〇水仙の花切り
私の友人で年輪塾筆頭塾生の浜田さんから2~3日前に電話連絡があり、どうしても水仙の切花が欲しいので、どこかないだろうかと相談を受けました。例年だとまだそこここに名残の水仙が咲いているのですが、今年は暖冬で例年になく水仙が早く咲き、その後一転雪の降る厳冬で、水仙の花や茎が雪や強風で根こそぎなぎ倒されてしまい、無残な姿になっているようなので、期待は出来ないと答えつつ、それでも探して欲しいという話になり、昨日の午前中浜田さんはわが家へやって来ました。
雪がちらちら降る中を、雪道に強い四WDの私の軽四トラックに、包丁やハサミ等の道具を積んで、お目当ての下浜のわが家の畑へ向けて出かけました。昨日は運の悪いことに人間牧場に通じる市道は、舗装工事のため通行止めで、入口でガードマンにそのことを告げられ、歩いて登ることにしました。この往還道は近年まで池久保の人たちの生活道でしたが、今は通る人もなくなり荒れ果てて歩くことさえ出来ない状態になっていて、別の道を迂回しなければなりませんでした。
記憶に残る雪の積った急な畑道を二人で歩き、やっと目的地の畑に到着しましたが、お目当ての水仙は無残にも雪の重みと強風で倒れていて、その中から僅かに蕾と葉っぱの痛んでいない水仙を探し出し、包丁を入れて何とか切り花をゲットしましたが、浜田さんが欲しい量にはまだ少し足らないようでした。切った花をコモに包んで元来た道を引き返しましたが、この辺りから見える豊田漁港周辺の眺めは絶景で、手持ちのカメラで写真に収めました。
私が子どものころ両親に連れられて、サツマイモや麦を背負って汗をかきつつ足繁く通ったころは、綺麗に耕されていた道沿いの畑も、今は作る人や訪れる人も殆どなく、荒れ放題になっていて、少し寂しい気持ちになりました。やがてこの道もイノシシ専用となる運命を辿るのでしょうが、便利さと引き換えに私たちは大切なものを失っているのかも知れません。かつて蒸気機関車が勢いよく走っていた予讃線の線路を、マッチ箱のような小さな一両編成のジーゼルカーが、のんびりと走っていました。
「水仙の 切り花探し 雪道を 汗をかきつつ 友と二人で」
「少年の 頃に両親 連れられて 背負い子背負って 登った記憶」
「ふるさとの 山や畑は 荒れ果てて 間もなくこの道 イノシシ専用」
「雪の中 水仙探し 切り花を 何とかゲット お手々かじかむ」
追伸、浜田さんはこの水仙を民俗学者宮本常一の水仙忌に、またその後年輪塾で知り合った二宮金次郎の七代目の子孫中桐万里子さんに送るようです。毎年のことながら律儀に水仙を送り続けている浜田さんの行動に大きな拍手を送ります。年輪塾筆頭塾生である浜田さんの、そうしたお手伝いをすることは、塾長の私にとっては当然の支援なのです。