○二宮金次郎の銅像
私の町には小学校が三校ありますが、その翠小学校と由並小学校二校に二宮金次郎の銅像があります。確か私の母校である下灘小学校にも私が小さいころ手の折れた二宮金次郎の銅像が建っていましたが、その像がいつの間にか野口英世に変わっていました。野口英世は教科書にも出てくる歴史上に名を残す人なのですが、二宮金次郎となると町内に二つも銅像があるというのに、その素顔や銅像の建ったいわれなどについては意外と知られていないことに驚くのです。
左手で本を読み、背中には焚き木をしょっている二宮金次郎の姿はちょんまげを結っていることもあってとても凛々しいのです。しかし二宮金次郎を見ても現代の子どもたちは果たしてこの銅像が何を訴えているのか、教育をしてこなかった学校や先生の不徳も垣間見ることができるのです。
昨日友人の豊田渉さんからかまど開きのお礼状がメールで届きました。豊田さんはメールに添えて以下のような新聞記事のスクラップを送ってくれました。私も独学の結果どうにか送られてきた写真や資料をこうして使うことができるようになったのです。平成2年この記事によると松山に住む山内さんという方が5年間県内各地の小学校を訪問して金次郎の銅像を写真に収め写真集まで発行しているというのですから驚きです。
年輪塾でこれから始めようとしている二宮尊徳シリーズの手始めに、県内各地の二宮金次郎の銅像を調べようという矢先のことだったので、いい道しるべになったと内心喜びましたが、私たちはもう少し手の込んだ調べ方をしなければならないと秘策を練っているところです。その節は二のみゃ金次郎の銅像に関する情報をお寄せくださることを願っています。
先日このブログにも書きましたが、私の友人高橋啓一さんの案内で突然訪ねた西条市千町の既に廃校となっている千町小学校の跡地で、偶然にも草むら中で二宮金次郎の銅像を見つけ感動しました。雑草に覆われ見る人もない藪の中にすっくと今なお立っている銅像を放置している姿もにも、これまた日本教育の貧困を感じたものでした。この像が校庭の隅にあったころの学校の風景の写真を手に入れれば、これこそ物語だとも思いました。
こんなことを考えると、これから年輪塾でスタートする二宮尊徳の学習会が何かワクワクしてきます。二宮金次郎の銅像はその意味でプロローグかも知れないのです。二宮尊徳は1787年小田原に生まれ、1856年70歳で生涯を閉じていますが、明治36年から昭和20年まで国定教科書の修身に出てくる知る人ぞ知る人物です。没後15年余りを経ても未だに銅像が残り話題になる人ですから不易な教えがあるのです。
「金次郎 大学一節 本を読む 大学出ても 読む人少な」
「友よりの メール添付に 驚きぬ 既に気付いて やっている人」
「死んでから 150年も 経ってるが 未だ教えは 陳腐化せずに」
「後5年 尊徳死んだ 歳になる 慌て走るも 到底叶わず」