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〇衝上断層を見る

 東日本大震災などがあって、みんながピリピリしている時に地質断層などの話は不謹慎と思われますが、日本列島を東西に分けている糸魚川とともに、日本列島を南北に分けている中央構造線という活断層が私の町を通って海に出て、大分に上陸しているのです。そんな活断層の直ぐ近くに伊方原子力発電所があり、そこから中心円を引くと、私の住んでいる伊予市双海町もギリギリ30キロ県内に入るのですから、福島原発事故や高浜原発の運転休止などの話は他人事とは思えない心配事なのですが、今のところ町内には表立って反対する動きもなく平穏を保っているようです。

 昨日は朝から一日中雨模様で、前線停滞やこの時期としては珍しい台風1号が南西諸島付近にあって、日本列島上陸を伺っているせいもあって、気温が軒並み30度の真夏日を記録し、早くもクールビズの涼しげな洋服の人たちが町中に沢山見えました。

 私は35年間ネクタイ背広で仕事をしてきたため、衣替えの季節でもないこの時期にネクタイや背広を着用しないクールビズにはいささか違和感を感じるし、昨日は砥部町の老人クラブの総会に招かれて講演予定だったので、背広にネクタイの出で立ちで出かけましたが、さすがに蒸し暑く随分大汗をかきました。

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(川のせせらぎの向こうに見える断層が衝上断層です)

 少し早めに家を出て砥部町の衝上断層公園へ足を運びました。私がこの断層を見たのは青年の頃ですからもう40年近くも前のことです。近くに青年団長をしていた平岡さんやその妹さんがいて、何度か断層を見た記憶があるのです。衝上断層が露出している姿は極めて珍しく、国の天然記念物に指定され、今は整備されて立派な公園になっていました。

 地味な地層公園ゆえ訪れる人も余りないようで、この日も見学者は私一人でした。駐車場に車を止め、川岸に沿ってゆっくりと園内を散策しましたが、看板類もあって、とても勉強になりました。何処へ行くにも少し早めに出てプラスワンの気持ちがあれば、珍しいものに出会うものだと、嬉しい気持ちになりました。


 急いで老人クラブの総会会場となっている砥部町商工会へ引き返しました。駐車場は近くの社会福祉協議会だったものですから歩いていると、顔見知りの富そばの店先でご主人に出会いました。三越を脱サラしてそば屋を開いていて、そば好きな私も2~3度食べに来たことがあるのです。近所には中村町長さんの化粧品を売るお店兼自宅があり、奥さんとも挨拶言葉を交わしました。

 総会後の公園は11時から12時まで1時間でした。会場には懐かしい知人友人も沢山いて大いに盛り上がった話をしました。講演が終わるとロビーで船縁談活動を共にした吉岡さんのお母さんや玉井さんが待ち構え、ご挨拶したり、私のために作詞作曲の歌を作って持参した兼光さんに会ったり、いい一日となりました。

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(そば屋富そば)
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(砥部町商工会)
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(老人クラブ総会)

  「衝上の 断層公園 見学す 真夏日なりて 汗を拭きつつ」

  「プラスワン 気持ちがあれば 一つ得 積み重ねたる 百聞増えて」

  「店先でで 馴染みのそば屋 見つけたり 談笑楽し 五月一日」

  「ニコピンに 加えてコロリ 演題で 入れ歯飛ぶほど 楽しい話」 


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〇トイレは文化

 私が始めてトイレを文化だと気付かされたのは、ふるさと創生一億円事業を担当した頃でした。当時全国に3200余りの自治体があり、当時の竹下総理がどのまちにも一律一億円をばら撒くと発言したのです。どの市町村も同じ一億円を使って目立とうと必死になり、あるまちは一億円で金塊を買って展示したり、あるまちは温泉を掘りましたがお湯が出ずに一億円を棒に振って小さな騒動になったところもありました。

 私の町もアンケートや検討委員会で様々な意見が出されましたがまとめきれず、公園整備と人づくり、福祉事業に消えました。

 

 北海道のあるまちでは一億円をかけて公衆トイレを作りました。「トイレなんて汚いものに何で一億円も?」と一般の人は思うでしょうが、その頃から「トイレは文化」であるという認識が日本の各地に広がり、「トイレ文化研究会」なるものも全国にできて活動が始まりました。

 日本はトイレを臭いものと思う程度の文化しかありませんでした。駅や公園のトイレは悪臭がして汚く、時には蚊やハエがいて鼻をつまむような格好で用を足したことだって何度もありました。また旅行に行くとバスの中で鱈腹ビールを飲み、道端に車を止めて旅の恥はかき捨てとばかりに、並んで小便をしている姿は、何ともみっともない日本人の恥ずべき行為なのです。

 わが家にも本宅の一階と二階、隠居、私設公民館煙会所の4ヶ所にトイレがあります。息子と同居する条件として本宅の一階と二階のトイレを和式から洋式に替えたいと提案がありました。私は古い人間なので同じ便座に誰もが座って用を足すことに抵抗感があるのですが、歳をとると足腰膝が不自由になるので今のうちにと、一緒に改修工事をすることになりました。

 とりあえず二階のトイレを直す工事に取り掛かりました。震災の影響で資材が入らず少し時間がかかりましたが、やっと二階の工事が終わりました。息子は設計士らしく凝った造りに造り替えました。これまでのサッシも男女便器も一掃し、二つの部屋を一つにしてそれはモダンで、先日私たち夫婦に一般公開されましたが、まるで別世界のようでした。

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 二階のトイレが完成したので、今度は一階のトイレ工事に取り掛かりました。ゆえに現在は二階のトイレか煙会所のトイレを臨機応変に使っていますが、息子の注文は小便は座ってすることです。便所でそんなゆったりはできないと反論しましたが、老い先短い私たちゆえ、「老いては子に従え」の例えどおり、ただ今小便を座ってする訓練中なのです。

 しかしこれまでのトイレと違って快適で綺麗なトイレに入って過ごす時間は、短い時間ながらとても大切な時間のように思うように思いました。あと4~5日もすれば私たち専用のトイレも出来上がることになり、今からその完成が待ち遠しい感じです。「トイレは文化」という言葉がこれほど身近なものになろうとは・・・。


  「トイレとは 汚い臭い ものでなし 快適空間 わが家出現」

  「老いて子に 教わることも 多かりし でも何となく 違和感ありて」

  「寸借の トイレ使いて 不便なり 早く落ち着く 場所が欲しい」

  「設計の 息子自慢の トイレでき 古民家わが家 少し輝く」

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〇心を磨く100の智恵・その5「人の心は移ろいやすいと知る」

 【人の心は移ろいやすく、人生の道のりは険しい】


 人の情けは紙風船のように軽いと人はいいますが、それでも私は自分の人生において人の温かい情けを沢山受け、それを心の支えにして生きてきました。でも中には日和見や風見鶏のような人も沢山いて、日和や風向きが変わると見方から敵のような言動で追い討ちを掛けるのです。そんな人は再び日和や風向きがこちらに向いても二度と出会うことはないのです。

 私の35年間の地方公務員生活で小さいながらも天上の役職をいただいたのは課長と教育長でした。課長といっても課長の私以外部下がまったくいない一人だけの珍しい課長を9年間の間に3年間過ごしました。その後市町村合併で双海町という自治体がなくなるまでの2年間教育長をしましたが、教育長を含め全ての公職を辞して素っ裸になった時、人の心は移ろいやすいと知ったのです。


 それまで私にへつらうようにお辞儀をしていた学校の先生の中には、私と分かっていても挨拶や言葉を交わさず遠ざかるような態度の人も何人かいたようです。勿論私の教育に対する厳しい言動や、私の人格の未熟さがそうしたのでしょうから、相手を責める訳には行かないのです。そんな先生たちも退職後6年間ですっかりいなくなり、今はむしろ退職して長いというのに、昔のご縁で深い付き合いをしている先生も沢山いるのです。

 私の町の町長さんをしていた人のお父さんは目が不自由でした。ある時部下と一緒に公用車で走っていて、そのお父さんが散歩している姿を見かけました。私は深々と頭を下げて会釈して通り過ごしました。すると部下の若い職員は私の行動に奇異を感じたのか、「あの人は目が不自由です。挨拶しても見えませんよ。あなたは町長さんのお父さんだから挨拶したのですか」と質問されました。私は「町長さんのお父さんだからではなく、一人の町民として頭を下げたのだ。たとえ目が見えなくても心眼は見えるものだ」と格好良く切り返しました。


 確かに町長さんの父さんは目が不自由なので科学的には挨拶しても見えません。しかしある時町長さんのお宅へお邪魔してお父さんと面談した時、「いつも私に挨拶してくれてありがとう」と唐突に言われた時は、ハッとして驚いてしまいました。

 人の心は移ろいやすいと感じるのは一般市民ではなく、むしろ席を並べた経験のある職場の同僚が多いようです。しのぎを削って言い争ったり競争したりした人は辞めた途端に疎遠になりがちです。

 任ゲッは自分の人生において貧乏だったり、左遷されたり、時には病気になったり落ちぶれたりします。そんな時暖かい手を差し伸べてくれた人は忘れられないものです。こうした人の心の移ろいを嘆かず驚かず憤らず、楽あれば苦あり、苦あれば楽ありと泰然自若な平常心を持てるかどうか、自分の心の大きさが試されるのです。辛酸を嘗め尽くしていれば、世の中はそういうものだと思って生きてゆけるのです。

  「人生の 谷底落ちた その時に 手を差し伸べし 人は忘れじ」

  「手の平を 返したような 人もいる 泰然自若 生きてゆきたい」

  「人心 移ろいやすいと 思いつつ ついつい信じ ついつい落胆」

  「心得よ 毀誉褒貶は 人の常 せめて自分は ならぬようにと」 

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〇浜昼顔が咲いています

 昨日の夕方来客を人間牧場へ案内して帰る途中、シーサイド公園の直ぐ横にある灘町海岸で何やら珍しい光景を車の中から目の当たりにしました。私は好奇心の塊のような男なので早速灘町集会所横の駐車場に車を止めて海岸に下りました。見ると砂浜一面にラッパのような花が一面に咲いて、そよ風に揺れているのです。とっさにこの花が浜昼顔だと思いました。淡いピンクの花は何とも愛らしく、ポケットに持っていたデジカメで写真を撮りました。

 ふと島崎藤村作詞の椰子の実」という歌を思い出しました。この歌は民俗学者柳田國男が神奈川県を旅した時の情景を親友の島崎藤村に話し、生まれたものだそうです。

 ♯名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る椰子の実ひとつ 故郷の岸を離れて 汝(なれ)はそも波に幾月♭

 この場所は元々小石と荒砂の浜でした。私が関わって造ったシーサイド公園の人工砂浜の砂が流砂堆積したのですが、この20年間で浜昼顔がこんなに群生するのを見たのは初めてなのです。

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 浜昼顔の種を誰かが蒔いたことは考えにくく、椰子の実と同じように浜昼顔も漂流植物だとしたら納得がいくのです。昨年息子の赴任地であった伯方島へ転勤の荷物を運んだ時妻と立ち寄った道の駅の海岸にもこれと同じような浜昼顔が咲いていたのを思い出しました。

 それにしてもこれだけの群生ですから驚きです。この海岸はこの頃になるとバーベキューなどをする人などで賑わう場所なので、花は踏みつけられてしまうことでしょうが、美しいがゆえに一時期でも保護したいような気持ちになりました。

 今の世の中は足元にこんな美しい浜昼顔が咲いているのに、殆んどの人が目もくれず、花より団子とばかりに踏みつけてしまうのです。


 実はこの海岸にはもう一つ珍しい植物がはびこっています。それは黄色いキンケイソウなのです。これも種を蒔いた人はいないのでどうやら何かの拍子で種を落としたものがはびこったようなのです。キンケイソウは外来の帰化植物なのですが、五月中旬から花を咲かせ、菜の花と同じように黄色い花のジュータンのように咲いてそれは見事で綺麗です。

 池ではブラックバスが、道端ではキンケイソウやセイタカアワダチソウがわが者顔に咲いて、日本の在来動植物を侵そうとしています。キンケイソウは元々国道の法面の切り盛りした場所へ種を蒔いたのが車に乗ってあちこちへ運ばれ増えたものと思われます。良し悪しは別として浜昼顔の次に咲く綺麗なキンケイソウの花を、今年も楽しみたいと思っています。


  「名も知らぬ 遠き浜より 流れ着く 浜昼顔は 今を盛りと」

  「塩水に 強い植物 逞しく 蒔きもしないで 一面はびこる」

  「昼顔の 花など愛でる 人もなく キャンパーたちは 踏みつけ歩く」

  「昼顔と キンケイソウが 咲き誇る 浜は自然に 任せ咲きたる」

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〇地元のウォーキングに孫と二人で参加

 私が住んでいる双海町の灘町という地元では、様々なコミュニティイベントが開かれます。その都度暇を見つけて参加をするようにしていますが、忙しくて中々参加できないのです。それでも主催をする自治公民館や区の役員さんのことを思うと、「忙しい」は理由にならないと思っているものの参加できないジレンマに苛まれます。

 1週間前恒例のウォーキング大会の告知と参加申し込みの回覧板が回ってきました。自分の予定表を見るとあいにくその時間帯は講演打ち合わせのため、わが家へ来客予定が入っていました。早速相手に電話連絡して3時間ばかり遅らせてもらったものの、その後の集会への参加がきつくなってしまったようです。それでも何のとかなって、私と最近同居人になった孫の二人の名前を書いて申し込みました。

 この日はゴールデンウィークの後半で、少し曇っていたものの風もなく、熱くも寒くもない穏やかな一日となり、絶好のウォーキング日和です。両親と別れておじいちゃんである私と始めて参加する4歳の孫希心は、多少不安で参加することをためらっていましたが、参加するとお菓子をもらえることを餌に、小さなリュックと水筒を用意して集合場所の市役所支所前へ9時30分に集まりました。老若男女が沢山集まっていました。この日は同居することになった孫のお披露目でもあるので、見慣れない孫の顔を見て多くの人から声をかけてもらいました。

 主事さんの説明と館長さんの挨拶の後、長い一列になって本郷亀の森まで国道沿いを歩き、三島神社の長い石段を登り、境内で休憩を取りました。三島神社の故事来歴や珍しいコマ亀について説明を求められ、知ったかぶりでお話をさせてもらいました。

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 三島神社から潮風ふれあい公園までの裏道は交通量も殆んどなく、皆さんは沿道のつわぶきを採集したり、他愛のない話に花を咲かせながら楽しく歩きました。最初疲れたことを理由に少々機嫌の悪かった孫希心も、皆さんがよいしょの言葉を掛けてくれたお陰で完歩して、目的地である潮風ふれあいの館へ1時間ほどで到着しました。少しの間休憩した後弁当や飲み物が配られ、子どもはお菓子、大人はビールで酒盛りです。

 孫に弁当を食べさせたり、おしっこでトイレへ行ったり、育爺の役割も大変でしたが、何とか粗相もなく終ることができました。昼食後再び歩いて自宅まで12時に帰りました。孫希心にとっておじいちゃんと二人だけのハイキングは初めてでしたが、楽しかったと両親に思い出話をしていたようです。

 孫希心はただ今五月病で、少し馴れたと思ったら休みが来たり友だちがまだできないため、毎朝保育園へ行く時見送る母親と別れるのが辛いと泣くようです。その妙案として今朝は「おじいちゃんと保育園へ行く」ことを約束させて寝かせました。一夜明けた今朝ははてどうなるか、今から少々不安ですが、早く保育園へ行くのが楽しみになるようにしてやりたいと思っています。


  「孫の手を 繋いで二人 ウォーキング 2時間完歩 頑張りました」

  「春ですね 道端花が 咲き乱れ 話に花も 咲いていました」

  「道端は 遊び道具の 宝庫なり 草笛などで 遊び教える」

  「一年で 一番気候 気持ちよい 春夏葉境 少し汗ばむ」  

 

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〇心を磨く100の智恵・その4「色欲に惑わされない」

 【花や柳があでやかで美しいところでは、それらに惑わされずまっすぐ目標に向かって進もう】

 「英雄色を好む」という言葉がありますが、英雄でもない私でも美しい女性に逢うと,、ついつい顔もほころび心ときめいて、好みのタイプだとよからぬ想像を手前勝手にするものです。特に酒が入ると財布の中身も身の程も忘れ、甘い言葉に釣られて失敗する事例は枚挙に暇がないのです。

 ある漢字に詳しい人から、「色という字の部首は刀である」という話を聞かされたことがあります。凡人の私にはどう見てもカタカナの「ク」の字にしか見えませんが、それが刀を意味するのであれば、世界中の歴史も色恋で抜きで語れないと、テレビのドラマなどを想像し納得したりするのです。

 「女房焼くほど亭主持てもせず」という言葉がありますが、男というものは外で仕事をしたり付き合いをすることが多く、妻の知らない世界での交際が多いのでついつい疑いたくなるものです。背広のポケットに飲み屋のマッチやライターが入っていたり、ワイシャツに口紅がついていたりするとそれはもう大変で、時には夫婦喧嘩に発展し、鍋や茶碗が飛ぶこともありますが、夫婦喧嘩は犬も食わぬし、冷静に考えれば余り心配するほどのものではありません。でも郊外のラブホテルが倒れもせず繁盛しているところを見ると、不倫も疑りたくなるのです。

 下品な話で恐縮ですが、「穴は一つでホールインワン」などとふざけて話す人がいます。妻オンリーをやたらと内外に言いふらしてアピールする、そんな人に限って浮気をしていたりするものです。

 私も下品な話のついでに「酒と女子(おなご)は二合(号)まで」という戒めの言葉を酒の席でよく使って人を笑わせますが、世の中には酒と色恋で人生を棒に振った人の何と多いことでしょう。「色恋は男の甲斐性」などと強がって色恋に走れば、最後に泣きを見るの夫婦だけでなく、被害は子どもに及ぶのですから特に注意をしなければならないと思うのです。

 最近は女性の社会進出が進んで、OLどころか女性の管理職、女性の経営者も増えてきました。着飾った女性も美しいのですが、清楚な会社の制服姿もどこか男性の心情をくすぐるといいます。またキビキビと仕事をこなす上司もどこか魅力を感じるものです。職場での色恋は仕事が絡むだけについついのめり込んでしまう場合がありますのでご用心です。

 世の中は男と女という極めて単純な二種類の人間しかいません。小さくても大きくてもその世界で好かれたいし、優位に立ちたいと思う心は誰もが持つ本能です。でも男女関係にブレーキがかからない人は、所詮幸せを得ることはできないのです。

  「英雄は 色を好むと 言うけれど 凡人私 やはり色好き」

  「色の部首 刀というが 信じれぬ 俺にはクの字 いくら読んでも」

  「色恋に ブレーキかける ことできぬ 人には所詮 信用もなし」

  「顔形 整い過ぎぬ 俺だから 妻も心配 せずに今まで」  

 

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〇ミツバチに刺されたまま講演会場へ

 ゴールデンウィークもやっと終わり、私もいよいよ今年度の仕事が本格的に再起動し始めました。その幸先として昨日は子どもチャレンジ機構八幡浜支部の総会に講演を依頼され出かけようとしましたが、出かける前に越冬し種蜂となった裏山に置いているミツバチの1号巣箱の重さを量ろうと、要らぬちょうっかいを出したのです。ミツバチの井上登師匠から、「採蜜は巣箱を持ち上げて重たく感じないとハチミツが入っていない」といわれているので、今年初めてこの巣箱を持ち上げてみました。巣箱の上に風雨対策のために置いているいる石4個トタン板を除け、持ち上げてみるとかなりの重量が足腰に伝わってきました。内心しめしめと思いながらトタンや石を元踊りに戻したところまでは良かったのですが、鉢の動きが活発で、入り口付近にたむろしていた働き蜂が数匹、頭や顔の周りを攻撃的に飛び交い始めました。

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 この巣箱は掃除のために底板引き出しを開ける度いつも攻撃的なので注意をしていましたが、井上登師匠の「ミツバチは愛情」を心の戒めにしている私としては、ミツバチたちに「大丈夫大丈夫、心配しないで」と声をかけたのですが、2~3匹が頭の髪の毛に止まってしまいました。やばいと右手で払いのけようとした瞬間、注射針を指したようなチクリとした痛みを右手中指に覚えました。見るとミツバチの毒針が刺さっているのです。急いで毒針を抜き指された部分を口にくわえ、毒を吸い出すような仕草をしましたが後の祭りでした。急いで庭の隅に植えているアロエの葉を一枚もぎ取り刺された指先に塗り付けましたが、結局は見る見るうちに指先が赤く腫れ上がり、あられもない姿になってしまいました。人差し指を農作業で負傷してリバテープを張っているので、右利きの私としては、この2本の指が使えないということは致命傷で、パソコンのキーボードも打てないばかりか、手仕事さえもできないのです。しまったしまった島倉千代子です。

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 しかし幾ら手を傷めていても、口は健在なので海岸国道を通りゴゼトンネル経由で5時前会場となっている八幡浜商店街のあたご浜彩館へ到着しました。入り口の駐車場では既に役員さんが待っていてくれ、車を誘導してくれたり、今日釣ったという大きなヒラメを発泡スチロールに氷詰めしていただき、トランクに収めました。

 讃岐先生や村上先生、堺先生、仙波さんなど松山組も参加していて、少しプレッシャーを感じましたが、総会のあと5時30分から予定通り、「子どもとチャレンジ」という演題で1時間ほどお話をさせてもらいました。会場の参加者の中には知り人や顔馴染みの人も多く、汗顔でした。

 やがて懇親会が賑やかに行われました。参加者の中に妻の従兄弟の息子さんがいて、世の中は狭いものだと驚いてしまいました。今日の予定もあるので少し早めに懇親会の会場をお暇させてもらいましたが、いい出会いと深いご縁をいただきました。三崎からかけつけた浅野長武先生にも出会い満足の一日でした。

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 はてさて、ミツバチに刺された指の腫れは今朝になってもパンパンに腫れあがって、終息の兆しはありませんが、痛みはなく試験的に木ボードを叩き、こうしてブログ記事を書いているのです。今日一日で腫れも収まるものと思われますが、今年は巣箱をいらう時は防虫ネットやゴム手袋で身を固め、しっかりガードして作業をしなければと決意を新たにしました。

 この時期に蜂に刺されるようではまだまだ修行が足りないと、井上登師匠が笑っているように思いました。井上登さんは前日の夕方人間牧場へやって来て、2箱入居したミツバチを山奥へ連れて帰ったようで、いつもながらの必殺仕事ぶりに感心しています。


  「春なのに 蜂に刺されて 中指が 使えなくなり 島倉千代子」

  「蜂刺した 中指見つめ まだ修行 足らぬ反省 泣きっ面蜂」

  「指刺した 蜂は今頃 何をして いるのだろうか 少し気になる」

  「指使え なくても口は 舌好調 演題立ちて 思いを喋る」


 

 

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〇シンポジウムの打ち合わせ会

 昨日は健康診断で松山の病院へ行き、検診を終えて帰宅後夕方再び松山へ向かいました。今年10月に予定されているものづくり生命文明機構主催の、シンポジウムの打ち合わせ会への参加と協力を依頼されているからです。県警本部長として産業経済省から出向している岸本さんと、友人の商工会渡辺さんを介して知り合い、身分をわきまえず交流を深めていますが、私の役割も分からぬまま東京第一ホテルで開かれた打ち合わせ会に参加をしたものの、いつの間にかその輪の中に加わって、ない智恵を出して発言し始めている自分を発見しました。

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 岸本さんの話によると、「日本が一万年前の縄文時代に営々と伝えてきた価値観、すなわち生きとし生けるものを等しく尊び、水の循環と生命の循環を大切にする。そういう暮らし方を大事にすることが必要ではないか。日本もわずか50年前まで都会に田圃もあり川もあった。我々の周りには採りや魚や虫が沢山いた。村々には祭りがあり天と地と四季のめぐりに感謝していた。お陰様、お天道様とそういう言葉で日常に感謝して暮らしていた。人間は放漫ではいけない。そういう戒めをもって暮らすことが大切だ」そうです。岸本さんたちが中心になって、生命文明の時代を創造するために全国各地でシンポジウムを開くという趣旨には大いに賛同するのです。


 10月8日・9日の両日、8日は松山市で、9日は西予市でそれぞれシンポジウムが開かれるようです。【生きることは生命を繋ぐこと」という国際日本文化研究センターの安田先生や、森は海の恋人で有名な畠山さんなど、超一流の人たちが名を連ねるシンポジウムは今から楽しみです。

 今回の企画には地元愛媛新聞社が主催に加わりものづくり生命文明機構と共に下支えをする仕組みが既に出来上がっていて、昨日の会合もかなり詰めた話になったようです。

 私はこれまで様々なシンポジウムに関わってきました。小さいわが町のシンポジウムも10年間継続してやりました。また全国大会の実行委員長として先頭に立ったこともありました。その度に心を揺さぶられ、自分の進化に大きな役割を果たしてくれたのです。今回のシンポジウムは私にとってまったく未知の分野であり、ゆえにドキドキするのです。多分それは関わるであろう人との出会いへの期待かも知れません。願わくばスキルをアップして深く関わり、自分の価値観を高めたいと思っています。

 懇親会も楽しい出会いとなりました。


  「久方に 名もなき私 討論の 輪の中入り 楽しく語る」

  「指折りて 出会う予定の 人思う 風の流れを 感じながらも」

  「縄文の 人は武器など 持たなくて 寄り添い暮らす 回帰すべきか」

  「文明を 失くしたことさえ 気付かずに 日本沈没 するかも知れぬ」

 

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〇双海町通り穴のノダフジが満開

 昨日は2ヶ月ぶりの定期健康診断のため、朝食もせずに朝早く県立中央病院へ行きました。考えてみれば2ヶ月に一回は年6回で大した数ではないのに病院へ再々行くようで、2ヶ月目が何時になく早く来るように感じるのは、願わくば病気にかからず健康でいたいと願う、私の弱い心の現われかも知れません。血液検査とエコー検査を済ませ、主治医に内診をしてもらうのですが、血液検査の結果とエコー検査の写真解析を、主治医の前のデスクに置かれたパソコンで見ながら話を聞くのです。

 昨日は血液検査の数値がいつになく良く、先生が褒めてくれました。多分4月は年度当初ということもあり比較的余裕があって、自宅で過ごす日が多かったため、ストレスがその分少なかったのかも知れないと一人喜びました。昨日は連休明けの金曜日とあって病院のロビーは人で溢れていました。予約を取っているはずなのに待ち時間が長く1時間近くも待たされましたが、検査の結果が気になる1時間はやたらと長く感じました。

 会計でお金を払い立体駐車場の5階に置いた車に乗って病院を出ました。昨日は少し南よりの風が吹いて、多少曇り空でしたが温かい一日でした。病院へ行く途中町内小網の通称通り穴付近を通った時、紫色ののだ藤が咲いているのを横目で見て通ったのを思い出し、急な思いつきで立ち寄って見ました。

 今は国道バイパス工事で埋められていますが、ここには青の洞門のような手彫りのトンネルがあった所です。その昔といってもそんなに昔のことではなく、車が普及していなかった明治期や大正期までこのトンネルを歩いて通行していたのです。

 その後この道が県道に昇格して別のトンネルが掘られましたが、近代化遺産調査によるとこのトンネルはかなり古い年代物で、長浜寄りの入り口が四角、松山寄りの入り口がかまぼこ型の半円形をした珍しいものです。

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 私が観光協会の事務局長をしていた頃、小網の大森さんという人から藤棚を作って欲しいと頼まれ、予算もないのに地元の鉄工所へ無理を行って軽量鉄骨を組んで簡易な藤棚を作りました。大森さんはその後ペンキを塗るなどしてこの藤棚を大切にしてきましたが、その甲斐あって綺麗なノダフジが見れるのです。

 通り穴のノダフジの裏には小さな滝があり、案の日などには水が流れています。上には予讃線海岸周りの鉄道が走っているので、どんな幸三になっているのか気になっていますが、まだ一度も確認はしておらず、近いうちに上がって見たいと思っています。

 この季節に咲くノダフジは目の覚めるような濃い紫色をしていてそれは見事で、時折通る地元の人や郵便配達員の赤い単車も、絵になる光景でした。フジの花にそっと花を近づけると甘い香りが漂って、何ともいえない雰囲気になりました。綺麗な水でも豊富にあれば、ここで茶会などを催すか、そうめん流しでもすれば風流だと提案して賛同を得たことはありますが、未だにその夢も実現していないのです。

  「行く春を 惜しむが如く 咲く藤の 濃い紫の 花を楽しむ」

  「咲く花は 愛でて浮かぶ瀬 あるものと たがが一人で されど一人で」

  「この花の 下で茶会か ソーメンを 流してみたい 実現せずに」

  「トンネルの 中でのんびり 一休み 郵便局員 一人楽しむ」

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〇40回目の結婚記念日

 5月5日はご存知子どもの日、国民の祝日です。少子化の影響で子どもの数が減っているゆえ、ことさらに子どもの日の意味を再認識するのですが、子どもを大事にすることと甘やかせて育てることとは別で、豊かな社会ゆえに我慢する心を育てなければと、今年の4月末から同じ屋根の下で同居を始めた二人の孫を見ながら、要らぬお節介の口と手を出しているのです。

 私は一応子育てを終わり、子どもたちはそれぞれの道を独立して歩いています。時にはその歩みがおぼつかなく見えて、これまた口と手を出していますが、そろそろ子どもたちが私たち夫婦のおぼつかない姿を見て、逆に手助けをしたくなる年頃になったようで、何かにつけて声をかけてくれたりと力を貸してくれるのです。

 昨日は私たち夫婦の記念すべき40回目の結婚記念日でした。今にして思えばこの40年間は祖母や母を見送り、家を建て、子どもを育て、仕事に励み、あっという間に過ぎ去った感じがするのです。幸せなことに夫婦や家族が揃って健康で今日を迎えることができたことが何よりも幸せなことだとただただ感謝をするのです。

 昨日は子どもから贈られた温泉入浴券を使って、久しぶりに「そらともり」という東道後の温泉に行きました。温泉といっても別に二人だけで入浴するのではなく男女別々なので、出る時間を約束し2時間ばかりのんびりゆったり温泉を楽しみました。前夜からわが家に泊まっていた孫朋樹を連れての入浴なので目配りをしていましたが、朋樹は家族で度々この温泉を利用して勝手知ったるとばかりに、一人で早々と風呂を出て、休憩室でテレビを見たり本を読んだりしながら自由に過ごしていました。

 昭和45年5月5日は私たち夫婦にとって忘れられない原点ともいうべき日です。夫婦には人に言えない紆余曲折があって、順風万帆なものではありません。時には喧嘩もし、時には悲しみや喜びを分かち合いました。八幡浜から漁村に嫁ぎ、仕事一点張りで留守がちな夫、小姑までいる両親との同居、安月給ゆえのやりくり、隣近所や多過ぎる親族との付き合い、4人の子育てなどドラマにしても絵になるような妻の孤軍奮闘ぶりには、感謝しても余りある出来事なのです。

 昨日は温泉へ少し早めに行き早めに出たので、同行した孫朋樹の要望もあって昼食は時々行く回転寿司へ行きました。孫は手馴れたもので席上のタッチパネルで私たち夫婦の注文を入力して、美味しい寿司を沢山食べました。私の農地を貸している稲葉さんから農地へ鯉幟を揚げる行事に誘われていましたが、息子たち家族が私たち夫婦に代わって招待されたようでした。


 「あと10年したら金婚式だね」と、まだまだ遠い先のことを妻はポツリといいました。10年後夫婦揃って健康で金婚式の日を迎えたいものだと思っていますが、その時私は76歳になります。同じように歳をとるのですから妻は75歳のはずです。一瞬その年齢の多さにためらいましたが、10年後私たち夫婦はどうなっているのでしょう。元気でいれば親父は102歳です。老々介護という言葉さえ現実のものとなりました。老いはもうそこまできています。


  「金婚の その日私は 七十六 一つ違いの 妻七十五歳」

  「よくもまあ 別れもせずに 持ったもの これから先も 二人三脚」

  「子どもの日 結婚記念日と 一緒の日 国旗を立てて 祝ってくれる」

  「また一つ 節目迎えた 私たち 次の節目は 何になるやら」


 

 

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