shin-1さんの日記

○またもやキツツキ捕獲

 キリシタン大名である大友宗麟の生涯という本を読んでいると、宗麟は人を殺してはいけないというキリストの教えと、大名としてその地位を守るために戦をしなければならない矛盾に随分悩んだことが書かれています。むやみに殺生をしてはならないのは人間として当然の教えですが、生き延びて行くためには自分で手を下さなくても人が殺した牛馬や鳥の肉を食べなければならず、宗麟ほどの深い悩みではないにしても矛盾に満ちた暮らしをしているのです。

 今日も矛盾が発生しました。久しぶりに人間牧場へ出かけました。今日は天気もよく温かいので農作業もはかどりましたが、ふと見上げるとロケーション風呂の軒先に何やらうごめいているのです。見れば防鳥ネットにキツツキが絡まっているのです。

若松進一ブログ

 人間牧場は完成して3年半になりますが、その間に水平線の家やロケーション風呂の外壁はキツツキの餌食になって大きな穴を幾つも開けられました。何とかキツツキが来ないようにとカラスの脅しなどを吊り下げてみましたが、こちらを見透かすようにやりたい放題で、益々ひどくなって行くのです。業を煮やした息子は周りにテグスで出来た防鳥ネットを張ろうと提案しました。人間牧場施設の設計を担当した息子にしてみれば、自分の作品でもあるので当然のことかも知れないのです。息子は穴の空いた場所を大工さんに頼んで修復すると同時に、休日を利用して穴を開けた場所辺りに網を張り巡らせました。

 当分の間は防鳥ネットの効果なのかキツツキはまったく姿を見せなくなりました。私も地元の人から教えてもらった通り、防鳥ネットの切れ端をキツツキの開けた穴に差しこんで行きました。これもキツツキには煙たがられたのでしょうか、効果てきめんでした。

 ところが防鳥ネットを張り穴にネットを入れてから3ヶ月くらいして、一羽のキツツキがネットに絡まって捕獲されたのです。たまたまその姿を見た少年少女おもしろ教室の教育委員会事務局の人が、「可哀想だしこんな姿を子どもたちに見せたくないから逃がそう」ということになりました。結果的にはネットに絡まって死んでしまいましたが、愛鳥などの運動を考えると複雑な気持ちになりました。

若松進一ブログ

 私はそれまでキツツキの被害に遭っているのに、キツツキの姿を目の当たりにしたことはなかったのですが、死んだキツツキはそれは美しい瑠璃色の姿をしていました。しかし口ばしは咎って足の爪は鋭利に出来ているのです。一匹のキツツキを捕獲してから年に4~5羽はネットで捕獲されるようになりました。一回は孫が人間牧場で見つけたため家に持ち帰りねんごろに弔いましたが、こう再々だとそんな弔いもできず、今日も持ち帰ったもののさてどうしようか思案しているところです。今回も割り切ってごみ処分したいと思っています。

  「悪さする キツツキ軒先 ぶら下がり 息も絶え絶え 脚立ではずす」

  「愛鳥の 気持ちはあるが 野放しに すれば悪さを 止めぬキツツキ」

  「瑠璃色の 美し姿 想像も つかぬキツツキ 人に例えりゃ」

  「アカゲラと 別名名乗る キツツキは 赤い冠 被って悪さ」

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shin-1さんの日記

○言ってもらいたい褒め言葉

 心理学の世界のことでしょうが、人間には承認の欲求というのがあって、認められるくらい嬉しいことはありません。特に子どもなどは認められるとそれを自分の得意分野だと思いこんで、どんどんその個性が伸びて行くのだそうです。これは何も人間だけではなく動物の世界でも当てはまるそうで、犬や猫などのペットを手なずけたり、芸当をさせたりする時にも使われる手段のようです。

 私たちが関わっている地域づくりの世界でも、自分の業績が認められ表彰されたり、新聞で紹介されることがよくあります。それを鵜呑みにして自慢し過ぎる人がいるのはいただけない話ですが、それでも何もせずに「あれぐらいなことは誰でもできる」とか、「私もしようと思っていたが先を越された」なんて、人の業績を羨んだり苔降ろしたりする人よりはましですから、自慢話も聞いてあげるべきかも知れません。

 つい最近新聞を読んでいると「言ってもらいたい褒め言葉」という本が出たそうです。まだその本を読んではいないのですが、このタイトルを見て人間の心理が分かるような気がしました。つまり人間は殆どの人がいつも褒め言葉を言ってもらいたいと待っているのです。褒め上手な人はそのことを心得ていて「あなたがこんなことをしてくれたから助かるわ」何て言葉をかけられると、今までの苦労も吹き飛ぶのです。逆に「こんなことして何になる」とくさされると、相手に対する憎悪となってしまうのです。

 昨日のささいな出来事です。仕事が遅かった妻のために私は風呂を沸かしました。家では家事など殆ど何もしない私が風呂を沸かしたのです。そのうち家に帰った妻は休む間もなく夕食の準備に取り掛かりました。洗濯物を取り込み風呂を沸かそうと開けた途端、風呂が沸いていることに気づいた妻は、「お父さんありがとう、優しいのね」と褒めてくれました。60歳を超えた私が風呂を沸かしたくらいで褒めてもらって有頂天になることはないのですが、それでも妻の一言がその夜の食事を美味しくさせました。だから私も「おい、今日の料理は美味いな」と照れ気味に褒めました。妻は「まあ嬉しい。今度はどんな料理にしようかしら」と喜んでくれました。

 もしこれが全く違った言葉だったらどうでしょう。私「風呂を沸かしておいたぞ」。妻「まあ珍しい。雨でも降らなきゃ良いが。風呂ぐらい沸かしたって当然でしょう。私は働いて帰って疲れているのですから」と言われると、多分「ガツン」ときて、私「そんなこと言うのだったらこれから何もしない。お前は人の手助けが分からないのか。このバカたれが」と、ますます険悪な人間関係になるのです。

 相手を思いやる小さな心配りの褒め言葉がどれほど人間関係をよくしていくことでしょう。そう思うと人間は自分がしてもらいたいことは相手もしてもらいたいことなのだと、思って生きることが大切なようです。つまり人は自分を映す鏡なのです。いい生き方をしたいと思えばいい生き方を相手に与えることのようです。人の間と書いて人間と読むのですから・・・・。歯の浮くような褒め言葉はどうかと思いますが、爽やかな褒め言葉が発せられるよう心配りをして生きてゆきたいものです。


  「助かるわ なんて一言 言われたら こいつ良い奴 思ってしまう」

  「褒めながら 褒めてももらいつ 生きて行く 夫唱婦随の 二人三脚」

  「くさすより 褒めて暮らすが 上策と いつも思うが ついつい悪態」

  「こんなこと 褒めてもらって 言いつつも 悪い気しない ささいなお褒め」

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