shin-1さんの日記

〇心を磨く100の智恵・その9「私心にこだわらない」

 【心身が清廉であれば、暗い部屋にいても晴天のような晴れやかな気持ちで過ごすことができる。しかし、心が陰〇であれば、白日の下でも邪悪な鬼のように殺伐な気持ちとなる】


 私心のある人は「今」をテーマにするから、物事の判断を「好きか嫌いか」と「損か得か」で見てしまい、嫌いな人や損をする人から遠ざかるものです。「過去」や「今」はある程度目に見えますが、10年後、20年後、50年後の「未来」となると目に見えないため、余程人徳を積んでないと先は読めないのです。しかし未来のことを「善か悪か」で価値判断するとおおよそ間違いないといわれています。

 嫌いでも多少損をしても、世の中にはやらねばならないことが沢山あって、それが出来る人が私利私欲なき公心の人なのです。

 私心の多い人ほど用心深く、周りの様子を覗いながら隠れるように動き回り、常に策略をめぐらせた言葉を発します。人の言葉の上げ足をとったり、要らぬ噂を流したりして相手を落とし入れようとしますが、世の中はそんなに騙されやすい人ばかりではありません。

 夕日をテーマにまちづくりを始めた頃、その拠点施設としてシーサイド公園を整備することになりました。ある議員さんが大っぴらに反対をし始めました。その折議員さんは「シーサイド公園の整備はみんなが反対している」というのです。勿論町の命運をかけた町にとっては大規模な投資ですから、反対意見や危惧する意見があることは承知していました。しかしそれが「みんな」の意見となると話は別で、再検討をしなければなりません。私は大方の町民がシーサイド公園の整備を望んでいることを、小さな町ゆえ肌で感じていたので、議会で「みんなとは誰と誰か」と反論しました。議員さんが日常的に使う便利な言葉「みんな」とは一体誰なのか、その議員さんも最後は「みんなはみんなじゃあ」で反対の矛先を置いてしまったのでした。


 反対のための反対や、相手を陥れるための私心的言動はいつしか見破られ、信用を失墜するものです。公や他人を第一とし、自分を二の次にするような人間になりたいと常々思っています。私などはまだまだ修行の身ゆえ、一生かかってもそこまでは到達できないと思いますが、少し軸足を移すだけでもいい生き方ができ、人間関係がスムースになるようです。


  「私心捨て 公に生きねば ならぬ人 公務員とは そんな生き方」

  「私欲捨て 人に尽かさば いつの日か 信用されて 楽し生きれる」

  「嫌いでも 損をしてでも せにゃならぬ 未来のために 善悪判断」

  「暗闇で 星は見えるが 昼間だと 明るいゆえに 星は見えない」


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〇叔父の葬儀

 13日の金曜日とはよく言ったもので、私にとっても厄日となったようです。この日は午前中家の裏庭の草を刈っていました。エンジン音を響かせて草刈機の刃の部分に集中していると、周りの声など耳に入ってこないのですが、突然近くで大きな声がしました。エンジンを止めて道に下りると声の主は近くに住む叔母でした。伯母の話だとこの日の朝叔父が病院で亡くなったというのです。

 2年前のこの伯母は夫である叔父を亡くし、昨年は姉である伯母を亡くしました。そして今度は姉である伯母の夫である叔父の死でした。相次ぐ訃報に長兄の親父も少し落胆したようですが、これも世の定めなのでしょうか。


 土曜日は通夜、日曜日は葬儀と週末は慌しく過ごしました。幸いなことに妻も仕事を休まなくて済みましたが、葬儀事は心に重い空気が流れてテンションが下がり中々疲れるもので、昨日は初七日法要や精進落しなど全ての仏事が終って自宅へ帰ったのは午後8時過ぎで、直ぐに風呂に入り、直ぐに床について早めに休みました。私も妻も同居の孫から譲り受けた風邪が完治しておらず、葬儀会館の冷房に当たったせいか、風邪が再びぶり返し、熱はないながら鼻は詰まる、喉は痛いの症状が今朝になっても治る気配がないようです。冬の寒さには一度も風邪を引かなかったのに、この時期に風邪を引くなんて情けない限りです。

 叔父森脇松太郎は若い頃地元の郵便局に勤めていました。退職後は民生委員の総務などをやったり、趣味の書道を続け伯母と孫に囲まれゆっくりと老後の生活を楽しんでいました。息子夫婦や五人の孫の養育の関係で松前町神崎に家を建て移り住みましたが、双海町灘町の自宅も人手に渡すことなくそのままで残っています。

 週末の仏事には久しぶりに多くの親類が集まり、叔父の思い出話や親類の近況など、懐かしい話に花を咲かせましたが、親父の兄弟である叔父や叔母も高齢となって体の不調を訴える人たちが多くなったようです。「次はわしの番かも知れない」などと笑いながら話す姿に人生の侘しさも感じました。

 88歳で亡くなった叔父の戒名は大光院松寿徳道居士でした。法要読経の後住職さんが戒名やこれから始まる仏事にまつわる話を説教してくれました。初七日や四十九日、百日、一周忌、三年、七年、十七年と遠のくものの仏事は限りなく続くのです。お盆や春秋の彼岸などを含めると何と多いことでしょう。最近はこの仏事も随分簡素化されてはきましたが、それでも家を守る人にとってはこれから一苦労のようです。

 長男の嫁である妻も祖母や母を見送り、その都度仏事を取り仕切ってきましたが、何もしない私にできることは感謝の気持ちと、同居し始めた息子の嫁にしっかりと受け継いで欲しい願うことぐらいです。降って湧いた叔父の死は私たちに様々な教えを残してくれたようです。

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 追伸。

 私が最近出版した「夕日徒然草・地の書・水の書・火の書」の題名はこの叔父に書いてもらったものです。間もなく「夕日徒然草・風の書」を、来年には「夕日徒然草・空の書」を出版する予定ですが、叔父が゛書いてくれたものを今後も使う予定です。49日の法要に間に合うかどうか分かりませんが、出来上がれば懇ろに仏前に供えさせてもらいたいと思っています。

  「米寿まで 長生きできた 叔父が逝く 悲しいけれど 世の中定め」

  「頼み込み 本の題名 筆で書く 三冊の本 手元に残る」

  「久方に 親類一堂 集まりて 懐かしきこと 蘇らせる」

  「人の世は はかなきものと 思いつつ 涙流して 最後の別れ」

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〇心を磨く100の智恵・その8「決断は勢いで行わない」

 【高揚しているときほど、他人への約束を安易にしてはならない。酔っているときほど、腹を立ててはならない。有頂天でいるときほど、四方八方に手を出してはならない。厭きたからといって、終わりを疎かにしてはならない】

 人間には長い人生において幾つかの決断に迫られる時があります。若い頃なら決断の重みも案外軽く、たとえ決断して失敗してもやり直しができるのですが、決断には後に戻れない事だってあるのです。振り返ってみれば平凡な田舎に住む私の人生においても、転職の決断、退職の決断、方向転換の決断など幾つかの決断があったようです。決断とは二つの道の右か左か、また進むか引き返すかを決めることですから、判断を誤るととんでもない人生になっていたと思われますが、私の従兄弟で商工会長をした西下芳雄さんが「判断の基準は始める時は周りに相談、終る時は自分ひとりで決める」と教えられ、それを実行したお陰で判断ミスもなくここまで生きて繰られたのですから、この言葉は私にとって金言なのです。

 例えば顔見知りのある人から「保証人になってくれないか」と頼まれます。その人と心許した深い関係であればあるほど頼みは断わりにくいのですが、印鑑を押すということがどういう意味を持っているのか考えなければ、とんでもない印鑑被きで、自分の財産はおろか自分の人生まで棒に振ってしまうのです。金を貸したり印鑑を押す時は神様のようにいうのに、返す時になると悪魔のように言われ、人間関係を損ねてしまうのです。約束する時ちょっと立ち止まり、家族や誰かに相談し客観的に判断してもらうことはとても大事なことなのです。妻の実家は海産物屋を営んでいますが、印かずきにあって財産の殆んどを失った苦い経験があるようです。

 私は若い頃青年団活動をしました。ゆえに選挙がある度に町会議員や町長選挙に出ないかと誘いがありました。その時は酒の勢いもあり、俺もいよいよかと有頂天になっていました。妻にそのことを相談すると、「選挙に出る時は離婚してからにしてください」とばっさり切られ、説得する勇気もなく一度もその誘いに乗らなかったのです。お陰で地位や名誉を手にすることはできませんでした。私の友人たちは市町村長や議会議員に出馬し、地位と名声を持った人もいますが、中には落選して故郷を追われた人だって沢山いるのです。

 酒は酔うためにあるものですが、酒の勢いは自分の判断を誤らせることが多いようです。「酔う」という字の右に卆という字があります。酒の卒とは使い走りのことだそうで、「卆=卒」は終わりという意味もあります。酒は時に品格も道理も失わせ、腹を立てて喧嘩をしたり、人の悪口を言ったり、時には取り返しのつかない誤った決断をしてしまうのです。

 バブル全盛の頃、本業以外のことに四方八方手を出し、バブル崩壊で老舗といわれた屋台骨まで倒産に追い込まれた事例は枚挙に暇がありません。不易と流行という言葉がありますが、不易とは変わらないこと、変えてはならないこと、この本質が分からなければ本当の上司や経営者とは言えず、部下や社員を路頭に迷わせることになってしまうのです。

 私もさすがにこの時期になると、色々なことに多少厭きてきましたが、厭きたからといって終わりを疎かにはできないと、自戒の念を含めて「最後は自分で決める」ことを肝に銘じている今日この頃です。


  「決断を 勢い余って するなかれ 相談すれば 必ずいい智恵」

  「右左 前か後ろか それぞれに 道を選んで ここまでやっと」

  「酒に酔い 要らぬ失敗 したゆえに 酒をきっぱり 止めて元断つ」

  「流行に 乗っていいこと 悪いこと 不易原則 いとも簡単」

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〇年輪塾と二宮金次郎像調査

 私はこれまで、誘われるままに色々な団体やグループに所属して活動していましたが、60歳で教育長を最後に35年間の地方公務員生活を退職したのを機に、えひめ地域づくり研究会議の代表運営委員以外は全ての役職を辞しました。その代表運営委員も4年後に辞して身軽になったのですが、教育長職にあった間大野事務局長に変わってもらっていた21世紀えひめニューフロンティアグループの代表に復帰し、また60歳から一念発起して始めた人間牧場構想の中に、年輪塾を開塾するテーマがあって、自らも年輪塾の塾長となったため、今のところ二つが大きな活動領域なのです。フロンティアグループは会員の高齢かもあって一年一事業なので、そんなに重荷を感じるような役職ではありませんが、年輪塾は現役バリバリの活動なので、盟友清水さんに塾頭をお願いし、米湊大番頭、松本小番頭、浜田1号塾生の力を借りて運営しているのです。

 年輪塾は年輪塾ネットというメール連絡網を清水塾頭が立ち上げてその運営をしてもらっていますが、年に何度か年輪塾を開催したり、運営会議をしたりしながらそれなりに私塾として成長をしていることは喜ばしいことなのです。

 早いもので宮本常一をテーマにした2年間の学習を終え、今は二宮金次郎をテーマにした2期目の学習も2年目を迎えているのです。清水塾頭が自己学習で解読解説した233話の二宮尊徳翁夜話は既にネットで会員に配信され事故学習に入っていますが、今年の秋には二宮金次郎の8代目の子孫に当たる中桐真紀子さんを招いて公開セミナーを開く準備が進んでいて、また清水塾頭のあらし山で移動塾を開いてから始めた、移動塾構想も高知県馬路村や愛媛県大洲市田処へと飛び火しつつあり、成長曲線は順調に進捗しているのです。

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(国立大洲青少年交流の家の新山所長さんと県庁の真鍋課長さんも加わって賑やかな運営委員会となりました)

 今年に入って始めた二宮金次郎像調査は予備調査で県下に180体もの像が確認され、その後の本調査も9割方終って、塾頭の骨折りで第二ラウンドとしてCD製作が始まろうとしているのです。一昨日行きつけの居酒屋で運営委員会が開かれ、進捗状況が報告されました。それぞれの塾生がかかわって作った調査票には様々な様子が書き込まれ、調査のために踏み入れた学校とのやり取りや像のエピソードなどなど、読んだり見たりするだけでもほのぼのとする逸話が短い文章の端々に感じられました。一口に二宮金次郎像の調査といっても、愛媛県は山間地や漁村、離島などもあってかなり広く、その一つ一つの二宮金次郎像に対面しての調査に関わってもらった労苦に深く敬意を表するのです。後は調査補足とまとめというこれまたかなりの作業が予定されていますが、何はともあれ一つのハードルを越えた感じがしました。


 「二宮金次郎は一体何の本を読んでいるのか」、私が小学校2年の時に抱いた素朴な疑問と、それがきっかけで起こった小さな事件は、「二宮金次郎とは一体何者なのか」という大きな疑問へと発展しているのですから、まさにミステリー地味てその行方は興味深々なのです。

 人間は疑問の館のようなものです。頭の中に「何故、どうして?」と疑問を抱くだけで解決せずに通り過ぎるものも沢山ありますが、こうして疑問の本質に向かって学習することはとても楽しいし、ましてやそれが教えとなって人生に生かされるとなれば二重の喜びなのです。幸いこの疑問の館には何人もの仲間がいて、お互いが持っている知識や智恵を学び取ることもできるのです。さあもう少し頑張ってみましょう。


  「金次郎 何の本読む 疑問持つ そこがスタート こんなに発展」

  「何気なく 出会っているが 凄い人 年輪塾の 仲間に学ぶ」

  「進捗の 跡をなぞらえ 垣間見る 一人ひとりに 物語あり」

  「さあ次ぎは 何をしようか 先を読む 塾長仕事 それも大事だ」

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〇家の周りの草刈り作業

 わが家は田舎ゆえ隣接する菜園を含めると660坪もあるのです。わが家を訪ねて来る人たちは異口同音に自然が豊かで、羨ましいというのですが、ここに住んで暮らしていると、人に言えない苦労もあって、特に雑草との戦い、落ち葉の掃除などなど季節ごとに余分な仕事が毎年繰り返しやってきて、少し忙しかったりして手を抜くと、雑草に覆われ、落ち葉が側溝に詰まったりして美観を損ねるのです。

 毎朝晩の親父の日課は家の周りの草を引き、落ち葉を掃除したりしていますが、親父の年齢が高齢になるにしたがってその作業の幾つかが私の役割分担になりつつあり、もうそろそろ性根を据えて代替わりを意識しなければならなくなりました。

 昨日は朝早く人間牧場へ行き、古い草刈機を持ち帰って家の裏の長い長い斜面の草刈りをしました。先日妻が新しい草刈機をプレゼントしてくれましたが、新しい草刈機は安全第一に設計されているため、斜面や石垣の多い場所での草刈りには不向きで、結局古いタイプの草刈機の機嫌を取りながら草刈りを行いました。

 昨日は風が少し強くて気温も上がらず、加えて前夜の雨で草が濡れていたため、草刈り機の切れも抜群で作業効率がよく、午前中で殆んど作業を終えました。草刈り作業は慣れていないため正直なところかなり疲れます。お百姓さんなどはこの時期になると毎日のように草刈り作業をするようですが、改めてえらい仕事だと思います。

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 昨日は松前町に住む叔父が亡くなったという知らせを受け、草刈り作業を中断して急遽駆けつけました。88歳の生涯でしたが、今晩通夜、明日葬儀と週末は忙しくなりそうなので、これから残りの草刈をしてけじめをつけたいと思っています。

 草を刈った後の斜面はとても気持ちがいいものです。刈った草を集めて畑に入れ、側溝を熊手で掃除をしてすっかり綺麗になりました。今年は何回草を刈ればいいのでしょうか。多分これで梅雨を向かえ、梅雨明けに一回、夏の終りに一回と最低後2回は刈らねばなりません。これも私の仕事としてすっかり定着していますが、やがてそろそろ今年から同居することになった息子にも、教えてやりたいと思っています。


  「今年また 草刈りシーズン やって来た 広いは良いが 広過ぎ困る」

  「草刈機 鈍い音立て 地面這う まるで散髪 したよな仕上がり」

  「雑草は 植えぬが伸びて 大弱り 野菜なんぞは 植えても育たず」

  「暇を出す 予定の古い 草刈機 もう少し働き もう少しお役に」

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〇孫希心の五月病と風邪のプレゼント

 今年の4月にわが家の近くの保育園に入園した孫希心は、保育園へ楽しそうに行くであろうと思いきや、どういう訳か入園して1ヶ月にもなるというのに、朝になると保育園に行きたくないと泣いてぐずるのです。最近の子どもは状況に直ぐに馴れるので1ヶ月も泣く子は少ないのだそうですが、悪がきなのに何故か朝だけメソメソするのです。何か特効薬はないかと思い、母親に代わってこの一週間は私が時間を見計らって送り迎えしてみました。夜寝る前、「明日は誰と保育園へ行く」と私が聞けば、孫は「おじいちゃんと」と答え、「指切りげんまん?ついたら針千本飲~ます。指切った」などと元気に約束するのですが、残念ながら朝になるとぐずり、まあ少しは進歩の跡が見られますが、今週も他の園児のようにニコニコ笑顔でとはいきませんでした。


 孫のこうした行動を五月病というのだそうです。若い大人でも学校や会社へ故郷や親元を離れて一人暮らしを始めると、ホームシックになるのです。やっと馴れたと思う頃ゴールデンウィークがやって来て、また心が元に引き戻され、学校や会社に行きたくなくなったり、無性に寂しくなるのです。

 孫希心も保育園に入園することを楽しみにしていましたが、保育園へ入園するため父親の故郷へ帰郷して、これまで同じマンションにいた遊び相手がいなくなり、近所にはまだ一人も遊び相手がいないのです。加えてわが町は過疎の町なので、今年入園した5人の子どもは、男の孫を除けば4人全てが女の子なので、これまた心を許しあえる友達がいないのです。孫の保育園へ行きたくない五月病の原因はどうやらその辺にあるようなのです。

 家に帰るころには元気で「ただいま」と大きな声で帰るので、「お帰り」と迎えてやりみんなで楽しかった保育園での出来事を聞くのです。少しずつ心の扉が開いてきたようで、五月病もやがて解消することでしょう。

 孫は保育園で様々なものを貰ってきます。その最たるものは言葉と病気です。今まで喋ったこともないようなふざけた言葉を言って、エッと驚かされたりしますが、これも子ども社会の大事な学びなのです。数日前から孫が保育園から風邪を貰ってきました。その風邪は弟奏心に移り、母親や私たち夫婦にまで感染しました。私たち夫婦はこの冬一回も風邪など引かなかったのに、温かくなったこの時期に風邪を引くとは思いませんでした。孫の持って帰った風邪は強烈で、熱・咳・鼻水の三拍子が揃っているのです。保育園から帰った孫は母親がうがいと手洗いを励行させていますが、私に移すとは大した度胸です。

 孫二人の風邪は峠を越えたものの、母親と私と妻の風邪は今がピークです。特に母親はかなり酷く昨日は近くの病院へ点滴をしに出かけたようです。注射と薬が大の苦手な私は妻の薬を貰って飲まされましたが、自家製のカリン酒のお陰で咳は収まりましたが、鼻水は相変わらずでティシュペーパーを沢山使っているのです。

 それでも風邪を移されようとも、「じいちゃん、ばあちゃん」と傍に寄ってくれる孫の存在は何かホッとして、今では孫がまるでペットのような役割を果たしてくれているのです。同じ屋根の下に住み、言葉を掛け合い、同じ物を食べる同居人の孫の存在は、私たち夫婦の生きがいになりつつあるようです。

 ただ今朝6時のチャイムがなり始めました。孫が2階から降りて来て、「おじいいちゃんおはよう」と元気な声で私の書斎へやって来ました。孫は今日から土日の2連休、また週明けには多少ぐずることでしょう。


  「泣きべその 孫はただ今 五月病 なだめすかして 毎日大変」

  「お土産に 貰ったものは 風邪でした 家族全員 お裾わけされ」

  「孫言葉 何処で習って きたのだろう 意味が不明で 聞き返したり」

  「お早うと 朝一番に やって来る 孫の挨拶 嬉しかりけり」

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〇心を磨く100の智恵・その7「過去の過ちを根に持たない」

 【人の小さな失敗を責めたてない。人の秘め事を暴かない。人の過去の悪事を蒸し返さない。この三つを守ることで徳が備わり、人から恨みを買うこともない】

 人は多かれ少なかれ過ちを犯しながら、それを反省したり肥やしにしたりしながら生きてゆくものです。過ちを犯そうと思って過ちを犯す人は殆んどいないし、犯した過ちを早く忘れたいと思っているのに、何度も何度も掘り繰り返されたら、掘り繰り返した人に対してよからぬ印象を抱いて、人間関係を損ねてしまうのです。

 私は青年時代に一度だけ、スイカ泥棒をしました。仲間と酒を飲んで酔った挙句悪ふざけて、近所の畑へ入りスイカを2個盗んだのです。盗んだスイカを海岸に持って行き、まだ半熟で熟れていないスイカを棒切れで叩き割って大いに盛り上がりました。

 明くる日酔いから冷めた私たちは、「赤信号みんなで渡れば怖くない」の群集心理で、とんでもない事をしたことに気付きましたが時既に遅しで、畑の持ち主がえらい落胆をしている話を聞きました。その夜みんなで集まり何とかしないと警察沙汰になったら大変と、ポケットの小銭を拾い集め、近所の八百屋でスイカを2個買い、スイカ畑へそっと置いて帰りました。

 さあそのことが明くる日から近所のちょっとした話題になり、スイカ泥棒は誰だったのか、別のスイカを畑へ置いたのは誰なのか、田舎ゆえ噂話は大いに盛り上がりました。忘れたいと思えば思うほどスイカの話は口伝えに広がりましたが、いつの間にか夏の夢物語はその後何事もなかったように終息したのです。

 今はその畑も作っていた老夫婦が天国へ召されたため荒れ果てていますが、その畑のそばを通る度にわが心が傷むのです。もう40年も前の出来事ですが、今も仲間内で酒を飲むとヒソヒソ話でスイカ泥棒騒ぎのことが語られますが、この話を素材にして後に青年団の演劇が上演されました。私はスイカ泥棒の首謀者扱いされて演劇の台本に出され上演されたのですから、たまったものではありません。

 仲間しか知らない秘め事を暴かれたり、小さな失敗をいつまでも責めたてられたり、蒸し返されると穴があったら入りたいような心境になり、そのことをいつまでも覚えて語る人を、できるだけ避けるようになるものです。一事が万事過ちを根に持たないことで得は備わり、人から恨まれることもないのです。

  「若い頃 起こした過去の 過ちは 忘れたいけど 忘れられない」

  「スイカ取り 買ったスイカを 元戻す 馬鹿な考え 今も可笑しい」

  「悪ふざけ 悪気はないと いいつつも 悪いことには 変わりないから」

  「蒸し返し 暴いて責める ことすれば 人に恨みを 買う気をつけて」

  

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〇香川県高松への旅

 旅といえるかどうか分かりませんが、昨日は雨の中講演のため松山から特急いしづちに乗って高松へ行きました。天気がよければ自家用車でとも思ったのですが、台風1号の影響で日本列島に前線が居座り、あいにくの雨模様だったので、松山駅の直ぐ前のキスケ駐車場に車を置いて、列車に乗り込みました。JR四国では高松往復の切符を買えば駐車場利用料金が24時間無料なのです。

 松山駅発午前7時19分の列車は岡山へ向かうしおかぜ号と高松へ向かういしづち号が、連結して瀬戸大橋の袂にある駅まで走るのです。

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(車窓に広がる瀬戸内海備讃瀬戸の海と島影)
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(少し雲のかかった讃岐富士)

 列車の旅はのんびりできて、高松までの約2時間半は本を読んだりうとうと寝をしたり、時には物思いに耽ったりしながら随分とリラックスできました。雨は小降りで松山から高松までは左手に瀬戸内海が広がり、小雨や霧が立ち込めてまるで水墨画の一幅を見ているようでした。

 丸亀付近では金比羅山から見える讃岐富士が綺麗に見えました。香川の山々は何故かお椀を伏せたようななだらかな山が幾つも見えて、車窓を眺めるだけで結構楽しいものです。指定席の一両はがら空きで、席を移動して手持ちのデジカメで何枚か移り行く姿を撮りました。

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(自治会館の窓から見えた高松屋島)


 高松駅からは980円のメーターで会場となる福岡町の香川県自治会館までタクシーを利用しました。エレベーターで7階に上がり講師控え室へ案内されました。午前中の講義は既に始まっていて、メンタルヘルスケアーの講義がお医者さんによって行われていました。

 私の講義は少し中途半端な10時45分から12時15分までの90分でした。香川県内の自治体から課長さんが80人余り集まっていました。まちづくりや人づくりなど行政が取り組まなければならないテーマや心構えを思いつくまま話しましたが、反応は上々のようでした。

 朝が早く、昼も講演が終わると直ぐに駅まで引き返し、折り返し列車にタイミングよく乗ったため朝食も昼食も食いっぱくれてしまいましたが、このところエネルギーオーバー気味だったので、調節の意味で良い一日となりました。

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(香川県市町村課長等研修会)

 しかし便利な世の中になったものです。朝家を出て高松で仕事をして、午後4時にはわが家へ着くのですから、四国も距離的には変わらなくても時間的には狭くなりました。それでも四国は一つといいながら四国四県にの風土や習慣はまったく違っていて、特に香川は平地が多くコンパクトな県なので、受ける印象は様々なのです。帰ると偶然でしょうか香川の友人溝渕雅子さんからしょうゆ豆と美味しいうどんが届いていました。妻は早速うどんを茹でて食卓へ用意してくれました。朝食も昼食もできず、小腹ならぬ大腹が減っていたため、うどんを沢山食べて満腹でした。


  「墨絵見る そんな感じの 風景を 車窓眺めて 高松への旅」

  「送られし うどん茹きて 食卓に 大好物だと 舌鼓打つ」 

  「何事も なかったように 夕方にゃ 自宅に帰る 便利世の中」

  「往復で 二時間読書 できました あとはうたた寝 のんびりな旅」

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〇日暮れ恋歌

 一昨日、砥部町老人クラブ西地区の総会に出かけて、講演が終わるといきなり一人の方が立ち上がって近づいて来られました。何やら見覚えのある方ですがもう長い間顔を見ていなかったため、すっかり忘れていました。記憶の糸を手繰りながら、その人が役場在職中福祉関係の機器納入業者であったことを思い出しました。私にとってこの方は縁もゆかりもないのですが、保健婦さんの話によると作詞作曲が大好きで、双海町の歌を作ったから聞いてくれと自作自演のテープを渡されたことが一~二度あったのです。

 そのテープも退職のドサクサでなくなりましたが、歌は演歌調で中々のものだったと、おぼろげながら記憶しています。さてその方は私に一枚のコピー用紙を手渡たされました。そして司会の方にここで歌いたいからマイクを貸して欲しいと頼んでいたようですが、残念ながら12時を過ぎて昼食時間となっていたので、断わられたようです。私も先を急いでいたので、「ありがとうございます」と言葉を添えて握手し会場を後にしました。

 社会福祉協議会前の駐車場まで歩いて行き、手渡された歌詞を見ると、「♪日暮れ恋歌♪、平成7年6月作曲兼光明」と書かれていました。

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 平成7年6月という期日からすると今から15年前で、私は地域振興課長としてシーサイド公園の整備や運営に携わっていました。多分私がかつていただいた歌詞とテープによく似ていると思いました。今日も老人クラブ東地区の総会に出かかる予定なので、事務局の方に住所を聞いてお礼のハガキを出したいと思っています。そして願わくばテープに吹き込んだ自慢の歌をいただきたいものです。

 降って湧いたような出来事でしたが、記録にとどめるべくスキャナーでパソコンに取り込みました。


 それにしてもよくできた歌です。歌詞の中には双海の特徴である夕日夕焼け、波、カモメ、漁火、小船、潮の香り、蛍、川の流れ、花などがこれでもかというほどちりばめられていました。今時演歌は古いと思われますが、私にとってはこの上ない喜びなのです。喜色満面な兼光さんの笑顔が頭の中で思い出されました。


  「講演が 終わりいきなり 歌詞持ちて 手渡す初老 見覚えありて」

  「そういえば 十五年前 歌テープ 貰ったけれど 今は何処かへ」

  「歌詞言葉 双海の自然 ちりばめぬ 恋歌一度 聞きたいものだ」

  「あの人も 私もかなり 古人間 昭和は遠く なってしまった」

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〇心を磨く100の智恵・その6「順境では注意深く逆境では悩まない」

 【逆境にあるときは、すべてのことが良薬となる。志や行いが知らずうちに磨かれていくからだ。順境にあるときは、武器をもった兵に取り囲まれたようなものである。知らずうちにその身は殺ぎ落とされていく。】

 私は凡人ゆえに順境な時は有頂天になります。逆に失敗や反対にあって逆境に逢うと深い悩みの淵をさまようのです。でもこの歳になるとさすがに有頂天になるようなこともなく、また失敗や反対も殆んどないので余り悩みませんが、人は反対や学校を超えた数が多いほど逞しくなるものです。

 私が町名変更問題の責任を取らされて、教育委員会から産業課へ職場を変わらされ失意に沈んでいた頃、二人の人から色紙が届きました。一人は静岡県にする全公連理事だった朝比奈博さんです。朝比奈さんから届いた色紙には、「ぼうふらも 人を刺すよな 蚊になるまでは 泥水すすり 浮き沈み」と書かれていました。私の境遇をぼうふらと蚊の人生に見立てての励ましの言葉でした。今はぼうふらのように泥水をすすっていきているが、その泥水が栄養となり、やがて人を刺すような立派な蚊になれよと諭したこの言葉に、どれ程勇気を貰ったことでしょう。

 もう一人は県公連会長の岡島明夫さんからでした。「今は充電期間」と、まあ分かりやすい4文字熟語です。それまでは日本一の公民館主事を目指すだの、日本一の町をつくるなどと随分粋に燃えて突っ張り、突っ走っていたのです。そんな気負いから落胆している私を見て、少しゆっくりと自分や周りの状況をを見つめて休む、「充電期間」にするよう諭してくれたのです。この言葉も私の心に余裕や再起動の気風を起こさせてくれたのです。

 以来順境の時は注意深くなりました。また逆境にあった時も、逆境の次には必ずいいことがあると信じて仕事をするようになりました。私の35年間の公務員生活はまさに七転び七起きでしたが、最後の一起きが加わったお陰で、八起きのハッピーエンドで終ることができたようです。

 順風満帆の居心地の良さは慢心となり、傲慢な言動を生むものです。それは自分では中々気付かないもので、すでに堕落の道が始まっているのです。また失敗や反対に遭い失意のどん底にある時、失ったものを探して無駄な時間を過ごすより、挫折を乗り越えた経験をポジティブにイメージして事に当たれば何とかなるものです。必死で吹きまくる向かい風に向かうのではなく、くるりその身を反転すれば向かい風は追い風となるのです。

逆境には逆らわずこれも天から与えられた試練だと思い、「仕方がないと」と諦め、務めて明るく振舞うことこそ肝要です。人間は失敗の数程大きく逞しくなるものです。

  「逆境で 悩むな言われ そうしたら 意外や意外 希望生まれる」

  「七回も 転んだけれど 七度起き 最後一回 起きて成功」

  「逆境で 諭しの言葉 くれた人 恩人ゆえに 終生忘れじ」

  「助けられ 今度は俺が 人助け 恩返しして 人生終ろう」

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