shin-1さんの日記

○今年も多くの異文化ギャップを体験しました

今年1月8日に講演に出かけてから一昨日の12月21日まで、ほぼコンスタントに一ヶ月10回の割合で出かけた講演もやっと無事終わることができ、昨日から長い冬休みに入りました。リタイアして5年、自由人とはいいもので、自分で休みが取れるのですからこの上ない幸せです。昨日の夜は妻と二人で始めた貯金箱を開け、ささやかで小銭ながらわが家のボーナス日になって、妻もホクホク顔のようでした。

 今年も沖縄へこそ行かなかったものの県内は勿論、北海道から九州まで多くのまちやむら、団体やグループから沢山のオファーをいただき訪ねることができました。卓上カレンダーのメモを見ながら訪ねたまちやむら、出会った人々の顔を思い出していますが、今年一番の思い出は何といっても2月にオホーツク海で流氷に出会ったことです。そのことを自慢したくて流氷の上に立った写真をハガキにプリントして、100枚も出したのですから余程嬉しかったようです。マイナス15度の世界も合わせて体感しましたが、9月には再び北海道を訪れ多くの人と再開することができました。

若松進一ブログ
(オホーツク海流氷の上に立った私)

 また一昨日には高知刑務所へ話しに行くという、これまた今まで経験したことのない場所での講演が実現し、知らない世界を垣間見ることができました。高く張り巡らされた塀の中から見える視界は意外と狭く、ましてやそこで暮らす受刑者は一般社会と完全に隔絶されていて、罪を犯した者のみが知る孤独や不自由な暮らしを強いられているのです。高知刑務所は再犯の人を収容する刑務所だそうですが、無銭飲食も詐欺罪で金のない放漫な人間は寝ぐらとあご(食事)の確保できる刑務所は、むしろ路頭に迷うシャバよりはましという意識が働き、罪の意識もないまま再犯を繰り返すのだそうです。所長さんに案内されて刑務所の中を見せていただきましたが、「人間の生き方とは何ぞや」と異文化ギャップを感じさせられた貴重な体験でした。

若松進一ブログ

(高知刑務所での講演)

 今年10月末に釧路へ夕日シンポジウムに招かれて出かけました。世界三大夕日と豪語している街へ、日本一美しいと自認するわが町の夕日を引っ提げて殴り込みをかけましたが、夕日のをテーマにしたまちづくりを長年やってきた私にとって、ここにきて久しぶりに壮大な夕日への挑戦を始めようと眠りかけていた記憶を蘇らせたギャップでした。

 予定されていた夢の扉の取材も、美しい夕日の見えるころにしようと延期になっていますが、夕日に関する私の潜在能力はまだまだこんなものではありません。鍵のかかったままの夢の扉をしっかりと開く決意をして、来年以降につなげたいと思っています。

若松進一ブログ
(釧路丹頂空港から見えた夕日)

 かくして今年も100回余りの講演は無事終わりました。かつて青年の船で訪ねたアメリカで、世界地図の真ん中に日本のない世界地図を見て驚いた異文化ギャップほどではないにしても、今年も多くの異文化ギャップを感じることができました。訪ねたまちやむら、出会った人々に感謝しながら、既に新しい年の卓上カレンダーには早くも講演依頼が舞い込んでいる歳の瀬の今日この頃です。


  「旅をして 異文化ギャップ 感じねば 成長進化 止まるぞお前」

  「わが旅は マグロのような 生き方だ 泳ぎ続けにゃ 呼吸が止まる」

  「来年と いう名の年が 近づいて 今年総括 新たな決意」

  「また一つ 加えるけれど 減ってゆく 足して二で割る 元の木阿弥」

 

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shin-1さんの日記

○町長さんと二人三脚の日々

 昨日は5期20年に渡って双海町長を務められた丸山勇三さんの葬儀に参列するべく、JAルミエールという葬祭ホールに出かけました。同じ町内ゆえ受付には知人友人が沢山いましたが、米湊さんや松本さんも応援に駆け付け、さりげなく受付で働いてサポートしている姿に、頭の下がる思いがしました。

葬儀には知名度を誇った人らしく各界の人たちが顔を連ね、サイドの両側にも沢山の献花が並んでいました。既に一線を退いている私は、葬儀に出席する場合いつも心に決めているのは、公職肩書や名刺のないリタイアはリタイアらしく末席に座ることです。しかし昨日はどういう訳か後ろの席が詰まっていて、一般席の中ほどしか空いてなく、仕方なく空いている席へ座りってしまいました。人間は葬儀の席へ行くと自分の今や過去を振り返り、また列席者の顔ぶれや個人との付き合い程度を考えて、自分の席を暗黙のうちに決める習性があるのだと聞きました。人は他の人より同列以上でありたいと願ったり、自分の値打を欲しがるものなのです。議員さんなどは選挙という一票の重みを知っているだけにその気持ちは顕著で、前の席を求める必然性を持っていて、無理からぬところもあるのです。

 やがてご導師さんが入場し葬儀は始まりました。澄んだ声で女性の司会の方が故人丸山勇三さんの功績などをさりげなく澄んだ声で紹介し始めました。その言葉を聞きながら遺影を見つめていると、在りし日の町長さんの姿が思い出され自然に涙が出てきました。この町長さんとは5期のうち4期16年も一緒に仕事をしてきたのです。町名変更騒動のゴタゴタもあって、責任を取る形で産業課へ異動を命ぜられて3年余りが過ぎたある日(1986年10月23日の午前中)、私は町長室へ呼ばれました。その日は秋祭りの日だったので、私は休暇を取っていましたが、22日の夕方、「明日の朝町長室へ来るように」と町長秘書から町長の伝言が届いていました。町長室へ入ると、いきなり「あんたが町長だったら何をしたいか?」と聞かれました。私は即座に「人づくり・拠点づくり、町民総参加のオンリーワンづくり」と、藪から棒の質問に熱弁で一気に答えてしまったのです。「よし分った。そのことを思う存分やってください」。「明日10時から小会議室で幹部会を開いて異動の内示をします。11月1日から企画調整室で町づくりの仕事をして下さい」と内辞の内辞を口頭で伝えられました。


 産業課で沿岸漁業構造改善事業の仕事に夢中になっていたし、下灘漁協荷さばき所に続いて上灘漁村センターの工事が始まろうとしていた矢先のこともあって多少ゴタゴタもしましたが、私は町長さんに提案した3つのことを1986年以来、教育長就任で退職した2003年3月までの17年間、町長さんと二人三脚の町づくりを進めてきたのです。そんな思い出に浸っていると、いきなり司会の女性が私の名前を語るので、とっさにわれに返りました。葬儀のナレーションに名もなき私の名前を入れていただくなどまるで青天の霹靂で、穴があったら入りたいような心境になりました。読経を聞きながら、市長さんの弔辞を聞きながら、町長さんの在りし日を偲び、最後のお別れにも花を手向けて合掌しました。

 つらくて悲しい葬儀が終わって自宅に帰ってから、書斎の書棚からしまい込んでいた自分の過去の卓上カレンダーを引っ張り出してめくりましたが、町長さんの顔が浮かんでは消えて涙が止まりませんでした。少し暇になったら町長さんの思い出も記録にとどめたいと思いました。


  「ナレーション いきなり私の 名前出て 青天霹靂 顔を赤らめ」

  「納棺の 顔を拝みて 手を合わす 手向けし花に 囲まれ町長」

  「懐かしき 顔々揃う 葬儀場 ひそひそ話す 思い出話」

  「何故こんな 場所で死んだか 思いつつ 通り過ぎたる バックミラーに」


 

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