人間牧場

〇元双海町長仲野和さんの思い出(その2)

 私は宇和島水産高校を操業後、同校の専攻科に進む予定で全ての準備を終えていました。ところが時期を同じくして親父がガンに侵され、私が家の漁業を継がねばならなくなり、焦燥の思いで急遽帰郷し家業を継ぎました。8年間漁師として若吉丸の船長となって鯛網をやりながら青年団に入団し、それなりに青春を謳歌しました。朝の早い漁業と夜の遅い青年団活動で体調を崩した私は、意識不明となって松山の病院へ入院する羽目となりました。幸い一命を取りとめ回復はしたものの、重労働は禁物と医師から診断され、約3ヶ月間入院と自宅療養を余儀なくされました。

 私は青年時代、NHK青年の主張の県代表になったり、双海町青年団長、伊予郡青年団長、愛媛県青年団連合会長、愛媛県青年団体連絡協議会長、四国四県青年団連絡協議会長などを歴任して、活発な活動をしていたのを当時の仲野町長さんは傍で眺めていたようで、ある日吉岡産業課長さんが入院していた道後の奥島病院の病室へ、町長に頼まれたと見舞いにやって来て、「町長さんから頼まれたのですが、この際漁業を諦め役場に入って、町のためにあなたの才能や情熱を生かして欲しいそうです」と言われました。今で言うへッドハンティングだったのかも知れない、青天霹靂とも言うべきその言葉を両親に話すと、それもいいかも知れないと私に転職決断を任せてくれました。

 その来歴は自著本「昇る夕日でまちづくり」の冒頭に詳しく書いているので割愛しますが、もし私に目をつけてくれた仲野町長さんがいなかったら、今の私はなかった訳ですから、感謝しても感謝しきれない大恩人なのです。若かった私はこの人のためだったら何でもやろうと思いましたが、当時青年団の指導をしてくれていた中嶋さんは私の心を見透かしたように、「あんたは町長に雇われているのではなく、町民に雇われていることを忘れないように」と諭されました。今にして思えばこの言葉をかけてくれた中嶋さんも大恩人と言えるのかも知れません。

 今でこそ役場や市役所の職員になるには大学を卒業したり、試験をしなければ地方公務員にはなり得ませんが、高卒でありながら試験もしないで役場へ入れる、こんな信じ難い古きよき時代があったのです。町長さんは私の青年活動の様子を見たのか、教育委員会に出向させ公民館主事として第一歩が始まりました。そのころには体調もすっかり回復し、社会教育に生涯をかけようとのめり込み、様々な活動や取り組みは全国的にも注目されるようになりました。このことについても自著本に書いているので割愛しますが、町長さんは私に町の広報を担当するよう命じました。ただでさえ多忙極まりない夜も昼も土日もないような公民館の仕事に加え、月に2回発行しなければならない広報は、教育委員会に出向している職員でありながら、町長の決済を直接受けなければならず、目の回るような忙しさでしたが、月に二回の広報を10年間にわたって執筆した広報マンとしての仕事は、私の後の大きな武器になったことを思えば、凄い出来事でした。

  「病室に 私見舞った 課長さん 町長伝言 誘いの言葉」

  「今にして 思えばヘッド ハンティング 迷った挙句 転職決意」

  「試験せず 口約束で 公務員 好夢員だと 笑って入庁」

  「月二回 広報執筆 10年間 書く武器 使って今も」  

 

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