shin-1さんの日記

○二人のお客様

 最近は一日おきに雨が降り、春特有の「春に三日の日和なし」といわれる諺を実感しています。昨日の朝やっと晴れたと思ったら今日は昼からまた雨です。今朝は妻が昨日買った夏野菜の苗を親父と一緒に植え付けました。私と親父は植える場所も方法もまったく違っているので主張を通し合って時々衝突をします。妻の言うように夏野菜は足しげく気楽に収穫できる自宅に出来るだけ近い場所に植えてくれるよう私に頼んで仕事に出かけたので、その通りしようとすると、親父は連作障害にならぬようにと別の場所への作付け主張します。また苗物は根がまだ十分成長していないから牛糞などの肥料分は活着してからでよいから、出来るだけやらないようにと主張するのですが聞き入れません。結局はその後の世話を主にする父の主張に合わせて穏便にするのですが、親父の頑固さは歳をとる毎年々気難しくなって行くようです。それでも折り合いがついて10時までには、ナス、ピーマン、オクラ、からし、カボチャなどの植え付けを完了しました。順調に育てばこれでまた夏は美味しくて安全な夏野菜が楽しめるのです。

 午後には二人のお客様を人間牧場へ案内する約束をしていましたので、10分前の午後2時20分に待ち合わせ場所の下灘コミュニティセンター駐車場へ出かけました。お二人ともさすが仕事人で10分前までにはきちんと約束場所にと到着していました。

 今日の出会いの事の発端は夢と一枚の名刺から始まりました。

 ・夢のお客様は国立大洲青少年の家の浅野さん

 数日前私は夢を見ました。国立青少年の家に勤める浅野さんに追いかけられた夢です。3月に急な思いつきで青少年の家の所長さん以下職員の方と大洲のとある飲み屋で懇親交流会をしました。その折次の飲み会は人間牧場の水平線の家でやろうと決めていたのです。ところが私の日程が中々空かず決まらないため悶々の日々でした。その心の負い目が追いかけられる夢に発展しようとは夢夢思っても見ませんでした。夢から覚めた午前4時、善は急げとばかりに早速打ち合わせのためのメールを打って来ていただいたのです。先生の目に人間牧場はどう映ったのか分りませんが、早速二日後に8人で7時から交流することを決めて帰りました。

(さすがお二人、まるでお見合いの席のようにお行儀がよいですね)
 ・一枚の名刺のお客様は普及センターの岡山さん

 昨日家のポストに一枚の名刺が入っていました。わが家を訪ねたのに留守だったため、名刺にショ-トコメントを書き込んで帰られたようです。岡山さんはかつて私が町づくりをしている時代に双海町を担当していた生活普及員さんです。知的な方でその指導力はグレードの高い方でした。回りまわって今度の仕事は双海町のグリーンツーリズムを担当するとのことでした。私は今日早速電話を入れました。その折人間牧場の話が話題になりました。一度伺いたいというものですから、有無を言わさず今日午後2時30分の約束をさせてしまいました。多分予定もあっただろうと電話を切ってから反省をしましたが、ツーリズムの今後のこともあるので人間牧場を珍しそうに見学し話し込んで帰りました。

 降って湧いたような私と二人との出会いと、お互い知らない二人の出会いは、新しい可能性を生み出すかも知れません。人は人によりて人となります。パワーを全面の押し出す二人から私は少し若さを貰ったような気がしました。

  「夢に出て 俺を追いかけ 回す人 心の負い目 ネガティブだよね」

  「一枚の 名刺ドキドキ ラブレター 早速電話 会いにおいでと」

  「降り出した 雨もまたよし 久方の 出会い嬉しき 山里の春」

  「まだ生きる 親父の気性 強いから ひょっとしたら 俺より長生き」

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shin-1さんの日記

○人間牧場の道祖神

 人間牧場の入口に大きなヤマモモの木があります。樹齢は不詳ですが私が子どもの頃と少しも変らない大きさであることから考えると200年も超えているのではないかと思われます。幾度か落雷の被害にも遭ったいるようで、黒焦げた後は空洞になっていて、その中から宿った腕首ほどの蔦が梢に向かって絡まっていました。昨日は人間牧場の草刈をしたついでに、杉の木に宿る犬蔦やこの蔦を鎌で切り落とす作業をしました。蔦の生えた木は一見風情があるように見えますが、宿った母樹の栄養分を吸うので母樹の樹勢が弱ることから取り除いた方がよいと判断し、思いきって切ってしまいました。

(ヤマモモの木陰)

 その木霊宿るヤマモモの木の根元近くの広場に小さな道祖神があります。かつてはこの近くを海岸から池久保地蔵堂に通じる大間道が通っていたため、道行く人の安全や祈願のために作られたものと思われますが、昔の人の信仰の深さにはただただ驚くばかりです。この道祖神も誰かが何かの思いで作られただろうし、今も地元の誰かが人知れず守っているのです。

(ヤマモモの木の木陰にひっそりとある道祖神のほこら)

 「適わぬときの神頼み」という言葉があって、人間は病気をしたり失敗すると何かにすがりたい気持ちになります。救いの手が欲しいと一心に祈ることは当然だし、何かの宗教に心酔する気持ちも分るような気がします。私はこの歳まで何とか元気に過ごせたためこれといった宗教を信仰することはありませんでした。でも祈りとは不思議なものだと、つい最近思うようになっています。筑波大学名誉教授の村上和雄先生のテープを聴いてその意を益々深くしました。先生の論によると祈ることで人間のよい遺伝子にONのスイッチが入るのだそうです。心と遺伝子は一見何の関係もないように見えますが、志を持つことでサムシング・グレート(大自然の偉大な力)が人間に働くというのです。自分自身が自分のために祈ることは当然ですが、人に祈られることによってもその人に不思議な力が加わるというのですからこれまた大不思議なのです。しかもそのことが科学という学問で裏づけられようとしているのです。神や仏を信じない愚か者の私にはそんな難しい遺伝子のことなど分るべきもありませんが、何千年と続く祈りについても少し考えてみようと思っています。

 このところ人間牧場に足が向いて、お客様を案内したり農作業に出かけることが多くなりましたが、私はその度に入口の道祖神に手を合わせるようにしています。それは「願い事を叶えて欲しい」という祈りではなく、「今日も一日元気で怪我もなく働けますように」という素朴な祈りや、「今日も一日元気で働かせて下さって有難う」という感謝を込めた祈りなのです。左手と右手を合わせることは神仏と自分の合体です。こんなことを書くと「お前も歳をとったなあ」といわれそうですが、それでも私はいいと思って祈るのです。

 私は昨日この道祖神の周りを草刈機で綺麗に草を刈りました。人間牧場を作る計画でこの地に入った2年前は私の家のみかん畑ながら道祖神辺りは大草で足の踏み込めないような状態でしたが、今は小ざっぱりして写真で見るような道祖神って感じになりました。私はこれからもこの道祖神をの周辺を綺麗にしようと思っています。

  「祈りなど 無縁の俺が 草を刈り 道祖神なる 神をあがめて」

  「歳のせい 言われるほどの 歳になり 両手合わせて 感謝の祈り」

  「荒々し 心いつしか 穏やかに 丸くなったと 妻褒め嬉し」

  「子ども頃 母が祈りし 道祖神 何時の間にやら 私も祈る」

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