人間牧場

屋久島の縄文杉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 〇年輪を重ねる 
 
 先日九州日田市大山町に住む親友の緒方さんとギノー味噌本社を訪ねました。ギノー味噌の田中社長さんとは、私の「裏が味噌」という名刺のスポンサーとなっていただいて、すっかり肝胆愛照らす仲になっているのですが、社長室の壁面に屋久島にある縄文杉の大きな写真が飾ってありました。また室内には屋久杉の年輪衝立が、更には玄関を入ったロビーに大きな大きな切り株まであって、年輪塾を主宰する私としては大いに興味をそそりました。
 
屋久杉の年輪と時代背景
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 写真も年輪も切り株も、年輪塾を主宰して年輪にいささかなりとも興味を示す私の度肝を抜きましたが、特に屋久島を訪れ縄文杉を目の当たりにしていることもあって、田中社長の想いを垣間見る思いでした。
 何年か前、九州に住む友人から縄文杉の写真絵葉書をいただいたことがあります。大事に保存していますが、スキャンしてみましたが、芸術的に撮影した上の写真とはイメージがまったく異なっていました。
 
縄文杉の絵はがき
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 縄文杉は屋久島に自生する最大級の屋久杉で、1966年に屋久町役場の岩川観光課長が発見し広く紹介されました。当時樹齢は4000年と推定され縄文時代から生きていたから、また幹のうねりが縄文土器に似ていることからこの名が付けられたそうです。
 1976年調査で樹齢7000年、その後の調査で古木の周囲を3本程度の若木が融合して包み込む合体木であるという説が浮上して樹齢2700年などと説はまちまちですが、幹周り:16.1m、樹高30m、樹齢推定3000年は気の遠くなるような大きさと樹齢なのです。現在は保護のため杉の周りには立ち入ることが出来ないようになっているそうです。
 世界遺産にも登録され、国指定の天然記念物にもなってるので、いずれ世界遺産を巡る旅を続けているわが21世紀えひめニューフロンティアグループの目的地として、再度訪ねたいと思っています。
 
  「何年か 前に訪ねた 縄文の 杉を再び 見たいものだと」
 
  「物言わず 年輪重ね 生きている 木々の生き方 学ぶことあり」
  
  「一年に 一つの年輪 三千も 刻み続ける 気が遠くなる」
 
  「縄文の 過ぎに比べりゃ 人間は まるで小さな 貝割れ大根」
 

 

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人間牧場

〇審査会そして葬儀・法要

 昨日は前日の通夜に続いて妹が嫁いでいる家の葬儀があり、朝早くから大忙しでした。私の予定表の24日(木)の欄には、「西予地域づくりグランプリ審査会(9:00~西予市役所)と書かれていました。納棺が10時からなので迷いに迷いましたが、審査会は新聞社の門田支局長さんとまちづくりコーディネーターの前田さん、それに私の3人だけなので、私が欠席すると審査会が成り立たないので、妹や義弟に事情を説明して審査会に出席することにしました。自宅を朝7時過ぎに出て早朝のことなので地道国道56号線を走りました。昨日は月曜日だったのでスムースに車が流れ、30分前に到着しました。

 

新装なった西予市役所

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 西予市役所は半年前に新築した立派な市役所です。県内の市町が合併のドサクサで未だに右往左往していますが、西予市ではいち早く新しい市役所の建設にとりかかり完成させたようです。玄関を入りロビーで右往左往していると、笑顔の素敵な女性職員が声を掛けてくれました。どこか顔見知りのような気がしましたが、それもそのはず何年か前、今は西予市役所を退職して三瓶の保育園に務めている三好誠子さんが、若い女性職員を連れて人間牧場へやって来ましたが、その中の一人だったのです。
 役所は職員の対応で受けるイメージががらりと変わります。このところものづくり文明機構のシンポジウムや全国過疎問題シンポジウムなどで再三西予市へお邪魔していますが、特に対応した若い女性たちの笑顔の対応は抜群で、とても好印象を持っていましたが、昨日の対応でさらに点数はうなぎ上りで、どこかの市役所のように用件を聞いても無表情で味気ないのとは大違いでした。

 審査会は無理を言ってスピード感を持って進めていただき、1時間弱で終わり素早く高速道路に乗って伊予インターまで一気に走り、11時30分には予定通りルミエールという農協会館へ滑り込みセーフでした。和歌山で暮らしている弟夫婦も相前後して到着し、葬儀の輪の中へ入りました。
 葬儀は午後1時から約一時間、その後斎場へ向かいそこで約一時間半、集骨を済ませて再び農協会館へ戻り初七日の法要を済ませて会食と、スムースに流れました。亡くなったのは妹の嫁ぎ先のお父さんで、97歳の高齢他界なので誰もが大往生だとある意味安堵していましたが、いざお別れとなると寂しく涙が出て泊まりませんでした。特に親身になって最後まで介護した妹の献身ぶりは、口にこそ出しませんでしたが親類縁者が褒めちぎってくれ、私も兄として褒めてやりたい心境でした。いずれ落ち着いたら労をねぎらってやろうと思っています。ビールや刺身を買ってきたりして準備をしたようですが、毎日の日課が午後7時就寝なので夜9時ころ私たち夫婦が弟夫婦と隠居で懇談するころには、背を向けて眠っていたようです。

弟夫婦と喪主を務めた義弟

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 親とは不思議なもので、遠方へ行っている子どもほど気になるようで、いつも身近にいる私など気にしていないような気もしていましたが、弟夫婦にはちゃんとわが家族のこと、私の日常等を話してくれていたようです。弟は奈良県大和郡山市に家がありますが、住んでいるのは弟嫁の実家がある和歌山県古座川町で、今流行の二居住生活を楽しんでいます。今朝は8時ころ帰路に着くそうですが、五人兄弟の一人だけ遠方に住んでいるので、再々会うこともままならず、次に会うのは親父の身に何かが起こった時だと、親父自身が言っているようです。
 時の流れは早いもので、私より3歳年下の弟も既にリタイアし、私より白髪もはるかに多く、弟嫁は私の妻と同年なのでお互い老域を迎えようとしています。これからの人生がいいものであるよう祈っています。

  「西東 右往左往で 日が暮れた 今日も一日 何とか無事に」

  「遠方に 住んでるわが子 帰省する 朝からソワソワ 心待ちして」

  「次に会う 時は俺の 葬式と 親父寂しく 弟に言う」

  「妹を 褒めてやりたい よく尽くし 義父を見送る 姿寂しく」 

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