shin-1さんの日記

○私は果たして妻にふさわしい夫だろうか?

 私がお酒をたらふく飲んでいた10年前までは、師走年末のこのころになると知人友人から幾つも忘年会のオファーがきて、連日連夜忘年会と称する飲み会に明け暮れ、松山から双海へ通っているのかと思われるほど、松山の飲み屋街を飲み歩いていました。当然酔いたんぼになった私は酩酊状態で妻に電話をかけ、10円タクシーといわれる妻の迎えを毎日のように要請していたのです。携帯電話などなかったころのことゆえ主流は電話ボックスからの連絡でしたが10円がなかったり、時には電話が通じず4時間半もかけて暗い夜道を家まで歩いて帰ったこともありました。

 飲んだ後だのに帰りにはラーメン屋に立ち寄って、体調から言うと自殺行為に等しい仕上げのラーメンとビール一本を要求したものでした。その頃の私は、私が主で妻が従だと手前みそながら思っていました。ゆえに私の主張を100パーセント押し付け、亭主関白ぶりをいかんなく発揮して、あたかもそれは亭主の威厳だなどと勘違いをしていたのです。今もその名残が残っているものの、その後酒を止めてから自分の意識の愚かさに気づいて随分意識と行動を改めてきました。

 夫婦円満の秘訣は主人たる私の働きと主張がなければいい、男女平等とは言いながら家庭を築くことはできません。子どもの養育、親との関係、近所づきあい、職場の人間関係、家庭の生活背設計など主人たる私に課せられた役割は余りにも大きいからです。でもだからといって私一人でそれらが上手く機能するはずはないのです。若いころの私は夫婦円満は私の意見に妻が合わせることを第一としていました。ゆえに私の意見に立てつく妻は悪い妻と思っていました。

 ところがやはり歳のせいでしょうか、最近になって「私にふさわしい妻」を求め過ぎていたことが、ここだけの話ですが少し分りかけてきました。これを妻の立場に置き換えてみると「妻にふさわしい夫」という考えも成り立つ訳で、そうすることの方が家庭が上手くいくような気がするのです。

 妻は私より一歳年下です。私が65歳ですから妻は64歳です。これまで殆ど病気もせず元気だった妻が最近になって肩が凝るとか疲れたという言葉を発するようになりました。無理もありません。女・妻・母などをやりながら未だに近所の歯医者へ勤めているし、少なからず90歳を超えた親父の面倒も見ているのです。加えて私のスケジュール管理や付き合いを一手に引き受け八面六臂の活躍をしているのです。


 私はその妻のために最近歯の浮くようなマッサージを時々してやります。ぎっくり腰になった折整体医院でやってもらうマッサージを見よう見真似でやるのです。これまでそんなことをしてやったことのない亭主関白な私がどういう風の吹きまわしか疑う節もあるようですが、妻は「随分楽になった」と喜んで甘んじているのです。

 そのためでしょうか、折に触れ頭に来ていた出来事も最近ではめっきり減って、家庭円満この上ないのです。私はリタイア飲みながら仕事がら忙しい日々を過ごし、今でも家にはほとんどいない状態、いわば「亭主元気で留守がいい」と同じ状態なので、当然妻の負担は多いのですが、それでも「妻にふさわしい夫」を目指して孤軍奮闘の涙ぐましい努力は今日も続くのです。

 今日は勤務先の先生の都合で休診だそうで、妻は久しぶりの休みなので病院へ検診に行くようです。私は大学の授業収めの日なのでこれから出かけ、今日も相変わらず夫婦すれ違いの一日になりそうです。

 「夫にふさわしい妻」も大事ですが、これからは極力「妻にふさわし夫」になるよう努力したいと思っています。


  「ちょっと待て 俺は果たして ふさわしい 夫であろうか 納得もせず」

  「歳のせい いやいや違う 心がけ 最近円満 心入れ替え」

  「肩腰を 揉みつつ見える 妻白髭 二本三本 私のせいで」

  「遅かりし いやいや今でも 遅くない いたわる心 グレードアップ」 

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shin-1さんの日記

○卓話のテーマが遊び心の創造とは

 私の高校の先輩に玉井さんという人がいます。宇和島出身の玉井さんは折に触れ出身地を何とか盛り上げたいと思って行動しています。しかし南予の中心地といいながら取りたてて大きな企業の少ない農漁業が主産業の宇和島は、愛媛県の振興策にも関わらず、長い不況のトンネルを抜けないでいるようです。玉井さんは司馬遼太郎の「坂の上の雲」で有名な旅館や、じゃこ天カーニバル、水産高校えひめ丸鎮魂碑などなどに深く関わり、この人ほど多方面にわたって宇和島と結びつく人はいないと思うほど役立っているのに、何故か余り認められていないのです。大村益次郎などと深く関わり明治維新には進取の気性で大きな足跡を残した旧宇和島藩なのに、何故か冷え込んで少しイライラしているのです。

 私は宇和島出身ではありませんが、若いころの三年間宇和島水産高校に遊学したためとにかく宇和島が好きで、昨年も全国地域づくり団体交流集会を宇和島へ誘致し、350人もの人を全国から集める実行委員長として度々宇和島へ赴き、いささかなりのお役に立ちたいと思い行動しましたが、終わってみるとあれから一年近く経つというのに、海の駅や真珠で少し話題を集めたものの、その効果は未だ見えてこないのです。

 その玉井さんから、宇和島地方出身の人たちで「がいな会」を再発足したいので、話に来てくれないかと誘いがありました。旧「がいな会」にも講演で招かれたことがありますが、その後鳴かず飛ばずの会を再興しようと玉井さんが事務局長になって初めての会だそうです。「初めに30分程度宅和をやって下さい」という話し以外は全くテーマも中身も知らされず、行く途中に玉井さん宅に立ち寄り会場まで乗せて行くことになりました。午後5時の約束通り玉井さん宅を訪ねました。玉井さんは松山市余戸に住んでいますが、書斎兼アトリエを持っていて、行く度にその非凡な才能が進化しているように見えました。先日二人展をやったばかりのアトリエは本人が書いた洋画っぽい絵が飾られ、見事に変身していました。年賀状の準備でしょうか大きな机の上は画集などで溢れていました。出窓のところにパソコンを置き、この日の資料を作成中のようでしたが、入れてくれたお茶を飲みながら待っていると間もなく準備ができて出発しました。

若松進一ブログ
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 昨晩の集会はロープウェー街はずれの「おかん」という居酒屋でした。車を駐車場に止め歩いて2~3分のお店の暖簾をくぐり、奥まった座敷へ通されました。25人が座れるのかと見まがうほどの狭い場所でしたが、玉井さんは自分で和紙に書いた演題を壁に貼りました。「遊び心の創造 人間牧場主若松進一」と書かれていて、これはやばいと思いました。そのうち一人二人と集まりだし、6時半には殆ど満席となりました。時間通り会長のあいさつでスタートしました。私は即興で思いつくまま域も切らせず30分の卓和をやりました。反応は上々で、居合わせた顔見知りの横田県会議員も大きな声援を送ってくれました。30分は私にとって短いです。でも決められた時間、決められたテーマでで話すのがプロなので前座はまあ成功したように見えました。僅か1時間余りの短い時間での宴会は自己紹介や名刺交換に忙しくてんやわんやでしたが、玉井さんの肝いりで持参した「夕日徒然草」という本が22冊も売れて嬉しい成果を収めました。

 再開を約束しつつ、玉井さんを会場に残して店を出て帰路に着きましたが、昨晩もいい出会いの夜でした。


  「鍋つつき 会話も弾む がいな会 酔うほど増える なまり懐かし」

  「直前に 張り紙書いた テーマ見て 即興アドリブ 卓話を話す」

  「へえあんた あんなこんなか 弾む声 まるでハチの巣 つついたように」

  「本売れて ホクホク顔で 店を出る あの本今頃 ポケットぐしゃり」 

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