人間牧場

〇25年目の集会

 私は若いころ病気が元で双海町役場に勤めるようになり、その駆け出しは教育委員会で公民館主事を13年間しました。日本一の公民館主事を目指した13年間の間には6年間も愛媛県公民館連絡協議会(現連合会)の主事部会長として、全国を舞台に活躍をさせてもらいました。その裏側にわが人生一生の恩人である中田豊教育長と、岡島明夫県公連会長の心温まる支援があったことは、忘れることが出来ないのです。
 その恩人二人も既に他界へ旅立っていますが、昨日は岡島さんが初代会長として設立した公民館OB会「公友会」の秋の勉強会が松山の中華料理店白魂で開かれました。懐かしい顔々が集まるこの会には私もこれまでスケジュールが許す限り出席していますが、今年も1ヶ月前に通知をいただいたので予定を変更してもらい出かけました。

 

楽しい語らい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

飲むほどに酔うほどに

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 11時15分からの会合にはシトシト降りの雨の中を、10人ほどが集まりました。去年の春の勉強会はわが人間牧場であったので20人近くが集まりましたが、今回は秋の活動シーズンなので人数は少なかったものの、懐かしい人に会い旧交を温めることができ、嬉しい集会となりました。
 秋の勉強会は総会を兼ねていて、決算や予算、事業報告や事業計画などが承認されましたが、会長である旧魚島村の佐伯真登元村長さんから会長を退任し更新に道を譲りたい旨の提案があり、讃岐幸治愛媛大学名誉教授から古い人と若い人に人脈のある若松さんに会長を」と提案があり、はからずも雨天の霹靂で3代目の会長に就任することになりました。固辞する理由も見当たらないし、25年前この白魂で公友会は産声を上げていて、8月には初代会長の岡島さんが亡くなっているので、すんなり引き受けることにしました。私の提案した副会長に南予大洲市長浜の菊地邦求さん(欠席)と、東予上島町生名の浜田善仁さんを選ばせて貰いました。これまで会長以外役員がいなかった、どちらかというとこの指止まれの会でしたが、これで少しでも公友会を守り立てて行ける体制が整ったようです。早速今日明日にでも旧友の菊地さんに電話を入れて、了解を取り付けたいと思っています。

楽しい先輩や仲間たち
 

 もとよりこの会はOB会なので飛躍的発展をが望めるようなグループではないので、会員自らの鍛錬と楽しみ、それに現職への支援と交流による意思の伝授が大きな役割だと思っています。何が出来るか分かりませんが、一石を投じる気概で頑張りたいものだと思っています。
 私にとって公民館は、私を育ててくれた大恩人であり、恩返し活動は私のこれからの人生そのものなのです。しっかりと腹をくくってお役に立ちたいと思っています。当面は公友会「若手10人衆」を組織したいと考えています。そして若手10人衆で何らかのアクションプランを実行したいと思っています。ただし若手とは年齢要件ではなく心の若さであることも付け加えておきたいと思っています。古い傷をなめあう会も大事ですが、プラスワンの行動が出来ればもうおんのじです。
 現職の時あれほど燃えた仲間たちが、年月とともに何故火が消えたようになるのか、不思議といえば不思議です。歳は誰でもとります。でも大切なのは心の若さなのですから、今一度自分の心の中に潜むもう一人のかつての自分を探し出し、もう一分張り頑張ってみましょう。(長年行動を共にしてきた讃岐先生が、愛媛県教育文化賞を受賞されることが決まりました。おめでとうございます。)

  「はからずも 会長就任 推挙受け 断わる理由 見つからずして」

  「少しでも 恩を返して 生きたいと 決意新たに 就任の弁」

  「財力を 持たない会は 知力しか 発揮が出来ぬ 底力ある」

  「産声を 上げた昔の 会場で 二十五年ぶり これも因縁」

 

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇初七日の念仏

 時の流れは早いもので、妹が嫁いでいる家のお父さんが亡くなってから早くも初七日、一週間が過ぎてしまいました。葬儀の後に初七日の仏事が行なわれ、組内の人が葬祭会館で念仏をあげてくれましたが、初七日から四十九日までは毎週妹の家に集まって午後7時から念仏が行なわれるのです。私も昨日は夕方から松山で所用があって出かけており、出席が叶わないと思っていましたが、用事が思惑以上に早く終ったので急いで引き返し、出席しました。座敷に設えた祭壇には遺骨、遺影、位牌、塔婆などの他に、お料具膳も供えられ、葬儀の時に贈られた盛籠なども飾られて、線香の煙が故人の遺徳を偲ばせてくれました。
 故人となった妹の父親は穏やかな人柄だったため、また親類縁者も多くて沢山の人が集まっていました。線香を手向けてお茶をいただきながら雑談をしていましたが、やがて予定した顔ぶれも全て集まったようなので、5分前に念仏は始まりました。

 私は無信心で未だに般若心経も覚えていませんが、念仏を唱えるために位牌の前に座った妹婿は、経本を取り出していきなり難しいお経をまるで和尚さんのように、朗々と唱えるのには驚いてしまいました。私はそのお経がまったく分からずただ口をパクパクして節に合わせて念仏を唱えるだけでした。やがて念仏が終るとお菓子や果物が出され、ビールも振舞われましたが、車で来ている人が多いので、近所に住む人たちだけが少し飲んでいたようです。
 つい最近は皆さん忙しい人が多いのか、あるいは古いしきたり等知らないし知ろうとしないのか、こうした仏事は次第に姿を消そうとしています。私の祖母や母が亡くなった時は初七日までは毎日、四十九日までは毎週念仏を欠かさずやりました。多分次の機会があってもそのしきたりだけは、後を継いだ長男の務めとしてやらなければならないと思っているのです。

 鉦を叩きながら念仏を唱える田舎の四十九日までの風習は、妹婿のようにお経や念仏を唱える先導者がいないと成り立ちません。はてさてこれから私もせめて最低でも、般若心経くらいは覚えなければと、妹婿の姿に感心しながら思いました。
 わが家の仏壇も息子たちと同居することが決まった時、息子たちのキッチンにある仏壇も、息子はキッチンのリニュアールにあわせて一緒にリニュアールしてくれました。キッチンを引き継ぐことは仏壇も引き継ぐことだと思ったようです。わが家では今回の同居を捉えて仏壇の継承移譲が、何のわだかまりもなくすんなり行なわれました。息子嫁は子育ての合間を縫って仏壇に茶果を供え、懇ろに手を合わせて祈りを始めているようです。孫たちにとって仏壇は少し怖い存在として、子育てに役立ってもらおうとも思っています。

 先日娘の子どもがやって来て内孫と大騒ぎをして遊んでいました。棒切れで座敷の障子に穴を開けてしまいました。障子を破ることをわが家ではご法度としているので、泣き叫ぶ孫二人を私設公民館煙会所の中へ入れました。煙会所の床の間には西土佐村の友人から贈られた鹿の頭部と角が飾ってあります。孫たちはこれがとても怖いらしく、「もうしません。堪えて下さい」と謝りました。仏壇の前に連れて行って「もうしませんから堪えて下さい」と謝らせました。これは会津若松白虎隊の教えにもある、「ならぬことはなりませぬ」という少年教育の真髄なのです。
育爺のささやかなこの教育のお陰で、「おじいちゃんは怒ると怖い」というイメージを持っているようです。仏壇教育が廃れようとしている現代ですが、せめて4世代同居のわが家なので、その効用を活かしたいと思っています。

  「初七日の 念仏唱え 懇ろに 御霊安らか 成仏するよう」

  「近頃は 何でもかんでも 略式で 省く風習 少し誡め」

  「育爺の 味方仏壇 力借り 威厳待たせて 善悪教え」

  「俺はまだ 般若心経 それさえも 暗記もせずに のほほん生きる」 
 

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇コンビニエンスストア

 年中無休で長時間の営業を行い、小規模な店舗において主に食品、日用雑貨など多数の品種を扱う形態の小売店を、コンビニエンスストア(convwnience store)、略称をコンビニ(CVS)といいますが、発祥のアメリカでは「C-Store)と呼ばれています。多くのコンビニは大手資本のコンビニとして展開されている婆が多いようですが、経済産業省の統計業態分類としてのコンビニエンスストアの定義は、飲食料品を扱い売り場面積が30平方メートル以上250平方メートル未満で、営業時間が一日で14時間以上のセルフサービス販売店を指すようです。
 諸説がありますが、1969年マイショップ1号店が大阪豊中市に開店したのが日本の第1号、1972年ファミリーマート実験第1号店が日本初のコンビニ第1号、1974年セブンイレブン第1号店が東京都江東区に開店したのが、日本型コンビニ第1号といわれています。1975年に福島県のコンビニで24時間営業が始まっています。
 コンビニはこのように僅か40年という短い期間に日本各地に設置され、今では振り込み業務や医薬品販売、ATMまで備えて、特に若者の日々の暮らしにはなくてはならないお店になっているようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私のような古い時代の人間してみれば、コンビニは店内が画一的で余り好きではありません。普通の場合左に入り口があって、駐車場に面した通路面に新聞雑誌、次の壁面には飲み物、奥の壁面には弁当などが並び、真ん中には二つの棚があり菓子類、生活用品が整然と並んでいます。入り口左壁面にはおでんや肉まんなど、匂いのするものが置いてあり、否が応でもその匂いにつられて買ってしまうのです。店員さんのレジ対応も親切で早く、あっという間に精算し短い時間で外に出ますが、これが若者の暮らしの日常になっているのです。

 コンビニで買うもので多いのはやはり飲み物と弁当類で、飲み物も弁当も品揃えが豊富で新鮮、しかも手ごろな値段なのでついつい立ち寄ってしまうのです。人から聞いた話ですが、弁当やパン等の食料品には消費期限というのがあって、特に弁当などは24時間が命なので、消費期限の切れたものは全て廃棄処分にしてしまうのです。勿体ない世代の私たちから考えると、地球上には飢えに苦しむ人も沢山いるのにと思うのですが、安心と安全を第一にするコンビニですから仕方がないのかも知れません。
 最近コンビニ業界にも成長の限界のようなものが見えてきたのか、あちらこちらにコンビニの潰れた店舗を見かけるようになりました。それもそのはず郊外に行ってコンビニの駐車場から辺りを見渡すと、2軒くらい別のコンビニが目視できる激戦区だってあるのです。

 夏になると私たちの家の窓には、無数の蛾や虫が光を求めて網戸に集まります。ところが24時間蛍光灯を付けっぱなしにしているのに、何故かコンビニのガラス戸には虫たちが余り集まっていないのです。聞けばコンビニの蛍光灯は特殊なものらしく、虫除け効果があるというのです。通路の巾だって一番奥が10センチ広い等、したたかに計算された顧客の消費動向や、日本人の左回り行動・右利き行動に合わせられていて、脱帽という他はありません。
 コンビニが増えると同時に、田舎のお店は立ち行かなくなって閉店する店が相次いでいます。これも時代の流れなのでしょうが、生まれた時からコンビニのあるコンビニ世代が主流を占めるようになった現代は、私たち古い世代には理解し難、く中々住みにくい世の中になりつつあるようです。

  「どの店も まったく同じ 設えで 同じもの売る マニュアル時代」

  「煌々と 二十四時間 電気つけ 勿体ないと 思う古さよ」

  「コンビニは 何故に虫蛾が 集まらぬ 不思議なことと 思いつ通る」

  「あちこちに コンビニ空き家 ちらほらと 競争激化 水面下では」

 

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇早くも石油ストーブの用意

昨日の朝は雲ひとつない上天気で、放射冷却現象というのでしょうか、今年の秋始めて最低気温が10度を下回り、朝起きて蒲団から出ると「寒いなあ」と実感しました。妻は書斎で過ごす私のために真新しい温々のスリッパを買ってくれ、早くも冬の準備です。冬の準備といえばストーブとコタツです。わが家では毎年コタツは秋祭りから、ストーブは文化の日からを目安にしていて、コタツは電源こそ入れないものの既に今の真ん中でその存在感を示しているのです。ストーブは10月ゆえまだでしたが、昨日の朝の寒さが11月中旬並と報道されたので、少し早い気もしましたが妻のたっての希望で、倉庫にしまっていたストーブを4個出し、被せているビニール袋をはがして、それぞれの部屋へ置きました。しまう時空焚きしていたので、妻はタンクを引き抜いて倉庫に運び、灯油を給油したようです。今朝も少し冷えたようですが、私の部屋はまだストーブを入れるほどではないので、火入れはもう少し先にしようと思っています。

わが部屋にお目見えした石油ストーブ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今年は福島原発事故の影響で、夏や冬の冷暖房に対する国民の意識が変わったのか、電気を使うエアコン暖房より、灯油ストーブで暖を取ろうとする人たちが増えて、灯油ストーブの売れ行きが好調なようです。社会の変化に敏感過ぎるほど反応する国民性は相変わらずで、特に風評被害などには首を傾げたくなりますが、実態は省エネに確実に向かっているので喜ばしいことなのです。
 わが家は今年の5月から同居を始めた息子たちは別として、今年の夏も昨年に引き続き冷房を一回も使わず夏を乗り切りました。私が冷房が嫌いなことと、家の造りや建っている位置が涼しいため、我慢できないほどの暑さではないのです。その分冬の寒さは他の家に比べ寒いのでしょうが、市販の灯油ストーブがあれば充分温かく過ごすことができるのです。

 私が子どものころは戦後間もないこともあって、暖房は火鉢くらいなものでした。洋服もそれほど暖かいものではなく、重ね着しても寒さで鼻水を垂らしたり、手足にはアカギレができていました。「子どもは風の子」なんていわれ、北風がピューピュー吹く中でも戸外で遊んだことが懐かしく思い出されるのです。
 今は蒲団も羽毛で温かく、下着もヒートテックなどという暖かいものが開発され、靴下だって穴が空けば繕い等せず、さっさとゴミとして捨てられるのですから贅沢になったものです。靴下の穴といえば2~3日前、自宅で愛用していた靴下の親指付近に小さな穴が開きました。最近自宅で過ごす時は、5本指のある靴下を愛用していますが、人に見られない部分だけにまだ履けると思っていたのに、目敏くその穴を見つけた妻は「格好悪い」といって、さっさとゴミ箱へ捨ててしまったのです。また日ごろ愛用しているナイキ製の運動靴も足先が少しめくれていますが、もう少し履こうと我慢して散歩に出ています。勿体ない思想世代に生まれ育った私なので、この靴も何となく捨て難い気がしています。

 寒い冬はもうそこまでやって来ています。長期予報だと今年の冬は西日本ではかなり寒そうです。余り無理をせず体調管理には特に気をつけたいと思っていますが、風邪を引かないための体力維持と食生活も大事です。今年は散歩や腰痛体操のお陰でまだ一度も腰痛になっていません。今年は新年早々風邪を引いて難儀をしました。そろそろ寒さで筋肉が緊張する時期だし、風邪も流行の季節を迎えています。気をつけたいものです。
 昨日は風呂に入る前、孫二人がデザートに冷たいヨーグルトを食べたようで、「寒い寒い」といって、私たちの居間に置いてあるコタツ蒲団の中に潜り込んでしばらくの間遊んでいました。風呂に孫たちが発泡葉バブを入れて、孫二人妻と私の4人で暖かい風呂に入りました。数を50数えたら出れる4歳の孫と、10まで4回数える2歳の孫と一緒に入ったため、私はすっかり温まり、出てからも大汗でした。

  「倉庫から 早くもストーブ 取り出して 冬の準備を 着々進め」

  「正月も 後二ヵ月余り なりにけり 時の速さに 驚きながら」

  「靴下に 豆粒ほどの 穴が開く さっさゴミ箱 勿体ないと」

  「孫と風呂 一緒に入る 温かさ ひい・ふう・みいと 五十数える」

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇田舎の常識は都会の非常識

 田舎には都会の人に理解し難いことがいっぱいあります。方言もその一つで、私たちは日常語として使っているのに、時々標準語の世界と思われる東京からやって来た人から、「それ何?」と首をかしげて質問されることだってあるのです。悪ふざけすることを伊予弁で「よもだ」と言いますが、これも東京では通じない方言です。でも私はあえて「方言を話せれば一人前」とばかりに、極力方言を使うように心がけているのです。
 昨日翠小学校の近くでピザ釜を開いている友人の岡田博助さんから、「珍しいものがあるので見に来ないか」というお誘いの電話があり、あいにく所用があって外出前でしたが、軽四トラックを走らせて出かけて行きました。昨日は北東の風がかなり強く吹いて、この秋一番の肌寒い一日でしたが天気もよく、どこか松山の小学校が研究会で臨時休校らしく、何組かの家族連れがピザ焼き体験に来ていました。

幼虫がぎっしり詰まったスズメバチの巣

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ピザ釜には火が焚かれピザ焼きの準備で、岡田博助さんは忙しそうでしたが、火に当たりながら色々な世間話をした後、外の軽四トラックまで誘われました。荷台にはビニール袋に何やら怪しげなものが入っていてうごめいています。中から取り出したのはスズメバチの巣でした。牛の峰山の麓で採集したというその巣には、スズメバチの幼虫がぎっしり詰まって、白に近いクリーム色の幼虫はお尻を震わせ動いていましたが、何匹かは外に出て天日にさらされていました。
 岡田博助さんの話によると毎年この時期になると、スズメバチの巣を取ってくれと依頼があるのだそうです。どう猛なスズメバチは刺されたら命だって危ないのに、岡田博助さんたちはもうすっかり馴れていて、平気で巣を取るのです。何回かテレビでその模様を見たことがありますが、それはすさまじいもののようです。珍しいので松山からピザ焼き体験に来ている親子連れに、声をかけて見せてあげました。最初は遠巻きにして見ていた子どもたちも少しずつ近づいて、幼虫を手の平に乗せてやると、歓声を上げて驚いていたようです。

岡田博助さんに手にとって説明を受ける子どもたち

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実はこのスズメバチの幼虫はフライパンで油いためし、塩か醤油で味付けするととても美味しいのだそうです。「こんな物食べられない」と子どもたちは異口同音に言っていました。幼虫の味を知っている人は佃煮にして味わっているようですが、私もこれまでに何度か勧められたことがあるものの、海沿い育ちに私にはグロテスクな幼虫を知っているだけに、ゲテモノだと思い込んでまだ一度も食べたことがないのです。
 田舎では、特に魚等殆んど食べられなかった山里ではその昔、貴重な蛋白源として炊き込みご飯の具材として、この幼虫を使ったそうですが、今でも岡田博助さんたちは時々食べるそうです。これはまさに都会の人には理解できない珍事なのです。

 

大スズメバチと幼虫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私はアウトドア派で、人間牧場や自宅でミツバチを飼っていますし、毎年何度かミツバチに刺されます。またこれまで無人島キャンプや草刈り作業中に、誤ってスズメバチに刺されたこともあります。ミツバチなど否でないくらいスズメバチは猛毒を持っていて、時には命を落とす人だっているのです。その猛毒を内臓している幼虫は、考えただけでも身震いしそうですが、猛毒を持っているがゆえに精力剤だとも聞きました。精力減退の年齢になって少し増強したい私でも、幼虫だけは気持ちが悪くこれからも、口にすることは多分ないでしょう。失礼ながら岡田博助さんは田舎者、私は都会人(その顔で?、大笑い)かも知れないと思いました。昨日知人から苦汁菜の佃煮をいただきました。苦汁菜を知っている私は、あの苦い苦汁菜が何で食べれるのだろうと思いますが、これも田舎でしか通用しない食べ物かも知れません。

  「スズメバチ この幼虫を 喰うという 田舎常識 理解が出来ぬ」

  「俺だって アウトドアー派 自認する 幼虫喰えぬ 修行が足りぬ」

  「幼虫の うごめく姿 見ていると 食欲減退 友は増進」

  「田舎では 苦汁菜さえも 茶漬け友 都会じゃとても 食えぬ代物」

 

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇この二人一体何者なの?

 世の中には変わった生き方をしている人が沢山いますが、類は友を呼ぶとでもいうのでしょうか、私の周りには変わった人が沢山集まってきます。その殆んどの人は私も含めて、自分では普通だと思っていることそのものが、人から見れば変わっているようです。昨日も元双海町長上田稔さんを介して二人の方に会いました。二人には既にサイコーダイガクという双海で開かれている地域づくり研究会で出会い、前回名刺を交換した折、私の日程に合わせて高野川の偕楽園で昼食をしながら会おうと約束をしていましたが、あいにく昨日は定休日だったようで、急遽伊予市のアイソウという家具屋さんの前のログハウス風喫茶店で11時30分から会うことにしました。私は時間を守ることが信頼関係で一番大事だと思うような古い人間なので、10分前にお店に行きました。上田さんは5分過ぎ、石村さんは30分過ぎ、何と櫻井さんにいたっては50分も後れて、何の悪びれる様子もなくやって来ました。ここら辺が私と違い変わり者のゆえんのようです。

石村さんと上田さん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私と上田さんは親子丼を頼み、軽い昼食をしながら積もる話をしました。新天地を求めて高野川に住んでいる石村さんは名刺にDirectorと書いていました。裏を見ると虫眼鏡で見るような小さな文字で家具、ガーデングッズ、玩具、2×4、リフォームと自宅写真の上に刷り込んでいました。一方櫻井さんはレストランコンサルタンツ竹賢舎代表、裏には自分のACTIVITYが8項目、中には福岡自然農園広報担当などが書かれていました。
 要は二人ともまともに考えれば得体の知れない、果たして何が定職で何で飯を食っているのか分からない怪しげな人物なのです。話し込むほどにこの二人が日本人ではなく地球人、つまりローカルでなくグローバルな人物であることが少しずつ分かってきました。

櫻井さんと私

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人間は相手と付き合う場合得てして、好きか嫌いか、損か得かで判断し、善か悪かでは判断しないものですが、この二人は後者の善か悪かで判断しなければ理解できないタイプのようで、私のフィーリングに少しマッチしているようでした。かく言う私も二人から見ればかなり変わったタイプの人間です。人間牧場などと度肝を抜くような名前のサティアン(ある人が表現)を作って楽しんでいるのです。多分私が35年間お堅い地方公務員だった過去の経歴を聞けば、変人・奇人に見られるのかも知れないと、少しにんまりしながら再会を約束して分かれました。(実は先日松山市と西予市で開かれたものづくり生命文明機構のシンポジウムで伊予の三奇人と言われてしまいました。あとの二人の奇人は一体誰なのでしょうか?)。まあ二人を何の意味もなく、私に出会わせた上田さんもある種変わり者の一人ですから、恋人と読み間違う変人談義はこのくらいにしておきましょう。

 昨日3人と分かれ自宅へ帰ってから、私の繋がる友人についてふと考えました。昔旧丹原町に住んでいるちろりん農園の西川さんが私の勤めていた役場に訪ねて来た折、顎に髭をたくわえ頭にバンダナを巻いた姿を見た若い女性役場職員が、西川さんのことを「変わった人が来ています」と私に告げたことを思い出しました。かく言う若い女性役場職員も髪を茶髪にして耳にピアスをつけて事務を執っていたのですから、「あんたの方が変わり者だ」と言って大笑いしたことを思い出しました。
 人は見かけで判断するものではありません。「何を考え何をしようとして、何が出来るのか」この一転に凝縮すれば人の値打ちは大体分かります。いやはやご立派なお二人でした。

  「人は皆 姿かたちで 良し悪しを 判断するが そうとも言えず」

  「この二人 どちらかいえば グローカル 地球サイズで 実践してる」

  「目先より 遠くを見つつ 生きる人 今の世の中 希少の価値が」

  「意味もなく 出会うことにて 意味生まれ 何か出来そう 多分出来ると」

  

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

屋久島の縄文杉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 〇年輪を重ねる 
 
 先日九州日田市大山町に住む親友の緒方さんとギノー味噌本社を訪ねました。ギノー味噌の田中社長さんとは、私の「裏が味噌」という名刺のスポンサーとなっていただいて、すっかり肝胆愛照らす仲になっているのですが、社長室の壁面に屋久島にある縄文杉の大きな写真が飾ってありました。また室内には屋久杉の年輪衝立が、更には玄関を入ったロビーに大きな大きな切り株まであって、年輪塾を主宰する私としては大いに興味をそそりました。
 
屋久杉の年輪と時代背景
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 写真も年輪も切り株も、年輪塾を主宰して年輪にいささかなりとも興味を示す私の度肝を抜きましたが、特に屋久島を訪れ縄文杉を目の当たりにしていることもあって、田中社長の想いを垣間見る思いでした。
 何年か前、九州に住む友人から縄文杉の写真絵葉書をいただいたことがあります。大事に保存していますが、スキャンしてみましたが、芸術的に撮影した上の写真とはイメージがまったく異なっていました。
 
縄文杉の絵はがき
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 縄文杉は屋久島に自生する最大級の屋久杉で、1966年に屋久町役場の岩川観光課長が発見し広く紹介されました。当時樹齢は4000年と推定され縄文時代から生きていたから、また幹のうねりが縄文土器に似ていることからこの名が付けられたそうです。
 1976年調査で樹齢7000年、その後の調査で古木の周囲を3本程度の若木が融合して包み込む合体木であるという説が浮上して樹齢2700年などと説はまちまちですが、幹周り:16.1m、樹高30m、樹齢推定3000年は気の遠くなるような大きさと樹齢なのです。現在は保護のため杉の周りには立ち入ることが出来ないようになっているそうです。
 世界遺産にも登録され、国指定の天然記念物にもなってるので、いずれ世界遺産を巡る旅を続けているわが21世紀えひめニューフロンティアグループの目的地として、再度訪ねたいと思っています。
 
  「何年か 前に訪ねた 縄文の 杉を再び 見たいものだと」
 
  「物言わず 年輪重ね 生きている 木々の生き方 学ぶことあり」
  
  「一年に 一つの年輪 三千も 刻み続ける 気が遠くなる」
 
  「縄文の 過ぎに比べりゃ 人間は まるで小さな 貝割れ大根」
 

 

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇審査会そして葬儀・法要

 昨日は前日の通夜に続いて妹が嫁いでいる家の葬儀があり、朝早くから大忙しでした。私の予定表の24日(木)の欄には、「西予地域づくりグランプリ審査会(9:00~西予市役所)と書かれていました。納棺が10時からなので迷いに迷いましたが、審査会は新聞社の門田支局長さんとまちづくりコーディネーターの前田さん、それに私の3人だけなので、私が欠席すると審査会が成り立たないので、妹や義弟に事情を説明して審査会に出席することにしました。自宅を朝7時過ぎに出て早朝のことなので地道国道56号線を走りました。昨日は月曜日だったのでスムースに車が流れ、30分前に到着しました。

 

新装なった西予市役所

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 西予市役所は半年前に新築した立派な市役所です。県内の市町が合併のドサクサで未だに右往左往していますが、西予市ではいち早く新しい市役所の建設にとりかかり完成させたようです。玄関を入りロビーで右往左往していると、笑顔の素敵な女性職員が声を掛けてくれました。どこか顔見知りのような気がしましたが、それもそのはず何年か前、今は西予市役所を退職して三瓶の保育園に務めている三好誠子さんが、若い女性職員を連れて人間牧場へやって来ましたが、その中の一人だったのです。
 役所は職員の対応で受けるイメージががらりと変わります。このところものづくり文明機構のシンポジウムや全国過疎問題シンポジウムなどで再三西予市へお邪魔していますが、特に対応した若い女性たちの笑顔の対応は抜群で、とても好印象を持っていましたが、昨日の対応でさらに点数はうなぎ上りで、どこかの市役所のように用件を聞いても無表情で味気ないのとは大違いでした。

 審査会は無理を言ってスピード感を持って進めていただき、1時間弱で終わり素早く高速道路に乗って伊予インターまで一気に走り、11時30分には予定通りルミエールという農協会館へ滑り込みセーフでした。和歌山で暮らしている弟夫婦も相前後して到着し、葬儀の輪の中へ入りました。
 葬儀は午後1時から約一時間、その後斎場へ向かいそこで約一時間半、集骨を済ませて再び農協会館へ戻り初七日の法要を済ませて会食と、スムースに流れました。亡くなったのは妹の嫁ぎ先のお父さんで、97歳の高齢他界なので誰もが大往生だとある意味安堵していましたが、いざお別れとなると寂しく涙が出て泊まりませんでした。特に親身になって最後まで介護した妹の献身ぶりは、口にこそ出しませんでしたが親類縁者が褒めちぎってくれ、私も兄として褒めてやりたい心境でした。いずれ落ち着いたら労をねぎらってやろうと思っています。ビールや刺身を買ってきたりして準備をしたようですが、毎日の日課が午後7時就寝なので夜9時ころ私たち夫婦が弟夫婦と隠居で懇談するころには、背を向けて眠っていたようです。

弟夫婦と喪主を務めた義弟

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 親とは不思議なもので、遠方へ行っている子どもほど気になるようで、いつも身近にいる私など気にしていないような気もしていましたが、弟夫婦にはちゃんとわが家族のこと、私の日常等を話してくれていたようです。弟は奈良県大和郡山市に家がありますが、住んでいるのは弟嫁の実家がある和歌山県古座川町で、今流行の二居住生活を楽しんでいます。今朝は8時ころ帰路に着くそうですが、五人兄弟の一人だけ遠方に住んでいるので、再々会うこともままならず、次に会うのは親父の身に何かが起こった時だと、親父自身が言っているようです。
 時の流れは早いもので、私より3歳年下の弟も既にリタイアし、私より白髪もはるかに多く、弟嫁は私の妻と同年なのでお互い老域を迎えようとしています。これからの人生がいいものであるよう祈っています。

  「西東 右往左往で 日が暮れた 今日も一日 何とか無事に」

  「遠方に 住んでるわが子 帰省する 朝からソワソワ 心待ちして」

  「次に会う 時は俺の 葬式と 親父寂しく 弟に言う」

  「妹を 褒めてやりたい よく尽くし 義父を見送る 姿寂しく」 

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇孫朋樹君がはじめて撮影した一枚の写真

ノッポ・チビ・デカな孫悪ガキ三人衆
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「おじいちゃん、デジカメを貸してくれない」と小学三年生の孫朋樹が唐突に私におねだりするものですから、私もその気になって新しいデジカメを子どもたちが買ってくれて使っていないデジカメを貸してやりました。そして秋祭りで繰り出した獅子舞を見に、家族で出かけました。朋樹は大人のカメラ撮影を見ているのか、教えもしないのに起用にスイッチを入れそこら辺を何枚か写真に収めているようでした。自分の撮影した写真をバックさせて見たいというので、その方法を教えてやりました。
 撮影した殆んどは手振れのせいでしょうか随分ボケていましたが、なかんずくこの写真がいい表情に写っていたので、私の権威あるブログ?(大笑い)に採用することにしました。これで朋樹が撮影した一枚の写真は永久保存?されることになったのです。
 写真のキャプションにノッポ、チビ、デカと書きましたが、ノッポな希心は4歳ですが、真ん中の尚樹より3ヶ月余りも遅く生まれた4歳なのに首一つ抜きん出てノッポなのです。それに比べ尚樹はチビです。それでも幼稚園のお運動会のかけっこは1等賞だったようで、長男希心のおっとりに比べ次男らしくすばしっこいようです。右端の奏心はデカです。小さいながらよく食べるので体に似合わずよく肥えていて、只今4頭身か五頭身のような小太りな体つきです。写真を撮った朋樹も写真に撮られた希心、尚樹、奏心もみんな、只今のところ健康で順調に育っています。
 昨日は悪ふざけをして遊んでいて、希心と尚樹が二階の障子を破り、倉庫に入れられるお仕置きをしてやりました。これは児童虐待ではなくしつけだと心を鬼にして泣き叫ぶ二人を入れました。「もうしません」と詫びを入れ抱き抱えて一件落着です。「ならぬことはなりません」、これは我が家の子どもを育てる掟なので曲げるわけには行かないのです。孫たちにとって只今「おじいちゃんは怖い」存在ですが、余計孫は私にすり寄ってくるから不思議です。
息子嫁が撮影してポストカードにした写真
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 息子嫁が同じアングルで写真を撮っていました。私と孫が戯れているいい雰囲気の写真ですが、天は私の頭が、地は孫尚樹の足がそれぞれ切れていて、少々物足らない写真となりました。それでも自分の子どもである希心と奏心だけは自慢の靴もちゃんと写していて、さすが親馬鹿と感心しました。息子嫁はデジカメ写真をPCで加工してポストカードにプリントアウトしていました。
 
  「わが息子 二人きちんと さりげなく 私は頭 天にはみ出し」
 
  「小三の 孫が写した 写真には 三人の孫 少しふざけて」
 
  「デジカメを 貸してとせがむ 小三の 孫も写真を 撮れる歳なる」
 
  「法被着て 祭り雰囲気 いい写真 孫の成長 記録にとどめ」
 
 
[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇ハレとクモリを使い分けた一日

 昨日10月23日は秋祭りでした。秋祭りは地方祭と呼ばれハレの日です。五穀豊穣を神々に感謝し、敬虔な祈りを氏神様に捧げるのですが、わが家にとっては祭りがハレならば、早朝5時過ぎに妹からかかってきた一本の電話はクモリでした。
 4~5日前から妹の嫁ぎ先のお父さんが危篤状態となっていました。96歳という高齢なこともあって、色々悩んだ末に「自宅の畳の上で死にたい」と常々言っていたお父さん本人の意思を尊重して、自宅で療養を続けていました。幸い下灘診療所のお医者さんが昼夜を問わず何度も自宅へ回診してくれたお陰で、病院に入院したのと変わらない医療が受けられていましたが、ついに力尽きて午前2時30分に天国へ旅立ちました。

 知らせを受けて私は4キロほど離れた妹宅へとりあえず一人で弔問あいさつに出かけました。覚悟はしていたものの妹夫婦の落胆は相当なもので、眠れない夜を過ごしたこともあって芽を赤く腫らしていました。帰宅後そのことを親父に伝えると親父もかなりショックを受けたようで、「いよいよわしの番だ」と寂しくいいました。親父は足腰が少々弱っているものの、まあ93歳の年齢にしては比較的元気で、今も自転車に乗っていますが、「最後のお別れを言いたいので朝飯でも済んだら連れて行ってくれ」と言い出しました。私は親父が比較的乗り易い軽四トラックに乗せて出かけました。杖を突いて歩く親父の姿を見ながら少し小さくなったような感じがしましたが、親父は気丈にも妹のお父さんにしっかりとお別れをすることができました。

悪ガキ孫三人衆

 

 

 

 

 

 

 
 
 
稲田農機具店の前で舞う獅子舞
 
 
 
 
獅子舞を見学する家族

 

 

 

 

 

 

 

 

 昨日はお祭りなので娘たち家族が遊びに来ていて、内孫外孫含めて4人の男の子が何かと賑やかでした。時折やって来る子ども神輿に手を合わせたり、近くのお旅所で行なわれる獅子舞を見に行ったり、不見識とは思いながら、心の整理もつかぬままハレとクモリを上手に使い分けて行ったり来たりしてしまいました。
 残念ながら昨日は年輪塾小番頭松本さんと約束していた、下灘駅での劇団味噌汁定食の演劇を見ることは出来ませんでしたが、事情を携帯電話して許してもらいました。
 夕方6時から通夜式に妻と二人で出席し、今日の告別式の相談などに乗りながら9時過ぎに自宅へ帰って来ました。娘たち家族は帰った後でした。息子と嫁は孫を寝かせた後祭りの片づけをしていました。
 今日は本来なら納棺に立ち会わねばなりませんが、西予市の地域づくりグランプリの審査委員会が予定されていて、人数が少なく外せないため出かける予定です。葬儀は昼からなので、高速道路を使えば何とか間に合うだろうと算段しています。今日も忙しい一日になりそうです。

 

下灘駅での演劇公演の模様が愛媛新聞朝刊5面に掲載されました

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   「ハレ・クモリ 行ったり来たり 不見識 心揺らぐも 仕方がないか」

  「俺の番 いよいよ来たと 言う親父 どこか小さく どこか寂しく」

  「行けなくて ごめん携帯 友に言う 今頃夕日 バック演劇」

  「孫たちと 束の間祭り 体感す 悪ガキ三人 おどけてみせる」

 

[ この記事をシェアする ]