無事にここまで乗り越えることができたのです。勿論子育てもその中には入っていて、普通の子どもながら普通に育って自立の道を歩んでいるのです。

 その大本をたどれば、やはりあの5分間の見合いでその女性を見染めた私の眼力の賜物と多少胸を張るのです。(私のブログを妻は読まないことをいいことに勝手なことを書いていますが、この話は内緒の話でここだけの話にしてください。照れますので)。

 世の男性諸君「女性の笑顔は八難隠す」ともいいます。くれぐれも笑顔のいい女性を選ぶようお勧めします。


  「笑顔惚れ たった五分で 決めました お陰幸せ 家庭築きて」

  「世の諸君 結婚条件 第一は 笑顔素敵な 女性を選べ」

  「家の中 笑顔取り持つ こと多く 笑い飛ばして どれ程ヘルプ」

  「お帰りと 笑顔で迎え ホッとする お金もかけず 幸せ多く」

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shin-1さんの日記

○久しぶりの愛妻弁当を楽しむ

 昨日は大学への出勤日でした。朝から雨の予感がするどこか湿りがちな一日になりそうな雲行きでした。親父から頼まれた自転車を乗せて帰らなければならないため、田舎のオープンカーならぬ軽四トラックに乗っての出勤です。昨日は法文学部ではなく農学部ですから軽四トラックがどことなく似合っているようでした。

 農学部本館の5階にある私の研究室へのアクセスも随分スムーズになってきました。事務室で泉学部長さんと出会って会話を交わしました。また昨日は学部長選挙の最中で、どこか張りつめた空気が流れていました。5階のローカで鶴見先生とばったりお会いし、私の部屋で雑談に花を咲かせました。鶴見先生は千年の森づくりという途方もない森林プロジェクトの中心人物で、これまでにも何度かお会いしましたが、自室でしかも個人的なレクチャーを受けたようなもので色々な話を聞きました。

 先生も知っているし私も知っている旧友の話になりました。彼はかなり熱心に地域づくりをやられている方でしたから、初期のころ講演に招かれ地区の人たちとともに酒を酌み交わしながら夜遅くまで話したものです。その後花祭りに招待されて行った時にはかやぶき屋根の家を造られたりしていて、早い仕上がりに目を見張ったものです。その後飲食業にも手を伸ばされたと風の噂で聞いていましたが、その後事業が上手くいかず失敗したようで、他人事ながら心を痛めていました。

 地域づくりの世界では成功も失敗もあり、私などは失敗の連続でしたが最後はどうにか上向いてつじつまが合っただけなのですが、失敗で終わるとこれはみじめなものです。地域づくりの小さな成功に自信を深めて自分の力を過信し、事業に手を出す人、選挙に打って出る人、地域をぎゅうじる人など様々ですが、事業も選挙も役職も失敗のつけは大きいのです。特に事業への投資と選挙での落選は立ち上がれないばかりか、家族の絆をも崩壊させる危険性をはらんでいるのです。彼は事業で失敗したようです。

 鶴見先生から「何かお困りのことはありませんか」と問われたので、「パソコンは用意できたのですがプリンターがなくて」「お茶を飲むことができなくて」と2~3いうと、先生は学科長なので、早速手配をしていただき大助かりで、今日は朝の信号も順調に流れ、男時だと吉と出た出会いに嬉しくなりました。

 昨日は久しぶりに妻が弁当を作ってくれました。大学の周りは郊外のため何かと不案内で、食堂の場所も未だ分からず、そのことを妻に話したところ、「それなら弁当」とばかりに手作りとなったのです。私は妻の弁当が大好きです。油物などの余分なものは入れず、おにぎりと少々のおかずはシンプルで適量でした。ポットに入れた温かいお茶を飲み、外の景色を眺めながらの食事は一人ながら楽しいものでした。

 とりあえず3月まで、忙しいスケージュールの合間に月曜と木曜には無理を押して大学へ出勤し、プログラムを立てています。午後から降り出した春雨にどこか新しい春を感じながら一日を過ごしました。


  「一人部屋 愛妻弁当 食べながら 外の景色に 春を感じて」

  「成功は 自分の力 過信する 事業に手出し 元の木阿弥」

  「信号も 出会いの人も 男時にて 今日はいい日だ 大安吉かも」

  「軽四の トラックに乗り 大学へ はてこの人は 何をする人?」

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shin-1さんの日記

○今日の私が一番若い

 今という一瞬はすぐに過去になって加速度的に自分の元から去って行きます。考えてみれば人間は毎日毎日歳をとる訳ですから、昨日の自分は今日の自分より若いけれども、それは過去のものであって今より若い自分とは出会うことはできないため、「今日の私が一番若い」という考えが成り立つのです。

 先日ある集会で「ひとつだけ望みをかなえてあげると言われたら、あなたは何を望みますか」と質問がありました。私は即座に「若さを下さい」と言いました。そのように人間はいつまでも若くありたいと願うものです。しかし残念かな人間は一分の遅れもなく確実に年齢を重ねていくのです。でも年齢はいくら考えてもどうしようもないものなのですが、心の持ちようで若い気持ちで生きることはできるのです。

 サムエル・ウルマンという人が「青春の詩」という名言を残しています。「青春とは人生のある期間をいうのではなく、心の様相をいうのだ。優れた想像力、たくましい意志、炎ゆる情熱(中略)、こういう様相を青春というのである」。この言葉を聞けば私も分相応な歳にはなっていても、青春まっただ中ではないかと思ったりするのです。

 私が代表を務めるボランティアグループ「21世紀えひめニューフロンティアグループ」は20数年前の結成時、「一年一事業」「社会への揺さぶり」「今やれる青春」という3つのテーマ掲げて活動を始めました。あれから20数年が経ちましたが、20数歳歳をとったけれども、未だに「今やれる青春」という目標はしっかりと持って活動しているのです。

 つい最近気になって仕方がないのですが、歳は若いのにやっていることやいうことが古臭い、いわば「若年寄」という人が結構目立つようです。何の目標も持たずただ生きているだけの若者からは、サムエル・ウルマンのいう優れた想像力や、たくましい意志力、炎ゆる情熱がまったく感じられないのです。

 一方で歳をとっても生き生きと輝いて生きている人を見ると、「若いなあ」と感心したりします。私の周りにはそんな生き方をしている人が沢山いて、こちらも快い刺激を受けています。

 私もこれまでと同じように「今日の私が一番若い」と思って生きてゆきたいと思っています。そのためには今日一日を大切に生きることと、今日の生き方に少し改善を加えなければなりません。脅威を大切にと思う余りに、あてもなく生きたのでは意味がないと思います。例えば若い頃一日に3人以上の人に会いたいと思って実行したように、少し工夫を加えてみるのです。一日二本のブログ書きや一日三枚のハガキ書きなどのスケジュールを考えるとこれ以上のことは自分を苦しめるだけになりそうですが、毎日楽しく生きたいと思う心をもって、もっともっと充実した「若い」人生を送りたいと思っています。

 昨日私の中学校時代の同級生に会いました。60歳でリタイアした彼は退職後何の当てまなく暮らしているようです。他の同級生から風の噂で聞いていた私の生き方を「羨ましい」とため息を漏らしていました。60歳の定年を迎えたとき、彼の妻は花束を用意して「長い間御苦労さま」と言ってくれたそうです。ところが3ヶ月が過ぎると「邪魔だからどこかへ行って欲しい」といわれ、今は奥さんも友人と旅行の方が楽しいらしく、二人の間に少し溝を感じているようでした。その奥さんが先日彼に「あなたも同級生の若松さんを見習ったら」と言われたそうです。その奥さんと私は何の関係もないのですが(笑い)奥さんには私のことをそんな目で見ているようです。

 人それぞれ、人生は世界に一つだけの花なのです。少しだけ嬉しくなりました。(バカ野郎)。

  「エッ今日が 一番若いって 本当なの? そうです今日が 一番若い」

  「いつの間に 禿や白髪に なったのか 同級生も みんな歳とり」

  「歳なんて 関係ないよ 心だよ 俺を見てくれ 今が青春」

  「あの奥さん 俺をそんな目 見てたのか 泣かせる話 俺は感激」

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shin-1さんの日記

○昨日の敵は今日の友

 私はこれまで生きてきた64年の半生を振り返ってみれば、様々な人に巡り会っていますが、その人たちをあえて敵(マイナス)と味方(プラス)、それに中立(ゼロ)に分類すると、殆どの人が敵でも味方でもない中立に位置づけされるようです。子どものころ、青年期、それに熟年の今はむしろ味方のような人がどんどん増えて、敵と呼ぶような人は皆無に近くなりました。 何故このような変化が起こるのか、それはリタイアして利害関係の仕事から遠ざかったためで、今はマイナスな人だと思えば遠ざかればそれで事が済むのです。

 仕事をしていた頃はたとえそれが反対の人であっても、そこから逃れることができず、中には歩み寄るどころか敵と公言をしてその人と対峙しながら様々な反対行動を起こしました。人間は自分を基準に相手を好きか嫌いか、損か得かで判断します。嫌いな人、損のをする人は確実に自分に対してマイナスグループに追いやってしまうのです。しかしそれはあくまでもその時点での判断であり、今になってその人のことを思い浮かべながら、果たして今もその人は敵か味方か判断したら、まあ殆どのマイナスな人は中立化味方になっていて、もう私の周りには敵と呼ぶような人は皆無に等しくなっていることに気づくのです。

 「昨日の敵は今日の友」という言葉があります。この言葉を聞く度に忘れられない出来事があります。私が役場に勤めていた頃、特に夕日によるまちづくりを推進し始めの頃は「夕日なんて何処にでもあるものでまちづくりができるか」と散々言われました。多分最初は100人中99人が反対でした。勿論妻も町長さんも反対のエリアの中でした。それでも夕焼けコンサートを皮切りに様々な努力が実って少しずつみ方が増えて行きました。でもそのように雪解けになればなるほど雪の中から強烈なパワーを持った敵が現れ、目に見えない威圧となって私を悩ませました。シーサイド公園の建設時じは「赤字になったら、人が来なかったらどうするのか」と迫られ、「赤字になったら黒いボールペンで書きます」といって、決定的な敵対関係を作ってしまったことは余りにも有名ですが、あれから20数年の時が過ぎると、その人はむしろ最も自分を理解してくれる人、つまり大好きな味方になっているのですから不思議な話です。勿論妻も町長さんも一番の味方になって、荒波や向かい風から守ってくれた大恩人になっているのです。


 私はそんな経緯もあった半生を越えて今を生きていますが、64歳になった今では沢山の味方に囲まれて幸せな暮らしを営んでいるのです。しかしこれからはそのことに甘んじてばかりでは生きている意味がなく、むしろ味方になっている人々に何かの役に立つようなお返しをしなければならないのです。

 人間牧場を使った様々な活動もその一つで、今では多くの人たちとともに楽しい活動をしています。先日毛虫と呼ぶにふさわしい私と敵対関係にあった人が人間牧場にやってきました。私が畑作業をしていると突然奥さんと二人で何の前触れもなく来たものですから一瞬驚きましたが、彼は私の分まで持参した弁当を広げ、赤々と燃えるストーブの前で言い訳ともとれる様々な話をしてくれました。そしてこれからは仲良くしようと握手をして別れました。蟠りなどなかったといえば嘘になりますが、私にとっても長年の霧が晴れた感じでいい出会いとなりました。

 世の中には肌の合わない嫌いなタイプは必ずいるものです。しかし自分というファインダーを通して見るからそのように感じられるだけなのですから、私の持論である「嫌いな人は好きになる」ことを心がければ「昨日の敵は今日の友」になるかも知れません。


  「敵だった 人も今では 大味方 仲良くなりで 穏やかな日々」

  「大変な 仕事が故に 敵多く 悩まされたな あの人の顔」

  「蟠り 溶けて味方の 握手する 自分の未熟 恥つつ手出す」

  「敵などと 思う人なき 歳になり 丸くなったと 自分を感ず」

 

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shin-1さんの日記

○海の資料館「海舟館」の改修工事

 わが家の庭の隅に設置している、海の資料館「海舟館」の改修工事が行われています。91歳になる親父はよくよく家をいらうことが好きな人間で、暇さえあれば金づちと鋸を持って日曜大工よろしく家の周りのこまごましたところを改造したり修理したりするのです。その姿勢は炬燵の番をするような91歳になっても未だ衰えず、今回も十日ほど前に相談がありました。「倉庫を改造して作った海の資料館海舟館の裏手の土台が少しおかしいので土木業者に頼んで直してもらう」というのです。「止めた方がいい」というと機嫌が悪いので、いつものことながらしぶしぶ同意するのですが、土台の修理となると柱や外壁も直さなければならず、結局は近所で出入りの大工さんに頼んで直してもらうことになったのです。その日から親父はこの寒い季節だというのに外に出て片づけたり医師を動かしたりしながら工事に備えました。毎年このころになると一度は風邪をひく親父が今年は風邪をひくこともなく大張りきりで元気な姿を見るとやはり人間は生きがいを持って生きることだと実感するのです。

 先日親父が私に「工事の代金を払わなければならないので、郵便局へ行って貯金を下ろしてきてくれと印鑑と通帳を渡されました。これまでは目も薄く耳も遠くなったため銀行や郵便局へ行くのが煩わしいため、何かにつけて近所にし住む姉に頼んでいましたが、今は長男である私に大事な貯金を引き降ろす作業を頼むのです。

 50万円以上を下ろすのには手続きが面倒臭いので、免許証を持って行って代理人であることを証明し、49万円を下ろしてきました。土木業者と大工さん、それに近々購入予定の電動時点所の代金なのです。年金で暮らしているため親父の通帳はそんなに多くありませんが、身体障害者のため障害者年金なので多少上乗せした金額が振り込まれているようです。

 まあ自分の金で自分が考えたことをやる自己完結、自己責任ですからとやかく目くじらを立てることもあるまいと傍観していますが、まあ次から次へとやることを考えるものだと、妻も呆れて開いた口がふさがらないようです。


 これも先日お話ですが、電動自転車を買いたいからカタログを貰ってくるよう頼まれ、10万円もする電動自転車を注文することになったのです。妻はもう自転車は危ないからと大反対しましたが、一向に止める意思がないのです。親父の義理の兄が94歳まで自転車に乗っていたことを例に出しながら、まだ5年は乗れると強気な姿勢なのです。

 昨日注文していた自転車屋さんから新車が届いたので取りに来るよう連絡がありました。9万3千円の自転車です。親父が乗らなくなったら私が乗ればいいのですが、それにしても老いてますます盛んな親父には呆れるばかりです。妻が「お父さん、おじいちゃんよりは長生きしてね」と意味深長にいうのも分かるような気がするのです。

 親父の老いと同じように私たち夫婦にも老いは次第に忍び寄ってきていますが、せめて生き方だけでも親父の真似をしたいと思って生きている今日この頃です。

 今朝早く隠居に住む親父がわが家に来て「自転車はいつ取りに行くのか」といわれました。まるで始めて自転車を買ってもらう子どものように目を輝かせていました。


  「九十を 越えても新た 事始め それが元気の 秘訣だという」

  「自転車の カタログ小文字 虫眼鏡 これがいいぞと 息子指示する」

  「通帳と 印鑑渡し 五十万 引き出せ息子 頼んだと」

  「俺よりも 元気な親父 なんぼまで 生きるつもりか 妻も呆れて」

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shin-1さんの日記

○アメーバブログのメンテナンス

 私は、娘婿の勧めでアメーバブログというサイトを使って毎日ブログを書いてます。最初はブログの何であるかも分からぬまま、娘婿に登録をしてもらって始めました。ですから他のサイトがいいなどという友人の話など別に気にもせず、「使用料タダ」という一点に魅せられて利用しているのです。不思議なものでアメーバブログを利用していると愛着が湧き、このサイトのシンプルさや機能が気に入っているこのごろなのです。

 私の場合、アメーバーブログを使ってブログを書く時間は主に朝と夜です。朝はパソコンにスイッチを入れメールの点検と対応をすると、直ぐにアメーバブログに接続します。トップ画面が出てアクセス数などの文字が並んでいますが、そんなものには目もくれずいきなりブログ画面の「記事を書く」に入り書き始めるのです。実は昨日もその予定で朝早く起きました。しかし昨日は月に2回程度のメンテナンスの日である予告をすっかり忘れていて、画面上には「メンテナンス、午前2時から午前7時まで、時間が延長することがある」などの文字予告が並んでいました。「しまった」と思いつつ、原稿を書いたりメールを返信したりして過ごしていましたが、普通だと終了予告時間より早くメンテナンスが終わるのに、昨日は午前7時が午前9時に延長され、午前9時が午前9時半に再延長されて、私の一日の予定が大幅に崩れてしまったのです。

 毎日やるのを日課といいます。そしてそれを続けると習慣になります。日課習慣も4年がくるとそれはもう私の体に染みついた垢のようなもので、中々替えようとしても変わらずその日一日の歯車が狂ってしまうのです。私のブログは少し長めに文章なので、朝一本のノルマが果たさなければ、夜二本となって私の体にノルマが重くのしかかるのです。昨日は長野県南牧村から遠来の友人たちがやって来て一日中相手をしました。夕方から由並小学校の学校評価委員会があって出かけました。夜はえひめ地域政策研究センターの清水さんが、間近に迫った地域づくり人養成講座の打ち合わせにやって来て談笑しました。加えて昨晩は妻が友人仲間との新年会で夕方から出かけたため、風呂も沸かさなければなりませんでした。まあ私の日程はごちゃごちゃとなり、結局はノルマである日本のブログを書き終わったのは12時過ぎでした。書き終えた時はどっと疲れのようなものがこみ上げてきました。お陰で夜はぐっすりと思いきや、浅い眠りに起こされて今朝は少し眠気が残っているようです。まあそれでも一日の時は流れ、今朝もこうしてブログを書いているのです。

 「メンテナンスの時間は何とかならないのだろうか」といつも思います。「タダの情報サイトを利用して偉そうなことを言うなと叱られそうなので少し小声にしておきますが、二週間に一回程度起こる私のささやかなストレスも、まあボケないための処方箋だと思えば諦めもつくのです。

 昨日役所に勤める友人に電話を入れました。その人は私のブログに毎朝アクセスして読んでくれている愛読者です。電話に出るなり「今朝はブログの更新ができていないが何故?」と少し不満の声が聞こえました。「ブログサイトがメンテナンス中で」と理由を告げましたが、こうして毎日私のブログを愛読してくれている人がいるのですから、これからもしっかりと書き続けて行かなければならないのです。さて「次回のメンテナンスは何時だったか」と、転ばぬ先の杖を考えてしまいました。

 今では私の生活の一部となったブログが多くの仲間を作り、その仲間とのメールのやり取りも中々楽しくなっています。アメーバブログのお陰で新しい生きがいを発見しています。メンテナンスはくれぐれも短か目に・・・。

  

  「朝一番 メンテナンスで 狂わされ モヤモヤ二本 何とかクリアー」

  「書いてない 電話の向こう 不満顔 毎朝読んで くれる友あり」

  「朝日課 習慣なりて 四年間 凝り性私 死ぬまで続く?」

  「こん畜生 メンテナンスの お陰など サラサラ忘れ 自分勝手を」

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shin-1さんの日記

○長野県からはるばるお客様

 私の町には年間を通じて沢山の人が視察に見えられます。普通は役所を通して連絡が入るのですが、土日や夕日が見たい時間外になると役所は勤務時間外で煩わしいため、都合が悪いと断るようです。それでも視察がしたいという人は知人友人のつてを頼りに、今ではすっかり自由人になった私に連絡が入り、「それじゃあ受けましょうか」という段取りになるのです。それでも私にはパンフレット類の資料などもなく会議室も借り上げなければならないため、これまた役所の担当者に連絡を取り、極力迷惑のかからない方法で受け入れるのです。

 今日のお客様は長野県南牧村から議員さんたち8人がやってきました。議会事務局長さんと懇意なこともあって、是非人間牧場も案内してほしいと頼まれました。しかし大型バスは入らないため中型バスに変更してもらったり、事前の打ち合わせが大変でした。

 一行は道後に前泊して9時にホテルを出発し10時にシーサイド公園で待ち合わせましたが、私が時間にうるさいことを知っている議会事務局長さんは10分前に現場に到着です。普通双海町を行政視察する場合、町内を視察する場所はそんなに多くはありません。今日はシーサイド公園と現役木造校舎県内最古の翠小学校、それにわが家にある煙会所と海の資料館海舟館を計画していましたが、あいにく海舟館が工事中なのでキャンセルさせてもらいました。シーサイドで道の駅の話や合併後のまちづくりについて立ち話のような形で案内した後、翠小学校へ向かいました。いつも思うことですが翠小学校は和田校長先生以下教職員がいつも温かく迎えてくれるのです。偶然出会う子どもたちもごく自然に振る舞い、嬉しい限りです。今日は和田校長先生がパワーポイントで学校のあれこれを説明いただき、予想もしない楽しい教育談義となり、南牧村の議員さんたちも和気あいあいの視察ができたようです。みんなの姿が見えなくなるまで送っていただいた気配りは皆さんの心に深く残ったようです。

若松進一ブログ (和室での研修会)
若松進一ブログ (和田校長先生の説明)

 私たち一行は、シーサイド公園のレストランが休みのため魚吉さんまで行って昼食をしました。この日はフグのコースの美味しい料理に舌づつみを打ちました。

 やがて瀬戸内の中型バスなので恐る恐る山道を登り人間牧場を目指しました。今日は昨日までの荒れた天気も回復し、まずまずの天気に恵まれホッとしました。市道でバスを降り人間牧場まで歩いてもらいましたが、議員さんたちは山の人らしく足腰も丈夫で助かりました。

 海のない長野県南牧村の人たちにとって、人間牧場からの眺望はどのように映ったでしょうか。それから落伍形式の話を1時間余りさせてもらいましたが、いずれの議員さんも終始熱心で、むしろ私が押され気味のような感じで議論を深めました。久しぶりにいい視察研修ができたと喜んでいます。

 今夜のお宿は道後温泉らしく、酒と日本最古の道後温泉が楽しみですね。

若松進一ブログ (定数8人の南牧村村議会議員の皆さん)

  「牛年に 長野はるばる 善光寺 議員さんたち 牧場集う」

  「海のない 村から海の ある町へ 海の景色は 如何でしょうか」

  「ミュージアム 屋上眺め この地球 丸いと実感 感心しきり」

  「日本一 美味い野菜の できる村 毎年届く 自慢の野菜」

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shin-1さんの日記

○限界集落という言葉は嫌というけれど

 早いもので役場をリタイアしてから3年9ヶ月が経ちました。その間自分が勤めていた頃の役場と、退職後の市役所を比較しながらその落差の余りの大きさに戸惑っているのが正直なところです。役所の中から見るのと一般市民として見るのとでは違うのが当たり前なのでしょうが、それでもどこかに当時の幻影を追い求めながら、言わなくてもいいことを言って煙たがられるのですから、余程お節介に生まれてきているのでしょう。

 昨日は夜、富岡という戸数この集落へ限界集落の勉強会に出かけました。普通こうした勉強会は行政が仕掛けるのでしょうが、これも私たちのお節介で、限界集落の勉強会と称してもう6回目となっているのです。最初は机上のデーターを分析し、限界集落とは一体何かから始めましたが、限界集落のことが限界集落で考えようと、最近は進んで限界集落と称する場所へ出かけ、地元の人の話を聞いているのです。

 伊予市4人、双海町5人の計9人で富岡へ出かけました。今回は双海町が当番なので、私が富岡に住んでいる久保進さんに問題提起のお話をしてもらうようお願いしました。久保さんはかつて町議会議員や町農業委員会会長も務められた博学な方で、奥さんの栄子さんもご一緒に、限界集落に住んで感じることを様々な切り口から話してくれました。


 富岡集落は最盛期24戸もありました。しかし木材、木炭、蚕、かんきつ、養豚と基幹産業が変化する中で時代の流れに翻弄されながら、主流になることもなく昭和45年の台風災害を境に、過疎と高齢化、それに少子化なども追い打ちをかけ、8戸にまで人口が減少し今日を迎えているのです。久保さんの話は要約すると車に乗れる今はいいが、5年後、10年後になったとき、果たして飲料水や道路といったライフラインなどの集落機能が維持できるのか、とても不安だと話されました。

 限界集落という言葉は行政用語であまり好きではないと誰もが言います。しかしそれに代わるいい表現の言葉も見つからないままに、限界集落はさらに厳しい条件を背負って斜陽化の道を転げ落ちているのです。富岡集落では驚くような高齢化率で、最早救う手立ては見つからないというのが正しいのかも知れません。多分行政はそのことすら目と口をふさいで見て見ぬふりをしているのです。

 私たち市民にも今のところ妙案はありませんが、それでもどうにかしたいと思って話し合いや勉強会を持っているのです。


 昨日は久しぶりにいい話が聞けました。やはり現場の声は迫力があります。富岡集落では既に圃場整備も終り、海岸から2キロ余りの川の道沿いには桜や扶養、アジサイ、藤、水仙などが地域の人の手で大事に育てられています。今は水仙が圃場整備の終わった田んぼの斜面にそれは美しく咲いていました。春になるとまるで桃源郷のような美しさを見せてくれるのです。昨日集まった人のほとんどはそのことを知らず、始めて富岡集落を訪ねた人が多かったようですが、春になったら是非みんなで訪ねたいと誘いあいました。

 地域通貨の話や下灘地区に5つもあるお寺をめぐる下灘四国でも開いたらと尽きない夢を大いに語り合いましたが、さて誰がするかとなると思わず口をつぐんでしまうのです。さあ、口を出したのであれば今度は手を出す番です。勿論私も及ばずながらそのお手伝いをしたいと、心を温かくして帰ってきました

  「今八戸 五年十年 先なると 不安が募る 限界集落」

  「気がつくと 諦めよりも 夢語る 姿びっくり 嬉しい話」

  「行政は 当てには出来ぬが 少しでも 話くらいは 聞いてお願い」

  「何故俺が 限界集落 語るのか お節介だと 叱られようが」 

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